四国香川県には日本武尊の悪魚退治の伝説があります。この話は場所によって、日本武尊が退治した話、日本武尊の皇子武殻王(たけかいこおう)が景行天皇の命により派遣された話、景行天皇の皇子神櫛王が退治した話、大碓命が派遣されたという話など伝説ならではのバラエティに富んだ言い伝えがあります。またこの伝説に関係する地名として、福江、御供所、江尻など坂出市内に見られます。
和歌山から出航
神功皇后の「かぶら矢」伝承があり、日本武命、応神天皇、息長足姫命を祭神とする神社です。日本武命(尊)が西国に下向する折に飽浦に滞在したことから祭神として祀ったと伝えられています。四国へは和歌山から船で出航したと推測されます。
二つの白鳥神社
四国には阿波国(徳島県)と讃岐国(香川県)に白鳥神社があり、祭神は日本武尊です。
日本武尊命を祭神とする神社です。日本武尊命は東征の帰途に亡くなり、白鳥となって天に昇りましたが、この地に舞い降りたと伝えられています。日本武尊と両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)の子の仲哀天皇によって創建されました。この神社が東かがわ市にある白鳥神社の元宮とも言われています。
日本武尊は三重県の能褒野で亡くなり、神霊白鶴となって飛び去りましたが、大和、河内からこの鶴内の里に舞い降りたと伝えられています。そこで、舞い降りた地を白鳥と呼ぶようになり、仲哀天皇の時代に神籬(ひもろぎ)が建てられました。そして、後に日本武尊命を祭神とする白鳥神社となりました。境内にある三社神社には東征に従った吉備武彦と大伴武日が祀られています。
時代は下り平安時代の末期、源平の合戦で源義経が劣勢になりかけた折、白鳥の神に祈ったところ空から白羽が舞い降りてきて義経の手中に収まりました。これにより奮起した義経は屋島の戦いで大勝することができたと言われています。
鶴内の里と言われているのがここ白鳥の松原です。ここは白砂青松が美しい景勝地であったと案内板に書かれています。また、標高3.6mという日本一低い山「御山(みやま)」があります。
阿波国風土記
『阿波国風土記』そのものは存在しませんが、その逸文(引用されたもの)があります。『阿波国風土記』に書かれていたとして引用された文には日本武尊は「倭健天皇命」となっています。日本武尊が大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れた地に井戸を掘り、そこに勝間(かつま)という名を残したと紹介されています。かつて阿波の人たちは方言で櫛を勝間と言っていたそうです。鏡のような水面に顔を写し髪を整えていたことから地名となったと言われています。ここは悪魚退治に出かける日本武尊の休息地・通過地であったろうと推測しています。この井戸は現在も勝間の井(舌洗いの池)として残っています。
平安時代末期、屋島の戦に向かう源義経軍はここで休憩しました。その時義経がこの池の名を里人に尋ねると「勝間の井」と答えたそうです。その名を聞いて「幸先よし」と喜んだ義経はその後平氏との戦に勝利しました。
案内板には「舌洗い」についても記載されていました。「舌洗い」は下新井(荒井)からついたようで、この名は国府町早淵にある上新井(荒井)の池に対してついた名のようです。
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悪魚伝説
悪魚伝説1
瀬戸内海で暴れていた怪物の悪魚を退治するため日本武尊と80人の家来が派遣されました。大きな魚を相手に日本武尊と家来たちは乗っていた船とともに怪魚に飲み込まれてしまいました。しかし、家来たちが腹の中で船に火をつけて暴れると飲み込んでいたものを吐き出しました。無事に腹から出たものの怪魚の毒気に当てられ苦しみました。そこへ童子が現れ霊泉水を飲ませたところ正気に戻ったといいます。日本武尊によって怪魚は退治されました。この場所を八十場(弥蘇場)とよんでいます。
このころ日本武尊の妃が皇子を産みました。そこで悪魚退治の手柄をその子のものとしたという言い伝えもあります。この子は讃王(さんのう)、讃留霊王(さるれおう)、あるいは武皷王(たけみかつちのおう)『日本書紀』、武殻王(たけかいこおう)としてこの地を治めました。
悪魚伝説2
この伝承は讃留霊王(さるれお)自身の話としても伝わっています。
天皇の命により南海の悪魚退治に出かけたのは日本武尊の御子で、船団を組んで出かけました。悪魚との戦いのさなか、一人の兵士が飲み込まれてしまいましたが、この兵士が腹の中で刀を振り回し暴れたので、悪魚は苦しくなって死んでしまいました。
悪魚伝説3
日本武尊は悪魚に舟ごと飲み込まれましたが、腹を切り裂いて退治しました。このころ妃の穴門武姫が子(武殻王)を産んだのでこの子の手柄としました。武殻王は「讃留王(さるおう)」と呼ばれました。
弟橘媛が祀られている神社
白鳥(白鶴)が舞い降りた地に創建された神社で日本武尊他を祭神としています。弟橘姫命が日本武尊の妃として祀られています。
創建年代は不明ですが古社です。天孫降臨で瓊瓊杵尊とともに降りた32神のうちの天太玉命(あめのふとだまのみこと)他が祀られています。天太玉命は忌部氏の祖神とされており、古代忌部氏が麻を伝え発展させたと伝わっています。また境内に白玖祖霊社があり、ここには弟橘媛が祀られています。穂積忍山彦根が景行天皇の時代に天皇の皇子神櫛王の勅により祀ったと言われています。
景行天皇の時代、南海に悪魚が現れたため、これを退治するため都から皇子神櫛王が軍をともなって派遣されました。これを平らげた神櫛王は国造となりました。このとき、穂積忍山宿禰の子で弟橘媛の兄穂積忍山彦根が社殿を造営しました。
日本武尊を祭神としている神社
「岡の宮」とよばれ、豊受姫命を主祭神として日本武命や楠木正成他が合祀されています。平安時代末、屋島の戦いに向かう源義経が戦勝祈願したと伝えられている神社です。創建年代は不明で日本武尊との関係もわかりません。