東征 駿河での戦い
これまでの神社の伝承を整理すると、景行天皇40年10月に奈良を出発した日本武尊一行は尾張国を経てその年の内に駿河に到着しています。3か月の間に尾張で東征の準備をし、三河路では小さな戦いをしながら山間部を抜け、浜名湖南端に到着しました。そして、ここで全軍の態勢を整えて再出発します。駿河に入ると野火の難に遭いますが、草薙剣に助けられ、相模を抜けて走水に至りました。『日本書紀』『古事記』は多くの出来事を省略して書いているのだと思います。そこで、走水にいつ到着したかはわかりませんし、野火の難から走水までの行程もわかりませんが、駿河路にある神社の伝承をもとにして省略された行程を整理しながら推測してみます。
この章は次の順で紹介します。
Ⅰ 地図をもとにした行程
駿河での野火の難と、その後の行程を地図に印した伝承地を見て推測します。
Ⅱ 諏訪神社の社伝を読む
社伝に日本武尊の大まかな行程が書かれているので、それに従って検討しました。
Ⅲ 走水神社の社伝を読む
社伝に行程が書かれているのでたどってみました。
Ⅳ 野火の難を起こしたのはだれ・・・
日本武尊を騙したのは誰か。
Ⅴ 野火の難はどこで起きた・・・
野火の難が起きたとされる場所はいくつかあります。
Ⅵ 草薙剣(*詳細は別ページ)
日本武尊を助けた草薙剣とは。
確かな伝承がある神社や史跡等を地図上に示し、それらを西から東へ順に線でつないで日本武尊の行程を推測しました。(下はGoogleMapsとリンクしています)
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御沓脱遺跡 静岡県焼津市焼津
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野火の難に遭う
焼津神社 静岡県焼津市焼津2
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天皇原公園付近 静岡県静岡市清水区草薙
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廣野神社 静岡県静岡市駿河区国吉田
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日本平 静岡県静岡市駿河区・清水区境界
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矢倉神社 静岡県静岡市清水区矢倉町
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久佐奈岐神社(旧東久佐奈岐神社) 静岡県静岡市清水区山切
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豊由氣神社・豊由気神社 静岡市清水区庵原町
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興津川 静岡県静岡市清水区
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日本武尊遺跡・沓掛明神社と井戸跡 静岡市清水区興津井上町
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日本武尊遺跡・駒の爪址 静岡市清水区興津井上町
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薩埵峠山之神遺跡・鞍佐里神社旧社地 静岡市清水区興津
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鞍佐里神社 静岡県静岡市清水区由比西倉沢
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東海道由比・由比港 静岡市清水区由比
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富士山を遥拝する
富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市宮町
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山宮浅間神社 山梨県富士宮市山宮
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伊豆半島北部通過
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多比神社 静岡県沼津市多比
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高尾山古墳 静岡県沼津市東熊堂北方
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鷲頭神社(御嶽社)静岡県沼津市大平
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劒刀石床別命神社 静岡県三島市谷田
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来宮神社 静岡県熱海市西山町
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命之泉神社 静岡県裾野市茶畑大谷日向
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二岡神社 静岡県御殿場市東田中
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足柄峠 静岡県駿東郡小山町竹之下・神奈川県南足柄市矢倉沢
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足柄明神社跡 静岡県駿東郡小山町竹之下・神奈川県南足柄市矢倉沢境
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足柄神社 神奈川県南足柄市苅野
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足柄古道
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酒匂川・鮎沢川 神奈川県足柄上郡松田町
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寒田神社 神奈川県足柄上郡松田町松田惣領
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川勾神社 神奈川県中郡二宮町山西
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相模國四之宮 前鳥神社 神奈川県平塚市四之宮
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相模國一之宮寒川神社 神奈川県高座郡寒川町宮山
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御嶽神社 神奈川県秦野市名古木
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石座神社 神奈川県秦野市鶴巻
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比々多神社 神奈川県伊勢原市三ノ宮
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小野神社 神奈川県厚木市小野
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八菅山・八菅神社 神奈川県愛甲郡愛川町八菅山
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三浦半島へ
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腰掛神社 神奈川県茅ヶ崎市芹沢
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杉山神社 神奈川県横浜市神奈川区六角橋
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新羽郷総鎮守杉山神社 神奈川県横浜市港北区新羽町
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大熊郷総鎮守杉山神社 神奈川県横浜市都筑区大熊町
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潮田神社 神奈川県横浜市鶴見区潮田町
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安房口神社 神奈川県横須賀市吉井
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御所ヶ崎(走水神社)
『日本書紀』
景行天皇40年
この年のうちに、日本武尊は初めて駿河(静岡県)に到着しました。土地の長が日本武尊に従ったふりをして狩りに誘いました。
「ここは広い野原です。ここには鹿がたくさんいて、吐く息が朝霧のようで、しかもその足は林の茂みの様にしなやかです。さあ狩りをしましょう。」
日本武尊はこの者の言うことを信じ、野の中に入って行きました。賊らは日本武尊を殺そうと思っていたので、日本武尊の入った野に火をつけて焼きました。日本武尊はだまされたことに気づき、すぐに持っていた火打ち石で火をつけ、迎え火をつくることで難を免れることができました。
*他の書物によると、日本武尊が身に着けていた叢雲(むらくも)剣が自然に抜けて、尊の周りの草を薙ぎ払ったので難を免れることができたと書かれています。よってこの剣を「草薙剣」と呼ぶようになりました。
日本武尊は「騙されてしまった。」と言いました。その土地の賊たちは捕らえられ焼き殺されました。それでここを焼津(やきづ・やいづ)と言います。
駿河に入る前に
御前崎通過
静岡県湖西市を出航した日本武尊は、静岡県の最南端に位置する御前崎を左に見ながら大井川河口の地に至りました。古代から、御前崎周辺の遠州灘は海流や岩礁により座礁することがあり、航海の難所でした。日本武尊もここを大変苦労して航行したと思われます。
御前崎灯台 静岡県御前崎市御前崎1581 GoogleMap
明治7年(1874年)に英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で造られ完成しました。
大井川の河口 島田市
大井川は南アルプスを水源とし、静岡県を北から南に流れる一級河川です。水量が豊富なことでも知られています。地図を見ても分かりますが、上流域から中流域には蛇行しているところが多く見られます。日本武尊はこの川の上流部に進行するため往復で舟を利用したと思われます。
大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われたように、東海道の難所でした。橋はなく、渡し船も禁止とされていたため、この川を渡るには「川越し」という馬や人によって渡してもらうという方式でした。流れが速いと渡ることができないため、現在の島田市の金谷(かなや)と島田に川会所が置かれ、宿場町となって賑わっていました。明治時代になって蓬莱橋が架けられました。この橋は全長約900m、幅2.7mで木造の歩道橋としては世界一の長さです。近くには牧ノ原台地があり、お茶の生産が盛んです。
大井川上流に足跡がある・・・
駿河に入る前、山間部に賊がいるという情報が入り、先にその征伐に向かったようです。SLの終点千頭駅の近くに日本武尊の足跡がありました。
一行は川を利用して大井川を上ったのではないかと考えます。日本武尊の従者だけが賊退治に行ったとも考えられなくもないのですが、敬満大井神社には日本武尊の足跡があります。
日本武尊が伊弉冉尊と天児屋根命を勧進したと伝わっています。山間部の川根町千頭に、賊がいて騒いでいたので退治したと言うのです。後に日本武尊と瀬織津姫命を祀る神社としました。
駿河山間部から再び大井川を下り、海側に至った後の駿河路の行程を考えてみます。
駿河の山間部から海側に戻ってからの日本武尊の行動は次のようになると考えています。
1 駿河に入った船団の上陸地
日本武尊を乗せた船が着岸したのは駿河湾沿いの海岸でした。焼津という地名の伝承を重視して考えると、焼津神社の「北御旅所」があるところが当時は海に面しており、昔から伝えられてきた通り、ここが着岸地だったと思われます。
毎年、日本武尊の上陸に因んだ神事が行われています。現在は埋め立てられていますが、この辺りまでが海岸であったようです。
日本武尊が上陸地付近で休息した跡地です。
2 焼津というところ
当時この辺りは海に面して広大な沼地があったと焼津神社の社伝に書かれています。焼津神社は入り江明神とも呼ばれ、付近は沼に面して背の高い萱(かや)や葦(あし:別名ヨシ)があたり一面に茂っていたところと言われています。萱に属する植物の代表としてススキがあります。ススキの茎には油分があります。萱も葦も人の背丈を越えてしまうほど高く成長し、馬上の人を隠してしまうほどの背丈になることがあるそうです。
日本武尊を騙して葦原の奥に誘い込んだ賊(『古事記』では国造)は葦に火を放って焼き殺そうとしました。
『古事記』では火難に遭ったのは焼津神社のある駿河のことではなく、もっと東方の「相武(さがむ:相模)」としています。「相武」は駿河の東に位置するため、駿河の焼津は火難の地ではなくなります。しかし、この出来事があった時代には「駿河」という国名・地名がなかったかもしれません。当時、静岡県東部と神奈川県一帯は広く「相武」と呼ばれていたとされています。すると焼津は『古事記』では「相武」に属することになり、火難の地としてもおかしくはありません。『日本書紀』の編纂された時代は「相武」と「駿河」は区別されていたと思われます。
景行天皇40年10月に都を出発した日本武尊がこの地に着いたのはこの年の内です。晩秋から冬にかけてのことだと考えられます。夏の間に大きく育った緑の萱や葦はこのころになると枯れ始め変色しています。元気よく人の背を超えて伸びていましたが立ち枯れしていく季節です。夏の葦とちがい冬の葦は乾燥していて燃えやすくなっています。枯れ野を構成する植物は人を隠してしまうほどの高さとなって広大な範囲で生えていたと思われます。その中に入っていけば、進む方向も分からなくなり、脱出が困難となってしまいます。日本武尊と弟橘媛はどうして危険な方へと進んだのでしょうか。
案内をした賊(この時はまだ天皇に従順な者たちと信じています。)の誘いは余程面白味のあるものだったのでしょう。野原に入り、礼儀正しく低姿勢で道案内をしていた賊もいつの間にか草に紛れて姿を消してしまいました。そして、事態は急変します。少し高台から見下ろせば、葦やススキの動きで二人がどこにいるのかが分かります。奥に入り込んだのを見計らって見張り役が合図し、二人を取り囲むように至る所から一斉に火をつけたのです。
『古事記』
相武(相模)の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭いました。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしました。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)といいます。
火難を駿河の出来事と明記している『日本書紀』も出来事の大筋は『古事記』とほぼ同じで、焼津の地名の起源を示しています。ただ『日本書紀』では火打石で迎え火を付けて難を逃れたとしていますが、この火打石を叔母に貰ったという記述はありません。また、剣で草を掃ったという記述は、別説として、天叢雲剣がひとりでに抜けて草を薙ぎ払ったと書かれています。これが天叢雲剣が草薙剣と名付けられた所以になっています。
3 国造らの誘いと野火の難 - 焼津か草薙か
海路で駿河に入った日本武尊は焼津の海岸にあった現在の北の御旅所付近に着岸し、上陸しました。ここで出迎えた首長たちは長旅の疲れを癒すよう勧めます。しばらく休憩したところで弟橘媛とともに狩りに出かけてはと誘いました。背丈以上に伸びた葦原を奥に進むと首長らの姿が見えなくなり、やがて炎に取り囲まれていることに気づきました。
野火の難は焼津の広大な葦原で起こったことだったのでしょうか。実はここより北東へ直線距離で約19km離れた草薙神社にも同様の出来事が伝えられています。焼津という地名は「草を焼き払った港」、草薙は「草を薙ぎ払ったところ」からついています。野火の難がこれら2か所で同時に起きたとは考えにくいので、焼津か草薙のどこかで起きたとしか言いようがありません。
御祭神は日本武尊で、東征の従者である吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命らも祀られています。古代は海に近く、入江大明神とも呼ばれていたようです。社伝では、日本武尊の東征のおり、相模国に到着した倭建命は国造に騙されて野原に火をつけられましたが、持っていた剣と火打ち石で難を逃れました。草を焼き払ったところは「焼津」と言われています。日本武尊は水石と火石の2個の石を投げたところ、1つは熱田神宮、もう1個は焼津神社に落ちたといわれています。
野火の難の地は草薙神社周辺か
草薙地区を野火の難の地とする伝承があります。その根拠として、草薙神社が景行天皇が創建した神社だからとしています。景行天皇は日本武尊の東征後に日本武尊にゆかりの地を巡っていました。その時建立した社が草薙神社です。つまり、景行天皇の足跡があることから日本武尊は草薙にいたことになります。
草薙神社の伝承では火攻めをされた地は近くの谷としています。抵抗した賊らを殺して埋めたという伝承地も草薙神社近くにあります。そこは首塚稲荷神社と言われています。言い伝えられているような火攻めされた近くの谷とはどこだったのでしょう。現在はわかっていません。
御祭神は日本武尊です。日本武尊が東征に向かう途中、賊が野に火をつけて日本武尊を焼き殺そうとしました。そこで、尊は倭姫命より授かった剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払うようなしぐさで剣を振り、草を薙ぎ払って難を逃れました。このときの剣を「草薙の剣」 と呼んでいます。そして、火をつけた野は「草薙」とよばれるようになりました。後に景行天皇がこの地を訪れ、尊を偲んで社を建立しました。そして、日本武尊を祀り、御霊代として草薙の剣を奉納しました。その後、天武天皇の時代に草薙の剣 は熱田神宮で祀られるようになりました。草薙神社は元は静岡鉄道の草薙駅南にありました(現在古宮があり、一帯を天皇原と呼んでいました)が平安時代に現在地に遷座されています。
「当社は式内延喜式神名帳に「駿河国有度郡三座並小云々草薙神社」と記載されている。御祭神は景行天皇第二子皇子日本武尊を御祀り申し上げて鎮座してあります。国史社伝によれば、尊は東国の蝦夷が、叛いたので、之を平定する為、吾嬬国に赴く途中、このあたりで逆賊起こり、原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により日をつけた。その火は逆に逆賊の方へ烟りなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。その後、佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした処を草薙と言はれる様になりと、語り伝へられている。その後景行天皇が日本尊命の勲功の地を尋ねようと、53年8月に天皇は郡郷に詔して曰く「冀くば、日本尊命の征定された国郡を巡視する。」そこで天皇は直ちに出発せられ、先ず伊勢に行幸され、次いで東国に向かはれ9月20日に当地に御着になり尊の奮斗の後を封じて御親しく一社を建立し、日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣を奉納されました。景行天皇53年9月20日(昭和60年より1863年前)依って当月当日(9月20日を以て例祭日と定めて今日に及んでおります。その後草薙の剣は第四十六代天武天皇の朱雀元年に勅命により現在の熱田神宮に奉祀しされました。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
賊の征伐
騙されたことを知った日本武尊の怒りは相当なものでした。草薙剣に助けられた後、騙した首長らを草薙神社付近まで追ってきました。ここで賊らを征伐し、賊ら一族の首は土に埋めら塚が造られました。
この地で戦いがあり戦死者の首を埋め塚を造ったとする伝承があります。北側の川は血流川と呼ばれています。
現在の草薙神社への参道沿いに「天皇原」と名がついた公園があります。
日本武尊が駿河の賊と戦い、火攻めに遭いながらも勝利した地を景行天皇が訪れて社を建立しました。この辺りは比較的平らな土地で、草薙神社に向かうと坂を上っていくことになります。現在の地名は草薙ですが、昔の地名が公園の名として残し ていました。
4 野火の難のあと
野火の難を逃れた日本武尊は、尊らを騙した賊らをすべて征伐しました。そして、蝦夷に向け陸路を東に進みました。
祭神は素盞烏尊です。
境内に入ると樹齢約500年と言われる御神木の大樟が目に入ります。ここに日本武尊が東征の折、今後の戦勝を祈願して素盞烏尊を祀りました。
賊を征伐した日本武尊は日本平の頂に立ち、富士山を背に広がる駿河の地やこれから向かおうとする東国の方を見わたしました。
標高307mの有度山の山頂一帯を含めて日本平と呼ばれています。山頂からは雄大な富士山を眺めることができ、眼下の清水港をはじめ、南アルプス、駿河湾、伊豆半島まで眺めることができます。新国立競技場と同じ建築家が設計した展望テラス(日本平夢テラス)が平成30年11月にオープンしました。
日本平ゴルフクラブ入口に昭和43年に建立された「日本武尊景仰碑」があり、下の石板には「尊この地に登りて國見し給う」と彫られています。また、日本平ホテル近くの駐車場には日本武尊の銅像が立っています。
日本平へは国道150号、久能山東照宮入口付近にあるロープウェーを利用しますが、草薙や清水からはパークウェイを利用して車で登ることができます。 草薙神社から日本平へはウォーキングコースが整備されていますので、日本武尊のコースを歩くこともできます。
三保の松原に伝わる「羽衣伝説」に関係する神社です。世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つになっています。
祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと)で 別名は三穂津彦命(みほつひこのみこと)、三穂津姫命(みほつひめのみこと)です。創建は不詳で『駿河雑志』には「日本武尊が勅により官幣を奉じ社領を寄進した」と書かれているようです。(wikipediaより)
5 全軍の体勢を整える
野火の難後の後処理とこれからの進軍に際しての準備を行いました。副将軍となっていた吉備武彦や大伴武日らとともに作戦会議を開きました。
祭神は日本武尊です。
久佐奈岐神社の近く、日本武尊が布陣した所に神社を建てました。ここには多くの兵がいたとされ、武器を置いたところでもありました。東征後にこの地を治めた吉備武彦の子で庵原国造となった意加部彦 (おかべひこ)が祭祀をとりおこなったと伝えられています。
ここは日本武尊の滞在地でもあり、東征のための軍や武器を整えたとも考えられます。
「当神社の創建は仲哀天皇の御代、庵原国意加部彦が日本武尊、景行天皇をお申し上げました。景行天皇第二皇子日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、御東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ給ひ、此の地に兵站部や武庫を置かれた遺跡と伝へられています。村上天皇の天暦2年に藤原匡房郷は神武天皇を合祀奉りました。振って天正18年豊臣秀吉小田原出兵の砌、太刀、玉石を献じたとも伝えられています。駿河国諸郡神命帳に従五位上矢倉地祇とあり古社であります。昭和9年神武天皇御東遷2600年祭に当たって宮崎県知事より幣帛料の奉納があり、同じく昭和13年紀元二千六百年祭には静岡県知事の幣帛供進使参向がありました。尚当社相殿の事代主神は古くより信徒の区域が広く、又境内社稲荷社は開運の神として特殊の多くの信仰者があります。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
祭神は日本武尊です。ほかに弟橘姫命、吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬胸脛命らが祀られています。また、東征に従った多くの従者を九万八千霊社に祀っています。
この神社がある地区は当時廬原(いおはら)国と呼ばれていました。日本武尊は東征のおりここに本宮を設けました。東征後に従者の一人吉備武彦がこの地を治めることとなり、日本武尊を祀る社殿を築きました。もとは「東久佐奈岐神社」と呼んでいました。
久佐奈岐神社の境内には東征で戦った多くの兵の霊も祀られています。
祭神は豊受姫命で木花開耶姫命も祀られています。日本武尊が東征のときに豊受大神を祀ったのが始まりです。
6 薩埵(さった)峠越え
清水から由比へ行く高速道は海に突き出ているように造られています。駿河の海は荒れ、海岸に沿って行くのは危険を伴います。そこで日本武尊は薩(さっ)た峠越えの道を選択しました。
薩た峠に西から登っていくと、峠道入口の道路脇左側に石祠があるのがわかります。この狭い道を日本武尊は通過したと伝えられています。
さらに登ると、道路わきに見落としてしまいそうな小さな石柱が立っているのがわかります。
薩埵峠からは駿河湾と富士山を見ることができます。現在は海岸線に沿って国道や東名高速道路が走っていますが、かつては荒波があたる断崖地だったと思われます。そこを通ることはできないため、薩埵峠を越える道を通ったと思われます。峠には山之神遺跡がありますが、この地は鞍佐里神社の元宮です。
鞍佐里神社は現在は薩埵峠を北に下りた由比に遷座されています。
祭神は日本武尊です。神社名は「鞍去り」が元になっており、この地で野火の難に遭った日本武尊は「自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。」と伝えられていることからついた名です。
薩埵峠を下って海岸に出たところが由比です。由比は江戸時代の東海道の難所でもあり、当時は宿場町として賑わっていました。現在の由比港は桜エビやシラスの水揚げが盛んで、漁港の食堂ではその時期になると行列ができるほどです。
7 富士山遥拝
日本武尊は東征中幾たびか戦勝祈願をしています。日本武尊は現人神(天皇)の御子とはいえ人間ですから常に戦いに勝利するとは限りません。強い敵を相手にするときは戦力以上に神頼みも必要だったのでしょう。これまで伊勢国の天照大神に祈ることが多かったのですが、霊峰富士を前に特別な思いを抱いたのでしょう。山麓より富士を見上げ、戦勝を強く祈りました。
富士山の5合目に日本武尊を祀る神社がありますが、そこまで登ったという言い伝えはありません。
富士スバルラインを通り富士山の5合目までは車でも行くことができます。そのため多くの観光客でにぎわっていますが、小御岳(こみたけ)神社境内にこの神社があります。
祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。富士山をご神体として祀っています。
第7代孝霊天皇の時代に富士山が大噴火しました。そのため周辺の土地が荒れ果ててしまいました。第11代垂仁天皇の時代に山麓(元宮の地)に浅間大神を祀って山を鎮めたことが始まりとされています。(『富士本宮浅間社記』) 日本武尊は駿河で野火の難に遭いますが富士浅間大神に祈ったところ難を逃れることができました。そのため、元宮の地に富士浅間大神を祀りました。
その後鎌倉時代には源頼朝、戦国時代以降は武田信玄・勝頼、徳川家康など名だたる武将の熱い信仰を受けました。日本武尊も東征の際に富士の霊山を仰いだと言われています。
「第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の3年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。其の後第五十一代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来1100余年全国1300余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長9年徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同11年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。明治に及んでは其の4年5月14日国幣中社に、同29年7月8日官幣大社に列せられた。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
祭神は浅間大神と木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。
富士山本宮浅間大社の祭神である富士神が最初に祀られたところがここ、山宮浅間神社で富士山本宮浅間大社の元宮です。806年に坂上田村麻呂が元宮の地から現在の富士山本宮浅間大社のある地に遷宮したと言われています。
日本武尊は駿河の賊との戦いで富士の大神に戦勝祈願をした結果勝利したとされ、元宮の地に磐境(いわさか)を設け浅間大神を祀りました。祭神が鉾に宿って山宮に向かったことから参道には鉾を置くための鉾立石が2個あります。
昔から境内には社殿がありませんでした。かつてここに社殿を建てようということになりました。そこで村人たちは富士山麓から木を伐採し、ここに本殿を建てることにしました。棟上げ式が終わりお祝いをした日の夜の事、大風が本殿を倒してしまいました。村人たちはあきらめず、再び本殿を建てようとしましたが、棟上げ式の夜にまた大風で吹き倒されてしまいました。その後も何度か建てようとしましたが、その度に大風が吹いて倒されてしまいました。このようなことが続くのでこれは本殿を造ろうとすると祟りがあるとされ、現在も本殿のない神社となっています。
ここは富士山の遥拝所となっています。富士山を拝む方向に岩で作った祭壇があり、周囲を玉垣で囲っています。中に入ることはできません。
8 伊豆半島北部通過
地図上の伝承地を線でつないでみました。伊豆の北部を東進し三浦半島に向かったと推測されます。
祭神は日本武尊、蛭子神(ひるこのかみ)です。
創建年代は不明ですが、日本武尊の通過地あるいは滞在地と考えてもいいかもしれません。
長さ約62mの前方後方墳で邪馬台国と同時代の3世紀に築造された東日本では最古級の古墳ですが、残念ながら一部破損しています。かつて駿河一帯を支配する勢力の首長墓と考えられます。日本武尊が戦った相手はこの古墳の被葬者の子孫ではなかったかとも推測されます。この古墳がある場所は道路建設予定地となっており、調査中のようですが、このままでは消滅してしまうかもしれません。
祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、天穂日命(あめのほひのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、日本武尊です。
1469年に創建された神社で五穀豊穣と豊漁、海上安全の守護神として祀られ、1481年に鷲頭山頂へ神地を造成して遷宮されました。現在は大平天満山に神社が移されています。
近隣の神社が合祀されているようで、日本武尊は御嶽社に祀られていました。御嶽社の創建年代やもとの場所は不明ですが、通過地と考えてもよいかもしれません。
劒刀石床別命及び日本武尊を祭神としています。
御祭神は大己貴命 五十猛命 日本武尊です。社伝では日本武尊が東征のとき箱根からここに来たと伝わっています。地図上で推測すると箱根から来たとは考えにくく、ここでは次に箱根に向かったとしました。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
9 足柄峠越え
東征途中の立ち寄り地です。足柄峠に向かう途中、日本武尊はこの付近で脚気となり体調を崩してしまいました。ところが、湧水でのどを潤したところ病気が治ってしまいました。この伝承に基づきこの湧水を「命(みこと)の泉」と名付け、この後も旅人らののどを潤してきました。
祭神は木花之開耶姫命、天津彦、火瓊瓊杵尊、天忍穗耳尊、火産靈尊、大雷命、保食命、伊弉冉尊、天照大御神です。
足柄峠を越えてこの地に到った日本武尊は濃霧によって行き先がわからなくなってしまいました。そこに雷神が現れて霧を払いのけ助けたと伝わっています。そのお礼に雷神を祀る社を建てたのが二岡神社(元は二岡七社大権現)です。
地図上では二岡神社のあとに足柄峠を通るほうが道がつながるため、この位置に入れました。
静岡県の駿東郡小山町と神奈川県の南足柄市境にある標高759mの峠です。かつての駿河国と相模国の国境に位置し、足柄坂(あしがらさか)と呼んでいました。この峠を越えた東は建稲種命との再会地となる坂東(ばんどう)です。
『古事記』では倭建命は蝦夷を征伐した後、足柄の坂本で食事をしているときに坂の神が白鹿となって現れたので、蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺したと書いています。『日本書紀』はこの坂のことには触れておらず、蒜で殺すのは信濃の国の出来事です。
祭神は天照皇大御神、瓊瓊杵尊、日本武尊です。
日本武尊は明神ヶ岳から足柄峠を越えようとして道に迷ってしまいました。すると目の前に白鹿が現れ、それについていくと無事に峠を越えたと言われています。
平安時代の末になると足柄明神は矢倉岳の山頂に遷され矢倉明神となりました。その後室町時代には現在足柄神社のある苅野に遷され、昭和時代に足柄神社となりました。足柄峠にある石祠は足柄明神の跡です。
祭神は天照皇大御神 、瓊瓊杵尊 、日本武尊です。
日本武尊が東征のとき、明神嶽から足柄山を越えようとしたとき、草木深く、道に迷って先に進めませんでした。すると、白鹿が現れ、その後についていくと足柄峠に着きました。これは神の助けと考え、ここに社を建てて祀りました。日本武尊は足柄村に仮宮を建て滞在しました。

足柄峠付近は現在も足柄古道として整備されています。この道を日本武尊は通ったと伝えられています。
富士山の東麓から駿河湾に流れる酒匂川は全長46kmの二級河川です。日本武尊がこの川の水を飲んだところ水がお酒の匂いがしたので酒匂川と名付けたと言われています。
また、寒田神社の公式ホームページには「尊は東征の帰途、この松田に立ち寄り、身替りとして走水の海で入水した弟橘姫命を偲んで酒勾川(現在は酒匂川)に神酒をそそぎ、妃の冥福を祈ったところ、この神酒が海に流れ入るまで香ったので、酒勾川と名づけたという。」と谷川健一・編 『日本の神々 神社と聖地 第十一巻』の内容が紹介されています。
祭神は倭建命、弟橘比売命、菅原道真公、誉田別命です。
ここは日本武尊の立ち寄り地と伝えられています。
日本武尊が東征の折、この地で奉幣祈願をしたと伝えられています。境内の案内板には以下のように書かれています。
「当社は相模国二宮で古くから二宮大明神と称し延喜式所載の名社である。十一代垂仁天皇の朝当国を磯長国と称せし頃その国造阿屋葉造が勅命を奉じて当国鎮護のため崇詔せり。日本武尊東征の時、源義家東下りの時奉幣祈願ありしを始め、武将の崇敬深し。人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫女皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。一條天皇の御宇永延元年栗田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日に及ぶ。建久三年源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。建長四年宗尊親王鎌倉に下向ありし時将軍事始の儀として奉幣神馬を納めらる。北条相模守・小田原北条・小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず、徳川の朝に至り家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上殊の外喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。爾来徳川累代将軍に及ぶ。正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祈礼を献ずるのが例となり幕末まで続行せり。明治六年郷社に列せられ、昭和七年県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。」
「御祭神 大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です。大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です。級津彦命・級津姫命 相模国が昔相武と磯長の二国であった頃磯長の国を御開拓なされた神様です。衣通姫命 安産守護に霊験あらたかな神様です。御由緒 当社は相模国の二の宮で、古くから二宮大明神又は二宮明神社とも称し、『延喜式』所載の相模十三社の各社であります。縁起書によれば其の創祀は十一代垂仁天皇の朝、当時余綾足柄両郡の東西海浜を磯長国と称せし頃、その国宰たる阿屋葉造が勅命を奉じて当国鎮護のため崇祀せらる。磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿弥・同国造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願あり。人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命皇子御誕生安穏のため、奉幣祈願あらせられる。現宮司二見家の家系記によれば、六十五代一条天皇の御宇永延元年、粟田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日まで相続き、現宮司に至り三十九代に及ぶ。建久3年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。建長4年宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納められる。北条相模守、小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず、徳川の世に至り家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上殊の他喜ばれ御朱印地50石を寄せらる。爾来徳川累代将軍に及ぶ。正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり幕末まで続行せり、明治六年、郷社に列せられ、昭和7年4月、県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。社殿 社殿造営の沿革として記録に残っておるのは、建久年間、源頼朝、社領若干を寄附し社殿造営の事あり、時に川匂七郎政頼之を奉行せり。応永年間兵火に罹り社殿宝物等悉く焼失し、ただ随神の木像のみ存す。応永30年の頃、再建の事あり、後北条氏更に修覆を加う。永禄4年、上杉輝虎小田原を攻むる時、兵火亦社殿に及べり。よって元亀年間、北条氏之を改造せり。特に小田原城よりは当社が丑寅の方角に当れるを以て北条氏の鬼門守護神として格別崇敬が厚かりし、現社地附近に古大門と唱ふる所あるもその謂なり。安永9年、大風雨により社殿著しく破損あり。三十二代神主二見左門忠良、遠近に勧進して天明七年、之を再建せり。当時地勢に沿革ありしかば南面して社殿を建立せしという、以後昭和初年に及ぶ。現在の社殿は昭和7年、県社昇格の御内示を受け新築造営工事に着手せり、爾来大東亜戦争、終戦等幾多の困難変遷を経て、昭和26年、現宮司に至り完成せり。神域 境内地2000坪、4囲風致林5000有余坪、老杉雲表に聳え、閑静典雅にして荘厳なる霊地なり。県自然環境保全地区に指定さる。宝物 社蔵の宝物の主なるものを挙げると器物の部 〓網石(壱顆 高さ8寸径4尺 重量 12貫 網の如く目理ありて網石と名付く二見氏の先祖伊勢二見浦より携へ来りしものにして旱年には河中に入れ雨を祈るに霊験あり。〓木像 弍躯 豊磐間戸神・櫛磐間戸神 丈け 3尺5寸 衣冠を着したる状態にして何年頃何人の作なるや詳かならず、されど当社応永年間兵火に罹りし際幸に災を免れしものなり。随神門に奉祀す。〓木像 4躯 丈 2尺1寸 これまた前者と同じく応永年間兵火を免れしものである。1000有余年以前の御神像であると考古学者は推定せり。〓田船(丸木船)(二宮町重要文化財)長さ 4尺8寸 巾 7寸8分 厚さ 1寸5分 大正4年旧神領地の水田より発掘されたものにして左半形をとどめて居る、原木をくりぬいたものであり奈良時代のものと推定さる。古文書の部 二宮町重要文化財) 〓川匂神社縁起書 〓源頼朝の臣川匂七郎政頼の書状 〓川匂七郎政頼の孫村隼人の書状 〓一条殿御内保田遠江守の社号額字1枚及寄進状 〓小田原北条氏の臣山角刑部左エ門の虎朱印判状参通及書状 〓徳川家康公の書状 〓徳川家康の近臣全阿弥の書状 〓徳川家康公50石の寄進状の写 〓宝暦8年正月寺社奉行より登城御許御達書 〓寺社御役所より旧幕府御判物拾弍通の請求書 〓明治6年郷社御達書 〓国府祭古図 〓二見家系図 天然記念物(二宮町重要文化財) 〓大銀杏 樹齢推定300年 国道より参道入口に位置す。祭儀 当社の古式祭として元三祭、御的神事、牛王祭等相模風土記にも見えるが、現在行われている御祭儀の主なるものを挙げると。元旦祈祷祭 1月1日 午前零時願主氏子崇敬者に授与される護摩札を神前に献備して祭儀が厳修される。御筒粥祭 1月15日 早暁古式に倣い、その年の12種の穀物の豊凶を占う古式神事である。節分祭 2月節分の日 神前にて旧儀による追儺神事の後、鬼追神事が行われ続いて裃姿の多数の年男による小判入福豆が撒かれ、参拝者争ってこれを戴き盛観である。祈年祭 2月17日 五穀豊穰と産業振興とを祈念し、大祭として祭事が厳修される。国府祭 5月5日 相模国一宮寒川神社、二宮川匂神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社、平塚八幡神社、総社六所神社以上6社の神輿が祭場たる中郡大磯町国府の神集山に渡御になり合同祭典が執行される。端午祭、天下祭とも呼ばれ千有余年の伝統をもつ祭典として名高い。祭儀中の古式「座問答」は相模国の国造りの古事を伝え有名である。所謂「国府の市」と云って多数の参詣者で賑ふ。昭和41年、県無形民俗資料の指定を受ける。例大祭 10月10日 「みそぎ祭」とも云う。当日早朝祭典斎行の後神輿社頭を発御、須崎の浜にて神事あり。引続き氏子区域一円渡御相成り夕刻還幸さる。神社にては弓道奉射大会、舞踏等賑々しく催される。新嘗祭 11月23日 勤労感謝の日 氏子より奉献された種々の新穀を神前に捧げ新穀感謝の大祭が厳修され、記念講演等催される。大祓式 夏越大祓 (6月30日) 氏子崇敬者の大祓形代を神前に備え古式に倣い厳粛な代祓神事が執行される。 師走大祓 (12月29日) 其の他 月次祭 (1日・15日) ・初宮詣・七五三詣・成人祭・結婚式・交通安全祈願・家内安全・商売繁昌・厄除・還暦算賀の奉告祭・各種祈願祭等恒例 臨時の祭儀が1年を通して賑々しく行われている。」「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
前鳥神社には弥生式土器などのほか、日本武尊の面が神社宝物となっています。
神社名の前鳥の言われは「前島」の誤記によるもの、川に突き出たところの意味などがありますが、詳細は不明のようです。そのためか、鳥居の額には「前鳥神社」、赤鳥居横の石碑には「前取神社」、拝殿内の扁額には「左喜登利神社」と書かれています。
「御祭神 菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)・学徳の神様です。大山咋命(おおやまくいのみこと)・活動と福禄の神様です。日本武尊(やまとたけるのみこと)・安全守護の神様です。御由緒 この地は、相模川に沿った沖積地で、水田白田あいなかばする肥沃なところです。したがって、はるかな時代から、豊かな集落が発生していたらしく、石器・土器などの遺物がたくさん発見されています。四之宮の地名は、平安時代にはじまっていますが、それ以前は古くから「さきとり」といわれ、天平7年(735)の相模國封戸租交易帳に「大住郡埼取郷」の記載があります。「さきとり」の地名が、いつごろからはじまったかあきらかではありませんが、奈良時代より前からの地名であることはたしかです。この「さきとり」の地に住んでいた人たちが、最も清浄なところを選んで、おまつりしたのがこの「さきとり神社」で、氏神として奉祀したものと考えられます。氏神は氏の上を中心とした氏人の尊崇をうけたものであることは申すまでもありません。延喜年間(901~23)、『延喜式』が撰せられ、全國の著名神社が収録され、相模國の13座が神名帳に登載されました。当神社はそれに「前鳥神社」としるされています。このときから社号を「埼取」「前鳥」「前取」あるいは「左喜登利」などといろいろにもちいてきましたが、現在は延喜式神名帳にもとづいて「前鳥神社」と定めています。養老年間(717~24)に相模ノ國の國府祭がはじまったといわれ、その頃から四之宮の称を生じ、四之宮大明神ともいわれました。やがて前取郷が四之宮郷と通称されるようになったのも、これはあきらかに社号をもって地名としたものです。当神社が延喜式神名帳に載る古社であり、上代以降相模ノ國の國司の祈願神社でありました。さらに鎌倉時代には幕府の崇敬をうけ、建久3年(1192)8月、源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり、神馬奉献のあったことは、『吾妻鏡』の載せているところであります。のち関東八ヶ國の領主となった徳川家康公は天正19年(1591)11月、武運長久祈願のため朱印地拾石を寄進し、あわせて社地2100余坪を除地として加護を加えられました。創祀以来、当神社は神官がつかさどり、前取庄または四之宮庄として中世まで、四之宮、新土(平塚市)長沼(厚木市)など広く神領としていた時代がありました。近世初期からは、古義真言宗雪霜山鏡智院を別当とし祭事のすべてを管掌させてきましたが、明治維新の大改革にあたり、鏡智院家成海法印が復飾して名を神代式部とあらため、神仕の職について以来、その子孫がつづいて神職として現在に至っています。昭和四十三年九月、この年創祀1600年にあたり、元皇族賀陽恒憲氏をお迎えして、創祀千六百年式年大祭が盛大に斎行されました。御神徳 前鳥大神(菟道稚郎子命)は、第十五代應神天皇の皇太子で、幼い頃より聡明で天皇の寵愛をうけられました。当時朝廷に来ておらてました百済国の王子阿直岐から、帝王の道を学ばれ、ついで博士王仁を招かれ学問の道をひらかれたことは、歴史の伝えるところであり、論語・千字文などの漢籍が、はじめて我が國に渡来したのもこのときであります。よって昔より修学の神、学問の祖神として広く尊崇されるゆえんなのであります。またこの時代に、日本の農業、土木建築等が急速に発展したのも、学問のほかに産業技術導入をはかられたからにほかなりません。まことに國運興隆の基をきずかれたこと、菟道稚郎子命に負うこと最も大であると申せられます。菟道稚郎子命を祭神としてまつる神社は極めてまれで、全国では京都府宇治市にある宇治神社と前鳥神社の2社であります。したがって当神社は関東唯一の学問・文化の祖神をまつる古社であるといわれるものであります。現在では、この御祭神の御神徳を慕い、関東一円より広く信仰をあつめております。大山咋命は、山の神と称したてまつり、当神社においては、これを活動と福禄の神として祭祀しております。もとは村内日枝神社(旧称山王社)の御祭神でありましたが、明治年間、当神社に合祀されたものであります。年間祭典 月次祭 毎月1日・15日・28日 歳旦祭・元旦祈祷祭 1月1日 早朝元旦祭を斎行。続いて各種の新春祈祷が始められる。奨学神社祭・学業祭 1月15日 節分祭豆撒行事 2月節分の日 神事ののち、大勢の裃姿の年男により豆撒行事が行われる。崇敬会大祭 4月第3日曜日 1年に一度の崇敬会員の大祭ならびに大会 国府祭 5月5日 平安時代、相模ノ國の國府が餘綾ノ郡柳田(大磯町国府)の地に遷ると、国司が毎年端午に同所の神集山へ、一之宮寒川神社。二之宮川匂神社。三之宮比々多神社。四之宮前鳥神社及び五之宮として平塚八幡宮の五社の参集をもとめ、国家安泰、五穀豊穰の祈願を行ったのが始めとされている。昭和41年県無形民族資料指定夏越の大祓 6月30日 1月から6月まで半年間に受けた罪穢を祓い除き心身ともに清浄になって夏を無事過すことを祈る。氏子崇敬者は人形を納め大祓をうける。八坂神社例祭 7月14日 境内社八坂神社の祭。神輿渡御例大祭 9月28日 本社の1年に一度の大祭。広大なる御神徳を讃え、日頃の御神恩に感謝の誠をささげます。当日は奉納書展、献句、盆栽展、奉納演芸があり、終日参詣者で賑います。特に神輿の還御は古式による伝統行事として広く有名です。七五三詣 11月15日 感謝祭 11月23日 新穀を奉献、感謝の誠をささげる。師走の大祓 12月31日 一年間の罪穢を祓い清め、清々しい心で新年を迎える祭。氏子崇敬者はこぞって人形を納め大祓をうける。平塚市指定重要文化財 前鳥神社祭事 〇麦振舞神事 5月5日の国府祭、9月28日の御例祭の神輿渡御に際して行われる神事であり、神輿を担ぐ為の力づけの「力飯」を食するもので、神人共食の神事でもある。新編相模国風土記稿に「淘綾郡国府本郷村神揃山へ渡御アリ当社神輿供奉ノ者4月晦日米1升ヲ椀ニ盛リ芋ノ葉ノ汁ニテ干莱箙蕃椒ノアヘモノヲ饗ス。麦振舞ト称セリ。」とある。〇神輿宮入り神事 御例祭に当り社頭を発った神輿は氏子内を一巡した後、夕刻太鼓橋までさしかかると、楽の音の響く中、日本武尊を先頭とし、その年の新成人の警護のもとに渡御し鳥居手前にて待ちうけていた氏子総代が神輿に白絹の「奠の綱」と呼ばれる神を導く綱をつけ、社殿まで誘導、やがて還幸を迎える。〇日本武尊の舞 新編相模国風土記稿に記されている通り、当神社には社宝として「日本武尊の面」を所蔵しているが、それに伴い別当鏡智院に相伝せられたあった舞がこの舞である。日本武尊の草薙剣の古事と求福厄除が混然として入り交じっており単調な太鼓のリズムにより舞われる。現在は2月の節分祭と、4月の崇敬会大祭のみに公開される。○前鳥囃子 江戸時代前期より当地に伝わる囃子で、中期には江戸文化の影響をうけ里神楽の発祥をみ、今に伝承されている。笛を基調とした激しいリズムの中でおかめ、もどき、天狗、そして狐が舞い表す里神楽は大変ユ-モラスなものである。」「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
「御祭神 寒川比古命、寒川比女命 御祭神二柱をたゝえて寒川大明神又は、寒川大神と奉称している。御神徳 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの親神である。この地方に生を享ける者としては、夢寐にも忘れることのできない一切生業の大恩神にましますのである。而して悠久幾千年、国土国民、一切生業の守護神として、あらゆるものゝ生成化育発展充実を理想へと導びかせ給い、わけても古来唯一の八方除の守護神として、御霊験あらたかにましまし、地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事災難をとり除かせられ、福徳開運をもたらし、生活々動に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、御神徳は実に広大無辺にあらせられる。因みに、当社の追儺祭に用いた弓箭は、五穀の豊穣・除災招福・健康長寿或いは子供の夜泣きに霊威あらたかなりと信ぜられ、武佐弓祭の神的に掛けた麻は、妊婦の安産・土木建築に、斎竹は水利水運・漁業航海に御加護しるく流鏑馬の的は、当るとの意味から、商売繁昌、勝負事の必勝に冥助を戴けると伝えられ、さては末社に白豆腐を供えて祈ると母乳に恵まれると云われ、御本殿裏の難波の小池を渫って雨乞をすると、慈雨降らざるなしと信ぜられている等、何れも古くから巷間に根強い信仰を繋いでいるが、これらはすべて涯しなき御神威の一端をそれぞれの由縁に因んで敬仰したものであって、ともあれ、いやちこにおはします御神徳の片鱗を物語るものである。更に、御鎮座地が、関東の中心東京の都心からまさしく西南坤の方角、いわゆる正裏鬼門に当っており更にその御本殿の正面が、西南方に向っていられることも神社建築中他に例の無い特異な存在として世に知られてるが、いずれも尊い御神慮によることと仰がれる。即ち東京都を中心とする関八州を背後にしてその裏鬼門の鎮めとなられて、この地に神鎮り給うのであって、目に見えるこの一事を以てしても御神慮のほどが偲ばれ心打たれるものがある。御由緒 関八州鎮護の神として古くからこの地方の名祠とあがめられている。即ち総国風土記によると、約1500年前雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあるので、当時既に関東地方に於ける著名の神社として遠近に知られていたことが明らかであり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いこととが知られる。以後桓武天皇の延暦7年5月をはじめとして、御歴代奉幣、勅祭を行わせられたことは史上枚挙に遑まがない。仁明天皇承和13年以来、数次に神階の奉授があり、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国内唯一の国幣の大社と定められ、特に名神祭に預る名神大社にも列せられた。斯く皇室の御尊崇厚きは勿論、一千数百年の昔から相模国の一の宮、総鎮守として士民信仰の中心となり、源頼朝・北条義時・同重時等屡々社参神宝を奉納し、小田原北条氏も累代社殿の造替、社領の寄進等怠りなく、武田信玄の信仰も殊に厚かった。後年徳川氏も亦代々社殿を再建、社領を奉る等武家の崇敬奉祀も鄭重を極め、明治初年、官国幣社の制定定まるや明治4年5月、国幣中社に列格せられた。昭和20年12月15日、神道指令により官国幣社の制度は廃止され、現在は神社本庁の別表に掲げる神社として崇敬されている。神域 現境内の総面積は14285坪余りである。因みに往古の神領は現今の藤沢・茅ケ崎・寒川・海老名の3市1町に及び広大なものであった。御社殿 御社殿造営の沿革として記録に残っているのは、聖武天皇の神亀4年、称徳天皇の天平神護元年等で、今から1200余年前のことである。その後仁明天皇の承和元年及高倉天皇の治承三年等に造替せられ、更に源頼朝・北条氏綱・北条氏康等によって改築のことあり、以来徳川幕府や氏子崇敬者の寄進によって間断なく造替修復が行なわれ、往時の社頭の規模頗る広壮雄大であった。現在の社殿及工作物は、国費と氏子崇敬者の浄財とによって、大正14年1月着工、昭和7年3月竣工したもので、御本殿以下建物21棟、神橋その他の工作物33件を数える。尚現在の一ノ鳥居は昭和四年相模鉄道株式会社の寄進によるものであり、二ノ鳥居は、明治5年、老朽し撤去したものを明治改元百年記念事業として、氏子崇敬者の浄財により昭和41年9月、再建され、高さ、16米・幅13米・直径1.6米の鉄筋コンクリート造りで関東一といわれている。宝物 社蔵の宝物には、古文書・御神宝・武器・什器等多数あるがそのうち主なるものを挙げると、「武田信玄寄進の兜」永禄12年秋、武田信玄、小田原征めの時に参拝奉納したもので、明珍房宗の作、いわゆる62間筋兜で、重要美術に指定されている「龍面」木彫彩色、古色蒼然刀法の冴えを見せた名作である。(牡牝2面)「棟札」5枚のうち有名なのは大永2年9月吉日、北条新九郎氏綱と、天文15年3月吉日、平氏康と銘のあるもので何れも4百余年前のものである。「薙刀」伝早良親王御奉納の薙刀(約1200年前) 「翁の古面」古式田打舞神事の祭具であって、福徳円満形相秀美希代の逸品と称せられる。「一之宮引付書」相模国の一之宮であることを証明したもので、往古より社蔵の重要文書である。「神領寄進状」天正19年11月、徳川家康から先例により神領百石を寄進した朱印状である。尚その後歴代将軍のこれを認証した安堵状も悉く残っている。「古墳発掘品」大神塚(おおじんずか)から発掘した鏡・曲玉・金環・直刀・鏃等多数あるが、何れも古代文化の研究資料として貴重視されている。祭典 恒例臨時の祭儀が一年を通じて数多く行われるが、その中には当社特有の古式祭として由緒深い祭儀も少なくはない。その主なるものを挙げると、「月次祭」毎月1日・20日厳修。「八方除祭・元旦祈祷祭」1月1日 午前零時、授与される八方除神札を神前に献備して、古儀によって祭事が行われ、続いて年のはじめに当り氏子崇敬者並び社会の福祉と平和とを祈る元旦祈祷祭が厳修される。「追儺祭」1月2日 祭典は午後八時にはじまり続き社頭並に近隣の燈火を悉く消して、神職・副士日蔭蔓の兜を冠り、太刀・金木(かなてぎ)を帯び拝殿に進み追儺板を打つこと数百度、次に宝物数えの行事の後太鼓の音に合わせて『難波の小池』と高唱しながら社殿を三周して終り邪気災厄をはらう。神前に供えた黒木の弓・葦の矢は災難厄除の御守として遠近の参拝者競ってこれを戴く。「武佐弓(むさゆみ)祭」1月8日 神前の儀に続き、斎場に懸けた古式の的に向い祢宜が神歌を微唱して、3度矢を射り今年の吉凶を占う神事。「節分祭」2月節分の日 追儺板を打ち古式による神事が神前に於て行われ、続いて年男年女によって福豆と多数の福物とが撒かれ、参拝者争ってこれを戴き盛観である。「紀元祭」2月11日 日本国の建国を祝い、民族の興隆と発展を祈る。「田打舞神事」2月17日 五穀の豊穣と産業の振興とを祈る春祭に続いて、社人が伝来の翁の古面を被り、耕田種蒔の形容をしながら神楽歌を謡って舞い豊年を祈願す。一名福種蒔とも云う。「年参講大祭」4月上旬 御神徳を慕い講員一同相携えて参拝、御神徳を感謝し更に一層の御加護を祈る祭典で、奉納演芸等の催もあり折から境内の桜も咲きほこり連日社頭は殷賑を極める。「国府祭(こうのまち)」5月5日 一名端午祭。当社2大神幸祭(浜降祭・国府祭)の一つで、中郡国府神揃山(かみそりやま)の祭場へ神輿渡御、早良親王夷賦征討の祈願に発し、一之宮寒川神社。二之宮川匂神社(かわわ)。三之宮比々多神社。四之宮前鳥神社(さきとり)。五之宮八幡神社の五社が参集し、各社粽その他の神饌を供え国家安泰、五穀豊穣の祈願を行う。祭儀中の古式「座問答」は有名である。昭和41年神奈川県無形民俗資料に指定された。「夏越の祓」6月30日 神前に設けた茅輪をくぐり罪穢を除き、心身の清浄ならんことを祈る。氏子崇敬者は人形を納め夏越祓を受ける。「浜降祭」7月15日 「みそぎ」とも云う。午前3時に社頭発輿、途中加わる近郷各神社の供奉神輿20余基と共に茅ケ崎南湖海岸に渡御、暁の渚に列をなして渡り、折からの旭光を浴びて壮観極まりなし。日の出に祭典を行って即日還幸。神奈川県無形民俗資料に指定されている。「流鏑馬神事」9月19日 鎌倉時代より連綿の家柄の者が奉仕して来たが、昭和41年より武田流司家、金子有鄰氏が奉納。現在金子家教氏が継承し奉納する。神事は、武田流の流鏑馬に則って、天長地久の式、鏑矢奉献の式を行った後馬場に於て直垂装束で馬に乗り馳け抜けながら式の的を射ぬき、「天下泰平」「五穀豊穣」を祈願する。古くから「宮山のまち」と称し参拝者群参して雑踏する。「例大祭」9月20日 寒川大明神の由緒ある日で、氏子・崇敬者は、御神徳を讃え日頃の御神恩に感謝する祭典であって神社本庁より遣幣使が参向し厳修される。当日は献華・献茶・献句・武道・演芸等の奉納があり、多数の参拝者で賑わう。「秋祭」11月23日 新穀を神前に奉献し勤労感謝のまことを捧げる祭儀である。「師走大祓」12月31日 悪事災難を祓い清めて新年の幸福と繁栄を祈願する。氏子崇敬者はこぞって人形を納め大祓を受ける。八方除について 寒川神社は唯一の八方除守護神として、地相・家相・方位・日柄・厄除等に由来する一切の災禍を除かせ給う御霊験を戴かれるよう八方除神札の授与と、八方除特別御祈念とを行っております。蓋し八方とは、東(卯)西(酉)南(午)北(子)の四方と、東北(艮)東南(巽)西北(乾)西南(坤)の四隅のことで、古来からこの八方を基本にして、これに陰陽五行、十干十二支九星八宮等を配当して、住居、方角運勢等の吉凶を判断しております。即ち家相方位の吉方に合するか、凶方に傾向するかによって、禍を転じて福となり、徳を滅して災を蒙る等、人生の寿夭、禍福、盛衰はすべてこの家相方位の吉凶順逆に支配されるのであります。しかし住居は科学的見地に則したものでなければなりませんが、種々の条件によって不可能な場合もあり、又家相学上理想的な建築は容易ではなく、ましてや既設の住宅に居住又は移転する場合いちいち家相方位に拘泥している訳にはまいりません。又九星五行循環の条理によって人各々年により、本命殺・暗剣殺・八方的殺(八方塞)・金神(こんじん)・鬼門塞り・歳破・的殺等の方位の祟り障りがあり、月により日によって吉凶があり、これらが人事百般の吉凶を支配して、人生の禍福・盛衰を将来すると云っても、あわただしい現代社会に生活する者にとっていちいちこれらの法則に従って、行動することは、むしろ不可能と云わなければなりません。そこで吾々が知らず知らずの間に、又知りながらも所謂方位を犯して旅行などし又日常生活を営み、家相に合わない家屋に居住し、転宅する場合等の一切の災厄祟禍を除かせ給うべく、寒川大明神に、御祈念を捧げ、八方除御神札を戴いて奉斎することによって、その家その家族の家相・方位・日柄等に基づく一切の悪事災難を免がれ、普請造作・縁談縁組・転宅旅行・開業就職・開墾種蒔その他何事によらず万事意の如く明朗快活な日々を送り、家業繁栄、福徳開運を招くことができるのであります。八方除祈念には、小式以上永代式まで六式階がありそれぞれの式次第によって御祈念を厳修しております。」「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
10 「相武の小野」周辺
弟橘媛が走水の海に身を投げるときに口にした「相武の小野」の地とするのが神奈川県厚木市の小野神社周辺です。
倭建之命 ( やまとたけるのみこと ) を祀っています。
倭建之命が東征の時、大樹の下で大山丹沢富士を一望したと伝えられていることから御嶽社を建立したとされています。
祭神は日本武命です。
ご神体は日本武尊が東征の折、この地で休息をした際に腰を掛けたと言われる大石です。
祭神は豊斟渟尊(とよくもののかみ)、天明玉命(たまのおやのみこと)、稚日女尊(あまのふくおりおんな)、日本武命、大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)です。
ここは通過地として日本武尊を祀ったのかもしれませんが、はっきりとしたことはわかりません。崇神天皇の時代からの古社のようです。
祭神は日本武命です。(創建ははっきりしませんが元の祭神は日本武命ではなかっ たようです。明治時代に現在の祭神となりました。)
ここが『古事記』に書かれている「相武の小野」の地としています。
国常立命(くにとこたちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、金山毘古命(かなやまびこのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、天忍穂耳命(おめのおしほみみのみこと)らを祀っています。 ここは標高が225mの低山です。この山を眺めた日本武尊は、その形が龍に似ていることから名付けたと言われています。実際に見てはいませんが、この山には蛇の体を示す名がついた池が残っているそうです。役小角がこの山で修業を行ったと言われ、その時に日本武尊ほか6神を祀ったようです。役小角が修業をしていたとき「八丈八手の玉幡が山中に降臨し神座の菅の菰から八本の根が生え出たという。そこで山の名を八菅山とよぶようになった。」と伝えています。
日本武尊本隊あるいは別の部隊は相模川を上ったのかもしれないと推測して地図を見ると、景行天皇が日本武尊に授けた石楯の伝承がある佐野川地区の石楯尾神社が見つかります。(佐野川の石楯尾神社は次の項で紹介)ここを八菅山のあとの立ち寄り地とすることも考えられますが、八菅山からは随分北に位置します。そのためここは東征後に立ち寄ったとも推測できます。石楯尾神社の社伝に書かれている「持ち来った天磐楯を東国鎮護のため祀った」のは、東征の前なのか、あるいは奥州まで石楯を持参しており、帰路これを祀ったとするのかの解釈によって扱いが変わります。地図から見た行程では東征後に立ち寄ったと推測します。
景行天皇が授けた石楯を東国鎮護のため祀ったとする伝承は実は他の神社でも見られます。その一社が諏訪神社(神奈川県大和市下鶴間2540 次の項で紹介)です。ここは旧石楯尾神社と言われています。こちらが実際に石楯を祀った神社とすれば、奥州に向かう前に相模川を上ったと推測することなく(突出して北に行くことなく)、相模原市で南下して三浦半島に向かったと考えられます。
11 三浦半島
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祀っています。
日本武尊が東征のとき、この地に5枝の榊の木を植樹して、5柱の祭神を祀る神社を創始しました。境内には日本武尊が腰かけたと伝わる腰掛石があります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)金山彦命(かなやまひこのみこと)白山彦命(しらやまひこのみこと)宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を祀っています。
日本武尊が東征のとき、ここで石に腰を掛けてしばらく休息したと言われています。
祭神は日本武尊、火産霊神(ひむすびのかみ)、澳津彦神(おきつひこのかみ)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)、天照皇大神です。
日本武尊が東征の折、この地を通過したと言われています。
境内の案内板には以下のように書かれています。
「杉山神社の史籍に於ける初見は延喜式神明帳に(今より1070余年前)武蔵国都筑郡杉山神社とあり、当社の由緒は明らかでないが、口碑に伝えるに其の創立は上古根古屋の庄荷場の郷と唱う水郷一帯の時代、景行天皇の御代四十年東方十二国御平定の折、日本武尊、此の地方を御通過され、尊崩御の後、村民其の御徳を慕い奉いて祠を造り奉斎したと云う。
明治六年村社に列格、同四十一年村内の無格社荒神社、熊野社、皇大神宮を合併し、大正九年神饌幣帛料供進社に指定された。戦後、宗教法人として今日に至る。」
「杉山神社の史籍に於ける初見は、延喜式神明帳に武蔵国都筑郡、杉山神社とあり。当社の由緒は明らかでないが、口碑に伝えるに其の創立は上古根古屋の庄荷場の郷と唱う水郷一帯の時代、景行天皇の御代40年、東方十二国御平定の折、日本武尊、此の地方を御通過され、尊崩御の後、村民其の御徳を慕い奉りて祠を造り奉斎したと云う。明治6年、村社に列格、同41年、村内の無格社荒神社、熊野社、皇大神宮を合併し、大正九年、神饌幣帛料供進社に指定された。戦後宗教法人として今日に至る。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
祭神は日本武尊、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、面足命(おもだるのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、天照皇大神です。
創建に関することは不明ですが、新羽町の杉山神社に近いことから、ここも通過地として日本武尊が祀られるようになったのかもしれません。
祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国常猛命(くにのとこたけのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと・いたけるのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、豊雲野命(とよくものみこと)、国狭槌命(くにさつちのみこと)、豊受比売命(とようけひめのみこと)、岐久理比売命(きくりひめのみこと)、誉田別命、菅原道真公です。大正時代に御嶽社と杉山社が合祀され潮田神社となりました。
日本武尊が東征の折、近くの海岸にあった松や杉が生い茂る森に小祠を建てて祭神を奉斎し無事に東征できることを祈願しました。
境内の案内板には以下のように書かれています。
「当社は、大正初期、京浜工業地帯の一代発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため、西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立尊」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられています。
中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親天皇の御世、永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。
また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました」
祭神は天太玉命です。
日本武尊の東征の折、この地にある霊石を拝み、東夷征討の祈願を行ったと言われています。もともとこの霊石は房総半島の洲崎明神(安房国一宮洲崎神社 千葉県館山市洲崎)にあったもので、かつて竜宮より献上されたとされる2個の石のうちの1個です。ある日、この石が天太玉命の御霊代として東国鎮護のために三浦半島に飛んでいったと伝えられています。そして、この霊石を安房口神社のご神体として祀っています。二つの霊石の形に特徴があり、洲崎神社前の海岸にある霊石は吽形(うんぎょう)で石には縦に割れ目があり、安房口神社の霊石は「阿形(あぎょう)で丸いくぼみがあります。それぞれ東京湾を挟んで向き合っており、狛犬のようと言われています。
この後、御所ヶ崎(走水神社)へ
ここまで、地図の上に伝承地の印をつけ、推測した行程を紹介しました。
足柄峠から三浦半島まで、諏訪神社の社伝に従った行程は次のようになります。
神奈川県大和市下鶴間の諏訪神社には足柄峠から走水までの行程が伝えられています。
日本武尊が東征の際、景行天皇は楯を護りとして授けました。「東国を鎮護せよ」といわれて渡されたのが石楯(鎮楯とも)です。

GoogleMap
静岡県の駿東郡小山町と神奈川県の南足柄市境にある標高759mの峠です。かつての駿河国と相模国の国境に位置し、足柄坂(あしがらさか)と呼んでいました。この峠を越えた東は建稲種命との再会地となる坂東(ばんどう)です。
『古事記』では倭建命は蝦夷を征伐した後、足柄の坂本で食事をしているときに坂の神が白鹿となって現れたので、蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺したと書いています。『日本書紀』はこの坂のことには触れておらず、蒜で殺すのは信濃の国の出来事です。
祭神は倭建之命です。
社伝には倭建之命が東征の折、大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望したという言い伝えによって祠を建てたと書かれています。
祭神は日本武命です。
ご神体は日本武尊が東征の折、この地で休息をした際に腰を掛けたと言われる大石です。
祭神は豊斟渟尊(とよくもののかみ)、天明玉命(たまのおやのみこと)、稚日女尊(あまのふくおりおんな)、日本武命、大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)です。
ここは通過地として日本武尊を祀ったのかもしれませんが、はっきりとしたことはわかりません。崇神天皇の時代からの古社のようです。
祭神は日本武命です。
創建ははっきりしませんが延喜式にもある古社です。元の祭神は日本武命ではなかっ たようです。明治時代に日本武尊を祀るようになったと社伝に書かれています。ここが『古事記』に書かれている「相武の小野」の地としています。
国常立命(くにとこたちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、金山毘古命(かなやまびこのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、天忍穂耳命(おめのおしほみみのみこと)らを祀っています。 ここは標高が225mの低山です。この山を眺めた日本武尊は、その形が龍に似ていることから名付けたと言われています。実際に見てはいませんが、この山には蛇の体を示す名がついた池が残っているそうです。役小角がこの山で修業を行ったと言われ、その時に日本武尊ほか6神を祀ったようです。役小角が修業をしていたとき「八丈八手の玉幡が山中に降臨し神座の菅の菰から八本の根が生え出たという。そこで山の名を八菅山とよぶようになった。」と伝えています。
相模川をさらに北に上ると上野原から佐野川地区に至ります。
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと:神武天皇)、石村石楯(いわむらいわたて)他を祭神としています。
社伝によると日本武尊が東征のおり、天磐楯を東国鎮護のためにここに鎮めて神武天皇を祀ったのが始まりとしています。祭神の石村石楯は奈良時代の恵美押勝(藤原仲麻呂、藤原恵美朝臣押勝)の乱のとき朝廷方討伐軍の一人として仲麻呂を斬った功績があります。案内板には「乱を鎮めた功によって、高座・大住・鮎川・多摩・都留の五郡を賜ったといわれ、石楯尾神社の保護者であった。」と書かれています。
境内の案内では、ここから山を登ったところに「甘草水(かんぞうみず)」と呼ばれていた湧水があるようですが、地元の人の話では現在は水は出ていないのと整備されていない山道で分かりにくいとのことでしたので探すのは取りやめ、案内板の画像に替えました。この案内板には、日本武尊がこの地に来た時、付近に水がなく困ってしまい、鉾で岩に穴を掘ったところ清水が湧き出し泉となったという伝承が書かれています。この清水により兵士たちののどの渇きも潤すことができました。日本武尊は狭野尊(さのみこと:神武天皇)の賜物として泉を「甘草水」と呼び、下流を狭野川と名付けたとしています。
「第十二代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は高座郡の県主で当地の住人であった。第四十七代淳仁天皇の天平宝字8年(1222)、先の太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢の為上京中で押勝の首をとり乱を鎮めた功により高座、大住、鮎川、多摩、都留の五郡を賜ったと言われ、石楯尾神社の保護者であった。幣殿、拝殿は昭和12年に改築されたが本殿は室町時代の建築様式をよく伝えており建築史上貴重なものである。本殿棟札には天保7年11月氏子中、調写、浄善石船、謹記とある。神楽殿は弘化年間(1845)に建てられたもので、通常は中央部を通路に使用し祭典の折には厚板で覆い、奉納の舞、芝居の舞台として使用出来る様に工夫されている。平安時代に施行された延喜式[延喜5年(905)撰進、康保4年(967)施行]に記されている相模の式内13社の内石楯尾神社は本社ではないかと言われている。(注)昭和12年~13年にかけ郷社への昇格を運動したが、確たる証拠書類ない為昇格ならず現在は指定村社で終わっている。今でも考古学者等が度々調査に訪れる。森(杜)木は根周り5mを越す大きな杉が何本もある。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
祭神は日本武尊です。特別な伝承はありません。何かあったのでしょうが伝えること、記録することなく消えてしまったのかもしれません。
少し離れた権現山に奥宮があり、和見にある社は里宮です。地元の人は「権現」と呼んでいて「王勢籠」と尋ねてもご存じない方ばかりでしたが、山王社近くの民家で尋ねて分かりました。GoogleMapには王勢籠神社の社名が出ていましたが、そこには山王社があり、詳しく聞かなければ山王社を王勢籠神社とするところでした。実際の場所は最初にMapに表示されたところから北西に200m程道を上ったお寺の入り口付近にありました。民家と倉庫に挟まれ分かりにくい場所でしたが、地面に地図を描いて教えていただきました。(現在GoogleMaps上の神社位置は修正されています。)
祭神は日本武尊 です。
日本武尊が東征のとき、相模を通過する際、突然の大雨に遭いました。そのため、小野と称する者の家に立ち寄りました。この時村人は、甕(かめ)の酒を捧げたと伝わっています。
『古事記』の相模にある地で、ここはかつて沼地・原野が広がっていました。神社の境内にある立派な石碑には「大沼は遠く日本武尊東征の砌り火難に相遇されし地」と書かれています。この碑は昭和41年に建立されたものです。口碑伝承としてここが日本武尊の火難の地とされています。
祭神は倭建命と弟橘比売命です。伊邪那岐命と伊弉冉命を祭神とする神明社が合祀されました。
日本武尊の足跡ははっきりしませんが祭神として祀られていることから通過地かもしれません。
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祀っています。
日本武尊が東征のとき、この地に5枝の榊の木を植樹して、5柱の祭神を祀る神社を創始しました。境内には日本武尊が腰かけたと伝わる腰掛石があります。
武甕槌神(たけみかずちのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀っています。
日本武尊は足柄峠を越えてここの岸辺で休息しました。またここから水軍を出しました。周辺の薙原、石楯尾、御難塚という地名からここが日本武尊の遭難の地と伝えられています。もしそうであるなら、諏訪神社の社伝上では厚木小野の伝承と合わせて野火の難の地が2か所あることになります。
祭神は建御名方神です。 石楯を安置して鎮護を祈願したと伝えられています。高座郡石楯尾神社に比定されています。
東国に向う日本武尊は足柄峠をこえ相模に入り、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至りました。ここで野火の難にあいますが、草薙剣でのがれました。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村、大島、座間から下鶴間村に入り、横須賀(走水)に至りました。下鶴間村で石楯を安置して鎮護を祈願したところが石楯尾神社です。ここは鎌倉時代の中頃に諏訪神社となり、元宮が石楯尾神社です。
「当諏訪神社の創立は不詳であるが、1000有余年前にすでに鎮座されたと伝承され、「新編相模風土記稿」によれば、たびたび再建された記録がみられる。そして社運は歴史とともに隆昌し、今日に至ったものである。御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) 諏訪大明神として多くの人に尊崇されているが、御名は建御名方神と申し上げる。建御名方神は大国主神の第二子で、兄は事代主神である。天照大神は「豊葦原の瑞穂国はわが子の治める国である」として、出雲国を治めている大国主神に国を譲るよう、たびたび使いを下したが、聞き入れられなかった。そこで最後に建御雷男之神を使いとしてたてた。この時、大国主神の御子事代主神はたまたま海に出ていたが、魚つりから帰ってきて国土の返上を承知した。ところが建御名方神は承知せず、建御雷男之神と伊邪佐の浜で力くらべを行った。これが相撲の始まりといわれている。その結果、建御名方神は敗れ、科野の国(長野県)の州羽(すわ)[諏訪]の海(湖)まで逃がれて帰順された。そこで大国主神はやむなく国土を返上したという。これがいわゆる国譲りである。一方、建御名方神はこの地にきてから農業を興し、養蚕を教え、産業の振興に尽くされたため、国は大いに栄え土民の等しく尊崇するところとなった。この地、すなわち今の諏訪湖のほとりであり、ここに諏訪大社がある。大社は全国18000余といわれる諏訪神社の総鎮守であり、当諏訪神社も鎌倉時代中期のころ分霊されたものと考えられる。したがって当社は産業の神として、また武神として遠い昔からそのご神徳を讃仰し尊崇されてきた。(中略)
元宮・石楯尾神社の伝説 諏訪神社はその昔、石楯尾神社であったとも伝えられる。『新編相模風土記稿』に「諏訪社、村の鎮守なり、式内石楯尾神社なりと伝う…」とある。式内(延喜式内)石楯尾神社といえば、延喜7年(907)の神名帳に、「高座小五座のうち石楯尾神社あり、天安元年(857)5月、石楯尾神、官社に列せし」とでてくる。つまり今より1130年前、文徳天皇のときの「文徳実録」に「天安元年5月丙辰、近来霖雨不霽、今日京中水溢、是日相模国従五位下石楯尾神預官社…」「下鶴間村、大島村、諏訪社をも石楯尾神社と伝う」とある。ここにいう相模国高座小五座とは、座間入谷村、佐野川村、名倉村、下鶴間村、大島村のことで、ここに石楯尾神社が祀られたという。石楯尾神とは御名を狭野尊、またの名を日本磐彦尊と称し、贈名は神武天皇である。神武天皇が日向を出て東征し大和に入られるとき、天磐楯をもってきた。第十二代景行天皇の皇子日本武尊が九州の熊襲を征伐のあと、東夷征定を命ぜられたとき、景行天皇は「この楯を護りとして東国を鎮護せよ」といわれ渡された。これを鎮楯または石楯という。東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途みち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところが石楯尾神社であるといわれている。諏訪神社の東方約150メートルのところに宮田塚と呼ばれる小さな石の祠があった。これが元宮といわれるが、全農大和集配センター開発のおり、昭和47年、現在地に移転、祭祀している。神社の沿革 当社創立の年代は不詳であるが、古来より式内石楯尾神社なりと伝えられ、新編相模風土記稿によれば文徳天皇天安元年(857)5月、祭祀のことが記され、醍醐天皇延喜7年(907)の神名帳には高座小5座のうち下鶴間村に石楯尾神社ありと記されている。鎌倉中期のころ諏訪社として祀られたものと考えられ、延宝8年(1680)再建の棟札のあったということからも、徳川氏入国当時既に厳然と鎮座していたのは明かである。なお元禄6(1693)6月、領主江原氏代官伊沢喜兵衛、同都筑氏代官瀬沼伝右衛門本地を寄進し御神体として本殿に奉安せりという。宝永8年(1710)6月再建、安永7年(1778)再建の棟札は現存している。さらに安政5年(1858)11月6日、完成間近の社殿を大工の失火により悉く焼失してしまった。その後、明治2年、神仏分離令により観音寺持より村持となり、氏子の熱意により明治5年、社殿を再建遷宮の祭典を盛大に斎行した。明治30年、秋季大演習の際、伏見宮貞愛親王殿下が御参拝された。大正12年、関東大震災により大被害を受けたが昭和四年、復旧工事が完了する。さらに昭和9年9月17日、朝香宮鳩彦王殿下が演習統監のため当地御通過の砌り鄭重に御参拝された。昭和15年、村社に昇格、大東亜戦争勃発するに及び社名を諏訪神社と変更、社運益々隆昌となったが、終戦を迎え昭和21年、政教分離令により宗教法人諏訪神社となる。氏子崇敬者の尊崇はいよいよ篤く永年に亘る神社整備計画に基き昭和52年、社務所を再建。更に昭和57年、覆殿、幣殿、神饌所、祭具所、玉垣等を再建し、拝殿、向拝を共に銅板葺に改修、荘厳な社殿を完成し、翌年5月、盛大に遷座奉祝祭を斎行した。昭和62年、昭和天皇御在位六十年を記念し境内末社稲荷神社、八坂神社、秋葉・古峯合社の三社殿と併せその玉垣を整備する等盛事を行う。惟うに当諏訪神社の隆昌は、地域の繁栄であり、氏子崇敬者こぞってその御神徳に感銘し地域とともに神事などますます盛大となっている。諏訪神社 祭事 1月 元旦祭・どんど焼き(14日)、2月 節分祭・初午祭、4月 (花見のつどい)、7月 八坂神社(天王様)祭典(14日)、8月 奉納相撲大会(第1日曜日)、(盆おどり・婦人会主催)、9月 例大祭(6日)、11月 日枝・伊勢両神社祭典(20日)、七五三祈祷、随時 」「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
石楯尾神社が神奈川県内にいくつもあり同様の言い伝えがあります。
諏訪神社の伝承では下鶴間村で石楯を安置したとあり、これに従えば、佐野川は下鶴間より北にあるため、行程には当てはまらなくなります。
その他
石楯尾神社 神奈川県相模原市南区磯部字中峯2132
石楯尾神社 神奈川県藤沢市鵠沼神明2-1-5
駿河上陸から三浦半島まで、走水神社の社伝に従った行程は次のようになります。
武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。ここに御所(御座所)を建てました。(現在、御所ガ崎と云われております。)走水の地において、軍船等の準備をし上総国に出発する時に村人等が武尊と橘媛命を非常に慕いますので、武尊は自分の冠を村人等に与えました。村人等はこの冠を石櫃納め土中に埋めその上に社をたてました。(走水神社の創建です。)走水神社社伝一部
毎年、日本武尊の上陸に因んだ神事が行われています。
日本武尊が沓(くつ)を脱いで休息しました。
御祭神は日本武尊で、東征の従者である吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命らも祀られています。古代は海に近く、入江大明神とも呼ばれていたようです。社伝では、日本武尊の東征のおり、相模国に到着した倭建命は国造に騙されて野原に火をつけられましたが、持っていた剣と火打ち石で難を逃れました。草を焼き払ったところは「焼津」と言われています。日本武尊は水石と火石の2個の石を投げたところ、1つは熱田神宮、もう1個は焼津神社に落ちたといわれています。
ここを火難の地とするのは弟橘姫の歌が根拠となっています。
走水で入水する際、弟橘姫は「さねさし さがむ(相武=相模)のおの(小野)にもゆるひのほなか(火中)にたちて とひしきみはも」と歌を詠んだとされています。この「小野」は小野神社のある地名と言われています。
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祀っています。
日本武尊が東征のとき、この地に5枝の榊の木を植樹して、5柱の祭神を祀る神社を創始しました。境内には日本武尊が腰かけたと伝わる腰掛石があります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)金山彦命(かなやまひこのみこと)白山彦命(しらやまひこのみこと)宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を祀っています。
日本武尊が東征のとき、ここで石に腰を掛けてしばらく休息したと言われています。
その後の駿河は・・・
東征の後、功績のあった吉備武彦が駿河を治めることとなりました。
廬原国造(いおはらこくぞう)の祖となった意加部彦(おかべひこ)は吉備武彦の子です。
日本武尊を騙して焼き殺そうとしたのはどんな人たちなのでしょうか。
この野火の難の出来事は記紀ともほぼ同じように書かれていますが、記紀により騙した者たちの表記に違いが見られます。 これは『古事記』では明確に「国造」とし『日本書紀』では単に「賊」としています。「国造」は「こくぞう」や「くにのみやつこ」といい、大和朝廷に従って地方を治めている支配者をさしています。通常は地方の首長・首領といった有力者がその職に就いています。
長さ約62mの前方後方墳で邪馬台国と同時代の3世紀に築造された東日本では最古級の古墳ですが、残念ながら一部破損しています。かつて駿河一帯を支配する勢力の首長墓と考えられます。日本武尊が戦った相手はこの古墳の被葬者の子孫ではなかったかとも推測されます。
この古墳がある場所は道路建設予定地となっており、調査中のようですが、このままでは消滅してしまうかもしれません。
駿河に「国造」がおかれているということは、ここが大和朝廷の支配下にあったことを意味しており、日本武尊はそれを知っていて安心してここに入ったことになります。『日本書紀』のように「賊」とするならば、ここはまだ朝廷の支配下になく、いわゆる野蛮な者たちがはびこる荒れた地域となります。当然いつ襲われるかわからないため用心して入ったはずです。駿河では、地方の首領が任に就いていた国造が賊と化したとも考えられます。
駿河に入った日本武尊は国造らの勧めもあり、広い野で狩りをすることしました。もし賊とわかっていたならば、愛知の岡崎や湯谷でのことのようにすぐに征伐したことでしょう。日本武尊は天皇の名のもとに東国の平定をしようとしている皇子です。逆らう者は容赦なく征伐してきました。ここ駿河では国造たちは笑顔で迎え、遠征の疲れを癒してもらおうと計画したかのように日本武尊をもてなそうとしました。しかし、これは尊を騙し打ちするための作戦でした。国造たちは騙されて野に入った日本武尊を焼き殺そうとしました。この時になって、狩を誘った首長たちは本当は朝廷に逆らう「賊」だったことに気づきました。『日本書紀』の原文を見ると「賊有殺王之情王謂日本武尊也」のように、王を殺そうとした賊として表記しています。国造という職に就いていても、結果的に、中央への従順なそぶりを見せつつも機会を見て反逆しようとした者なので「賊」と表記したのでしょう。日本武尊の駿河入りは反逆の好機と考え、中央政権による地方への「侵略行為」に対して急に反旗を翻したということになります。
また、北から駿河に進軍してきた蝦夷らが日本武尊を殺そうとしたという説もあります。この当時の蝦夷らは関東以北を支配しようとしていたと考えられます。武内宿祢が天皇に東国の様子を報告した際に「早く征伐すべき」と進言していますが、その時は熊襲征伐が急務であったため日本武尊は九州に派遣されました。その間に蝦夷の力が増し、関東以北を拠点としていた蝦夷らが西に進軍してきたと考えてもよいかもしれません。
しかし、これは後の時代の出来事と混同されているのではないかという疑問があります。桓武天皇の時代に蝦夷の悪路王(あくろおう)が勢いを増し、駿河まで進出してきたということが伝えられているからです。悪路王は京で娘をさらって陸奥に連れ帰ったとも言われており、これを征伐するために征夷大将軍となった坂上田村麻呂が派遣されました。実際に日本武尊と戦った上総の蝦夷は悪留(あくる)王(阿久留王)で、平安時代に坂上田村麻呂が征伐したのが悪路(あくろ)王です。これらの言い伝えが混同されて伝えられているとも考えます。上総の悪留王も後の時代に悪路王と混同して伝えられているという説もありますが、日本武尊と悪留王の戦いが行われたという史跡が房総半島にあることを考えれば、悪留王は土着の賊で悪路王とは別人と考えてよいのではないでしょうか。
野火の難の伝承地は数か所あります。だから実際はどこで起きたのかはっきりしません。このことはは野火の難そのものがなかったとする説の根拠ともなりますが、ここでは難の否定をしないでおきます。野火の難に関係がある6か所について探ってみました。
候補地1 焼津神社周辺
この根拠となっているのは焼津という地名の伝承です。火攻めが行われた地、賊を焼き殺した地として「焼津」という地名としたとする強い主張があります。この説に関連した史跡がいくつかあります。
駿河湾に面して大きな漁港がある焼津は水産業の盛んなところです。日本武尊は浜名湖から出航しこの地に上陸して駿河の賊らと戦いました。
御祭神は日本武尊で、東征の従者である吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命らも祀られています。古代は海に近く、入江大明神とも呼ばれていたようです。社伝では、日本武尊の東征のおり、相模国に到着した倭建命は国造に騙されて野原に火をつけられましたが、持っていた剣と火打ち石で難を逃れました。草を焼き払ったところは「焼津」と言われています。日本武尊は水石と火石の2個の石を投げたところ、1つは熱田神宮、もう1個は焼津神社に落ちたといわれています。
異説 焼津は天然ガス産出地
焼津地区には現在も天然ガスが産出するところが数か所あります。古代、このガスに火が付くことで野が焼けているように見えたので「焼津」の地名になったという説もあります。
日本各地に天然ガスが採取できるところがあります。太平洋側では神奈川、東京、千葉など、日本海側では新潟県が埋蔵量も多いようです。静岡県焼津市でも地下から湧き出す温泉とともにガスの採取を行っています。副産物の温泉は市内の施設に供給されており、その一施設が焼津黒潮温泉です。
50号井は天然ガスを採取するために掘削した井戸です。ここからガスの採取を行い、副産物として温泉が湧き出すため、これを市内の施設に給湯して利用しています。50号井の隣には供給されている施設の一つなかむら館があります。
候補地2 草薙神社周辺
ここを野火の難の地とする明確な根拠は、草薙神社が景行天皇が創建した神社だからとする説があります。景行天皇は日本武尊の東征後に日本武尊にゆかりの地を巡っていました。その時建立した社が草薙神社です。ここの伝承では火攻めをされた地は近くの谷としています。抵抗した賊らを殺して埋めたという伝承地も草薙神社近くにあります。そこが首塚稲荷神社と言われています。言い伝えられているような火攻めされた近くの谷とはどこだったのでしょう。
御祭神は日本武尊です。日本武尊が東征に向かう途中、賊が野に火をつけて日本武尊を焼き殺そうとしました。そこで、尊は倭姫命より授かった剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払うようなしぐさで剣を振り、草を薙ぎ払って難を逃れました。このときの剣を「草薙の剣」 と呼んでいます。そして、火をつけた野は「草薙」とよばれるようになりました。後に景行天皇がこの地を訪れて社を建立しました。そして、日本武尊を祀り、御霊代として草薙の剣を奉納しました。その後、天武天皇の時代に草薙の剣 は熱田神宮で祀られるようになりました。草薙神社は平安時代に現在地に遷座されました。
この地で戦いがあり戦死者の首を埋め塚を造ったとする伝承があります。北側の川は血流川と呼ばれています。
現在の草薙神社への参道沿いに「天皇原」と名がついた公園があります。
日本武尊が駿河の賊と戦い、火攻めに遭いながらも勝利した地を景行天皇が訪れて社を建立しました。この辺りは比較的平らな土地で、草薙神社に向かうと坂を上っていくことになります。現在の地名は草薙ですが、昔の地名が公園の名として残っていました。
祭神は素盞烏尊です。
境内に入ると樹齢約500年と言われる御神木の大樟が目に入ります。ここに日本武尊が東征の折、素盞烏尊を祀りました。
賊を征伐した日本武尊は日本平の頂に立ち、富士山を背に眼下に広がる駿河の地やこれから向かおうとする東国の方を見まわしました。
頂上付近に石碑があり「尊この地に登りて國見し給う」と彫られています。この石碑は昭和43年建立されました。
三保の松原に伝わる「羽衣伝説」に関係する神社です。世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つになっています。
祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと)で 別名は三穂津彦命(みほつひこのみこと)、三穂津姫命(みほつひめのみこと)です。創建は不詳で『駿河雑志』には「日本武尊が勅により官幣を奉じ社領を寄進した」と書かれているようです。(wikipediaより)
候補地3 久佐奈岐神社周辺
草薙神社と同様に火攻めの地としての伝承があります。久佐奈岐(くさなぎ)神社の創建は草薙神社より古いと言われています。
祭神は日本武尊です。ほかに弟橘姫命、吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬胸脛命らが祀られています。また、東征に従った多くの従者を九万八千霊社に祀っています。
この神社がある地区は当時廬原(いおはら)国と呼ばれていました。日本武尊は東征のおりここに本宮を設けました。東征後に従者の一人吉備武彦がこの地を治めることとなり、日本武尊を祀る社殿を築きました。もとは「東久佐奈岐神社」と呼んでいました。
久佐奈岐神社の境内には東征で戦った多くの兵の霊も祀られています。
久佐奈岐神社の近く、日本武尊が布陣した所に神社を建てました。ここには多くの兵がいたとされ、武器を置いたところでもありました。東征後にこの地を治めた吉備武彦の子で庵原国造となった意加部彦 (おかべひこ)が祭祀をとりおこなったと伝えられています。
ここは日本武尊の滞在地でもあり、東征のための軍や武器を整えたとも考えられます。
祭神は豊受姫命で木花開耶姫命も祀られています。日本武尊が東征のときに豊受大神を祀ったのが始まりです。
候補地4 大沼神社の地
『古事記』の相模にある地で、ここはかつて沼地・原野が広がっていました。神社の境内にある立派な石碑には「大沼は遠く日本武尊東征の砌り火難に相遇されし地」と書かれています。この碑は昭和41年に建立されたものです。口碑伝承としてここが日本武尊の火難の地とされています。

神奈川県の西部、相模湾に流れる長さ約50kmの川です。戦いの無事を祈って川に酒を流しました。その匂いは帰路で立ち寄った際にも残っていたと言われています。


候補地5 小野神社の地
ここを火難の地とするのは弟橘姫の歌が根拠となっています。
走水で入水する際、弟橘姫は「さねさし さがむ(相武=相模)のおの(小野)にもゆるひのほなか(火中)にたちて とひしきみはも」と歌を詠んだとされています。この「小野」は小野神社のある地名と言われています。
候補地6 深見神社周辺
武甕槌神 ( たけみかずちのかみ ) 建御名方神 ( たけみなかたのかみ )を祭神として祀っています。日本武尊が東征のとき足柄峠を越えてここの岸辺で休息しました。またここから水軍を出しました。社伝によるとここは「薙原」や「御難塚」という地名で日本武尊が遭難されたことにちなんでつけられたとされています。しかし、薙原や御難塚などの地名を見つけることはできませんでした。草薙と音のよく似た「草柳」という地名が大和市にあるだけでした。
駿河の行程の内容からは離れます。
Ⅴ 草薙剣
日本武尊を救ったのは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。この剣は素戔嗚尊が八岐大蛇から得た剣と言われ、刃の文様が天に雲がかかるように見えることから「天叢雲」と名がついたと言われています。素戔嗚尊が高天原に献上しましたが天孫降臨の際、邇邇藝命(ににぎのみこと)が天叢雲剣を携え、葦原中国(あしはらのなかつくに =日本国)を治めるため高天原から降りてきました。これ以降天皇の元にありましたが、垂仁天皇の時代、この神剣を祀るため八咫鏡とともに倭姫命が保管していました。
倭姫命から日本武尊に
日本武尊はここで倭姫命から天叢雲剣と(火打石が入った)袋を授かり、「油断しないように」と声をかけられました。




日本武尊は駿河の賊らに騙され、弟橘媛とともに危うく命を奪われるところでしたがこの霊剣によって野火の難から逃れることができました。日本武尊と弟橘媛を救った剣は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになりました。
東征後、日本武尊は火上山(名古屋市緑区大高町)の宮簀媛(みやずひめ)の館に滞在しました。草薙剣もここにありました。
日本武尊が亡くなると宮簀媛は神剣を祀る神社を熱田の地に建てました。

新羅の僧によって草薙剣が熱田神宮から盗み出されました。その時盗人が通ったのが境内にある清雪門です。そのため、現在は二度と開けることのない門となっています。
神剣を放り投げたことから、この地を「放出」と書いて「はなてん」と読みます。
難波で剣が見つかると宮のある大和(石上神社)に留め置かれました。そのため「布留剣(ふるのつるぎ)」とも言われました。
天叢雲剣は1本の剣の名ではなく、出雲で作られた名剣で何本もあったと言われています。そのうちの1本が草薙剣となり現在熱田神宮に祀られています。