崇神天皇の時代、天皇の命により第7代孝霊天皇の子吉備津彦命が四道将軍の一人として弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)と共に山陽道に派遣されました。岡山県に鬼ノ城(きのじょう)という所があります。この地域一帯を支配して人々を苦しめていた温羅(うら)と呼ばれる悪党を征伐したことが伝えられています。これが岡山の桃太郎伝説となっています。そのため、桃太郎は吉備津彦命とされています。この戦いで吉備津彦命が本陣を置いたのが吉備津神社のある場所です。
*鬼ノ城に残る遺構は飛鳥時代に造られた山城の跡であることが発掘調査によってわかっています。
吉備津彦命が祀られている神社
645年大化の改新により地方の区割りが見直され、吉備の国は備中、備前、備後に分かれました。 もともと吉備国には吉備津神社があり、国が分かれたことで備前に吉備津彦神社が創建されました。またその西方の備後にも吉備津神社(広島県福山市)が創建されました。

祭神 田村大神
倭迹迹日百襲姫命 五十狭芹彦命(彦五十狭芹彦命、吉備津彦命) 猿田彦大神 天隠山命 (高倉下命) 天五田根命 (天村雲命)
・吉備津神社(広島県福山市)
・鶴崎神社(岡山県都窪郡早島町)
・御崎神社(岡山県)
・艮御崎神社(岡山県)
他

吉備氏の祖
兄とともに山陽道に派遣されたのが弟稚武彦命((わかたけひこのみこと)です。
弟を「吉備津彦」と称することもありますが「吉備津彦」は一般的に吉備神社や吉備津彦神社の主祭神「大吉備津彦」をさしています。
稚武彦命(わかたけひこのみこと)の娘
稚武彦命の娘に播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)がいます。姫は景行天皇の皇后となりました。
『播磨国風土記』には景行天皇と播磨稲日大郎姫命の出会いの様子が書かれています。播磨稲日大郎姫命は「印南別嬢」(いなみのわきいらつめ)と書かれています。また、父も稚武彦命ではなく、和珥氏(わにうじ)の祖とされる比古汝茅(ひこなむち)で母は吉備比売(きびひめ)となっています。
ある時、景行天皇は西国に狩りに出かけました。そこで印南別嬢と出会い、すぐに求婚しました。しかし、姫はこれを断わりました。景行天皇は都に戻っても姫のことを忘れることができず、賀毛郡伊志治に仲介を依頼し再び妻問いに向かいました。急ぎ船で出かけた景行天皇は播磨国の明石に上陸しました。景行天皇がやってきたことを知った姫は天皇が来ることを畏れて逃げてしまいました。このように姫が景行天皇の求婚を拒んだので、拒むが転じて「否む」となり、印南(いなみ)という地名が付きました。さて、姫は隠愛妻(なびはしつま)という島に逃げていました。ここを南眦都麻嶋と名付けられました。姫が家にいないことを知った景行天皇はとても悲しくなりましたが、家にいた姫の犬が島の方を向いて吠えるのを見ました。そこで、景行天皇は姫が島にいると気付き、船で渡りました。そして、隠れていた姫と出会うことができました。景行天皇が自分への強い気持ちでここまでやってきたことで姫の心が開き、やがて二人は結婚しました。
やがて姫は大碓命と小碓命(日本武尊)の双子を出産しました。姫が出産する時、天伊佐佐比古命(吉備津彦・大吉備津彦命のこと)が安産祈願をしたと伝わっています。無事に双子が生まれましたが母は出産後亡くなってしまいました。

墳丘長さ80mの前方後円墳です。被葬者は『播磨国風土記』により景行天皇の妃の播磨稲日大郎姫命(印南別嬢:いなみのわきいらつめ)の「褶墓」とされています。この辺りの古墳から三角縁神獣鏡が出土しており、大和朝廷と深く結びついていたことが分かっています。
吉備武彦(きびのたけひこ)
孝霊天皇(こうれいてんのう)の子孫であり、父の稚武彦命(わかたけひこのみこと)はかつて叔父でもある四道将軍の一人彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命)とともに山陽道を平らげました。この血を受け継ぎ、東征の副将軍として活躍しました。

祭神 日本武尊 小碓尊 日本童男 宮簀姫命 吉備武彦命 武甕槌命 木花咲耶賣命
地名の湖西市吉美は吉備がもとになっています。日本武尊の従者に吉備武彦(きびのたけひこ)がいますが、この名から「吉備」としたと言われています。
吉備武彦が祀られている神社



意加部彦(おかべひこ)
父 吉備武彦
吉備武彦の子の意加部彦(おかべひこ)が廬原国造(いおはらこくぞう)の祖とされています。
駿河国の西部にあり富士川から大井川に囲まれた廬原の地はかつて日本武尊が野火の難に遭い賊らを征伐した所です。日本武尊により平定され、大和政権の支配下にありました。東征の後、その功績により父の吉備武彦がここを治めました。そして、子の意加部彦が国造として任に就きました。

静岡県清水区の草薙神社近くにある古墳です。全長約40mの前方後円墳で、6世紀初めの築造と言われています。この周辺にはこのような古墳が数基あったようですが、宅地開発のため消えてしまいました。この一帯は古くからここを治めていた一族の墓が点在していたようです。この古墳は前方後円墳なので大和の支配や影響を受けて築かれています。駿河の賊を退治した後、この地を治めた者の墓と思われます。東征の後副将軍であった吉備武彦の子孫の意加部彦(おかべひこ)が庵原(いおはら)の国造となって治めたところでもあるため、被葬者との関係があるものと考えられます。