武蔵に立ち寄り
武蔵の国、東京都内には日本武尊が東征の際に立ち寄ったとする伝承が多くあります。それらの中には往復で立ち寄ったと伝える神社もあります。そのため、武蔵の国への立ち寄り順と、立ち寄った意味も含め次の3つの行程を考えてみました。ただ、上総-武蔵を考えた時、
a 足柄・鎌倉を過ぎ、武蔵に立ち寄った日本武尊は、その後南下して走水に向かった。
b 走水を出航し武蔵に着いた日本武尊は上陸後しばらく滞在し、再出航して上総に上陸した。
c 走水を出航し房総半島に上陸した日本武尊は上総の賊らを征伐した後に武蔵に向かった。
東京湾の北岸では弟橘媛の遺品が流れ着いたと伝えられています。それを知った日本武尊はそれらを確認したいと考えたのかもしれません。都内には弟橘媛の遺品を埋めたと伝えられている神社がいくつかあります。これを考慮すべきと考えました。また、都内の神社で日本武尊は東征に行く前に立ち寄ったと伝えているところがあり、これも無視できないと考えました。
aについては、日本武尊の行程を伝える走水神社や他の神社の社伝に、武蔵を経由して着いたとは書かれていないことから、走水神社に到着する以前に立ち寄ったと考えるのは無理がありそうです。三浦半島北部を通過し、現在の横浜、川崎を経由して都内に入り、再び東京湾の西側を陸路または海路で南下して走水に行ったと考えるのはやはり抵抗があります。
bについては、海が荒れて遭難しそうになりましたが弟橘媛の入水で海神の怒りがおさまりました。暴風や海流の影響もあり、船は上陸予定地よりもかなり北に流されたものの無事に房総半島北部に位置する海岸に到着したと考えます。そこは上総の境、少し西が武蔵の国でした。しばらくして弟橘媛の遺品が海岸に流れ着いたことを知った日本武尊は武蔵にしばらく滞在したのち、陸路または海路で東京湾の東側を木更津付近に向かって南下したと考えます。
cについては、『古事記』の行程に従えば、「蝦夷征伐=房総半島での戦い」となり、房総半島が折り返し地点で、この後武蔵に向かい、足柄峠から甲斐・信濃に向かったことになっています。しかし、『日本書紀』では房総半島よりも北に向かっていることが書かれているため、走水から房総半島に渡った日本武尊は戦を終えたのち武蔵に立ち寄ってから再び上総、下総を通って陸奥に向ったと考えます。
武蔵国(東京)は房総半島の激戦地となった千葉県君津市周辺から見て随分北にあります。房総半島の中央部付近での戦いが行われ、賊を征伐した日本武尊がそこから武蔵に向かって再び上総に戻るというのはとても日数のかかる道筋のように思えます。しかし、あえてそのように推測することにしました。
しかし、上総から下総への行程は陸路で房総半島北部を横断したわけではないかもしれません。地図だけ見るとその方が分かりやすいのですが、里人の口碑をもとに書かれた房総半島の伝説や史書を読むと、房総半島の海岸沿いに海路で上総から安房国を経由して下総に向かったとも考えられます。
行程を推測し整理すると
上総西岸の着岸地

祭神は天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)です。
神社でいただいた由緒書や伝承によると、日本武尊は東国平定の途次、海上の舟の中に神鏡があるのを見つけました。この時この地の村人たちが日照りと干ばつに苦しんでいたので、東征の成就とあわせて神鏡を祀って祈願したところ雨が降ったので村人たちは歓喜したと伝えられています。後に、景行天皇がここを訪れ「意富比神社」という称号を授けました。意富比の読みは「おおひ」です。これは「大日」つまり太陽につながることのようです。古くからここに祀られていたのは「太陽神」と言われています。平安時代にはこの辺りは夏見地区を中心として、伊勢神宮の神領(荘園)となりました。これを夏見御厨(なつみみくりや)といいます。その結果この地には伊勢神宮の祭神である天照大神が分祀された神明社ができました。この後「太陽神」は「天照皇大御神」と同化して「船橋神明」、「船橋大神宮」となりました。日本武尊が神鏡を奉斎した場所はここより西にある「海神」という地名のところです。「海神」には入日神社があります。船橋市海神の入日神社が日本武尊の東征の折、上総から船で下総に向かうとき最初に上陸したところで、後に意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)の地に遷座されるのですが、意富比神社の跡地には入日神社を建てました。夏見の日枝神社も意富比神社の元宮と言われているため、意富比神社は現在の船橋大神宮の地に落ち着く前に夏見に一度遷座されているとも考えられます。
*『千葉県誌』では景行41年4月のことです。日本武尊が都を出発したのは景行40年10月ですから、社伝より『千葉県誌』の方が正しいのではと思います。

船橋大神宮の境内にあり、日本武尊を祀っています。「船橋の御酉様」と呼ばれて親しまれています。また、この近くの常盤神社も徳川家康、徳川秀忠とともに日本武尊を祭神として祀っています。

船橋大神宮近くの海老川にかかる橋にあります。説明書きには、古代の英雄(日本武尊とは書かれていません)が海老川を渡ることができなかったため、村人たちが船を並べて橋の代わりとして渡したと伝えられています。

千葉街道(国道14号)の「式内元宮入日神社 入口」と書かれた柱から階段で下りたところに神社があります。社伝によるとここは船橋大神宮が現在地に遷座した跡地に建てられたので、船橋大神宮の元宮と言われています。境内の石碑には「日本武尊が東夷御征討の砌り伊勢湾方面より海路を利用し先ず上総の国に上陸 次いで軍団は上総の国を出帆せられ下総の国に入るに及んでこの地に上陸された」と書かれています。地名の海神はその怒りから弟橘媛が海に身を投じることになったことと関係があるのかもしれません。
船橋市のホームページによると、夏見地区は弥生時代から村が形成されていたようで、地名はここが伊勢神宮の神領(荘園)の「夏見御厨(なつみのみくりや)」だったことからつけられました。このことから、もとはここに伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社(船橋大神宮の由緒書には「伊勢神宮の遥拝所」と書かれています)がありました。その後、御厨が衰退し神明社は意富比神社(船橋大神宮)に合祀されたようです。参道の鳥居には「藁蛇:わらへび=龍」と呼ばれる縄の頭は西の伊勢神宮の方を向いています。また、ここは船橋大神宮の元宮とも言われています。
夏見の地名について「総の国回顧録」には次のように書かれています。「日本武尊が東征の折、葛飾野で戦いがありました。季節は夏で日照のため苦戦をしいられていました。そこで、雨乞いをしようと日枝神社付近で儀式を行いました。すると黒雲が生じ海の方にたなびきました。その時、一隻の船が現れ、中には八咫鏡がありました。日本武尊は浜で宮を建てました。この船を見たのが夏だったので夏見という地名となりました。また景行天皇が巡幸の折、里人に地名を尋ねたのですが、それを間違え、里人は菜摘をしていたので「なつみ」と答えたことから地名になったという説もあります。」
武蔵の国に滞在
東京都内の伝承地や日本武尊を祭神とする神社はとても多くあります。東京都にある神社の社伝を調べると、日本武尊は奥州への東征に行く前に立ち寄った、あるいは奥州からの帰路に立ち寄った、また、往路復路で立ち寄ったと伝わっている社があることがわかりました。
奥州に向かう前に立ち寄ったとされる神社を整理してみました。
日本武尊の行程として、千葉の入日神社付近を再船出し、足立区島根の鷲神社付近の海岸に上陸したと推測しました。その後、行程順は不明ですが、武蔵国内を回り、奥州の蝦夷を征伐するため上総に向かったと考えました。

日本武尊は東征に行く際に神社の近くの海岸に船で着きました。そのため、この地に日本武尊を祀り浮島明神としました。その後江戸時代に島根村の鎮守として大鷲神社と呼んでいました。現在の位置からは想像できませんが、当時はこの神社近くに海岸がありました。浮島の名はそこからついたのでしょう。神社の南にその痕跡が残っていると境内にある案内板に書いてありました。

栗原氷川神社の本殿に向かって右に社が建っています。左は稲荷神社です。祭神は弟橘媛と第六天大神で、吾妻明神社と第六天社が合祀されています。氷川神社は室町時代以前の創建かと思われますが、境内地にある3社にはかつてこの周辺にあった10の社が合祀されています。ここに弟橘媛を祀る神社がなぜあるのかはよくわかりません。弟橘媛が身に着けていたものが近くの海岸に流れ着いたという伝承があって吾妻明神として祀っていたのかもしれません。日本武尊が立ち寄ったとする伝承はありません。

日本武尊は海に身を投じた弟橘媛の陵をここに造りました。
後に弟橘媛の笄(こうがい:かんざしに似ていますが、髪をまとめるためのものです)が近くに流れ着いたと聞いた景行天皇がここに祠を立てて祀りました。

景行天皇の時代に創建された古社です。弟橘媛を祭神として祀り、日本武尊が合祀されています。身を投じた弟橘媛の御召物が海上に浮び、海岸に流れ着いたのを見た日本武尊はたいへん喜びました。そこで、築山を築きそれをおさめて陵とし吾嬬大権現として祀りました。日本武尊は食事の際使っていた楠箸2本を御陵の東に刺したところ、箸が根付き、枝が伸びて葉が繁り、男木と女木となったと言われています。境内にも御神木がありますが、樹齢は千年も経っていないと思われます。

日本武尊が湯島に滞在しました。村人が妃の弟橘媛を祀る祠を建てました。

日本武尊は東征に行く際に石神井(しゃくじい)村に立ち寄りました。

天神第六代坐榊皇大御神 (あまつかみむつのみよにあたりたまうさかきのすめおおみかみ)面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)を祀っています。
日本武尊が東征に行く際にこの地に立ち、筑波の嶺や富士の霊峰を仰ぎ見ました。この武蔵野台地で平安を願い、白銅の宝鏡を納めて社を創建しました。

日本武尊が東征に行く際、ここにしばらく滞在しました。人々はここに白鳥神社を祀りました。

日本武尊が東征に行く際、ここを通りました。この時、医薬祖神二柱の大己貴命と少彦名命を祀りました。

日本武尊が日本武尊が東征に行く際、武運を祈って創祀しました。

日本武尊が東征に行く際、ここに素盞鳴尊を勧請しました。

素盞嗚尊、日本武尊、櫛稲田姫尊を祀っています。
日本武尊は素盞嗚尊を勧請し、丘に上がって武蔵野国一宮(埼玉県氷川神社)を遙拝しました。

天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊を祀っています。
日本武尊が東夷に行く時、ここで戦勝祈願をしました。東征後、社前の松に熊手をかけて戦勝を祝ったと言われています。その日が11月酉の日だったため、酉の祭を開催するようになりました。

日本武尊は東征に行く際、ここで東夷平定の祈願をしました。
また、帰路にも立ち寄り、兵士たちの傷が治ることも祈りました。東夷平定が成り兵士の傷も治ったので、天武雲剣(あめのむらくものつるぎ)を奉納しました。

天照大御神、月読尊、須佐之男尊、豊受大神を祀っています。
日本武尊が東征からの帰途の際の休息地と伝わっています。