日本武尊の父
日本武尊に伊勢神宮で御衣や神剣を授けた倭姫命は景行天皇の妹です。垂仁天皇の父(景行天皇の祖父)は崇神天皇で、丹波道主命を四道将軍の一人として派遣しました。また皇女の豊鍬入媛命(とよすきいりひめのみこと)に天照大神を祀る地を探すよう命じた天皇です。
第12代景行天皇誕生
「天皇(すめらみこと:一般にてんのう)」という呼び方は飛鳥時代の天武天皇以降に定まったと言われています。それまでは「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。これは大和朝廷の全国支配を物語るとして歴史の教科書にも登場する二つの古墳から出土した鉄剣が証明しています。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「獲加多支鹵大王」と刻まれており、また熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣にも「獲□□□鹵大王」と刻まれています。(定説では「獲加多支鹵大王」は雄略天皇としています。)雄略天皇は第21代天皇ですから、それより10代も前の景行天皇は大王であったはずです。しかし「景行大王」とはなりません。「景行天皇」は漢風諡号(しごう)で奈良時代に淡海御船(おうみのみふね)という人がつけた呼び方で、一般的にはこの漢風諡号で表記されます。
あるとき、垂仁天皇が長男の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と次男の大足彦尊(おおたらしひこのみこと)を前にして「何が欲しいか言うように」と声を掛けました。長男は「弓矢が欲しい」と言い、次男は「皇位が欲しい」と言いました。「天皇は二人の好きなようにしてよい。」と言われたので、兄には弓矢を与え、弟には皇位を継がせました。こうして大足彦尊が景行天皇となりました。
和風諡号 (記紀により表記が異なっています)
読みはともに「おおたらしひこおしろわけのすめらみこと」
垂仁天皇37年の年、21歳の時に皇太子となり、垂仁天皇99年(ありえない数字です)の2月に垂仁天皇が崩御されると、7月に景行天皇として即位しました。そこで、この年を景行天皇即位元年としました。*皇太子となった年齢は21歳だったかは疑問です。景行天皇は60年に107歳で崩御したと『日本書紀』に書かれていますので矛盾します。このように『日本書紀』は編年体で書かれていますが、年月の記述は他にも正確でないことが多く見られます。これだけで『日本書紀』の信ぴょう性を疑うわけではありませんが、西暦の使われていない時代、編者は在位年と年齢などの整合性のチェックを怠っていたように思います。
景行天皇の宮
景行天皇の宮は纏向日代宮(まきむくひしろのみや)です。穴師坐兵主神社に行く細い道沿いのかつての宮域を見渡せるような場所に石碑が立っています。現在は田畑があり、少し先には景行天皇の陵が見えていますが、この辺りは崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや)跡や垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)跡もあり、古代大和朝廷の政治や文化の中心部であったようです。
本殿が一つのように見えますが3神殿あります。もとは穴師大兵主神社があったところに、室町時代に巻向にあった坐若御魂神社と穴師の穴師坐兵主神社が合祀されました。穴師大兵主神社は景行天皇の時代に他の2社と同じ日代の宮域の内に建っていました。
「大和平野の開拓は、その周囲山麓地帯からはじまったと考えられ、当社のすぐ西には垂仁、景行両天皇皇居跡があり、また少し西北には祟神、景行両天皇陵もある。さらに、日本最古の道路である「山の辺の道」は南方三輪海柘榴市からはじまって、その諸陵や皇居跡を通り、天理市を経て奈良市に通じている。またこの大和古道に、山間部から下りてくる道の交る地点らは古い市の発達がみられ、当社のすぐ西方も、いわゆる古の「大市」のあったところと考えられる。したがって、当社附近が、上代大和文化の一中心地域であったのはもちろん、最も早くひらけたところであって、こゝに大和一国の農耕信仰が集り、また、国土安穏の平和信仰が集るのは当然であった。とくに昔「福瀬路は畏き道」として、福瀬谷が大和から東国への一般通路とならなかった前、纏向川に添い、弓月嶽の麓を通って、大和高原の上に出て伊賀、伊勢に行く道は、大和と東国を結ぶ重要な交通路であった。これが重要であるだけに、同時にその大和平野への出口は、また東国の勢力から大和を渡る要点でもあった。これが当社がこの地に早く設けられ、国土繁栄(農耕乞雨信仰)、平和安全(鎮武信仰)の神として重要な国家の祭祀を受けるものであった。いわば、南隣の三輪山に鎮る大物主神が、出雲系の三輪族の祖神として、国土開拓神の信仰を集めたのに対応し、当社は、生産と平和の神としての国家的信仰によって始った神社であるといえる。有名な野見宿彌の角力の説話が当社にあるのも、それが天皇の国土統治の象徴として行われた呪術であるとされるように、当地は、古代大和、ひいては日本の一中心であったのである。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
景行天皇の陵
景行天皇は在位60年の年に107歳で崩御したとされています。しかし、日本武尊の年齢同様で正しくないかもしれません。『日本書紀』の編者は出来事年や年齢に関して正確には記していないと思われます。
景行天皇が祀られた神社
滋賀県大津市の建部大社には日本武尊の家族や戦いに従った将たちが祀られています。
GoogleMap
祭神は景行天皇です。
建部大社の境内摂社聖宮神社には日本武尊の父親が祀られています。
祭神は播磨稲日大郎姫命です。
建部大社の境内摂社大政所神社には日本武尊の母親が祀られています。
日本武尊の母
『日本書紀』
播磨稲日大郎姫 はりまのいなびのおおいらつめ
生年不詳 ~景行天皇52年5月4日没
景行天皇との間に生まれた子
大碓皇子
小碓尊(日本武尊)
稚倭根子皇子(わかやまとねこ)の母とする説もある
『古事記』
針間之伊那毘能大郎女 はりまのいなびのおおいらつめ
景行天皇との間に生まれた子
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
大碓命
小碓命
倭根子命(やまとねこ)
神櫛王(かむくしのみこ)
妹の伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)も景行天皇の妃となっています。
『播磨国風土記』
印南別嬢 いなみのわきいらつめ
『古事記』では針間之伊那毘能大郎女は若建吉備津日子(わかたけきびつひこ) の娘です。また、稚武彦命の父は第7代孝霊天皇、兄は四道将軍として活躍した吉備津彦命(きびつひこのみこと)で別名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)です。この人は大吉備津彦命とも呼ばれ、吉備の桃太郎のモデルになっています。
『播磨国風土記』では、母は播磨稲日大郎媛と同一人物とされる印南別嬢(いなみのわきいらつめ)です。印南別嬢は比古汝茅(ひこなむち)と吉備比売(きびひめ)の娘と書かれています。つまり吉備の血を受け継ぐ人物です。
でも変です。丸部臣(わにべのおみ)の祖となる比古汝茅は大和の人で、第13代成務天皇が吉備国へ派遣して国の境を定めさせたのです。吉備で比古汝茅を迎えたのは吉備比古(きびひこ)と吉備比売(きびひめ)の二人です。吉備比売は美しい娘で比古汝茅は吉備比売を娶りました。そして、生まれた娘が印南別嬢であったとされています。この印南別嬢が播磨稲日大郎媛と同一人物なら、成務天皇の時代に第12代景行天皇と結婚し日本武尊が生まれることになります。成務天皇が即位していれば景行天皇はいないはずですし、成務天皇は景行天皇の皇子です。
やはり『古事記』に従ったほうがよさそうです。
吉備国の媛を景行天皇が妃とするということは、四道将軍の活躍もあり、この時代に吉備国は完全に大和朝廷の支配下にあったことがわかります。そして、小碓尊につけられた「尊」の意味が示す通り、吉備国の血を受け継ぐ者を皇位継承者の一人として位置付けているのです。
父と母の出会い
『播磨国風土記』によると・・・
西国に狩りに出かけた景行天皇が印南別嬢(いなみのわきいらつめ)という美しい姫を見つけるとすぐに求婚しました。しかし、姫はこれを断わってしまいました。都に戻った天皇は姫のことが頭から離れず賀毛郡伊志治(かものいさじ)という者に仲介を依頼しました。そして、船で播磨国の明石に向かいました。これを知った姫は隠愛妻(なびはしつま)という島に逃げてしまうのです。天皇が姫の家に行くと姫は留守で、それを知った天皇はとても悲しくなりました。その時、家にいた犬が島の方を向いて吠えるので、天皇は姫は島にいると察し、その島に向かうことにしました。こうして、天皇は姫と出会うことができました。天皇の想いを感じた姫はやがて心が開き、求婚を受け入れました。こうして景行天皇2年3月3日に皇后となりました。
母の出産
現在置かれている場所から東へ25mの所に二つが離れて置かれていましたが、宅地整備のため二つともここに移転し、並べて置かれています。以前より「石のタライ」や「石臼」と呼ばれていました。
播磨稲日大郎媛は難産で7日間苦しみ、双子を出産しました。この石のタライは産湯に使ったと伝わっています。父は二人の子に大碓と小碓と名付けました。その様子は日岡神社の絵馬に見ることができます。
播磨稲日大郎媛命が大碓命と小碓命(日本武尊)双子を出産する時、天伊佐佐比古命(吉備津彦・大吉備津彦命のこと)が安産祈願をしたと伝わっています。天伊佐佐比古命は四道将軍にその名がみられ、岡山県(吉備)の桃太郎のモデルとなっています。
天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)を主祭神とし、豊玉比売命(とよたまひめのみこと)、鸕草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
播磨稲日大郎媛命が大碓命、小碓命という双子を出産するとき、祭神の天伊佐佐比古命はその安産祈願をしたとされ、現在は安産の神として多くの人が参拝されています。
母の故郷
『播磨国風土記』によると、印南別嬢が大帯日子命と結婚して住んだ宮が賀古郡城宮(かこのこおりきみやー 兵庫県加古川市加古町木村)です。
石碑は日岡陵に続く道沿いにあります。
印南別嬢が景行天皇52年夏5月4日に亡くなりました。 そこで、日岡に墓を造って葬ることとしました。遺体を担いで加古川を渡ろうとしたところ烈しいつむじ風が川下から吹いてきました。そのため遺体を川に流してしまいました。その後いくら探しても見つからなかったのですが、くしげ(化粧箱)と褶(ひれ)-衣服に着ける飾り布のみが発見されました。そこで。これら2つを墓に埋めました。それで褶墓(ひれはか)といいます。『播磨国風土記』より
明治時代の調査によりこの古墳が稲日大郎媛命の墓と決定されました。古墳時代前期の前方後円墳です。川に流されたご遺体は見つからなかったため、
くしげ(化粧箱)と褶(ひれ)の2つを墓に埋めました。褶墓(ひれはか)とも呼ばれています。
『日本書紀』によると
景行天皇と稲日大郎媛との間には二人の子が生まれました。の第一皇子は大碓(おおうす)皇子・命です。小碓尊(おうすのみこと:後の日本武尊)とは双子です。
大碓命は弟小碓とは真逆の性格でした。征西から戻った小碓尊は次の賊退治は兄の大碓命に命じてほしいと天皇に願ったところ逃げ隠れてしまったのです。
異説として二人とは別に稚倭根子皇子(わかやまとねこ)が生まれたとされています。
双子の兄 大碓皇子
大碓命は記紀を見ても歴史の表舞台には登場していない人物です。『古事記』では兄の大碓命は弟の小碓尊によって残酷に殺されたことになっています。殺されたのには訳があるのです。
景行天皇は三野の国(美濃国)の国造の祖でもある大根王(おおねのみこ)の娘で
兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹が大変美しいと知り、大碓命を派遣して都に連れてこさせようとしました。大碓命はその美しさにほれ込み二人を妻としてしまいました。天皇には別の娘を連れて行き、兄比売、弟比売と名乗らせ美濃の娘と偽って献上したのです。しかし、天皇にはこれが分かってしまいました。
ある時、景行天皇が大碓命が朝夕の大御食(おおみけ)に出ないことを咎(とが)め、小碓尊に教え諭してくるよう言いました。大碓命としては天皇にばれてしまっていますから顔を出せないでいたのでしょう。しかし、5日経っても顔を出しませんでした。天皇は小碓尊にどのように教え諭したのかと尋ねると「朝、兄が厠(かわや:便所)に入ったとき、手足をもぎ取り、体を薦(こも:=「菰」 わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と答えました。この小碓尊の荒々しい性格故に天皇はまだ若い尊を熊襲征伐に派遣したのです。大碓命の名はこの時点で歴史から消えてしまいました。
しかし、岐阜県美濃地方から愛知県に至る地域には大碓命の伝承があります。もし小碓尊に殺されていたのなら、それらは全くの偽りの伝承になってしまいます。実際は小碓尊が大碓命を逃がすための計画だったのではないでしょうか。つまり、大碓と小碓の兄弟仲は大変良かったのです。天皇はその意を察し、大碓命を許したのでしょう。天皇は長男の大碓命に対してやや甘いところがあるようで、日本武尊の東征の前、誰が蝦夷退治に行くかを相談しているとき、日本武尊が次は兄を派遣するよう願うと、これを聞いていた大碓命は隠れてしまいました。天皇は東征は勇猛な日本武尊を派遣することとし、大碓命には無理して行くことはないとして美濃国に封じることにしたのです。その後の大碓命は美濃の開拓者として活躍していますから、適材適所ということかもしれません。大碓命が封じられた美濃国は兄比売と弟比売二人の妃の故郷で、妃らの父大根王の館があります。大碓命は大根王とともに開拓を進めたのでしょう。
また、兄を応援するかのように日本武尊は東征の帰路に兄のもとを訪れているようです。それを伝える神社が岐阜県山県市を含む美濃地方にいくつかあります。
大碓命は『古事記』では弟小碓に殺されたことになっていますが、実際は美濃地方に封じられていたとするのが正しいようです。大碓命は、大和の都→岐阜県美山町→土岐市鶴里町と移り住み、愛知県豊田市(猿投神社)裏の猿投山で亡くなりました。
小碓尊は『古事記』に見えるような兄を殺してしまう残忍な性格ではなかったのではないかと思われます。
大碓命を祀る神社及び古墳
御祭神は大碓命で、景行天皇、垂仁天皇も祀られています。仲哀天皇の時代に熊襲の乱を鎮めるため大碓命を祀ったのが始まりと言われています。社伝には大碓命が猿投山中にて蛇毒のために亡くなったので山中に葬ったと書かれています。この故事により大碓命が祀られているようです。
もともとの祭神は違うようで、中世ごろから大碓命が祀られるようになったとも言われています。
この当時景行天皇は猿をかわいがっていました。翌年、景行天皇が伊勢国へ行幸する際にも連れていきましたが、この猿が悪いことをしたので怒って伊勢の海に投げ捨ててしまいました。その後猿は鷲取山にこもったと言われています。この話がもとで山の名が猿投山と名付けられたというのが一説です。猿投山山中の西の宮と東の宮の地名は鷲取です。鷲取山は猿投山のようです。
日本武尊東征の時、三河国からこの猿が従いました。東征の後にこの猿が「私は天皇の情けに報いるためつき従いました。」と言いました。「猿」は勇敢な家臣の意味であったのでしょう。東征後は鷲取山に帰っていったと伝えられています。
猿投神社の北には標高629mの猿投山があり西峰と東峰があります。それぞれの峰に猿投神社の西の宮と東の宮があり、西の宮後方に大碓命の墓があります。これらを参拝するためにはトレッキングの用意が必要です。登山ルートは分かりやすいため、休憩時間を含めて往復5時間半を予定して登りました。
猿投山へは山麓にある猿投神社から少し進んだ山麓園地の駐車場を利用しました。ここが出発地点となります。東の宮から山頂を経由して大碓墓と西の宮を通り猿投神社に至るコースで登りました。かえる石のように山中には奇岩が多く見られ、巨石信仰の山としても古くから登られていたようです。
山頂から大碓命墓に向かう途中に御船石(おふないし)があります。この石の形を横から見ると船に似ていることから名づけられたとも思われますが、大碓命が乗ってきた船が石になったと言う伝説もあるようです。花崗岩の巨石です。
双子の弟小碓尊(おうすのみこと)
征西時は小碓尊と呼ばれていました。『日本書紀』では景行天皇2年に生まれ、景行天皇43年の時に30歳で能褒野で亡くなりました。全く計算が合いません。そのため、生没年ともはっきりしません。
小碓尊は景行天皇の第二皇子です。大碓命が双子の兄になります。
*『古事記』では小碓命を第三皇子としています。また、大碓命は年の違う同母の兄としています。
小碓尊の別名は日本童男(やまとおぐな)で、征西で熊襲建を討つとき自らこの名を伝えています。これを聞いた熊襲建は「日本武皇子(やまとたけるのみこ)」と名乗ってほしいと言います。この時より、英雄「日本武尊」が誕生しました。
異母兄弟
『日本書紀』には次の子の名前が見られます。
異母兄弟は80人もいたとされています。すべての名前がわかっているわけではありません。
妃 播磨稲日大郎媛命(はりまのいなびのおおいらつめ)
大碓命
小碓尊
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
倭根子命(やまとねこのみこ)
神櫛王(かむくしのみこ)
妃 八坂入媛(やさかいりひめ)
稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと) 後の成務天皇です
五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)
忍之別皇子(おしのわけのみこ)
稚倭根子皇子(わかやまとねのみこ)
大酢別皇子(おおすわけのみこ)
渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)
渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)
五百城入姫皇女(いおきいりひめのみこ)
麛依姫皇女(かごよりひめのみこ)
五十狹城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)
吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)
高城入姫皇女(たかきいりひめのみこ)
弟姫皇女(おとひめのみこ)
妃 水齒郎媛(みずはのいらつめ)
五百野皇女(いおのひめみこ)
妃 五十河媛(いかわひめ)
神櫛皇子(かむくしのみこ) 讚岐国造の祖
稻背入彦皇子(いなせのいりひこのみこ) 播磨別(はりまのわけ)の祖
妃 高田媛(たかたひめ)
武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ) 伊豫国(いよこく)の御村別(みむらわけ)の祖
妃 日向髮長大田根(ひむかのかみながおおたね)
日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ) 阿牟君(あむのきみ)の祖
妃 襲武媛(そのたけひめ)
国乳別皇子(くにちわけのみこ) 別説 宮道別皇子(みやじわけのみこ) 水沼別(みずまのわけ)の祖
国背別皇子(くにそわけのみこ) 別説 豊戸別皇子(とよとわけのみこ) 火国別(ひのくにのわけ)の祖
次期天皇候補者とされたのは・・・
天皇の子のうち、次の3人は封じられませんでした。他の子は都から離れた地を治めさせています。(封じる:時の権力者が身内または家臣に領地を与えてそこを治めさせる)
小碓尊 母は播磨稲日大郎姫
稚足彦尊(わかたらしひこのみこと) 第13代成務天皇となりました
五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)母は八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)
3人は次期天皇の候補者として都に残したと思われます。他の子は国造、和気、稲置、県主などに任じてそれぞれの国へと赴任させました。
景行天皇は大碓命を美濃の国に封じました。その痕跡が岐阜県山県市や土岐市にあります。両市に共通するものは地名です。「柿野」という地名が山県市と土岐市にあり、両市に大碓命・小碓尊が祀られた神社があります。大碓命が暮らしたところを「垣野」と呼び、大碓命は山県市から土岐市に移り住み、土岐市でも館があるところを「垣野」と名付けたのではないかと推測しています。後に、両市が合わせて「柿野」と変更したと思います。
日本武尊も兄のことを気にかけていたようで、大碓命に会いに美濃にでかけていることが分かりました。それは、日本武尊が賊を討ちながら牛に乗って大碓命を訪ねてきましたが、乗っていた牛が死んだので遺骸を埋め碑を建てて牛塚(牛象)としたという伝承があるからです。この出来事はいつのことかは不明です。征西の後東征まで随分長く空いていますので、この間の出来事ではないかとも考えられます。また、伊吹山に向かう途中に美濃に立ち寄った可能性もあります。
主祭神は日本武尊、他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)豊宇気姫神(とようけびめのかみ)でを祀っています。
ここは「外宮柿野明神」「西宮」とも呼ばれていました。大碓命を訪ねて、日本武尊が牛に乗ってやってきたことに因んで主祭神として祀られているようです。乗ってきた牛は死んでしまったのでそれを葬ったところが「牛塚」「牛象」と呼ばれています。現在は境内にありますが、移転されてきたためです。
日本武尊と大碓命が再会したのはいつだったか、はっきりしたことはわかりません。日本武尊が東征には兄が行くべきと父天皇に進言したのを聞いた大碓命は急いで逃げたために美濃に封じられることとなりました。征西が終わり、東征に行くまでに数年間経過していますから、この間に再会したとも考えられます。また、記紀には書かれていませんが、この間は四国へ征伐に行ったとも考えられます。四国遠征の後に日本武尊が美濃に出かけ再会したとすると、 日本武尊は再び都に戻ってから伊勢国に向け出発することになります。これでは都と美濃を往復したことになります。合理的ではありません。東征の帰路、信濃から尾張に向かうときに美濃に向かったとも考えられます。しかし、大碓命がいる美濃は帰路(下街道)から大きく離れているため無理があります。最も自然なのは、伊吹山の神と戦う前に、少し北に寄り道をし、再会したのではないかと思っています。
祭神は大碓命、猿子大神(ましこおおかみ)、門之宮(かどのみや)大神です。猿子大神と門之宮大神はそれぞれを祀る社がありましたが、現在は清瀬神社に合祀したようです。
「内宮柿野明神」「東宮」とも言われていました。ここが大碓命がひっそりと住んでいた館があったところではないでしょうか。岐阜県神社庁が公開している由緒を見ると「字戸立の渓谷に四方巌にて戸を廻らしたる如き所有り」とされ、そこが館跡のようです。後に大碓命の霊を祀ったのが始まりのようです。
祭神は立野明神(たてのみょうじん)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、大山祇神(おおやまずみのかみ)です。
社伝によると、日本武尊や大碓命が御在世の時に常に持っていた剣や弓矢を納めて社を建てたとされています。この地域には大碓命の住居があったことが知られており、また日本武尊の由緒もあります。さらに、征西に同行した美濃弟彦の出身地でもあるようです。「太刀矢」は「立野」から変わったと言われています。
祭神は伊弉冊命(いざなみのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、菊理姫命(くくりひめのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)です。しかし、大碓命と日本武尊がまつられているとも言われています。
白鳥神社由緒
郷社 白鳥神社 明治四十年三月二十七日指定
祭神 日本武尊 神体三躯有り木を用いて之を刻む
その中央 稲日太郎媛 母上
右 大碓尊 兄 即ち日本武尊是なり
左 小碓尊 弟
景行天皇の皇后 稲日太郎媛御宇大碓尊小碓尊弟の小碓尊東征の途中病にて二十歳で逝去せらる。その後、大碓尊景行天皇の命を受け東征の為出発途中伊勢神宮に寄られ倭姫命より剣と明玉を受けられ二年有余各地の賊を静め都への帰路武宣都(むぎつ)白鳥の地に立ち寄られる折 近江国伊吹山の賊を夷らぐ其の折毒矢が当り武宣都白鳥の地へ帰られ崩御せらる。(二十五才)大碓尊の遺言により御三躯を奉じ永くこの地に祭典を行なう。
時景行天皇(西暦三四五年一四〇五年 大和時代一五八二年前)
注 東征記録(日本武尊東征)竹下光彦著書による
他に美濃地域で日本武尊を祀る神社
主祭神は倭建尊(やまとたけるのみこと)です。
もとは「垣野明神」と称されていました。猿投山に大碓命が祀られ、同時にここに小碓命が祀られたと伝えられています。山県市の柿野は垣野だったかもと推測するもとになったところです。ここも山県市と同じ柿野という地名で、これは大碓命つながりと思われます。「垣野明神」の名から、もとの地名は「垣野」だったようです。この神社は仲哀天皇のころの創始とされ、大碓命を祀る猿投神社と同時期になります。
『日本書紀』東征前の天皇の言葉の中に日本武尊を天皇の後継者として認める記述があります。
「亦是天下則汝天下也、是位則汝位也。」
「天下はお前のものだ。(天皇の)位というのもお前の位ということだ。」
『古事記』では息子の荒々しさを恐れ、父天皇は子を疎んじるのですが、『日本書紀』では褒め称えているのです。
『日本書紀』にはそのことが日本武尊の容姿と父天皇の願いとに分けて書いています。
<容姿>
容姿は端正
鼎(重い鍋)を持ち上げるぐらい力が強い
雷電のように勇ましい
<父の願い>
「この天下はお前の天下だ。天皇の位もお前のもの。だから深く考え、悪心がないか心の中を探り、叛くようだとわかれば、時には武力を示すことだ。しかし、従う者には徳をもって対処しなさい。武力を行使しなくても自然と従わせるようにするのがよい。言葉巧みに、荒々しい神を鎮め、武力で悪い鬼を追い払え。」
『日本書紀』によると
妃 両道入姫皇女(ふたじいりびめのひめみこ)[布多遅能伊理毘売命 記]
子 稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君・武部君の祖
子 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) [帯中津日子命 記]
第14代仲哀天皇
子 布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)
子 稚武王(わかたけのみこ)
妃 吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)
ー 東征の副将軍 吉備武彦の娘
祭神は天照大神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと 仲哀天皇 日本武尊の子)と穴戸武媛(あなとのたけひめ)が合祀されています。
崇神天皇の時代に豊鋤入媛が天照大神を祀る地を探して各地を回っていた時、紀伊の奈久佐浜宮からここに遷し祀った名方浜宮と伝えられています。
「穴門」はかつて瀬戸内海にあった内海の「穴戸」で山の上から眺めることができたと伝えられ、また、本殿横の神窟からつけられたともいわれています。
子 武卵王(たけかいごのみこ) [建貝児王 記]
子 十城別王(とおきわけのみこ)
ー伊予別君(いよのわけのきみ)の祖
妃 弟橘媛(おとたちばなひめ) [弟橘比売命 記]
ー穂積忍山宿禰(ほづみのおしやますくね)の娘
子 稚武彦王(わかたけひこのみこ) [若建王 記]
ー須売伊呂大中日子の父、迦具漏比売(応神天皇の妃)の祖父。
子 武田王(たけだのきみ) 『先代旧事本紀』による
-丹羽建部君の祖
妃 宮簀媛
ー尾張国造 乎止與の娘 -東征同行者 建稲種命の妹
子 武田王(たけだのきみ) 『ホツマツタヱ』による
-丹羽建部君の祖
子 佐伯命(さえきのみこと)・佐伯王(さえきのきみ)
-三河御使連(みかわのみつかいのむらじ)の祖
記紀や『熱田太神宮縁起』などによっても、日本武尊と宮簀媛との間に子はいません。しかし、『熱田神宮史料 縁起由緒続編』によると、東征後に日本武尊が氷上にて宮簀媛と滞在しているときに宮簀媛は懐妊したようで、尊の崩御後に皇子を出産したことになっています。その皇子は現在の笠寺の南に棄て、その場所を棄所明神と祀ったと書かれていますが、笠寺にこのような神社は見当たりません。
神社のある場所は武田王の館跡です。景行天皇は日本武尊の皇子である武田王をここに封じ、土地の開墾にあたらせました。これは宅美神社の社伝に記載されています。
社伝ではこの地に武田王を祀る社があったのですが、後にここに宇佐八幡宮を勧進し合祀したそうです。戦国時代の武将で甲斐の守護となった武田晴信が本殿を造営したと書かれています。祭神は仲哀天皇や武田王です。
『古事記』などによると
妃 布多遅能伊理毘売命(ふたじいりびめのひめみこ)
子 帯中津日子命(たらしなかつひこのすめらみこと)
ー第14代仲哀天皇
妃 弟橘比売命(おとたちばなひめ)
ー穂積忍山宿禰(ほづみのおしやますくね)の娘
子 若建王(わかたけるのみこ)
妃 布多遅比売(ふたじひめ)
ー淡海国造の祖の意富多牟和気の娘
祭神は日本武尊、稲依別王命、大国主大神、事代主大神です。
社伝では日本武尊が東征の帰路淡海国造の祖 意布多牟和氣の娘布多遅能伊理比売を娶(めと)り、稲依別王命が生まれたとしています。景行天皇46年に稲依別王命が父日本武尊を大神とともに祀りました。
伊吹山を下り、米原から琵琶湖の東を南下して都に向かった途次のことと思われますが、この時はすでに病になっているため、妻を娶(めと)ることは無理ではなかったかと思われます。妻を娶ったのは伊吹山での戦い以前の出来事かもしれません。
滋賀県大津市の建部大社の末社にも日本武尊の妃が祀られています。
祭神は布多遅比売命 で日本武尊の妃の一人です。
子 稲依別王(いなよりわけのみこ)
祭神は建部稲依別命で日本武尊の子の一人です。
妃 大吉備建比売(おおきびたけひめ)
-吉備建日子(きびのたけひこ)の妹
子 建貝児王(たけかいこのみこ)
妃 山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)
子 足鏡別王(あしかがみわけのみこ) 別名蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)
日本武尊の化身の白鳥が飛来したという伝承があります。この地は妃の玖々麻毛理比売の出身地です。
妃 一妻 橘媛(『先代旧事本紀』)
『古事記』では名は不明
ー息長氏からの出身
橘媛は『先代旧事本紀』にある名
子 息長田別王(おきながたわけのみこ)
-尾張国造の娘
神社の社伝によると
妃 上妻媛(かづまひめ 別名 吾妻媛)
子 巌鼓王(いわつづみのみこ)
(吾妻(かづま)神社 群馬県吾妻郡中之条町山田)
日本武尊は東征の帰路この地に至ったとき、この姫と出会い、結ばれました。
日本武尊は姫に「あなたは私の妻だから今日からは吾妻姫と名乗るがよい」と言いました。やがて別れの時となり、日本武尊は歌を残しました。
「吾妻や妹背と契る言の葉も これぞ別れの形見なるらん 」
上妻姫は子を産み大若宮彦といいます。巌鼓王とも呼ばれてここに祀られました。
日本武尊にとって忘れられない女性は何人もいたようです。その中でも最愛の妃は弟橘媛です。二人は東征に出発する前に都で出会い、駿河で野火の難にあっても離れず、強い愛で結ばれていました。しかし、弟橘媛は房総半島に向かう走水の海で海神の怒りを鎮めるために海に身を投げました。荒れ狂った海に沈む媛の姿は尊の目に焼き付いていました。房総に無事上陸したのちも傷心の日々を過ごすこととなりました。やがて時が過ぎ、その後も幾度かの戦いをした日本武尊は帰路碓氷の峰で再び寂しさがこみあげてきました。「吾妻はや」媛への想いを断ち切ることができませんでした。能褒野で白鳥となったのちも弟橘媛の姿を追い東の空を舞っていたと伝えられています。