東征-記紀で省略された三河の出来事
『古事記』も『日本書紀』も倭姫命との再会の後は駿河(記は相模)に至ったと書かれています。そのため、倭姫のいた伊勢国から駿河までは船で向かい、特別な出来事はなかったかのように思われてしまいます。しかし、愛知県から静岡県西部に至る各地区には日本武尊が滞在したまたは通過した、あるいは戦ったとされる伝承があります。その数も大変多いため無視できません。そこで、西三河から穂の国、浜名湖畔に至る地域の伝承を探ってみようと思いました。
愛知県内の伝承としては、岡崎で矢づくり、作手で矢じり作りなど東征の戦いに備えたとされることが多く見られます。滞在していた火上邑(名古屋市緑区大高)からどのような行程で三河を通り浜名湖畔に至ったかは不明ですが、東海道沿いに東進し、山間部の作手、湯谷を経由して浜名湖畔に至ったと推測しました。

矢作川の戦い
大高から少し南下した大府市の熱田神社に伝承があります。
東征の時、日本武尊が休息した場所とも言われています。
「御神徳 国家泰平、万民守護の神として崇敬せられ、諸業繁栄、家内安全、身体健康、開運除厄、学業向上の守り神であり、御神徳はまことに広大無辺であります。 由緒 景行天皇の40年(110)に、日本武尊は東夷征伐に大高の氷上(ひかみ)の里(お妃宮簀姫(きさきみやすひめ)の居住地)を東下されて、大府の地をお通りになった際、この地で御休息されたと伝えられ、後年、嘉吉元年(1441)に、永井7兵衛が尊の御休趾に一社を創建したのが熱田神社の創祀であります。社格 明治四年(1871)に村社に列せられ、大正10年(1921)に、神饌幣帛供進神社に指定されています。昭和20年神社の国家管理が廃止されてよりは、神社等級十級社のお社でありましたが、昭和56年9月に七級社に昇級され、市内で最も高い社格であります。境内地 江戸末期ごろまでの境内は、わずか56平方米の狭小な土地でありましたが、明治初年から昭和初期にかけて、御霊験をいただいた隣接地主を始め氏子一般より境内地の寄進が相つぎ、今では7341平方米の広大な境内地となっております。ちなみに財産目録を見ますと、境内地が20筆に分れていますが、これは、如何に多くの人びとから境内地の寄進を受けたかを物語る証差であり、御神徳の広大さがうかがわれます。社殿 江戸末期までの社殿は、これまた4.96平方米の雨覆の中に小さな本殿があっただけの神社でしたが、村社に指定を受けた明治4年前後に改築、さらに明治32年に大改築をし爾来70年の歳月に頽廃も甚しくなり、昭和41年氏子の中から改築の声あがり御造営奉賛会が設立されて、3ヵ年の歳月を費し本殿、祭文殿、拝殿等すべて近代的な鉄筋コンクリート作りの中にも、荘厳な神明造りのたたずまいをもった社殿が竣工しました。当時、2500世帯の氏子が挙って奉賛のまことを捧げたのであります。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
東征の途中、日本武尊はこの地を通りかかり、榎木の根元で休憩しました。後に村人たちはここに社を建てて祀りました。
「創建は明らかでない。明治5年10月村社に列格し同24年12月と40年1月の両度拝殿を改築する。同40年10月26日指定社となる。同42年4月29日字寒風根十番地無格社水神社を本社に合祀した。古老の伝によれば日本武尊御東征の折に榎の大木あり、その下にて休憩されその所に小祠を建て祀ると謂ふ。昭和20年1月の三河地震により本殿が倒れ、昭和20年再建。昭和34年伊勢湾台風の被害により破損せし渡殿、社務所を改築。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より

祭神は鸕鷀草葺不合尊、彦火火出見尊、玉依比賣命、神日本磐余彦尊他で、池鯉鮒大明神とも呼ばれ、日本武尊が東征のさい、この地において皇祖の神々を祀り国運の発展を祈願したところと言われています。
高石山の賊と戦う
現在の国道1号、東海道を通り東に向かった日本武尊は矢作川の東に住む賊の征伐を依頼されました。
『岡崎市史』には、三河に入った日本武尊に土地の者たちが海のように広い川(矢作川)の東に高石山(甲山)があり、ここに人々を悩ませる賊がいるので征伐してほしいと頼み、そのために矢を作ったことが書かれています。
現在の岡崎市で、高石山に陣取った賊 対 矢作川右岸の日本武尊軍との戦いが起きました。高石山は現在の甲山(かぶとやま)です。

祭神は素戔嗚尊、豊受大神、保食神です。景行天皇の時代に創建されました。
高石山の賊と戦うための矢にする竹は川の中州に生えていてなかなか取りに行くことができません。そのとき蝶が飛んできて人の姿になり中州の竹を取ってきてくれました。矢作りをする矢作部たちはこの竹で1万本の矢を作ったと言われています。そして、この矢のおかげで戦いに勝つことができました。
境内の石板には、1083年、源義家が陸奥守として奥州征伐に向かう時、日本武尊の故事にならって矢作神社に参拝したと書かれています。

矢作神社と同じような伝承があります。駿河から来た賊が戦いをしかけてきました。そこで村人に命じて矢を作らせました。このことから地名を「矢作(やはぎ)」と言われるようになりました。この矢に使った竹はこの神社境内にあり「矢竹藪(やたけやぶ)」として伝えています。
吹矢大明神とも呼ばれています。天照大神、須佐之男命、徳川家康、菅原道真らを祀っています。
高岩という所で賊を討つための矢を作らせたところ、風に吹かれて1本の矢がとび、菅生川(現在の乙川)に流されました。この矢を御霊代として戦いの後に伊勢大神を祀ったとされる岡崎市最古の神社です。高岩は現在の満性寺(岡崎市菅生町字元菅57)辺りと言われています。
日本武尊他を祭神とし、東征の駐軍地と伝えています。
「大正4年御祭神伊弉那美命の熊野神社へ、御祭神日本武尊の白鳥社が合併され白鳥神社と改称された。昭和21年2月御祭神の祖神配祀市杵島姫命の桑子神社が合併になり、現在の白鳥神社となる。熊野神社の由来について不詳である。白鳥神社は往古日本武尊御東征の折御駐軍の地で、尊の3世の孫大荒田命の後裔が父祖の神霊を奉斎したと伝えられる。桑子神社の由来も不詳である。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
日本武尊他を祭神としています。「日本武尊の駐泊の旧跡」と伝わっています。

標高170.1mの京ケ峯の頂上にあります。ここに立って京(みやこ)の方を見たと言われています。「日本武尊傳説磐境之碑」や「京ケ峰雲母採掘抗跡」の説明板がありました。
日本武尊他を祭神としています。日本武尊の妃(詳細不明)が皇子を出産しこの地に留まったという伝承があります。ここに祀ったのは足鏡別王(『古事記』)らしく、すると妃とは山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)となるようですが不明です。この辺りには皇子田、皇子ヶ入などの地名が残っています。
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この地は日本武尊が大伴武日や吉備武彦を伴って通過したところと伝わり、社伝では、山上に紅白の雲がたなびき錦の御旗のようだったので、山に登り天照大神を遥拝し戦勝祈願をしたとあります。しかし、この神社地は山上にはなく、近くにやや小高いところがありますが見上げるほどでもありません。
法蔵寺は徳川家康が幼いころここで手習いをしていたところです。その時の遺品が多く残っています。この寺の門近くに賀勝水と呼ばれる湧水があり、戦いで傷ついた兵を治したと伝えられています。現在は水が溜まっていますが湧き出ているようには見えません。

特に日本武尊の伝承はありませんが村人は日本武尊を主祭神として祀りました。通過地かどうかは不明です。
祭神は日本武尊です。地図上の位置から見て通過地なのかもしれませんが伝承は見つかりませんでした。
地図上の位置から推測し、ここは三河山間部に向かうための通過地かもしれません。
日本武尊を祭神として祀っています。ここも通過地かもしれません。
日本武尊を祭神として祀っています。東海道沿いにありこの前を通過したと推測しています。神社はその縁で創建されたのではなく、室町時代に尾州白鳥神社を勧進したと記録されています。
日本武尊が皇子の宮道別(みやじわけ)の祖となる建貝児王(たてかいこのきみ)をこの地に封じました。飛鳥時代に起きた壬申の乱(672年)の時、草壁皇子が宮路山山頂近くに陣を構えたとされるところです。
三河山間部へ

ここは日本武尊の通過地です。標高719mの巴山を登ったところには三川分流(豊川・男川・矢作川)の石碑があり、巴山は分水嶺となっています。
昔話「ミコサシ」
作手地区には「ミコサシ」という昔話があります。
日本武尊が巴山の峠から作手の里を眺めると田の稲が夏の光で美しく輝いていました。夏の暑さもあり疲れていたのでふもとの方に下りて休むことにしました。ふもとの草谷(そうや)村(現在の明和地区)まで来たとき、小川に一尺(30㎝)ほどもある鯉が群がって泳いでいるのを見つけました。日本武尊はこれを捕まえて今夜泊まる家への土産にしようと考え、小川に入りました。すると、急に足が痛み始めました。あまりの痛さに小川から出て足を見た日本武尊は大変驚いてしまいました。なんと足の裏が赤くふくれあがっていたのです。従者らも心配し、早く手当てをしなければと長者平村の家にかけこんだところ、家主がふくれあがった足を見て「アカンタに刺されたんだ」と言いました。アカンタはナマズを小さくしたような赤っぽい体の魚で、毒針を持っています。小川に入ったときにこの魚に刺されてしまったのです。家主は薬を使って手当てするとだんだんよくなりました。これまでアカンタと呼ばれていた魚は皇子を刺した魚ということから、その時からミコサシとよばれるようになりました。

写真は岐阜県恵那市の土岐川(庄内川)上流で、多治見市の土岐川観察館の指導のもと、小学校の環境学習のための水質調査を行った際に捕獲し撮影したネコギギです。
白鳥神社群(愛知県新城市作手 他)
作手地区には、日本武尊の要請により、矢につける鏃(矢じり)を作ったという伝承から日本武尊が祀られている白鳥神社があります。そして、この地区に白鳥神社が数多く建てられていることは日本武尊への熱い信仰心を表しているといえます。
地誌ではこの地に日本武尊を祀る白鳥神社が建てられたのは平安時代のこととされています。また、戦国時代にはこの辺りが武田氏の領地であったことから戦渦に巻き込まれ社が焼失しましたが、その後再建されました。さらに室町時代から江戸時代にかけて白鳥神社の分祀があり、この村に多く存在することになったと言われています。
神社のあるどこかが鏃の生産地ではないかと推測もされますが、この地の日本武尊の伝承と日本を平定した英雄像が結びつき、特に戦国時代には広く信仰されていたのではないかと思います。
この神社本殿前の狛犬は狼のように見えます。
明治40年布里白鳥神社、大正4年只持白鳥神社が合祀されました。

湯谷温泉での戦い
湯谷付近に白鳥神社があり、そこが通過地であったかと推測します。
浜名湖岸に着く

日本武尊他を祭神としています。旧熱田神社として祀られていましたが他の里宮と合祀されて現在に至っています。三河山間部を抜けて南下した日本武尊の通過地と推測しています。
三嶽山の頂上付近にあります。戦国時代ここには城がありました。この神社をさらに登ったところに奥宮があり、日本武尊が祀られています。


日本武尊を主祭神として祀っています。地名の吉美は吉備がもとになっていますが従者の吉備武彦が東征後にこの地を治めたことによります。ここは浜名湖の西側の南端に位置しています。そのことから、尾張を海路と陸路に分かれて進んだ軍の集合地ではなかったかと思います。ここで全軍の体勢を整え、駿河に向かいました。
「当神社の御祭神日本武尊は、人皇十二代景行天皇の皇子にして、その武勲赫灼たるは歴史に徹するも明らかなり。その際、御道駐屯の事蹟として、当社付近に神井戸及び御手洗等の遺蹟を存せり。当社鎮座地、大字『吉美』、往時『吉備』と称せしは、尊の随者吉備武彦命の吉備を取りて、『吉備の郷』と称せしと伝ふ。創立年代不詳。慶長17年9月再興の棟札あり。慶長元年7月17日より御朱印を賜ふ。明治45年4月 県命に依り一宮神社を熱田神社に合併。氏子数400戸、崇敬者数千名に及び、尾張国 熱田神宮に縁深き祭神にして、国体宣揚、神徳崇敬上の神社なり」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
熱田神社の付近には日本武尊と関係する遺跡が3か所ありました。
熱田神社の西北に地元の人たちが「かめえど」と言うところがあります。昔そこには清水が絶えることなく湧き出す井戸がありました。日本武尊がこの地に来た時、大変のどが渇いていました。どこかに水はないかと探しましたが見つかりません。そこで、腰の剣を手に持ち、地面に突き刺したところ、そこから水が湧き出てきました。その水でのどを潤し、再び東に向かって歩き始めました。日本武尊が去った後も水は出続けました。村人たちは神井戸として祀りました。日照り続きの時にここで雨ごいをすると雨が降ったとも言われています。『続々遠州伝説集』
日本武尊が手を洗ったところです。

祭神は日本武尊です。
ここから清水が湧き出ていたと言われています。

日本武尊がこの地を通りかかったときの休息地と言われています。
浜名湖東岸へ

金山神や日本武尊らを祀っています。ここは浜名湖の東側、やや小高い所に位置します。地名の雄踏(ゆうとう)は日本武尊がこれから進軍する東の方を見て足を雄々しく踏みならしたことからついたとされています。

立ち寄り地と伝えられています。
この後は焼津まで伝承地が見つからないため、この付近から船で向かったのではないかと推測します。ただ、大井川上流に伝承地があることから、焼津へ入る前に、川を上り下りしたとも考えられます。