しかし、中央の勢力に対抗して反乱を起こす者たちが日本各地に多くいました。その者たちは、土蜘蛛(つちぐも) 熊襲(くまそ) 蝦夷・毛人(えみし) 鬼(おに) 悪神(あくしん) 賊(ぞく)などと呼ばれ、"まつろわぬ者たち"(権力者に従わない者たち)とされていました。
"まつろわぬ者たち"には悪いイメージがついていますが、彼らは権力者(覇者)から見て抵抗する者たち(覇わぬ者)=滅ぼすべき敵だったからです。逆の立場から見れば、権力者は地域に侵攻してきた征服者です。まつろわぬ者たちと言われていますが、彼らの中には地域にとってのリーダー、故に地域を守り、征服に屈しない強い意志を持った者たちもいたのです。地域に伝わる伝承は、権力者側の立場に立って語り継がれてきており、実際の「抵抗者」の姿は違っていたと思われることがあります。
大和朝廷は領地を拡大し、鉄などの産物を確保するために、次々と土地や人民を征服していきました。これを正当化するためには権力者にとって都合の良い、いわゆる大義名分を創る必要がありました。それが鬼退治など征伐されて当然の伝承となって存在しているとも言えます。歴史はその時代の権力者によって作られていくと言われ所以かもしれません。
景行天皇の西征
日本武尊の征西以前、景行天皇は自ら九州に遠征し熊襲を征伐しました。九州の広範囲にその伝承地があります。特に熊襲の本拠地と思われる鹿児島にもその足跡が見られます。福岡県田川市の白鳥神社は日本武尊が熊襲征伐のために滞在したところですが、景行天皇が以前この地の土蜘蛛らを征伐したところでもあるのです。この後、景行天皇は九州東海岸沿いに南下し、宮崎、鹿児島、熊本の順に行幸しています。
都にもどった天皇
『日本書紀』 以降 囲み内の濃い青色文字は『日本書紀』口語訳
景行天皇19年(西暦89年) 9月20日
天皇は日向から帰ってきました。
景行天皇は大和朝廷に従わなかった熊襲を討つため、景行天皇12年8月から日向(九州南東部)に遠征していましたが、熊襲を成敗して大和の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)に帰って政務を行っていました。
右 景行天皇陵・渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん) 奈良県天理市渋谷町GoogleMap
以下 案内板の原文・・・・・・・・・・・・・・・・・
纒向・日代宮跡(マキムクヒシロノミヤアト)
紀元七百三十年、第十二代景行天皇・大足彦忍代別命(才才タラシヒコヲシロワケ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との間に生まれた日本武尊(ヤマトタケル)である。景行天皇の業績で注目すぺきことは、日本の国の真の歴史並びに天成(アマナリ)の道(宗教・政冶の理念)を子々孫々に遺すべしとの日本武尊の遺言に従い、五・七調の神代文字で記された秀真伝(ホツマツタエ)文献を、三輪君の祖となる大直根子(オオタタネコ)に命じて編纂させ、後世に遣したことである。 穴師坐兵主神社
武内宿禰の報告
『日本書紀』
景行天皇25年(西暦95年) 7月3日
景行天皇は武内宿禰(たけうちのすくね)をよんで北陸地方や東国の様子、また百姓の消息を見てくるように命じました。
武内宿禰は天皇の命で全国の情報を収集して帰ってきました。そして、次のように東国の情勢を天皇に報告しました
『日本書紀』
景行天皇27年(西暦97年) 春2月12日
武内宿禰が東国の各地を視察して帰ってきました。そして、天皇に報告しました。
「東国に日高見国(ひたかみのくに)があります。人々は男も女も髪を「みずら」結びし(左右に分けて束ね耳上で結ぶ-埴輪に見られる)、体に刺青(いれずみ)を入れていて勇ましいです。この人たちを蝦夷(えみし)といいます。蝦夷が住んでいる土地は肥えているので、奪い取ってしまうべきです。」
『日本書紀』
景行天皇27年(西暦97年) 8月
熊襲が再び反抗して領地を拡大との情報が入りました。
景行天皇の征西から12年後のことです。熊襲がまた騒ぎはじめました。
そのため、熊襲を討つのが急務となりました。
北陸征伐
九州征伐の前に北陸地方の賊退治に大碓・小碓の二人の兄弟が派遣されたという伝承があります。
越前町織田には越前国二之宮剣神社がありますが、日本武尊との関係はありません。
敦賀市の氣比神宮にも日本武尊が祀られています。日本武尊が来たとすれば、福井県の剣神社への遠征前後に立ち寄った可能性があります。東征の帰路、甲斐国で日本武尊は吉備武彦を越国(こしのくに:福井~新潟あたり)に派遣していますが、その事が関わっているのかもしれません。
『日本書紀』
景行天皇27年冬10月13日
天皇は日本武尊に熊襲を討つよう命じました。この時日本武尊はまだ16歳でした。
日本武尊は家来たちに尋ねました。
「私は弓の名手を連れて行きたいと思っているが、どこかに弓を射つのが上手い者はいないだろうか。」
これを聞いた家来が申し出ました。
「美濃の国に弟彦公(おとひこのきみ)という弓の名手がいます。」
日本武尊は葛城の宮戸彦(みやとのひこ)を美濃に行かせ、弟彦公を連れてこさせました。弟彦公は石占横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子稻置(たごのいなき)、乳近稻置(ちちかのいなき)らを伴ってやってきました。
*九州征服前は日本武尊ではなく小碓尊(おうすのみこと)または日本童男(やまとのおぐな)と呼ばれていました。
*景行天皇27年は西暦97年とするようですが、この西暦年は正しくはないようです。実は古代の天皇在位年や生没年は西暦で正しく表すことができません。神武天皇の即位年をBC660年にしていることから天皇の年齢がありえない数値となってしまうためです。そのため、天皇は1年に2歳年を取るとも言われているので、その計算で数値を無理やり合わせようとしましたが、別の矛盾も生じてしまいました。天皇在位年や誕生年(年齢)と西暦年を対応させることには矛盾が生じるため解決しないと考えています。
征西を命じる
天皇の命令で、皇子の小碓尊が熊襲征伐のため派遣されることになりました。この時小碓尊(兄に代わり天皇の後継者となっていたので「尊」をつけています)はまだ16歳でした。
『古事記』には 「其御髮 結額也」とあり、小碓尊は髪を額のところで結っていたことがわかります。これは当時の少年がしている髪型だったと理解されています。
*征西出発時に小碓尊が16歳という年齢だったかどうかは実は不明です。別ページ等でも触れましたが『日本書紀』に書かれている日本武尊の生年、没年齢に矛盾があるため信ぴょう性が低いのです。もしこの年齢が正しいとして、16歳はそんなに幼くはないのではないかと思われます。つまり、成人した勇猛な青年だったと思われるのです。戦国時代ならば15歳ごろ元服し、武将として戦に参加し命を懸けて戦っています。
*小碓には兄の大碓がいましたが『古事記』では、朝夕の大御食(おおみけ)に大碓が姿を見せないことが災いを招きます。美濃国の国造の娘が美しいと評判になり景行天皇は大碓を派遣したところ、その評判は本当で、大碓は美しい姉妹に心惹かれ自分のものとしてしまいました。そして、天皇には別の娘を替え玉として差し出しましたがこれを見破られてしまいました。このことから顔を出せないでいたのです。そこで景行天皇は小碓に教え諭すように言いました。事情を知っていた小碓は父が怒っていると思いました。そこで代わりに罰を与えようとしたのです。小碓は大碓が厠に入るところをつかまえて素手で大碓の手足をちぎってから殺してしまったと報告しました。そんな小碓の荒々しい性格から父に恐れられ、疎まれ、征西を命じられたのです。この時、小碓にはわずかな従者しか与えられず、征西へと旅立つのです。
このような事情は『日本書紀』には書かれていません。むしろ息子小碓尊は選ばれた勇者として描かれています。
また、景行天皇は大碓を美濃に送って治めさせることにしました。大碓は現在の岐阜県山県市から土岐市、愛知県豊田市に足跡を残していますから、小碓に殺されてはいませんでした。『古事記』はなぜか早くに兄大碓を消してしまいました。
しかし、これは小碓の優しさが描かれているのではないかと思うのです。事情を知っている小碓は父の怒りを兄の大碓に伝えました。怯える大碓に小碓は逃げるように助言したのではないでしょうか。大碓は急ぎ都を出ました。そのため大御食には出られません。小碓は父に嘘を報告しましたが、父はそれも分かっていました。日ごろの様子を見ていて大碓と小碓の兄弟がとても仲がいいことを知っていたからです。そのため、二人の思いを理解し、大碓を許すことにしたのでしょう。
小碓尊と対面した倭姫命は小碓尊に衣装を授けました。これは女装のための衣装です。この時、強敵熊襲の首領に立ち向かうための作戦を伝えたのかもしれません。
九州の強者集団 熊襲
熊襲が『日本書紀』に初めて登場するのが景行天皇の征西の時です。景行天皇12年7月に熊襲が大和朝廷にそむいて貢がないことが書かれており、そのため天皇自らが九州に遠征し賊らを征伐しています。しかし、この熊襲は簡単には征伐できないほどの強者ぞろいだったと書かれています。大軍を送り込むと農民はいなくなってしまうと嘆く景行天皇の言葉もあります。正面から戦いを挑んでも負けてしまうと言うことでしょう。そこで、景行天皇は一計を案じます。
景行天皇が征伐したのは大隅地方を拠点としていた熊襲です。熊襲の八十梟帥(やそたける)で名は厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)です。市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)という娘がおり、この二人を騙して味方にし、征伐したのです。力ではなく知恵の勝利だったということです。これは小碓尊にも受け継がれます。
その後再び熊襲が背いたので天皇の皇子小碓尊が派遣されることになりました。小碓尊が征伐する熊襲は川上梟帥で別名は取石鹿文(とろしかや)です。この名前が似ていることから、小碓尊と熊襲との戦いは鹿児島県中部から大隅地方のどこかで起こったのかもしれません。
その後、仲哀天皇妃の神功皇后が征新羅の前に軍を派遣して熊襲を征伐しました。これ以降は熊襲が反乱を起こすことはありませんでした。(『天皇紀』wikipedia)
熊襲の後登場するのが隼人です。隼人は682年(天武天皇11年)7月に初めて登場し、一般的に朝廷に対して従順だったとされていますが完全に掌握しているわけではありませんでした。
隼人は「早い人」の意味を持つようで、九州は大和の南方にあり、四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の南をさす朱雀=鳥に当たるので隼(はやぶさ)としたとも言われています。奈良時代、720年に大和朝廷に反抗する隼人の乱が起こりました。当時朝廷は律令制を進めており、713年(和銅6年)九州南部の支配体制を強化するために大隅国を置きました。しかし、土地の人たちの不満が高まり、721年(養老4年)2月29日に大隅国司の陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を九州南部に拠点を置く隼人が殺すという反乱が起こりました。これを朝廷は同年3月4日に大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人持節大将軍、笠御室と巨勢真人を副将軍として1万人以上の兵を派遣して1年半かけて制圧しました。
高さ約3mほどの塚があり、その上に五重の石塔(中央高さ6.6m、他5.5~5.6m)が3基あります。また、この周りには武人(四天王)と思われる石像が4体立っています。
この塚が造られた訳は諸説あることが分かりました。大和朝廷との戦いに敗れた熊襲・隼人の祟りを鎮めるため、大隅国分寺跡の六重石塔に似ているのでそのころ造られた、付近に会ったものを明治時代にここに寄せ集めたなどです。その後の調査で、正国寺より前の寺院の跡の可能性や隼人の乱の慰霊のためなどと建立目的が言われるようになりました。
隼人の乱に際し大和から南九州に派遣された将軍大伴旅人ですが、2019年4月1日に突然脚光を浴びることになりました。それは元号が平成から令和に改元すると発表されたからです。この元号「令和」の出典は万葉集で、730年(天平2年)正月13日に福岡大宰府で行われた「梅花の宴」の時に詠まれた歌の序文にある文字を組み合わせているからです。
大伴旅人は将軍として隼人征伐のため大隅国に派遣されていましたが、藤原不比等が亡くなり、戦の途中で大和に戻ることになりました。その後は副将軍らによって隼人は征伐されました。
帥(そち)の老の宅に萃まりて宴会を申きき。時に 初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す
熊襲の首領
小碓尊の征西のときの熊襲の首領は通称で熊襲健(くまそたける)と呼ばれていました。
名は 川上梟帥(かわかみたける)といいます。別名は 取石鹿文(とろしかや)です。(『本荘の歴史』も参考にしました)
土蜘蛛
『日向国風土記』にも土蜘蛛が登場
天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に地上界に降りて治めるよう命じました。瓊瓊杵尊が多くの神々とともに降りたのが日向の二上峯です。降りてきても霧が深く辺りは暗くなって先が見えませんでした。この時、この地の土蜘蛛の大鉗(おおくわ)小鉗(おくわ)の二人が現れ、瓊瓊杵尊が持っている千穂をモミにして霧の中にまくと霧が晴れると進言しました。その通りにするとすぐに晴れ、地上界に降りることができました。
大和朝廷の力が九州に拡大した際、この地を治めていた首領たちは朝廷軍の威光に畏れ、抵抗せず従順になったという出来事があったと思われます。天孫降臨が朝廷による九州征伐という見方をすれば、彼らは格が低い者たちであったので土蜘蛛と総称して呼ばれていたのでしょう。
御所市の葛城一言主神社には土蜘蛛の遺骸が埋められており、御所の蜘蛛窟は土蜘蛛の住居跡と伝えられています。神武天皇の東征により征伐された「まつろわぬ者たち」です。
征西へ出発
小碓尊は従者らとともに出発しました。
この従者とは出発前に家来(葛城の宮戸彦)に命じて連れてこさせた弓の達人たちです。
この時代の武器は剣と弓矢でした。鎧兜を身に着けていましたが、とても重く、身軽に動くことはできません。そのため、離れたところから正確に矢を射ることが効率の良い戦いを行うことに重要でした。そのため、征西に出かけた小碓尊軍にとって、弓の達人は心強い味方でした。
また、数多くの矢を一斉に放つことも当時の戦法であったと思います。これは、東征の後、伊吹山の神と戦うため剣を尾張の宮簀媛の館に留めて出かけた際、日本武尊は山中で雹(ひょう)を浴びるのですが、これは多くの矢が一斉に放たれたことを意味していると思うのです。しかし、今回の小碓尊軍は兵の数が十分ではなく、これができませんでした。
征西に同行した達人らは次の者たちです。
弟彦公(おとひこのきみ)
弟彦公は次の者たちを連れてきました。
石占横立(いしうらのよこたち)
田子稲置(たごのいなき)
乳近稲置(ちちかのいなき)
日本武尊に従った4人の出身地は尾張氏の勢力圏内にいました。
弟彦公は東山道が通る美濃国(岐阜県南部)の出身です。
この名は尾張氏系図に二か所で見られますが、一人は乎止与命(尾張氏系譜11代)の先々代(同9代)にあたり、もう一人は建稲種命の孫(同14代)です。尾張氏系図の9代が征西に従軍した弟彦公とすると、東征に従った建稲種命の曾祖父にあたり、若き日本武尊から見れば随分年輩になるのではないでしょうか。この点を考慮しているのかは不明ですが、小椋一葉著『天翔ける白鳥』では弟彦を「尾張氏の8代に当たる人物」とし、兄弟が筑紫豊国国造の祖でもある大原足屋であり「筑紫が弟彦の手柄によって得た地」と解説しています。
また、第11代垂仁天皇の皇子に鐸石別命(ぬでしわけのみこと:和気氏の祖:景行天皇の母日葉酢媛(ひばすひめ)の妹淳葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)が母)がいます。その曾孫に弟彦の名が見えます。垂仁天皇の皇子が第12代景行天皇で鐸石別命と景行天皇は母は異なる兄弟です。鐸石別命の曾孫と景行天皇の皇子日本武尊(征西時16歳)では微妙な年の差がありますが、可能性はなくはないと思います。鐸石別命は和気清麻呂で有名な和気氏の始祖となっており、岡山県の和気神社に祀られています。そして、そこには弟彦公と同一人物とされる弟彦王が祀られています。弟彦王は神功皇后の三韓征伐の際に忍熊(おしくま)王を平定した功績により現在の岡山県和気郡を治めることとなったと言われています。すると、弟彦公は日本武尊に仕えた後、子の仲哀天皇の皇后であった神功皇后にも仕えたことになります。しかし、この弟彦王は皇族で、日本武尊に仕えた弟彦公も皇族となり『日本書紀』にある美濃出身が説明できません。
『愛知県史』では「弟彦公は尾張氏の系譜に弟彦命とある人物でその祖父建諸隅命の妹は崇神天皇の妃大海姫であるからその年代も景行天皇の御代に當ってゐる。(原文のまま)」と書いています。
石占横立の出身地「石占」は伊勢国桑名(三重県桑名市)にありました。
石占は聖武天皇が東国を行幸されたときに石占頓宮がおかれたところで、三重県桑名市にありましたが、その具体的な場所は分かっていません。一説には日本武尊が東征の際立ち寄った尾津神社がある付近ではないかとも言われています。
田子稲置の出身地「田子」は尾張国愛智(名古屋市熱田区)と言われています。
名古屋市瑞穂区に田光町(たこうちょう)という地名があります。この地名は田子稲置が開いた荘園「田光荘」に関係しています。(wikipediaより)
乳近稲置の出身地「乳近」は尾張国に属し海に面した地でした。
一説として乳近は愛知県大府市北埼辺りを指すと言われています。北埼はもと北尾と近埼(ちがさき)が合併したところで、町名もそれぞれの一字を合成しました。この近埼が乳近であったと言われています。(愛知県大府市ホームページより)
ここに登場する人物は皆尾張地域と関係がありました。そのため、小碓尊が弟彦公らと合流したのは伊勢神宮で倭姫命と会った後であろうと思います。東征時は伊勢神宮から北上し桑名に向かっていますが、征西時は一旦大和に戻り、軍を整えてから再出発していると思われます。つまり、小碓尊は大和と伊勢神宮を往復しています。弟彦公らは全員そろってから、大和にもどる小碓尊と伊勢で合流したか、九州までは大和からの小碓尊本隊と尾張からの弟彦公らの援軍は別行動で向かい、九州に入ったところで合流したと考えられます。
弓の達人の弟彦公を召喚するため、小碓尊は葛城の宮戸彦に命じたのは、尾張氏が葛城地域と関係があることの証かもしれません。
日本武尊の時代は尾張国造として乎止与命(おとよのみこと)が治めていました。その子建稲種命(たけいなだねのみこと)は東征に従軍し、娘の宮簀媛は日本武尊の妃となります。
日本武尊の征西、東征は尾張氏の活躍なしでは成功しなかったとも言えます。つまり、景行天皇の時代、大和朝廷と尾張氏は深くつながりをもっていたことが考えられます。このつながりは、尾張氏の祖先に遡るものです。一説では大和の葛城近く高尾張邑を本拠とし、神武天皇に仕えていた一族が濃尾平野に移って勢力基盤としたとされています。
名古屋市守山区にある志段味(しだみ)古墳群は現在古墳公園として整備されつつあります。この古墳群の中に4世紀前半に造られたとされる古墳があり、その中の二つの古墳(白鳥塚古墳と尾張戸神社古墳)は墳丘に石英が敷かれていたことが大和の古墳との関係を示すとして注目されています。
日本武尊が亡くなってから景行天皇が建部を置いたところです。ここには日本武尊の一族と勇敢な従者らが祭神として祀られています。
『日本書紀』
景行天皇27年12月
熊襲の国に到着しました。
この国の人たちの様子や地形の様子を視察しました。
熊襲にはここを治める勇者がいました。名前は取石鹿文(とろしかや)です。またの名は川上梟帥(かわかみたける)といいます。川上梟師は親族を集めて宴会を開こうとしていました。
そこで、日本武尊は髪をほどき、童女の姿(女装)になって密かに川上梟帥の宴会にもぐりこみました。
小碓尊一行は現在の大阪から船出し、瀬戸内海を航行して九州北部に到着し、景行天皇が熊襲征伐で南下した道を再び通ったと推測しています。
移動手段
すぐに、馬を利用したのではと考えがちです。しかし、一説によれば一般的に家畜用馬が帰化人らとともに朝鮮半島から渡ってきたのは4世紀末の古墳時代中期以降です。交通手段として使われたのはもっと後の時代とされています。日本書紀にも風土記にも景行天皇の時代に馬を人が乗るための交通手段として利用したという記述は見られません。このことを無視してはいけないと私が講師をつとめた講演会「日本武尊を追いかける」で参加者の方から指摘されたことがあります。古来から家畜用の馬はいましたが、それらは主として農耕、運搬に利用されていました。馬が公的にも交通手段として利用されていたのは飛鳥時代の大化の改新以降のことという指摘です。そのため、小碓尊軍は船または歩いて移動したと考えるべきとのご意見でした。
日本武尊が川や海では船を利用したということには問題はありません。実際、弥生時代以前から交通手段として船が使われています。馬が人を乗せるために利用されていたかどうかが問題です。調べてみると、馬が乗るために利用されたのは飛鳥時代以前、古墳時代後半とも言われていることが分かりました。ただ、日本各地の伝承の中に、古墳時代前半でも馬が交通手段として使われていたと伝えられていることがあります。馬の利用は古墳時代後半以降とすれば、それ以前の馬の利用にふれた伝説や言い伝えは間違っていることになります。(それは伝説なのですから事実を伝えているとしても、それが真実かどうかは問われてはいませんので間違っていても問題ないのかもしれません。)馬の利用については、記録がないだけで、木曽馬のような日本にもともといた馬が古代から人を乗せる目的で利用されていたはずと唱える人もいます。しかし、この馬も大陸からやってきた馬が日本で他種と交配されて生まれたもので、木曽馬もこれに当たるそうです。つまり、大陸から入ってくる以前には乗馬用の馬はいなかったとも考えられます。
太田切川(長野県)
馬ではなく牛を乗り物として利用したとする伝承があります。
馬の利用に関してはより専門的な分析が必要でしょう。あくまでも伝承として先に進みたいと思います。
小碓尊は北九州で美濃の弟彦らと合流しました。
日本武尊を祭神としています。
熊襲征伐の折、小碓尊一行が立ち寄ったと伝えられています。また、神功皇后も戦勝祈願したと言う言い伝えがあり、平安時代に社が建てられました。
熊襲征伐のために建てた仮宮を訪れた小碓尊は砧姫(きぬたひめ)という娘を好きになりました。そして、ここに滞在中は身の回りの世話をさせていました。小碓尊は熊襲征伐のため九州の東海岸沿いに南進し見事平定しました。
熊襲を征伐してから再びここに戻ってくると砧姫は子を宿していました。しかし、日本武尊は都に戻らねばなりません。別れの時、日本武尊は砧姫への変わらぬ愛を誓って仮宮に銀杏の木を植樹しました。
日本武尊の東征後、尊が亡くなったのを知った砧姫は仮宮だったところに祠を建てました。
祭神は日本武尊、景行天皇、大碓命です。
小碓尊は九州に入ってしばらくここに滞在しました。さらにここから少し離れた福岡県水巻町の八剣神社に移りました。
祭神は日本武尊、宮簀媛、須佐鳴(すさのお)尊です。
村長(むらおさ)の田部今朝麿(たべけさまろ)が村人達と小碓尊らを温かく迎えました。この地には都に帰るときも立ち寄りました。村人たちは仮宮を建てて守護したと言われており、小碓尊はこれを大変喜び、中山(この神社の地名)や植木(御山神社の地名)といった地名がつけられたそうです。
日本武尊と宮簀媛(みやすひめ)、素戔嗚尊が祀られています。熊襲征伐の折の小碓尊軍の休息地(陣所)であったようです。
案内板には以下のように書かれています。
「小碓命(日本武尊)が熊襲征伐の命を受け、行軍の途次、今朝麿(田部宮司家始祖)の案内で中山剣岳に登られ国見をされて御出発後、この地にて休息され家来の弟彦公(尾張氏)に命じ、壇を築き一株の松を植えて後世の験とされた。名付けて植木といい、松樹生い茂り所を植木の森(御山)と号し、その里を植木の里という。」
伊弉諾・伊弉冉を祭神としています。傾向天皇の平定8年後にやってきた小碓尊は土地の有力者大兄彦(おおえのひこ)が献上した弓矢をこの地に鎮祭したとあります。戦いに千度勝つという意味を込めて千勝社とも呼ばれているそうです。
闘いの相手は土蜘蛛と熊襲
伝承地1 宮崎県延岡市での戦い
伝承地2 宮崎県西都市の伝承地
伝承地3 鹿児島県霧島市隼人町での戦い
伝承地4 鹿児島県霧島市牧園町の伝説
伝承地5 鹿児島県霧島市国分中央の伝説
伝承地6 佐賀島佐賀市大和町での戦い
➡➡ は侵攻順を示す
➡小碓尊は九州北部(佐賀県中心)で熊襲と戦った。
➡小碓尊は九州を時計回りに侵攻し、九州南部(鹿児島県中心)で熊襲と戦った。
土蜘蛛との戦い伝承地1-福岡県田川市猪国
元は帝王山に鎮座していましたが、887年現在地に遷り「王大子宮」と呼ばれていました。これは景行天皇が九州行幸の折に土蜘蛛の土折・猪折(つちおりいおり)を征討したことによるものです。皇子小碓尊もここに派遣され土蜘蛛らを討ちました。
弟彦公をこの地で待っていたと伝えられています。
筑前から築後に抜ける猪膝街道はかつての裏街道でした。猪国の白鳥神社前を過ぎてしばらく歩いたところにあります。この井戸で猪折(いおり)を討った太刀を洗ったと言われています。干ばつの時も枯れることがなかったそうです。
土蜘蛛との戦い伝承地2-福岡県田川市白鳥
祭神は日本武尊、景行天皇、大碓命です。伝教大師最澄が唐からの帰朝の折、海上の白鳥を見ました。船内で眠っていると夢の中にこの白鳥が現れ、日本武尊の化身と言い、大師を守護するので高羽川沿いのところに日本武尊を祀るよう告げました。帰国した大師は九州を訪れると、再び白鳥が現れ、伊田の山に下りるのが見えました。そこはもともと景行天皇や日本武尊が熊襲征伐のための陣を置いた霊地だったので、白鳥大明神として社を建てて日本武尊を祀りました。小碓尊は熊襲征伐の前にこの地で土蜘蛛の麻剥(あさはぎ)を討ちました。
熊襲征伐
『日本書紀』
宴会を楽しんでいた川上梟帥は女たちの中にひときわ目立つ童女の姿を見つけ、手を取って隣に座らせました。そして、お酒を飲みながら戯れていました。夜が更けても川上梟帥はお酒に酔っていました。この時とばかりに小碓尊(日本武尊)は衣服の裏に隠し持っていた剣を抜き、川上梟帥の胸を刺しました。
胸を刺された川上梟帥でしたがまだ死んではいませんでした。頭を床につけたまま「言いたいことがあるからしばらく待ってください」と言いました。尊がとどめをささずにいると、川上梟帥が続けて言いました。
「あなたはどなたですか。」
尊は「私は大足彥天皇(おおたらしひこのすめらみこと)の子で名は日本童男(やまとおぐな)だ。」
川上梟帥はさらに言いました。
「私はこの国では強力の持ち主で、人々は私の力に勝てず、逆らう者はいません。私はこれまで多くの武人に会ってきましたが、あなたのような人には会ったことがありません。だから、もし許されるのであれば、私のような賤しい者ですがこの口で尊号を奉じさせてもらえないでしょうか。」
尊は言いました。
「聞こう」
すると川上梟帥は言いました。
「これよりあなたは日本武皇子(やまとたけるのみこ)と名乗ってください。」
この言葉を聞くと、尊は川上梟帥の胸を突きさして殺しました。これが「日本武尊」と呼ばれる所以です。
この後、弟彦に一族の討伐を全滅させました。
『古事記』『日本書紀』ともに熊襲との戦いは小碓尊が女装して近づき、剣で刺し殺したと書かれています。この様子を伝える絵馬を三重県の加佐登神社、香川県の白鳥神社、福岡県の白鳥神社で見ることができました。
『古事記』では以下のように書かれていますが、下線部が記紀で大きく異なる部分です。『古事記』により、熊襲建の家は厳重に警備されており、これを征伐するには少人数の小碓尊軍が正面からぶつかっても負けてしまうことが分かります。そこで、細かな作戦を立てるのですが、この時には女装作戦は確立していました。それは倭姫命が小碓尊に衣裳を授ける時点で、女装作戦が考えられていたと思われるからです。この作戦は倭姫命の考えた作戦かもしれません。あるいは、小碓尊が自ら考えた作戦を倭姫命に伝え、衣裳を授けてもらったとも考えられます。
『古事記』
九州の熊襲建は大きな家を新築したところで、新築祝いの宴が催されるところでした。家の周りは軍が三重に取り囲んでいて、室を作っていました。そして宴会の食事の準備をしているところでした。そこで、宴会が開かれるのを待つことにしました。祝宴が開かれることになった日、小碓命は少女のように髪を結い、叔母の倭比売命からもらった衣を着て宴にいる女たちの中に紛れ込みました。熊襲建兄弟は美しい娘をみつけると間に座らせました。この時、小碓命はここぞどかりに懐に持っていた短刀で兄の胸を一気に刺して殺してしまいました。それを見ていた弟の建は外に走って逃げようとしましたが部屋の梯子(はしご)の下に追い詰めると小碓命は弟の背中の皮をつかみ、刀を尻から刺しました。弟は息絶える前「まだ刀を抜かないでください。あなたはどなたですか。」と尋ねました。小碓命は「我は大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)」の子で名は倭男具那王(やまとおぐなのみこ)だ。おまえたちが命令に従わないと聞いておまえたちを殺せと命じられて来たのだ。」と答えました。熊襲建がまた言いました。「西方には自分たち兄弟より強い者はいないと思っていましたが大倭国にはいたんですね。できるならば、建の名(「建」は勇敢な者という意味を持つ)を献上したい。これからは倭建御子(やまとたけるのみこ)と名乗ってほしい」と言いました。言い終わったところで小碓命は完熟した瓜を切るように刀を振りおろして殺しました。小碓命はこの後倭建命(やまとたけるのみこと)となりました。
女装作戦成功の要因は美形男子だったこと
熊襲(川上梟師)との戦い伝承地1-宮崎県延岡市
宮崎県の伝説には次のように書かれていました。(熊襲征伐前なので小碓尊の話ですが伝説ではヤマトタケルノミコトと書かれていました)
行縢山に川上タケルという人物が住んでいました。タケルは里の人々から食べ物などを奪って生活していました。これを知った天皇は皇子の日本武尊に命じてタケル征伐に遣わしました。日本武尊は船でやってきて、現在の延岡市の東海(とうみ)の港から上陸しました。この時日没近かったのですが日はしばらく西の山の端にかかって沈みませんでした。日本武尊はこの山が馬に乗るときの縢(はき)という馬具の形に似ているとして「行縢山(むかばきやま)」と名付けました。また、雄岳と雌岳の間にある滝が落ちるくぼみが矢筈(やはず)に似ているとして「矢筈の滝」と名付けました。水の落ちる姿は白布を引くようにも見えるため「布引きの滝」とも呼びました。日本武尊は行縢山に近い舞野村に滞在することにし、野添というところに居を構えました。そして、ここに7日間滞在し、川上タケルを討つ作戦を考えました。
日本武尊は女装して川上タケルの館に入ると、酒宴の席でタケルを刺して征伐することができました。この後日本武尊は豊後国(大分県)に帰っていきました。里人は日本武尊が滞在していたところを武宮と呼びました。
日本武尊が熊襲と戦ったのは宮崎県の行縢山(むかばきやま)周辺だったと伝えられています。行縢山の標高は雄岳(830m)と雌岳(809m)、この山の形が馬に乗るときの防具・縢(はき)の形に似ているために名付けられました。行縢山に川上梟師(かわかみたける)の住居があったと言われています。
宮崎へ
九州北部の港から出航した小碓尊は九州の東海岸に沿って南下しました。そして、船を宮崎県延岡市の東海の港に着岸し、そこから西の山の方に向かいました。北川は大分県から宮崎県延岡市内を流れ河口で五ヶ瀬川と合流します。東海は延岡港の北にあり、その河口に位置しています。昔から交通の要衝で河川を利用して船で多くの荷物が出入りしていたと伝えられているところです。
上陸した小碓尊は行縢山麓を滞在地と決め、熊襲を倒す作戦を考えました。
祭神は伊弉冉命(いざなみのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)です。行縢山や滝をご神体として神社が建てられました。以前は行縢山三所大権現と称していました。ここを参拝したとき、狛犬の顔が滑稽で驚きました。
雄岳と雌岳の間に滝が見えます。
行縢山の雄岳と雌岳の間には幅30m、高さ76.6mの滝があります。日本武尊は滝を見て
「布引の矢筈(やはず)の滝を射てみれば川上梟師落ちて流れる」
と詠みました。これは神楽歌として延岡市の舞野神社に伝わっています。
日本武尊は熊襲の川上建と戦うためにこの地に7日間滞在し作戦をたてました。また、熊襲との戦いに勝利した日本武尊はここで祝宴を催したとされています。この時、舞が披露されたので境内には舞に関係がある扇塚が建てられています。
熊襲との戦い伝承地2-宮崎県西都市・宮崎市
宮崎県西都市や宮崎市周辺には多くの伝承地が点在しています。
日本武尊、御年神、瓊々杵尊、速玉男神、事解男神、菊理比売神、菅原道具公を祭神としています。第16代仁徳天皇の時代に日本武尊の伝承に基づき社が創建されました。
境内の案内板には以下のように書かれています。
「由緒 創立年代は不祥なるも古老の口碑によると日本武尊熊襲征伐の為西下されし時幣田川(現平田川)川口の伊食より御舟にて川を上がられ川岸の年の森に舟を寄せ給い現社地の東南の高台(現在濠跡が存す)の御山に宮居を定め暫しこの地に留まられ熊襲征伐の後再び立寄られた。」
この社伝により、小碓尊は行縢山での戦いの後、海路と陸路に分かれて南に進んだと推測でき、神社付近に上陸しました。
小碓尊らは平田神社近く、川岸の「年の森」に着岸、高台の御山に宮居を定めて滞在しました。この御山が征西軍の拠点となりました。当時はこの付近に海岸があったとされています。
地元の伝承では、大和に戻る際もここに立ち寄ったと伝えられています。
彦稲飯命(ひこいないのみこと)他を祀り、古墳の上に建てられた神社です。ここに日本武尊が熊襲梟師(たける)を刺し殺した剣を埋めたと伝えられています。別説では神武天皇の兄である彦稲飯命の陵で剣を埋めたと伝わっています。また、景行天皇の妃の御刀姫(みはかしひめ)の御陵とも伝わっていて被葬者の特定はされていません。
景行天皇高屋宮
景行天皇が、6年間滞在した「高屋宮」の跡とする候補地が3か所あります。3か所とも同じ伝承があります。ここには日本武尊も熊襲退治のため滞在したと伝えられています。ここを拠点として出陣したと伝えられています。
景行天皇他を祭神として祀っています。ここは景行天皇の熊襲征伐の際に宮が置かれたところです。後に小碓尊もこの地に滞在し、熊襲建を征伐するための拠点としました。
古墳時代前期から中期にかけての古墳が点在する古墳群です。前方後円墳や円墳などが多くあり、中でも3号墳は全長140mを超える大きな前方後円墳です。西都原古墳群に次ぐ規模であることからも、この地方に九州を治める一大勢力があり、後に大和朝廷に従ったことを物語っています。
最南端の前方後円墳です。
鹿児島県肝付町にある塚崎古墳群には日本最南端の前方古墳があります。4から5世紀の古墳が点在しており、前方後円墳が見られることから大和朝廷の勢力が及んでいたことを物語っています。
高台にあり、天照大神を祀る神社です。景行天皇が来たとき天道山の頂に天照皇大御神を祭りました。日本武尊もここを訪れ滞在しました。天下大平を願ったところと伝えられています。
景行天皇12年7月に天皇自らが九州に遠征し熊襲を征伐しています。この時熊襲と呼ばれていたのは大隅地方を拠点としていた賊です。熊襲の首領は八十梟帥(やそたける)といい、名は厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)の二人です。熊襲には市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)という娘がおり、この娘たちを騙して味方にし、征伐しました。小碓尊が征伐する熊襲は川上梟帥という名で別名は取石鹿文(とろしかや)です。この名前が似ていることから、小碓尊と熊襲との戦いは景行天皇の遠征地と同じ大隅地方から次の鹿児島県霧島市で起こったのかもしれません。
熊襲との戦い伝承地3ー鹿児島県霧島市隼人町
鹿児島の妙見温泉近くにある洞窟です。道路沿いの駐車スペースにとめて、そこから200m程山を登ったところにあります。ここにかつて熊襲が居住していたと伝わっています。第一洞窟は奥行き22m、幅10mで百畳ほどの広さがあると案内板に書かれていました。さらに奥にもっと広い穴があるようですが、現在はそこに入ることができません。熊襲の穴は日本武尊が女装して熊襲(川上梟師)を討った所で、嬢着(じょうちゃく)の穴とも呼ばれています。洞窟内は派手な絵が描かれていますが、これらは芸術家の作品らしいです。
熊襲の穴の案内板には日本武尊との戦いのことが詳細に書かれていました。
熊襲である川上梟師(たける)は武と建(共にたける)の兄弟です。二人が居住地としていた穴は千畳もの広さがあったようです。ある時石の寝台が完成し、それを祝うために九州南部の55の部族の将たちが集まり酒宴を開きました。この時、朝廷は熊襲が朝廷に貢物をしないため、小碓尊に熊襲征伐をさせることにしました。祝の宴では女たちがお酒をつぎ、盛り上がっていました。そこに女装した小碓尊が紛れ込みました。酒に酔った川上武がこの美しい娘(小碓尊)を見てそばに呼び寄せ、二人っきりで酒を飲んでいました。この時とばかりに、小碓尊は懐に持っていた短剣で川上武の背中を刺しました。これに驚いた川上梟師は「お前は何者だ」と尋ねると、小碓尊は「われは景行天皇の皇子で小碓尊だ。お前を征伐に来た。」と答えました。川上武は「あなたは私より強いから私の名をとって日本武尊と名乗ってほしい。」と言いました。小碓尊はこれを受け入れました。この時、弟の川上建が酔って日本武尊の前に現れました。そこですぐさま川上建の胸を刺し即死させました。この騒ぎを見た武将たちが女装した日本武尊を討とうとしましたが、先に刺された川上武が制止し、虫の息で日本武尊の身分を伝え、手出ししないように言いました。武将たちは熊襲の首領として絶大な権力を持っていた川上武の願いに従い、日本武尊を無傷のまま朝廷に帰しました。(この話はさらに続きますが、案内板の主要な内容を要約しながら書きました。)
小碓尊の征西は軍団と言ってもそんなに多くはありませんでした。そのため、景行天皇の熊襲征伐と同様に正面から戦いを挑むのではなく、知恵を絞って攻める必要がありました。このことは征西に出発する前に天皇から聞いていたのではないでしょうか。だから、伊勢神宮に行ったとき倭姫命は衣裳を授けたのでしょう。この時、熊襲建を征伐する作戦は決まっていたのです。このように知略を尽くして挑むのは、この後出雲でも見られます。(『日本書紀』には出雲のことは書かれていません。)
熊襲との戦い伝承地4ー鹿児島県霧島市-1
霧島市を流れる石坂川に祝橋があります。地元の伝承ではここが熊襲を征伐した地と伝えています。ここで熊襲らは酒宴を開いていたのでしょうか。そこにもぐりこんだ小碓命は見事に熊襲建を征伐したと言われています。その祝宴をあげたのもここであったのかもしれません。
九州の熊襲や土蜘蛛、東征での蝦夷らとの戦いは伝承として語られ、社伝や市町村誌などにその場所が書かれていますが、全国を見ても、祝宴をあげたことを石碑や祠を建て後世に伝えようとしているところはここ以外ありません。
熊襲との戦い伝承地5ー鹿児島県霧島市-2
昔ここには拍子橋という橋がかかっていました。現在は川はなく道端に石碑だけが立っています。熊襲(川上梟師)が橋の上で酒盛りをして、拍子をとって踊っていたことから、拍子川にかかる拍子橋と呼ばれるようになりました。川上梟師はこの近くに住んでいて、そこで日本武尊によって突き殺されたという言い伝えがあります。橋の名は川上橋となったこともあり、それが河神橋→庚申(こうしん)橋となったという説もあるようです。(石碑前の案内板より)
戦い終えて 熊本へ
えびの市にある白鳥山の中腹に鎮座しています。日本武尊と弟橘媛命が祀られています。白鳥山や霧島の山々は古来より神山とされてきました。熊襲の征伐の後、日本武尊の一行が下向したとも伝わっています。また、平安時代、霧島山に来ていた性空上人が霧島山の六観音御池の畔で法華経を唱えていると突如日本武尊の化身という老翁が現れ「我は日本武尊で、白鳥となってこの山に棲んで随分経ったが、読経に感応して姿を現した」と語ると、ここに神社を創建するがよいと告げました。そこで建てたのが白鳥権現社です。
日本武尊はこの後北上し、熊本を通過したようです。
熊本には景行天皇の足跡も見つかりました。日本武尊は景行天皇と似たルートを通過していますので、熊本から佐賀に向かったと思われます。
祭神は景行天皇、御刀媛(みはかしひめ)尊、豊国別尊です。
景行12年に熊襲が背いたため、景行天皇自らが征西に出ています。熊襲を平定した天皇は高屋宮に滞在中、日向の御刀媛を妃としました。御刀媛は後に日向国造の祖となる豊国別を高屋宮で産みました。
*『古事記』日向之美波迦斯毘売 豊国別王
日向を出発した天皇は九州西海岸経由で都に戻りました。熊本を通ったとき名石神社の地に滞在していましたが、天皇の後を追いかけてこの地にやってきた御刀媛は天皇が既に都に向けて出発した後だったことを知り、悲しみのあまり海に身を投げたところ石となりました。神社の境内にある大きな石は御刀媛と伝わっています。
日本武尊が熊本を通過したと伝えられている神社が熊本県にあります。
祭神は日本武尊、大碓命、景行天皇、御刀姫です。
詳細は不明ですが、景行天皇の滞在地とされる所に日本武尊も来て滞在・休息したのかもしれません。宮司さんに尋ねたところ、なぜ祭神が日本武尊なのかはっきりとはわからないそうですが、昔から口碑伝承として祭神がこの地にやってきたとされているとのことでした。
主祭神は日本武尊のようですが詳細は分からず、参拝していません。
熊襲との戦い伝承地6ー佐賀県佐賀市
熊本を通過した日本武尊は佐賀県に入りました。佐賀県には地名に足跡が残されていました。九州南部から北上してきたと考えるとこのような行程となるでしょう。
しかし、この行程とは別に次のような言い伝えもあります。
小津河上に住んでいた川上梟帥(熊襲タケル・建)が横暴なのを村人たちが朝廷に訴えました。小碓尊は船で平戸回りでやってきました。そして川上梟師を討ちました。そのあと有明海を松浦に向けて船出しました。
本荘の歴史
熊襲の首領の名は川上梟帥(たける)で別名は取石鹿文(とろしかや)です。
朝廷にしばしば反乱を起こしていた熊襲を景行天皇は皇子の小碓尊(後の日本武尊)を派遣して討伐させることにしました。
美濃国の弟彦公が石占横立(いしうらのよこたち)、田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちぢかのいなき)を連れてきました。弟彦公は副将として、武内宿彌(たけうちのすくね)を補佐役として小碓尊は熊襲討伐に向かいました。
小碓尊の船は長門国から海路で五島、平戸を経由して有明海の肥の前の御崎(*肥の御埼)に上陸し、ここから土地の者に案内させて現在の*西与賀付近にやってきました。さらに多布施川を遡り「*中の龍造島」というところに上陸しました。小碓尊が乗船していた船は龍造船という舳に龍頭の彫り物を飾っていた船だったようです。かつて「中の龍造島」には王子権現が祀られました。「上の龍造島」や「下の龍造島」もあり小津江の3つの島でした。そこに小碓尊の龍造船が停泊したので龍造島という名になりました。小碓尊は*小津江の西に仮殿を造ったため、その地を「本所」と名付けました。これが「本荘」「本庄」と変化したようです。
*肥の御崎 現在の長崎県長崎市野母町
*西与賀 佐賀県佐賀市西与賀町 JR長崎本線鍋島駅より南方
*龍造島 現在は埋め立てられてかつて島だったという痕跡はわかりませんが、佐賀城から南の宝琳院までにあった島が「上の龍造島」本庄の大井樋付近にあった島が「下の龍造島」と呼ばれていました。その間に「碇島」「中の龍造島」があったようです。
*小津江の西 現在の妙見神社付近と思われます。
妙見菩薩を祀る神社です。境内の案内板には、ここに小碓尊が仮殿を構えたことにより本荘の地名となったことが書かれています。
「景行天皇の皇子小碓尊(日本武尊)が龍造島(鬼丸の宝琳院附近)に上陸後、寺小路妙見杜附近に仮殿をかまえ、これを本所と称した。これが今日の本荘の名称の始まりであると伝えられている。」
小碓尊は船で川を遡り現在の神野町にある掘江神社付近に到着しました。ここで熊襲討伐の作戦を話し合ったと言われています。
景行天皇と神功皇后他を祭神としています。熊襲退治で肥前に来た日本武尊の遺徳をしのんで堀江大明神として建てられたと伝えられています。
ここからさらに上流に向かい、蛎踏去(現在の鍋島蛎久)に上陸しました。そして、保保川(現在名不明)に到着しました。到着したとされるところは鍋島蛎久の北にある嘉瀬川沿いではなかったかと思っています。嘉瀬川の上流に川上峡があり景勝地となっています。途中大和町川上は熊襲タケルが逃げ隠れた地と伝わっています。
鍋島蛎久の近く、嘉瀬(かせ)川から多布施川に水を引き入れるための石造りの樋門が江戸時代初め(1625~1623年)に造られました。ここを通った水は浄化され、農業用水や生活用水として使われました。
小碓尊は川上梟帥が親族らとともに酒宴を開いていることを知り、女装して剣を懐に隠し、密かに宴席に紛れ込みました。夜になって川上梟帥も酔って寝ていたので、彼を刺そうとしたとき、川上梟帥は突然に起き上がり「待てお前は何者だ」と尋ねました。小碓尊は「我は天皇の子、日本童男(やまとおぐな)だ」と答えました。すると川上梟帥は「国中探しても我ほど強い者はいない。しかし、皇子の如き勇ましい者に出会ったことがない。願わくば、尊号を奉り、日本武尊と名乗ってはくれないか」と言いました。この後小碓尊は彼を刺殺し、仲間も討伐して熊襲を平定しました。
佐賀県大和町の伝承
大和町にあった「真手村」という地名は小碓尊が熊襲建にとどめを刺そうとしたとき、熊襲建が「待て」と言ってそれを止めたという言い伝えからついた地名と言われています。現在はこの地名は見当たりませんが、大和町にある健福寺は真手山という号で、また、真手川という名も地図から見つけることができました。
大和町大願寺にある寺で、真手山健福寺といいます。奈良時代に僧行基が「元真手」山中に開基したといわれています。境内には鎌倉時代初期に造られた銅鐘があります。
この寺が昭和49年4月に配布した「落慶法要記念号」には「大願寺の伝説」について書かれています。実際にこの寺に出向き現物を拝見しそのコピーをいただくことができましたので紹介します。
「第12代景行天皇の頃筑紫を本拠として北部九州をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。景行天皇は皇子小碓尊(こうずのみこと)に熊襲征伐を命ぜられた。尊は時に十六才、而し英智武勇にすぐれていられる。弟彦王を副大将に武内宿祢を補佐役として筑紫の穴倉陣に攻め入った。その時熊襲タケルは逸早く逃げ去った。暫時して逃げ先が川上付近とわかったので海路船で肥前堀江(今の堀江通り)に一度寄港更に蠣久に上陸、ひそかに逃げ先を探索している中に大願寺の山の中に居て毎日娘たちを集めて大酒宴中とわかった。そこで或る日小碓尊は女に変装して酒宴中に入り、時を見て『我こそは筑紫ので見参せし小碓尊である。天下をわがものに騒がしたフラチ目、これが天罰だ』と二太刀目が急所に決まって倒れた熊襲は息もたえだえながら『我こそは日本一の武勇者として誇りつづけたが我以上に尊の様な智勇権謀者がおる事は知らなかった。尊こそ誠に日本一の武勇者なれば今後は日本武尊と尊称し奉る。我は九州全土をわが家の住いとせしもこれが最後となったこの川上の土地を記念して*性熊襲を川上の性に改め川上タケルと称する』と遺言して息を引き取った。」*姓
この伝説からわかることは、
・熊襲タケルは小碓尊に筑紫にあった穴倉(住処)を以前攻められていた。
・熊襲タケルは鹿児島に逃げたのではなく、佐賀県の北部の大願寺の山の中に逃げた。
・小碓尊は「おうすのみこと」ではなく「こうずのみこと」とよばれている。
・熊襲は一族の総称ではなく、姓が熊襲、名がタケルという一人の勇者としている。
・小碓尊に負けたことを認めた熊襲タケルが、川上の地で改姓して川上タケルと名乗ることにした。
・もともとこの地は川上というところであった。熊襲タケルは最期にその土地の名を姓とした。
・小碓尊の寄港地が堀江神社辺りで上陸地は蠣久(鍋島蠣久:かきひさ)辺りと思われる。
また「大願寺の伝説」には熊襲の墓が境内にあると書かれていますが、寺は真手山から移転しており、現在それがどこにあるのかは不明のままのようです。
この真手の地名伝承をもとにしてさらに詳しく調べてみると『佐賀県大和町の伝説』『本荘の歴史と文化』『かたりべの里本荘』を知ることができました。これらの書籍に書かれている熊襲に関する内容と「大願寺の伝説」には共通点が多く、もとになった伝承は同じようにも思われます。
以下は『大和町史 (三伝説・民話)』をもとにしています。
『大和町史』
第12代景行天皇のころ、筑紫の国にはそこを根拠地にしていた熊襲という豪族がいて、九州全土を征服していました。熊襲は穴倉に陣を置いており、その威勢を恐れてだれも逆らいませんでした。これを聞いた天皇は皇子の小碓尊に熊襲の征伐を命じました。小碓尊は英智と武勇に優れ、弟の彦王を大将(原文はこうなっていますが、正しくは「弟彦王を副大将」)、武内宿祢を補佐役として筑紫の穴倉を攻めました。この時熊襲たけるは既に逃げていました。熊襲たけるは川上というところに逃げたことが分かり、小碓尊は船で肥前の堀江(堀江神社のある地)を経由して蛎久(かきひさ:佐賀市鍋島町蛎久)から上陸しました。熊襲たけるは大願寺というところにある山の中で、里の娘を集めて大酒宴会を開いていることが分かりました。すると小碓尊は女装してこの宴会に紛れ込むこととし、誰にも正体が知られずに潜入に成功しました。夜も更け、酔いも回ってきた熊襲たけるは眠り始めました。この時がきたとばかりに小碓尊は「起きよ熊襲」と叫んで枕を蹴飛ばしました。驚いた熊襲たけるは体を起こして太刀に手をかけましたが、小碓尊はすかさず一太刀浴びせました。「我こそは筑紫で戦った小碓尊だ。大騒ぎした悪い奴を成敗する」と言って二太刀目は頭を切りつけました。息も絶え絶えとなった熊襲たけるは「我こそは国一番の勇者だ。しかし、我以上に勇敢なものがいるとは知らなかった。これよりはあなたのことをヤマトの勇者、日本武尊と尊称し奉る。我はこの地川上を名とし、川上たけると称することとする。」と言って息絶えました。これより、小碓尊は日本武尊、熊襲たけるは川上たけると称するようになりました。また、小碓尊が二の太刀を振り下ろす時、熊襲たけるが「待て」と言ったことから「真手」の地名がついたと言われています。
祭神は神功皇后の妹に当たる與止日女ですが、豊玉姫のことともされています。河上神社ともよばれ、熊襲たける(川上たける)が逃げ込んだ(『大和町史』による)川上の地にあります。
弟彦公は神埼、小城方面、武内宿禰は武雄地方の賊らを討伐しました。
こうして小碓尊は景行天皇28年2月に無事都に戻りました。
この後日本武尊は東征に向かい、妃の弟橘媛が海神の犠牲となるなどありましたが蝦夷を平定しました。しかし、東夷討伐から戻る途中に伊勢の能褒野(のぼの)で病のため薨去されました。
この悲報を聞いた郷土の人々が尊の因縁深い小津の龍造島に祠を建てて「小碓宮」または「王子宮」としました。奈良時代には尊を供養するために龍造寺を建てました。そして、この村を龍造寺村としました。この寺の開山は行基菩薩と言われています。この寺は移転して現在は高寺となっています。小碓宮は王子権現となり瑞應寺の境内に移されています。寺の近くに「碇観音」があり、これが昔そこに島があったことの名残のように説明されていますが、観音があると言われている辺りを歩き回りましたが見つかりませんでした。瑞応寺にある王子権現の鳥居横に観音石像(下画像)があります。これは元の場所から移された「碇観音」ではないかとも思われますが詳細はわかりません。
GoogleMap
日本武尊が龍造船でやってきたことから、寄港した地は龍造島と名付けられました。現在は埋め立てられて島はなくなっており、どこが龍造島だったかを知ることはできません。小碓尊の滞在地に祀られたとされる小碓宮は、現在はもとあった場所から本庄町の瑞応寺境内に遷されました。そこには江戸時代(1783年)に立てられた鳥居があります。鳥居額は「王子権現」と読め、柱の文字は分かりにくいのですが「佐嘉郡大井樋村・・・天明三癸卯年二月吉祥日」と彫られています。小碓尊の足跡が残されていました。
また、徐福伝説との関係もあるようです。この神社は若王子権現社とよばれ、徐福が上陸した地と伝えています。伝説の扉 徐福伝説
土蜘蛛との戦い伝承地3ー佐賀県
奈良時代に編纂された『肥前国風土記』には、日本武尊と関連してつけられたとする地名について書かれています。
『肥前国風土記』
佐嘉郡 さかのこおり (現在 佐賀県佐賀市)
日本武尊がこの地に巡行されたとき、楠が茂り栄えているのを見て「この国は栄(さか)の国」と言われたと伝わっています。はじめ栄郡とし書いていましたが、後にこれを改めて佐嘉郡とし、現在の佐賀となりました。
小城郡 おきのこおり (現在 佐賀県小城市小城町)
昔、この地に天皇の命に従わない土蜘蛛がいて、堡(とりで)・小城(城壁)を造って隠れていました。これがもとで小城郡となりました。日本武尊が巡行されたときに土蜘蛛らは誅罰されました。
小城市の案内によると、この古墳は小城公園内の標高36mの独立丘陵頂部に築造された前方後円墳です。全長約50m、後円部高約5mに対し、前方部の高さは約2mで高低差が3mあります。後円部が二段築成で後円部に比して前方部が低くなっています。墳丘上には朱塗りの烏森稲荷神社が建っており、その脇にある神社名が書かれた石碑の位置が石室跡ではないかと思われます。前方部から土師器が出土しており4世紀後半の古墳時代前期の築造とされています。
小城公園周辺は小高い丘となっており、小城の地名伝承となっている砦が築かれていたのかもしれません。
藤津郡 ふじつのこおり (現在 佐賀県藤津郡太良町)
佐賀県鹿島市の西に藤津郡があります。昔、日本武尊が巡行されたとき、この地(海岸)に至ったときに日没となり船を停泊しました。その船の綱を大きな藤の蔓(つる)につないでいたと伝わり、この伝承をもとに藤津郡と名付けました。*「津」には港の意味があります。
1971年(昭和46年)に多良岳の太良嶽神社と川上神社、荒穂神社の三社を埋め立て地に遷して合祀した神社です。祭神は瓊瓊杵尊、五十猛尊、大山神、豊玉姫命です。創建は第10代崇神天皇の時代と伝えられ、第12代景行天皇は九州巡幸の折に参拝したとされています。また、日本武尊が征西の折に神助を仰ぐために御山に参籠をしたと言われています。
藤津郡の東に佐賀県鹿島市があります。
鹿島駅から少し歩いたところの道路脇に「藤津郡鹿島町」と書かれた道路元標があります。
道路元標は道路の起点や終点を示すもので旧地名が書かれた古いものは現在は見られなくなっていますが、旧鹿島町の役場跡地にこの元標は残っています。「藤津」は現在の藤津郡から鹿島市を含めた広い範囲を示す地名だったことがわかります。
祭神は日本武尊、素戔嗚尊、伊弉那美命(いざなみのみこと) です。
いつ創建されたかははっきりしていませんが。戦国時代には神社の裏に松岡城がありました。日本武尊の滞在地等の言い伝えはなく、大村氏が武勇の神として日本武尊の威徳を信じ尊を祀る社を建てたと言われています。
小碓尊(日本武尊)は佐賀で熊襲や土蜘蛛らと戦い、東に向かいました。
日本武尊を祭神としています。熊襲征伐の折、日本武尊はこの神社のあるところから的に矢を射たと伝えられています。境内の大クスノキは樹齢が推定千年と言われ、佐賀県の天然記念物になっています。
日本武尊他を祭神としています。社記によると、日本武尊が熊襲征伐の帰りに立ち寄ったとあります。その後飛鳥時代には斉明天皇も訪れたと伝えています。
祭神は日本武尊、宮簀媛、須佐鳴(すさのお)尊です。
熊襲征伐の前にも立ち寄った地です。帰るとき剣岳に登りました。 一行が山を下りると激しい雷雨に見舞われたので林に入って雨宿りしました。ここで日本武尊が雷の神を祀ると雷鳴がやみました。後に里人は雷神を祀る社を建てました。宮地が九州自動車道の建設に伴って現在地に遷されました。
襲征伐の前、日本武尊はここに仮宮を建て滞在していました。その時里の娘砧姫(きぬたひめ)に身の回りの世話をさせていました。熊襲征伐を終えた日本武尊が再びここに戻ってくると砧姫は子を宿していました。再会した二人でしたが、日本武尊は都に戻らねばならないため別れなければなりません。日本武尊は砧姫への変わらぬ愛を誓って仮宮に銀杏の木を植樹しました。
都に戻った日本武尊は次に東征に出かけました。しかし、都に戻る前に亡くなってしまいます。しばらくしてこのことを知った砧姫は仮宮だったところに祠を建てました。それがこの社です。
『日本書紀』
日本武尊の一行は瀬戸内海を船を使って大和に帰ることとしました。吉備に向かう途中に穴海(あなうみ:広島県)を渡るとき、荒ぶる者たちと戦って討伐しました。また、難波に着いた時も柏済(かしわのわたり:大阪)の荒ぶる者たちを殺しました。
『日本書紀』
景行天皇28年 春2月1日
日本武尊は熊襲を平定した様子を天皇に報告しました。
「私は天皇の神霊に護られ、兵引き連れ熊襲の首領を討ち、その国を平定することができました。それにより西国は静かに落ち着きました。*百姓は無事です。ただ、吉備の穴済(あなわたり)と難波の柏済(かしわわたり)に反抗的な者がおり、毒気を放って道行く人を苦しめていました。また藪は災いのもととなっていました。そのため、これら悪しき者たちを殺し陸路・水路を開くことができました。」
天皇は日本武(やまとたける)の功績を褒めて、ことのほか愛しました。
日本武尊の都への帰路は記紀により違っています。『日本書紀』は瀬戸内海に沿って東進したように書かれていますが、『古事記』では九州平定の後に島根県の出雲に向かったことが書かれています。出雲を平定した後、鳥取に立ち寄り、美作を通り岡山へ南下して瀬戸内海から大阪に向かうというルートが想像できます。
山陰地方の日本武尊の足跡は島根県の出雲と鳥取県の倉吉、関金にありました。倉吉にある神社の言い伝えでは、出雲→鳥取→岡山のコースが示されています。これは重要なことかもしれません。
『古事記』で出雲建と戦ったことを『日本書紀』が書かなかったのは、『日本書紀』の編者が『古事記』に書いてあることが間違いだったとわかり、『古事記』より後に編纂された『日本書紀』には書かなかったと理解することもできるのですが、前述の社伝がどうしてもひっかかってきます。出雲での出来事がまちがいではないとするには鳥取の社伝の信ぴょう性を確かめねばなりません。
『日本書紀』重視 ―日本武尊は瀬戸内海航路で帰京
日本武尊は九州を平定した後、出雲には向かっておらず、瀬戸内海航路で吉備など数か所に寄港しながら大阪に向かったとします。
①難波に向かう
九州北部を出発した日本武尊は関門海峡を通過し瀬戸内海に入りました。山口県平生町佐賀に日本武尊を祀った白鳥神社があります。ここが瀬戸内海に入る前の滞在地であったかもしれません。このあと、難波の港に向かって航海を続けるのですが、順調には進まなかったようで、まず穴海の賊退治をしています。
鞆の浦に日本武尊のはっきりとした足跡があるわけではありません。ここは幕末の舞台ともなっているところで、坂本龍馬に関する史跡も見られます。鞆の浦は古代より続く瀬戸内海を航行する船の寄港地でした。難波から穴海までの間は海が荒れることも多く、そのための寄港地となっていたようです。
古来の「棹(さお)の森」に鎮座しています。日本武尊がこの森で野宿したと伝えられています。また、日本武尊の化身が降り立った伝説の地で、白鳥に姿を変えた日本武尊(やまとたけるのみこと)の神霊が降り立ったとされています。
② 吉備の穴済(あなのわたり)
穴済(あなのわたり)は岡山県児島付近に比定する説があります。『古事記』では「穴戸」と表記されており、山の神、河の神、穴戸の神と並べて表記していることから、それらがつながった岡山県総社市の山(鬼城山かも)、高梁川、倉敷市の南にあった吉備の穴海と呼ばれていた内海をそれぞれ指しているのではと言われます。
児島半島はかつて「吉備児島」とよばれており、現在は陸続きですがかつては陸から穴海(内海)でつながった島だったようです。また「穴戸」の名がつけられた神社が岡山県に2社あります。この神社の祭神は穴門武姫(あなとのたけひめ)で、日本武尊の東征に従った吉備武彦の娘です。
この地図は"Flood Maps"を利用して作成しました。
現在の海水面を5m以上上昇させると倉敷市から岡山市の南が海となって現れてきます。これが穴海ではないかと思います。また、国生み神話に登場する「吉備の児島」も見えてきます。現在は陸続きですが、かつては瀬戸内海の島だったことがわかります。
祭神は天照大神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと 仲哀天皇 日本武尊の子)と日本武尊妃の穴戸武媛(あなとのたけひめ)が合祀されています。
この神社は山の中にあり、海の近くではありません。多分ここから穴戸=吉備の穴海(瀬戸内海)がよく見えたから名付けられた神社とも言われています。
崇神天皇の時代に豊鋤入媛が天照大神を祀る地を探して各地を回っていた時、紀伊の奈久佐浜宮からここに遷し祀った名方浜宮と伝えられています。
「穴門」はかつて瀬戸内海にあった内海の「穴戸」で山の上から眺めることができたと伝えられ、また、本殿横の神窟からつけられたともいわれています。
岡山県倉敷市真備にも穴戸武媛命を祀る同じ名前の神社があります。
『古事記』重視 ―日本武尊は出雲経由で帰京
『古事記』には倭建命が出雲建を騙して討つ物語が書かれています。倭建命(日本武尊)は九州平定の後に出雲に向かったとします。
『古事記』
大和に戻るとき山の神と河の神、穴戸の神を服従させました。 出雲に入った倭建命は出雲建に近づき親しくなりました。
出雲建を殺すために密かに硬いイチイガシの木で偽物の刀を作り、持参していました。そして二人で肥河(ひのかわ)に入り水につかっていました。先に上がった倭建命は出雲建が置いていた刀を取って「今から刀を換えて太刀合わせをしよう。」と言いました。そこで出雲建も河から上がり倭建命の刀を持ちました。いざ勝負しようとして出雲建は刀を抜くことができません。そのすきに倭建命は出雲建を切り殺してしまいました。
この時歌をつくりました。
やつめさす 出雲建が 佩(は)ける刀 黒葛(つづら)さは巻き さ身無しにあはれ
倭建命(日本武尊)は出雲に入ると出雲建と親交を重ね、信頼させることに成功します。そして、かねてより考えていた作戦を機を見て実行することにしました。出雲に入る前に日本武尊は木刀を作りました。本物と見間違うような立派な刀(抜けない刀)を用意したのです。
作戦を実行したところは斐伊川が出雲平野を北上し、やがて宍道湖に流れる河口付近です。斐伊川はかつて素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したとされるところです。その時も村人たちと力を合わせ、大蛇に酒を飲ませたところを切り殺すという作戦が成功しました。
出雲建は日本武尊を信頼していたので、何も疑わず太刀の交換に応じました。川から先に上がっていたことも作戦の内でした。川から上がった出雲建を見ていきなり声をかけたのでしょう。出雲建は急ぎ服を着て太刀を抜いて確認する間もなく応じたのです。こうして作戦は成功しました。熊襲征伐に続いて、出雲でも日本武尊の騙し討ちが成功したわけです。偽りの友情を見抜けなかった出雲建の油断が招いた結果とも言えるでしょう。
実は、太刀を換えて戦う話が『日本書紀』にあることがわかりました。景行天皇以前の崇神天皇の項に書かれていました。
『日本書紀』
出雲振根(いずもふるね)と出雲飯入根の兄弟がいました。弟の飯入根は朝廷の命に従い神宝を勝手に献上しました。これを怒った兄は木刀を用意して弟を水浴びに誘いました。水から上がると勝負を挑み、兄は弟の大刀で弟を殺してしまいました。
先に編纂された『古事記』の方が正しいのではなく、『日本書紀』では太刀交換の話が崇神天皇の時代の事だったと間違いに気づき、『日本書紀』には書かなかったのではないでしょうか。すると、日本武尊は出雲へは遠征していないのです。しかし、次の『出雲国風土記』、出雲や倉吉にある神社の社伝で分からなくなります。太刀交換ではなく別の作戦で出雲建を征伐したのかもしれません。あるいは、出雲平定は失敗したのかもしれません。日本武尊は出雲に遠征したけれど、その出来事を『日本書紀』に書かなかった事情がいくつかあるのかもしれません。
①斐伊川と素戔嗚尊(すさのおのみこと)
大和朝廷にとって鉄の確保は最大の課題でもありました。それは山陰地方でも出雲から島根一帯の開拓と鉄の産地の確保をすることでもありました。『日本書紀』に見える「出雲の簸(ひ)の川」は現在の斐伊川(ひいかわ)で、中国山地に属する船通山(せんつうざん)を源とし日本海側の 宍道湖(しんじこ)に流れる全長153kmという長い川です。 斐伊川の上流地域では古代より砂鉄 が採れ、たたら製鉄が行われてきました。この鉄が川に混じると参加して赤みを帯びます。斐伊川の上流の川岸を見ると石が赤くなっているのが至る所で見られます。この地で素戔嗚尊は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治しました。
素戔嗚尊が退治した大蛇はこの川のことと見ることにしましょう。鉄分を含んだ赤い水の流れは大蛇(おろち)の血を意味します。大蛇の頭上はいつも雲がかかっていたと語られていますから、船通山を含む中国山地の高い山々のことを意味します。大雨が降ると川は暴れて洪水となって村々を襲ったのではないかと推測されます。つまり大蛇が村を襲ったと語り伝えたのでしょう。大和朝廷はこの鉄の産地を土地の首領から奪い、良質の砂鉄からたたら製鉄によって剣を作らせたのです。その剣の一つが「天叢雲剣」で、後に「草薙剣」となる神剣です。注 「天叢雲剣」はその表面の輝きからつけられた名前で、特定の1本の剣を指しているわけではないようです。
上写真のように斐伊川上流の川の水は赤く見えます。水が赤いのではなく、川の中の石の鉄分が酸化していて赤くなっています。
②たたら製鉄
古代日本では朝鮮半島から伝わった「たたら製鉄」という方法で鉄を生産していました。炉に空気を強く送り込むために鞴(ふいご)という道具を使い、これが「たたら」と呼ばれていたことからついた名です。原料となる砂鉄や鉄鉱石を木炭で熱して作っていました。日本では砂鉄を原料とするのが一般的で、この製鉄法は日本武尊の時代にも行われていたと考えられます。
『古事記』に倭建命が出雲建を倒したことを書いたのが何か意味のあることとすれば、この製鉄技術及び鉄そのものを大和朝廷の支配下に置くことができたと示唆しているとも考えられるのではないでしょうか。
島根県に江戸時代のたたら製鉄を伝える史跡があります。
③倭建命は出雲へ -出雲建を討つ
出雲にはかなり大きな勢力があったことを物語る遺跡があります。
弥生時代の遺跡で国の史跡に指定されています。ここは道路建設中に偶然に発見された遺跡で、発掘調査により39個の銅鐸が出土しました。これは国内出土数最多ということです。下の荒神谷遺跡に近く、出雲王国との関係があるとも言われています。写真は発見時の復元ですが、一部銅鐸がそれより大きい銅鐸の中に入った状態で発見されています。
ここも道路建設中に偶然発見された弥生時代の遺跡です。発掘調査により、
銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しています。発見された銅剣は全て長さ50cm前後の同形で、4列に並べられた状態でした。
島根県は松江市南郊の大庭地区、竹矢地区一帯にある史跡をフィールドミュージアムとして保存管理しています。その中には島根県最大の山代二子塚古墳(前方後方墳)もあり、大和朝廷と対立する古代出雲の勢力を想像させてくれます。
古事記では瀬戸内海側の穴戸での戦いのあと日本海側の出雲に向かっています。穴戸を岡山付近とするなら、出雲への行程上には中国山地があり、それを越えて北上したことになります。人が住んでいない地域を通ったのか、日本武尊を祀る神社が見つかりません。しかし、見つからないのは山越えの道だからではなく、吉備から出雲に行っていないからとも考えられます。
穴戸は山口県の海と広く解釈し、瀬戸内海の入り口を穴戸と呼んでいたと考えることもできます。
④出雲での戦いがあったと考えられる史跡と伝承
『出雲国風土記』をもとにすると
出雲郡建部郷(たけるべのさと)の由来について
国指定史跡の荒神谷遺跡の南西に斐川町三絡(みつがね)という地名があり、そこに武部西研修センターという施設があります。武部はもとは「建部郷」でこれは景行天皇が御子倭建命の名を忘れないようにと、神門臣古祢(かむどのおみふるね)を建部(たけるべ-大和朝廷に仕える者)と定めたことによります。この伝承が正しければ、出雲地方に日本武尊の足跡があったことになります。日本武尊が出雲を平定した後、景行天皇がその業績をたたえ、皇子の名をここに残したと考えられるからです。日本武尊と何も関係のないところに天皇は建部をおきません。
出雲市に波迦神社があり、この神社の主祭神は倭建命です。やはり、倭建命による出雲建の征伐はあったのかもしれません。主祭神が「日本武尊」ではなく「倭建命」としているのは出雲のことが書かれている『古事記』に合わせたのでしょう。(祭神をヤマトタケルとする多くの神社は祭神表記を日本武尊としています)
このような理(ことわり)により、この地に御祭神二柱が御鎮座になっている。」
出雲征伐を終えて
出雲征伐の後どのように都に戻ったのでしょうか。
数少ない伝承から探ってみると、二つの説が見つかりました。
日本海側の伝承については今春実際に訪問し確かめたいと思います。
① 日本海側を通って大和に向かいました。
日本武尊は日本海を戻る途中に嵐に遭いましたが舟は神のご加護によりこの神社近くに漂着しました。日本武尊はこれを喜び、飯を炊いて供えたと伝わります。境内にその場所と伝わる「飯の山」があります。
祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊、素盞鳴尊、天児屋根命です。第7代孝霊天皇の皇子がここに祭神を祀ったと言われています。この祭神のご加護によって日本武尊は危ういところを助けられるのです。
由緒 「景行天皇の御宇、皇子日本武尊の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり、尊大に歓喜し給ひて宜はく斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にやと、是より社地を称して浮洲の社と云ふ、洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり、御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ、斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや、小艇は此処に置き給ひ御艦に召され進発し給ひしと云ふ(略)」
ここでは海の神が暴れて危なく遭難しかけます。日本武尊は東征中も海神の怒りを鎮められず、妃の命を犠牲にして自身の無事が保たれています。山の神には強い日本武尊ですが、海の上には力を発揮できない面が見られるようです。
② 再び瀬戸内海(吉備)の方に向かいました
日本武尊が伯耆(ほうき)国瀬戸の港(現在の鳥取県倉吉市にある港)に上陸し、美作(みまさか)国(岡山県)へ向かう途中に矢筈ヶ山(やはずがせん:1358m)に登りました。この山の頂には唐王権現(とうおうごんげん)という石祠と石塔が大きな岩の上にあったそうです。日本武尊はこの岩の上から「この矢の届くまでの範囲にある地は災いが消え我が守るところとなれ。」と念じながら矢を射ました。矢は約8㎞離れた生竹(なまだけ)まで飛んだと言われています。飛んできた矢を素手で取ったのはこの地方を治めていた生竹の荒神さまでした。荒神さまはこれはとても立派な矢だとほめ、使いの者に命じて元の矢筈ヶ山に送り返しました。
矢が8㎞も飛んだというのはありえないことと思います。そのため社伝の信ぴょう性も疑わしくなります。これは『古事記』をベースにしたための後世の創作かもしれません。しかし、確かめることは出来ませんので、社伝として、日本武尊の足跡が存在していることだけ紹介しました。
矢を素手で受け止めたのは、地元では「矢止めの荒神さま」と呼んでいます。
日本武尊がが弓を射たところは弓張峠と呼ばれていましたが、後に弓挟峠(ゆみばさりとうげ)となり、現在は犬挟(いぬばさり)峠といいます。
この後、川を下って瀬戸内海に出たとも考えられますが、詳細はわかりません。
難波近くに足跡を見つけることができました。
③ 難波の柏済(かしわのわたり)
現在は大阪平野となっている地はかつて海でした。大阪は都と瀬戸内海を結ぶ要衝の地で、ここの賊を退治して道を開いたと語られています。
日本武尊は瀬戸内海を航行していましたが、やがて日が落ちて暗くなってしまいました。そのため、航路を見失ってしまうのです。
祭神は椎根津彦命です。「灘の一つ火」と昔から言われるように、ここはかつて灯台の役目がある火が灯されていました。遭難しかけた日本武尊ですが、この灯りに助けられたのかもしれません。
日本武尊にとって九州最大の戦いの相手は熊襲建です。征西に出る前からその強さは伝え聞いていました。日ごろから皇子という立場から戦いのための訓練をしていたことは戦いに勝てるという自信にもつながりました。しかし、それでもこの強者に挑むためには信頼できる家臣たちを同行させることが必要でした。情報収集と準備をしっかりと行い、勝つための作戦を何度も練って戦に向かいました。女装して討つという作戦は、若い小碓だからこそできた命がけの一手だったのです。