『古事記』と『日本書紀』
日本初の歴史書としている『古事記』と『日本書紀』ですが、その違いを簡単に整理してみます。
編纂が始まったのは飛鳥時代の事で、天武天皇の時代です。しかし、完成したのは奈良時代です。天皇の歴史を書いた『帝紀』と豪族の伝承等が書かれた『旧辞』という歴史書がありましたが、これらの信ぴょう性は疑わしく、新しく、天皇が国家支配することの正当性を記しておく必要がありました。そこで作られた歴史書が『古事記』と『日本書紀』でした。二書の完成時期は近く、その内容も同じ部分がありますが、相違点も多くあります。
中央集権国家作りを行うにはこれら二書を根拠として天皇を神格化する必要性があったと思われます。
『古事記』全3巻
国内向けの『古事記』でしたが、作成されてから長い間表舞台には出てきていませんでした。注目されたのは江戸時代で、荷田春満(かだのあずままろ)と賀茂真淵(かものまぶち)らが研究し、本居宣長が『古事記伝』44巻を著したことで脚光を浴びるようになりました。
『日本書紀』全30巻 系図1巻
『古事記』からわずか8年後の720年元正天皇の代に完成しました。全文が漢文体で書かれています。舎人親王(とねりしんのう)が完成させましたが、川島皇子、忍壁皇子ら6人の皇族と中臣大嶋ら6人の官人が命じられてグループに分かれ編纂を行いました。この担当者には『古事記』を編纂した太安万侶もいたと言われています。名前は分かっていませんが、作成に当たった人の中には渡来人もいたようです。また、藤原鎌足の功績が大きく取り上げられているため、当時の重職に就いていた藤原不比等の影響があったと言われています。
『日本書紀』には天地開闢から持統天皇までに起こった出来事が編年体という年代月日順で書かれています。『古事記』にある出雲神話は書かれていません。日本武尊について、景行天皇は日本武尊が筑紫を平定しさらに東国を平定したことを褒め称えており、日本武尊が能褒野で亡くなると大変悲しみました。さらに『古事記』との大きな違いとして、他書の引用や異伝(別説)が多く書かれています。一般に国外向けの(中国を意識した)歴史書となっています。
以下、草薙剣が生まれるまでに起こった神話と最初の天皇が誕生するまでを記紀を比較しながら簡単に紹介したいと思います。記紀は神話に登場する神の名をそれぞれ異なる漢字で表記していますが、それぞれの漢字と読みとを書いて紹介すると読みづらくなるため、神話「はじめの話」についてはカタカナ表記としました。漢字表記は本文とは別に示しています。
『古事記』の神々の時代では初めての天皇が現れこの国を治めるようになるまでの話を物語風に描いています。

自凝(おのころ)島神社
兵庫県南あわじ市

伊弉諾神宮
兵庫県淡路市多賀

天安河
宮崎県霧島市
漢字の表記
『日本書紀』素戔嗚尊(すさのおのみこと)
『古事記』須佐之男命(すさのおのみこと)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)は伊弉諾尊(いざなぎ)と伊弉冉尊 (いざなみ)の子で天照大神、月読命の弟です。高天原に住んでいましたが・・・
素戔嗚尊(すさのおのみこと)はあまりの傍若無人な振る舞いを繰り返したため高天原を追放されてしまったのです
素戔嗚尊が降りた斐伊川上流

斐伊川 島根県
この大蛇は八岐大蛇(やまたのおろち)といい、8つの頭と尾があるとても大きな化け物です。まともに戦ったのでは勝ち目はありません。そこで、酒を飲ませて酔ったところを斬り殺す計画をたてました。
まず、素戔嗚尊は娘の体に触れて湯津爪櫛(ゆつつまぐし:髪飾り)に変え、自らの髪に挿して隠しました。夫婦には8回醸造した酒を作らせ、8面に塀を立て、8個の樽を置き、樽になみなみと酒を入れておきました。そして、八岐大蛇がやってくるのを待っていました。
ある日、にわかに空が曇り雷鳴がとどろき、八岐大蛇が今年も村に現れました。巨大な胴からは8つの頭と尾がのび、真っ赤な目を光らせ、松や柏が生えた背は丘や谷の方まで長く伸びていました。ギラギラした目で酒で満たされた大樽を見つけると大蛇はそこに頭を入れて飲み始めました。やがて、大きな口で酒を飲み干すと酔って眠ってしまったのです。
この機を待っていた素戔嗚尊は脇にさしていた十握剣(とつかのつるぎ)で八岐大蛇を素早く八つ裂きにしました。こうして村人を苦しめていた怪物は退治されたのです。素戔嗚尊が大蛇の尾を斬った時、十握剣の刃が何か固いものに当たり少し欠けてしまいました。尾の中に何があるのだろうと斬り開いてみると、中から1本の剣が出てきました。八岐大蛇の頭上にはいつも不気味な雲がかかっていたことからこの剣を「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)と名付けました。

八重垣神社 島根県
大蛇から得た天叢雲剣を自分のものにしてはいけないと考えた素戔嗚尊は高天原の天照大神に献上しました。こうしてこの神剣は天照大神とともに高天原に留め置かれることになりました。後にこの剣は勾玉、八咫鏡とともに天皇の証とされる「三種の神器」の一つとなります。
出雲には
「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
と詠んだ歌が残っています。
素戔嗚尊の子孫に大国主がいます。


国見ヶ丘 宮崎県
こうして瓊瓊杵尊は筑紫の国にある日向高千穂(ひむかのたかちほ)にある久士布流多気(くしふるたけ)に降臨しました。これより後は瓊瓊杵尊の子孫が筑紫の国を治めました。余談ですが、瓊瓊杵尊の子の一人、火明命(ほあかりのみこと)は尾張氏の祖神となっています。後述のように、草薙剣(天叢雲剣)は最終的に尾張の熱田神宮に現在も祀られています。

橿原神宮 奈良県橿原市
<出雲の製鉄>
<倭姫命の御巡幸>
天皇とともに同じ場所で祀られていた神鏡と神剣(八咫鏡と天叢雲剣)ですが、その神威を畏れた崇神天皇は神鏡と神剣を宮の外で祀ることとしました。(勾玉はそのまま宮中にありました)
しかし、これでは天皇としての証が宮からなくなってしまうため、新たに神鏡と神剣の模造品を作らせました。これらは単にレプリカではなく、それぞれの分身と考えられています。つまり、この時代より現在まで、三種の神器のうち(本物の)勾玉以外の神鏡と神剣は本物ではなく分身が皇位継承に伴って受け継がれています。
三種の神器のうち、分身の神鏡は皇居の「賢所(かしこどころ)」、本物の勾玉と伊勢神宮が献上した分身の神剣は天皇の寝室の隣にある「剣璽の間(けんじのま)」に置かれています。そして、分身ではないもともとの本物ですが、八咫鏡は伊勢神宮内宮、草薙剣は熱田神宮に祀られています。
宮から出た神鏡と神剣を携え、崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)、その後この役を引き継いだ垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)がこれらを祀るのにふさわしい聖地を探し求めました。最初、八咫鏡と天叢雲剣は倭(大和:奈良県)の笠縫宮に移されました。そして、最終地として伊勢国の地が選ばれここに社を建てて祀ることとなりました。(当時の伊勢国は現在の伊勢市から三重県の桑名市に至る紀伊半島東側全体の広い地域をさしていました。)
実は『日本書紀』には神剣が宮から出たことに触れていません。神鏡については伊勢神宮の創始につながることとして、崇神天皇の時代に宮から離され、垂仁天皇の時代に伊勢国に祀られることとなったことが書かれています。神剣の登場はこの後の景行天皇の時代になり、倭姫命が日本武尊に授けたことで神剣も神鏡とともに宮から離れ伊勢にあったと考えられているのです。
<草薙剣>
天叢雲剣を手にした日本武尊は尾張から船や陸行で東海を北上し駿河まで行きました。(『古事記』では相武国)ここで首長らの誘いに騙され、火攻めに会ってしまいました。賊らは日本武尊らを焼き殺そうとして野に火をつけたのです。すると、脇にさしていた天叢雲剣がすっと抜け出して草を薙ぎ払い始め、火から身を守ることができました。(『古事記』では倭姫からもらった火打石で向い火をつけ、天叢雲剣で草を刈り払って難を逃れたとしています。)
この出来事がもとで、天叢雲剣は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。この剣は東征の間も日本武尊のもとにありました。
<氷上姉子神社 元宮( 宮簀媛の館跡)>
『日本書紀』には「即解剣置於宮簀媛家、而徒行之。」と書かれており「草薙剣」との記載はされていませんが、現代語の訳者らはこの「剣」を「草薙剣」としています。これは、後の展開(景行天皇51年)で「初日本武尊所佩草薙横刀是今在尾張国年魚市郡熱田社成。」(初め、日本武尊が帯刀していた草薙の剣は今は尾張国の年魚市郡あゆちのこおりにある熱田社に在ります。)と記載しているためです。この記載により、大和朝廷と尾張氏の親密な関係が読み取れるのではないでしょうか。しかし、記紀や『続日本紀』にも日本武尊が宮簀媛宅にいた時の事や、その後の熱田神宮の創建に関わることは何も書かれていません。熱田神宮は三種の神器の一つを祀っているのにです。672年に起こった壬申の乱では尾張氏一族の大活躍によって大海人皇子(天武天皇)は勝利していますが『日本書紀』ではその後の尾張氏のことも含めあまり触れていません。記紀が編纂された時代に物部氏系である尾張氏と朝廷との関係に何らかの変化があったのかもしれません。尾張氏が重要視されなくなってしまったと言わざるを得ません。
記紀には書かれていないことについて『 尾張国熱田太神宮縁起』 や『熱田舊記』などで補足します。
『 尾張国熱田太神宮縁起』 は874年尾張連清稲が草稿を作成、890年藤原朝臣村椙が修理しました。
『尾張国熱田太神宮縁起』と『尾張国風土記逸文』
『尾張国熱田太神宮縁起』によると
日本武尊が胆吹山に出かける前に不思議なことが起こりました。
日本武尊が宮簀媛の館に滞在しているときのことです。ある夜中に日本武尊は厠(かわや:トイレ)に入りました。厠のあたりには一本の桑の木がありました。日本武尊は厠に入る前、身に着けていた剣をその枝にかけたのですが、厠を出るとそれを忘れて寝殿に戻ってしまいました。夜が明けて剣を忘れたことを思い出し、桑の木から取ろうとしましたが、その木全体が光り輝き、それは目を射るような強い光でした。それを気にせず剣をとって、宮簀媛に桑の木のことを話しました。姫は「特に木には不思議なことはありませんが、きっと剣が光り輝いていたのでしょう」と言われたので、日本武尊はまた寝てしまいました。
数日たち、日本武尊は宮簀媛に「都に戻ったら媛を迎えに来るから、それまでこの剣を宝物とし、床の守りとしなさい」と言われました。
それを聞いていた大伴建日臣(おおとものたけひのおみ)が「この剣はここに置いたままにしてはいけません。伊吹山には荒ぶる神がいます。剣の霊気なしでその毒気を払いのけることはできません。」と進言しました。しかし、日本武尊は「もしそうであったら足で蹴り殺してしまいましょう」と言って剣を宮簀媛のもとに置いたまま出発してしまいました。
『尾張国風土記逸文』では
日本武尊が宮簀媛に「この剣には神の気があるから大事に祀って私の形見としなさい」と伝えています。このように伊吹山に出発するとき、日本武尊は神剣を奉斎するよう宮簀媛に頼んだのですが、これは伊吹山に出かけた後、宮簀媛を神霊により護るための思いやりの行為だったと思われます。

伊吹山
南楠(みなみくす)社 愛知県名古屋市熱田区伝馬町1GoogleMap
熱田区伝馬町1に鎮座し、熱田大神が祀られています。火上山から熱田へ神剣を遷すときに宮簀媛が楠の下で休憩したところと言われています。
平安時代の『延喜式』神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)には尾張国愛智郡の熱田神社が「名神大社」と書かれています。
鎌倉時代の1291年、熱田神社は火災に遭いました。その際「開けずの御殿」の傍から剣の入った箱が見つかったので別宮八剣宮に納めました。この剣が草薙剣とは書かれてはいませんがその可能性はあります。
現在の熱田神宮は明治時代に再建されたものですが、江戸時代に書かれた『尾張名所図会』には本殿は塀で囲まれており、その中に正殿と土用殿が並んで立っていることが分かります。
当時の正殿の祭神
天照大神(あまてらすおおかみ) 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 伊弉冉命(いざなみのみこと)→日本武尊 宮簀媛命(みやすひめのみこと) 建稲種命(たけいなだねのみこと) *初めは伊弉冉命で後に日本武尊に変わった
当時の土用殿の祭神
草薙剣神

尾張名所図会
最初に草薙剣が祀られていたのは正殿と並ぶ土用殿(どようでん)です。土用殿は室町時代中頃の造営のようで、1893年(明治26年)に本宮が造られるまで草薙剣を奉安していました。
草薙剣は形代(かたしろ:複製品ですが分身とする意味が強い)の剣がつくられ、三種の神器として天皇の元にありました。源平の戦いが起こり、壇ノ浦で安徳天皇が形代の剣とともに入水したことにより、海底に沈んでしまいました。鏡と勾玉は海中より無事にもどりましたが、剣がなく、三種そろわないままの状態となりました。そこで、伊勢神宮が代わりとなる剣を「草薙剣」として献上し、現在も天皇家で祀られています。

奈良時代に創建されたと言われる神社で、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)、八剱大神を祭神としています。

熱田神宮 清雪門
<伝承1>
日本書紀によると、新羅の僧道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げようとしたところ、強い風雨に遭って道に迷って帰ってきました。
<伝承2>
道行は神剣を盗んで九州まで逃げようとしたところ、祝部(はふりべ 神官)らが追いかけて取り返したそうです。
<伝承3>
この寺の本尊は薬師如来で、本尊が道行の逃避行を留めたと言われています。このことから山号が剣留山となっています。
<伝承4>
天武天皇が病になった時、これは神剣の祟りだとされました。そのため、天皇の勅命により686年朱鳥(あかみどり)元年6月10日に熱田神宮に戻されました。熱田神宮に草薙剣が戻ってきた年、日本武尊の東征に関係のある地に10の社を建てたことが『熱田大神宮御鎮座次第本紀』に記されています。
素戔嗚尊と奇稲田姫命を祭神とすることから草薙剣も祀られています。

祭神は出雲建雄神です。草薙剣の神霊を祀っています。