日本武尊伝説

日本武尊の足跡を追いかける 

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日本武尊の東征 弟橘媛の悲劇 
 対岸の房総半島上総の方を見やると、対岸はとても近くに見え、海も穏やかでした。日本武尊はこの海に向かって「こんな海なら一つ飛だ」と叫んだのです。それが悲劇の始まりでした。


 
 『日本書紀』

 相模(神奈川県)まで到り、ここから海を挟んだ対岸の上総(千葉県)に進行しようとしました。海を見た日本武尊は、声高らかに自慢して言いました。
「こんな小さな海、一つ飛びで渡れるだろう。」
船が沖に進んだ時、急に暴風が吹き荒れました。そのため船は漂うばかりで先に進みません。
 この時、日本武尊に同行していた妃で弟橘媛(おとたちばなひめ)が日本武尊言いました。弟橘媛は穂積氏忍山宿禰(ほずみのうじおしやまのすくね)の娘です。
「今、暴風が起きて波が高く、日本武尊の船は沈みそうです。これはきっと海神がお怒りなのです。私は身分の低い身です。尊の代わりにこの身を沈めましょう。」
そう言い終えると弟橘媛は波間に身を投じました。すると、暴風はすぐにとまりました。
 こうして船は岸に着くことができました。この時よりこの海を「馳水(はしりみず)」(走水 東京湾)と呼んでいます。

 
  

日本武尊は走水神社の前から出航


 鎌倉の北を過ぎ、三浦半島を南下してきた日本武尊らは東京湾が見える現在の走水の海岸に到着しました。到着した日本武尊一行はここに御所を建てました。その地を御所が崎と呼んでいます。村人たちは一行を歓迎し、食事を作って日本武尊らをもてなしました。食事を献上した者の中に大伴黒主(おおとものくろぬし)という名が見られます。
 


 三浦半島の東海岸、海の向こうに房総半島が見えるところに日本武尊と弟橘媛は滞在していました。しばらくしていよいよ出航の朝となりました。川面を見ると、倭姫から授けられた宝剣によって水を金色に輝かせていました。そのためここを「金川」(かながわ:神奈川の地名所以)と言うようになりました。
 対岸の房総半島上総の方を見やると、山々はとても近くに見え、海も穏やかでした。日本武尊はこの海に向かってつい「こんな海なら一つ飛びだ」と叫んだのです。
 出発の時、これまでのもてなしに感謝した日本武尊は村の長に冠を与えました。長はその冠を石櫃に納め、土中に埋めて社を建てました。それが走水神社です。
 
 
  走水神社 神奈川県横須賀市走水2-12-5  GoogleMap

日本武尊と弟橘媛命を祀っています。

 
 
 

 境内に弟橘姫のプレート「舵の碑」があります。東京芝公園に日露戦争で亡くなった佐渡丸の乗組員を慰霊するため弟橘姫の銅像が立てられていましたが、関東大震災で崩壊してしまったようです。再びこれを建てようと画家の飯塚氏がこの慰霊の志を受け継ぎ、浦賀水道の全ての船の航行の安全を祈り作成したと言われています。(走水神社のサイトを調べていて得た情報です)
 
「走水神社は、十二代景行天皇の皇子、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神をお祀りしております。景行天皇即位四十年、東国の蝦夷が天皇に叛くので天皇は日本武尊にその鎮定を命じました。勅命を奉じて武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命より神宝の天叢雲之剣と火打袋とを授けられ、東国に東征の軍を起こされました。御齢30歳と云われております。途中、静岡(焼津)において賊にだまされ火攻めの難に遭遇されましたが天叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したと云われ、これよりこの神宝を草薙之剣とも呼ばれ、以来熱田神宮の御神宝となっております。武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。ここに御所(御座所)を建てました。(現在、御所ガ崎と云われております。)走水の地において、軍船等の準備をし上総国に出発する時に村人等が武尊と橘媛命を非常に慕いますので、武尊は自分の冠を村人等に与えました。村人等はこの冠を石櫃納め土中に埋めその上に社をたてました。(走水神社の創建です。)武尊は、上総国へ軍船にていっきに渡らんと船出なされましたが、海上中ばにおいて突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進みもならず戻りも叶わずあわや軍船は転覆するかの危機に、武尊につき添ってこられたお后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、私が海に入り荒ぶる神の御魂の怒りを鎮めるほどに尊様はつつがなく勅命を奉じてその任を完遂してほしい」と告げ「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と辞詠し、海上に菅畳八重、皮畳八重、あしぎぬ畳八重を敷き、その上に身を投じたところ忽ちに波は凪ぎ風は静まり武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に到着なされました。(以来、水走る走水と云われております。)上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて京に帰る途中、碓氷峠より遥か東方に光る走の水の海の輝きを眺め、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」嘆き呼びかけたと云う、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったと云われております。武尊は、京へ帰路の途中伊吹山の賊と戦いの後、病にかかり伊勢国能襃野でお亡くなりになりました。御齢33歳と云われております。以上は、奈良朝時代初期に編纂された「古事記」「日本書紀」に誌るされており又、弟橘媛命が御入水してから数日して海岸に櫛が流れつきました。村人たちはその櫛を武尊と弟橘媛命が住んでおりました御所ガ崎に社を建て櫛を納め橘神社としましたが、明治18年御所ガ崎が軍用地になったため橘神社は走水神社境内(神殿の横の機雷のあるところ)に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。記念碑、顕彰碑、感謝の碑 一、弟橘媛命記念碑「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」 媛の辞詠 (明治43年建) 一、庖丁塚「庖丁と鳥獣魚介菜類等食物に感謝」(昭和47年建) 一、舵之碑「弟橘媛命の顕彰と海の平和安全を祈る」(昭和50年建) 一、針之碑「草枕 旅の丸寝の紐絶えば あが手とつけろ これの針持し」針と衣類等に感謝(昭和58年建) 一、顕現之碑「武尊と橘媛命の愛と御神徳を崇める。」(平成3年建) 史跡・伝承 一、御所ガ崎「武尊と橘媛命が御滞在したときの御座所のあった所」 一、旗立山「武尊が征軍の旗を立てた所」(御所ガ崎の後背) 一、御座島「武尊と橘媛命の訣別のお盃があった所」(神社前の岩礁) 一、皇島「武尊が軍船に乗船された所」(御所ガ崎の北岩礁) 一、むぐりの鼻「橘媛命の侍女等が媛に殉じた所」(御所ガ崎の最先端岩礁) 一、伊勢山崎「武尊が伊勢神宮で授けた御神符を祀った所」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
 
 

潮田神社  神奈川県横浜市鶴見区潮田町3丁目131−1  GoogleMap

 
 祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国常猛命(くにのとこたけのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと・いたけるのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、豊雲野命(とよくものみこと)、国狭槌命(くにさつちのみこと)、豊受比売命(とようけひめのみこと)、岐久理比売命(きくりひめのみこと)、誉田別命、菅原道真公です。大正時代に御嶽社と杉山社が合祀され潮田神社となりました。
日本武尊が東征の折、近くの海岸にあった松や杉が生い茂る森に小祠を建てて祭神を奉斎し無事に東征できることを祈願しました。

 別説があります。
 日本武尊が 東征で相模から上総に渡るとき、従者に命じて旧西潮田村海岸近くの古杉老松の森に豊斟渟尊(とよくむねのみこと=別名 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)と国狭槌尊(くにさつちのみこと=別名 国狭立尊(くにのさたちのみこと))を祀る祠を建てさせたと言われています。
 境内の案内板には以下のように書かれています。
「当社は、大正初期、京浜工業地帯の一代発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため、西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立尊」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられています。
中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親天皇の御世、永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました」

 
 
 
 

 

 

走水神社の銅板

 船出した一行でしたが、急に海が荒れ、転覆する船も見えました。このままでは日本武尊が乗った船も遭難してしまい、東国の平定を見ることなくここで日本武尊の命が消えてしまうかもしれません。弟橘媛はこの海の急変は、この海を前に日本武尊が「こんな海一つ飛びだ」と叫んだことが海神の怒りにふれてしまったのだと思いました。このとき、弟橘媛は海神の怒りを鎮めるためにはわが身を捧げなければいけないと悟りました。

 船の端に立った弟橘媛は日本武尊と過ごした日々のことや、火の海の中この身を守ってくれたやさしいまなざしを走馬灯のように思い出し「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と歌を詠みました。そして、日本武尊の方を振り向くと、自ら海に身を投げました。
 
 海神の怒りを鎮めるため弟橘媛は海に身を投じました。 
 『古事記』では弟橘媛が海に入ろうとするとき、菅畳八重、皮畳八重、絁畳(きぬたたみ)八重をを波の上に敷いてその上に下りたと書かれています。この時弟橘媛は次のような歌を詠んでいます。 
 

 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
  さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
 (相模の小野の燃える火の中で、私のことを気遣って声をかけて下さったあなたよ)

 *小野は単に野原を意味する あるいは「小野」という地名をさします。
 神奈川県の小野神社(神奈川県厚木市小野428)には野火の難の伝承があります。
 
  弟橘媛が身を投げてすぐに波風がおさまり、一行は無事に上総国に着岸することができました。日本武尊は倭姫命の配慮に続き、再び女性によって助けられました。これは美談ではあるのですが、最愛の妻を亡くすことになった悲劇です。火打ち石と草薙剣を授けた倭姫命や東征の最後に宮簀媛が登場するように、日本武尊の活躍の陰には女性の存在があるようです。
 
 

 弟橘媛命が入水してから数日して、出航した走水の海岸に櫛が流れつきました。村人たちはそれを御所が崎に社を建てて納めました。これが橘神社です。しかし、明治時代に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社に合祀されました。橘樹神社があったのは御所が崎の東側で、現在は漁港となっています。

 
 走水神社には弟橘媛命記念碑が立ち、その碑には「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と彫られています。

 
 
 
 また、走水神社の境内には元橘樹神社があったところから採取された砂があり、参拝者に配付されています。

 
 

 
走水神社 別宮
 弟橘媛命に殉じた侍女も祀られています。
 旧別宮
 
 
 本殿左の別宮
 
 
 
包丁塚(ほうちょうづか)
 大伴黒主(平安時代に同名の歌人がいます)が日本武尊に料理を献じたことから料理の神様として祀られています。
 

 

 以下の伝承地は現在ははっきりとはわかりません。走水神社の石段を下り、海沿いに北に少し歩いたところに「御所ヶ埼」の入り口があります。岬の先端に御座所を設置したのでこの名前がついていますが、岬の小高い所に旗を立てたことから旗山崎公園という名称となっています。弟橘媛が入水7日後に遺品の櫛が流れ着きました。村人たちはこの旗山に陵を造りその櫛を納めました。後にここは弟橘媛を祀る橘神社が創建されましたが、江戸時代に砲台が築かれ、また明治時代に軍用地となったことから橘神社は走水神社に合祀されることとなりました。現在も石積みやレンガ積みの遺構が見られますが「走水低砲台遺構」は許可のない立ち入りは禁止されています。
 
 
 
 
 
走水神社 手水社
 ここに湧き出る水は富士山から地中を流れてきた真水と言われているそうです。このわきに御砂倉があり、ここには以前橘神社があった御所ヶ埼東海岸の砂が置かれています。
 
 
 
  御所ガ崎「日本武尊と橘媛命が御滞在し
たときの御座所のあった所」
 
 
 旗立山「日本武尊が征軍の旗を立て
た所」(御所ヶ崎の後背)
 御座島「日本武尊と橘媛命の訣別のお盃
があった所」(神社前の岩礁)
 
 
 
皇島「日本武尊が軍船に乗船された所」
(御所ヶ崎の北岩礁)
 
 
 
 むぐりの鼻「橘媛命の侍女たちが媛に
殉じた所」(御所ヶ崎の最先端岩礁)
 
 
 
 伊勢山崎「日本武尊が伊勢神宮で授けた
御神符を祀った所」
 

 

 

 弟橘姫が祀られている神社地図 

 
 
 弟橘媛のルーツを探ってみました。
 

 
橘の木 橘神社 千葉県茂原市本納
 
 橘はミカン科ミカン属の常緑小高木で日本原産とされています。古代にも自生していた柑橘類で、実はミカンと同じですが酸味が強く食用には適さないようです。いつも香り高い実がなることから記紀に非時香果(ときじくのかくのこみ)と書かれこれが異名となっています。
 
 

 「弟橘媛」は『日本書紀』による漢字表記です。『古事記』は「弟橘比売命」と書いています。
 父は穂積氏忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね) 『日本書紀』、 建忍山垂根(たけおしやまたりね)『古事記』  で香川県の出身とされています。『西讃府志』によると「弟橘姫ハ讃岐人穂積氏忍山宿禰ノ女也」(さぬきびとほずみしおしやまのすくねのむすめなり)とされていますから、弟橘媛が誕生する前の父は香川県に住んでいたことになります。
 香川県善通寺市に大麻(おおさ)神社があり、境内に白玖祖霊社(はくそれいしゃ)という弟橘媛を祀る神社があります。
 

大麻(おおさ)神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241

 
 
 

白玖祖霊社(はくそれいしゃ) 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241

 
 
 
 

 また、讃岐香川県の東かがわ市には白鳥神社が鎮座し、日本武尊と橘姫が祭神ですが、ここには白鳥が飛来したという伝説があります。
 

白鳥神社 香川県東かがわ市松原

 
 
 

 
 
  忍山宿禰は物部氏と同族の穂積氏の祖となっています。讃岐を出た次の任地が三重県亀山市であったようです。
 三重県亀山市の忍山(おしやま)神社は垂仁天皇の時代、倭姫命が倭姫が御杖代となって天照皇大神の鎮座の地をもとめて各地を御遷幸されていた際に天照大神を奉じた元伊勢の鈴鹿小山宮跡の有力候補地とされています。倭姫命は桑名市の野代宮から亀山市に移り、鈴鹿小山宮で天照大神を奉じました。忍山宿禰が神官として忍山神社に就いていましたが、倭姫命が亀山を訪れる以前のことだったようです。

倭姫命御巡幸地の一社 鈴鹿小山宮(奈其波志忍山宮)
 

 鈴鹿小山宮があったと言われる忍山神社ですがその候補地がいくつかあります。その最有力候補地が亀山おお市野村の忍山神社です。

候補地1

 忍山神社(おしやまじんじゃ)  三重県亀山市野村4丁目4−65 
 この神社入り口の案内板に「皇大神宮遷幸地跡」及び「弟橘媛命生誕地」と書かれており、社伝ではここで弟橘媛が生まれたと伝わっています。

 
 
 

 

候補地2

 愛宕神社・愛宕山    三重県亀山市若山町
 亀山という地名は忍山神社が神山にあり、それが転じたものとも言われています。神山は現在の愛宕山のことで押田山とも呼ばれていました。押田山は忍山が転じたとも言われ、愛宕山が忍山神社の旧社地とされています。


 
 
 
 
候補地3
 
 布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)  三重県亀山市布気町1663    
 この神社は亀山市布気町にありますが、もとは現在の忍山神社の地にあった社で、忍山神社の方が別地から合祀されていました。そのため、布気神社(白鬚神社)と忍山神社の2社が同居状態となっていました。しかし、いつの間にか神社名が忍山神社だけとなり、そのため、もともとあった布気神社が移転せざるを得なくなりました。そこで現在地に移転したということです。現在忍山神社がある亀山市野村は旧地名を「布気林」といっていたようです。
 
 現在の忍山神社の地に鈴鹿小山宮があったのか、忍山神社の旧社地と言われているところにあったのか不明ですが、現在の忍山神社の場所が鈴鹿小山宮跡だったと推測しています。もともとそこは忍山神社ではなく布気神社があったところです。つまり、鈴鹿小山宮の跡地に布気神社が建てられたのではないかということです。
 

 
 日本武尊が東征を始めたころ、忍山宿禰は愛知県知多市に住んでいたようです。愛知県東浦町にある入海(いりみ)神社の祭神は弟橘媛一柱のみです。やや高台に神社があり。この辺りには入海貝塚と呼ばれる縄文時代の遺跡があることから、当時は海岸線が目前であったと考えられます。この遺跡からは入海式土器と呼ばれる砲弾型の土器が発見されているそうです。


 徳川家康の母於大の方はこの東浦町緒川で生まれました。居城の緒川城は忍山宿禰の古墳と言われているところに古墳を壊して築城されました。古墳の石室を構成していた石は城の建設に使われましたが、この城跡近くに古墳にあった石と分かっている2つの石があります。一つは入海神社の参道わきにある「夜泣き石」です。江戸時代、村人が城跡を歩いていると奇妙な声が聞こえてきました。何だろうと見回してみると石から聞こえてくるのがわかりました。この石は古墳の石であろうと考え、祟りのないように入海神社まで運んだのです。さらに二つ目の石は近くの地蔵禅院境内にある「うなり石」です。

入海神社 愛知県知多郡東浦町緒川屋敷壱区48 地図

 
 
 

地蔵禅院 愛知県知多郡東浦町緒川字屋敷 地図
 昔緒川城跡にあった石ですが、夜にうなるような音がするのでここに運んだところ聞こえなくなったと言われています。
 
 
 


 緒川城は織田軍×今川軍の戦場ともなりました。少し離れた所に村木砦跡があります。緒川城を攻めるために今川軍が築きました。この城跡に八劔神社があり、日本武尊が祀られています。このことから、この周辺は日本武尊の宿泊地となっていたかもしれません。

八剣神社(村木砦) 愛知県東浦町  地図

 
 
 

 
 日本武尊は東征の前に忍山宿禰を訪ねています。忍山宿禰は穂積氏の祖とされています。忍山宿禰は日本武尊のために水軍を出しました。自らも乗船しています。また、娘の弟橘姫を妃として日本武尊に同行させました。かつて入海神社前に広がっていた海岸は忍山宿禰らが出航した湊でもあるかもしれません。

 東海道、駿河と同行していた弟橘姫は、日本武尊一行が神奈川県走水から現在の浦賀水道を渡ろうとした時、海が荒れて難破しそうになったため、皆の無事を祈り海中に身を投じました。東征のあと従軍していた里人たちが帰ってきたとき、弟橘姫が身に着けていた櫛が緒川の紅葉川に流れてきたのを見つけました。人々は弟橘姫を偲び、この櫛を祀る神社を建てたと伝えられています。(入海神社社伝)

 忍山宿禰は東征後、相模国西部(現在の小田原市)に国造となり移り住みました。

 
  


 日本武尊が東征に出かける前に、都に近い奈良県の神社に二人で参拝したという言い伝えがあります。二人がいつ出会ったのかは不明ですが、二人の間には稚武彦王(わかたけひこのみこ)(『古事記』では若建王と表記)の他7人の子がいます。そのため、二人は日本武尊の熊襲征伐後に出会い、都で一緒に暮らしていた期間があるかもしれません。

伊射奈岐神社 奈良県天理市柳本町 地図

 境内に大和天神山古墳があり全長103mの前方後円墳です。
 創建時の詳しい社記・由緒等は天文年間に火災で焼失してしまいましたが、崇神天皇の時代に伊勢神宮と同じ時期に創建された古社と伝わっています。境内の由緒書には日本武尊が東征の前に妃の弟橘媛とともにここで戦勝祈願をしたことが書かれています。

 
 
 

 

  

<説1 弟橘姫は船から入水>

 

 日本武尊軍を乗せた船団は東京湾を東に房総半島に向けて出航しました。しばらくは順風で難なく渡ることができると思われていましたが、沖まで出ると、急に空が暗くなり、風も強くなって、暴風となって日本武尊らを襲いました。一行は先に進めなくなるばかりか、高い波で沈没する船も見られるようになりました。このままでは日本武尊も海に投げ出されてしまいます。

 この時、日本武尊の船に乗船していた妃の弟橘姫が「これは海神がお怒りなのです。これを鎮めるには私の身を海に捧げるのがいいのです。私の身分はそんなに高くはありません。気になさらないでください。」と言い終えると、波間に身を投じました。弟橘姫に従ってきた10人の侍女たちもこれに続きました。
すると、あれほど荒れていた波風がおさまり、元の静かな海に戻りました。日本武尊たちの船は無事に対岸の上総の国に着くことができました。
 
 

<説2 弟橘媛は島の岩から入水>

 

 日本武尊軍を乗せた船団は東京湾を東に房総半島に向けて出航しましたがすぐに暴風となって進めなくなりました。仕方なく一旦出航地に戻り、御所を造って風が収まるのを待ちました。日本武尊らはここで1か月間過ごしました。この御所があったところを 御所崎といいます。周りに旗を立てたので 旗山ともいいます。

 しかし、いくら待っても荒れた海が静まりません。すると、日本武尊に同行していた妃の弟橘媛が「これは海神がお怒りなのです。これを鎮めるには私の身を海に捧げるしかありません。」と言いました。これを聞いた日本武尊はうなづき、御所崎先端の御所島(御座島)で別れの盃を交しました。
 そして、弟橘媛は海に身を投げました。これを知った10人の侍女たちも姥島のむぐりの鼻から身を投げました。やがて海が静まり、日本武尊らは船を出すことができました。この時、村人のもてなしに感謝し村の長に冠を与えました。村人らはこの冠を石櫃に納めて土中に埋め、その上に社を建てました。
 日本武尊らは皇島(すめらじま)から出航しました。日本武尊らの船は海の上を滑るように進みました。これを見て日本武尊が「水が走る」と言ったので「走水(はしりみず)」という地名になりました。これが走水神社の名の所以です。
 
 説1も2も弟橘媛が身を投じる様子がわかりますが、説2は説1をより詳しくしているとも考えられます。『日本書紀』では説1の書き方ですが、説2にある1か月間の出来事を要点のみ短く書いたとも解釈できるのではないでしょうか。
 
 

侍女らも入水していた

 

 弟橘媛に従っていた5人の侍女が媛と共に身を投じましたが、その中の一人蘇我大臣の娘が対岸の海岸に漂着し、里人の看病で蘇生したと伝えられています。

 
 
 
 
蘇我比咩神社(千葉県千葉市中央区蘇我町1-188)  GoogleMap

 この神社は天照皇大御神(伊勢の大神)、蘇我比咩(蘇我氏の祖)らを祀っています。
 弟橘媛が入水する際、姫に付き従っていた次女ら5人も海に身を投じました。その中の一人が蘇我大臣の娘の蘇我比咩です。娘は海岸に流れ着き村人たちの看護で生き返り、都に戻ることができました。看護されていた時「我蘇り」と言ったということで神社のある地名が「蘇我」となったと言われていますが、蘇我大臣の娘だからついたとも言われています。他の次女らも姉崎、五井、八幡に流れ着いて生き返ったと言われています。
 応神天皇の時代、この村人たちの行いに感銘した天皇はこの地に蘇我氏を派遣し国造として治めさせました。村人たちは蘇我氏の守護神でもある春日社と比咩社の分霊を祀り神社を建立しました。
 また、672年の壬申の乱の後大友皇子側に就いていた重臣の蘇我赤兄(あかえ)が配流されてきたこともいわれとなっています。

 
 
 

 

走水神社  別宮(神奈川県横須賀市走水2-12-5)  GoogleMap

 弟橘媛と共に侍女らを祀っています。 
 境内には本殿を挟んで両側に新旧別宮があります。

 
 
 

 

風鎮めの神 

 弟橘姫は入水の時風鎮めの神に日本武尊が対岸に無事に着くよう祈りました。
 
島穴神社   千葉県市原市島野1129,1130  GoogleMap
 
 祭神は風鎮めの神の志那都比古尊です。
 海が荒れ船が転覆しそうになったため、弟橘媛は大和国の風鎮めの神である龍田大社を遥拝し、安全に航海できたならば上陸地に風鎮めの神を祀ると言いながら海に身を投じました。船は無事に上総に着いたので、日本武尊はここに志那都比古尊(しなつひこのみこと)を祀る神社を創建しました。志那都比古尊は風鎮めの神であり自然災害から守る神でもあります。
 
 
 
 
 
姉埼神社   千葉県市原市姉崎2278  GoogleMap
 祭神は志那斗弁命で日本武尊、天児屋根命他が祀られています。
 社伝では景行40年に舟軍の安全航海を祈って宮山台とよばれるこの地に志那斗弁命を祀ったとされています。志那斗弁命は弟橘姫が入水時に祈っていた風神です。後に源頼朝が房総から鎌倉に向かう途中ここで馬ぞろえをして武運長久を祈ったので、以前は流鏑馬が行われていたようです。
 
 
 

 

海神

 千葉県船橋市にある船橋神社には日本武尊が上陸したという伝承があります。
 

 
武内元宮入日神社(千葉県船橋市海神3-7-8)  GoogleMap

 船橋神社の元宮は入日神社といい、船橋大神宮の元宮となっています。この神社のあるところが海神という地名です。

 
 
 
 

  

船橋神社・意富比神社(千葉県船橋市宮本5-2-1)  GoogleMap

 
 
 

 御祭神は、天照皇大神で、日本武尊が東征の途中に船橋の港に到着し、そこで天照皇大神を祈誓、奉祀されました。景行天皇から「意富比神社」の称号を賜ったと言われています。
 
 
 

 
 
 弟橘媛が海に身を投げて数日経ってからのことです。走水の海を囲む各地の海岸に弟橘媛の遺骸や媛が身に着けていた遺品が流れ着きました。村人たちはそれを埋めて神社を建立して祀ったと伝えられています。弟橘媛が着ていた服の袖が流れ着いたことから「袖ヶ浦」という地名がついたとされています。

 

 各地の伝承を整理してみました。


弟橘媛の遺骸・遺品が流れ着いたところ

 

<櫛と遺骸が流れ着いた>


 
吾妻神社  神奈川県中郡二宮町山西  GoogleMap

  祭神は弟橘媛です。
 吾妻山(標高136m)の展望台近くにあります。弟橘姫が入水して7日の後、櫛が海岸に流れ着きました。これを埋めて御陵を造りました。また、翌日には小袖も流れ着いたので山頂に埋めたと伝わっています。 
 
 
 
 
 吾妻山の下に「梅沢」という地名がありますが、これは「埋沢」から字を替えた地名です。さらに「袖ヶ浦」という地名もあったようですが、地図からは確認できません。房総半島の西海岸沿いの広い範囲で袖ケ浦と呼んでいましたが、これとは別です。下の写真は吾妻山山頂と山下の梅沢地区付近です。
 
 
 
 
 
 
 千葉県の『君津郡誌』では橘媛の墓について数説あるとして紹介しています。
 それによると相州(相模)の大磯梅沢の入り口に橘媛を祀る上の宮があり、橘媛の御体が流れてきたので祀っているとし、街道沿いに下の宮がありここには衣装が流れてきたので祀ったとあります。また櫛も流れ着いたので陵を造ったと伝わっています。神奈川県二宮町にある吾妻山がこれにあたるようです。
 

  

走水神社  神奈川県横須賀市走水2丁目12−5 GoogleMap
 海岸に弟橘媛の櫛が流れつきました。村人らは旗山崎(御所ヶ崎)に橘神社を建てて櫛を納めました。この旗山崎は明治時代に軍用地となり、橘神社は移転し、走水神社に合祀されています。
 
 
 
 

 

橘神社  千葉県木更津市太田2丁目 GoogleMap

  木更津市にある標高44mの太田山に鎮座しています。日本武尊はこの山に登り海を見下ろして弟橘媛を偲んだと伝えられています。この神社は縁結びの神で、周辺は「恋の森」とよばれています。またここを立ち去りがたく思いしばらく滞在していました。その時「君去らず袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」の歌を詠んだとも言われています。木更津の古称は「君不去里」です。この歌がもとでついた地名です。
 里の言い伝えではここに弟橘媛の御櫛を埋めたともいわれています。
 これらの伝承は里に伝わっており、『上総国史』にも書かれていることが『君津郡誌』にふれられています。

 
 
 

 

きみさらずタワー  千葉県木更津 GoogleMap

 千葉県木更津市の太田山山頂にあります。木更津市の名の謂れともなっている日本武尊の歌はこの高台から詠まれたとも言われています。公園にある展望台には2本の塔があります。これらの先端に日本武尊と弟橘媛の像が向き合って立っています。この展望台は平成4年に建てられたものです。展望台からは天気が良いと東京湾まで見渡せます。

 
 
 
 
 
 

<衣の袖が流れ着いた>

 

吾妻神社 千葉県木更津市吾妻2-7-55 GoogleMap

 主祭神は弟橘姫です。
 弟橘姫が着ていた着物の袖が近くの海岸に流れ着き、ここに埋めたとされています。

 この辺りは「吾妻の森」と呼ばれていました。ここに弟橘姫が着ていた衣の袖(『古事記』や里伝では櫛)が流れ着きました。そのため、この一帯は「袖ヶ浦」(そでがうら)と言われるようになりました。

 日本武尊の歌
 「君去らず袖しが浦に立つ波のその面影をみるぞ悲しき」
 近くに池があり、「鏡が池」と呼ばれています。弟橘姫の鏡を沈めたところと言われています。

 境内の案内板による

 千葉県の『君津郡誌』では

 諸説あるうちの一つとして、上総の吾妻村の吾妻森に吾嬬明神を祀っているところがありますが、ここは日本武尊が東征を終えた後に(里人が?)祀ったとしています。
 
 
 
 
鏡ヶ池・吾妻の森 吾妻神社境内 千葉県木更津市吾妻2-7-55 GoogleMap
 
 
 
 ここはかつて吾妻の森と呼ばれ、中心に澄んだ水が湧く池がありました。この水で日本武尊や従者らはのどを潤したり、自分の姿を映して身なりを整えたりしていました。また、この池に弟橘媛の鏡を沈めたと伝わり、鏡ヶ池と呼ばれるようになりました。

 

  
 
小櫃川
 小櫃川は房総半島の清澄山系に水源があり君津市、袖ケ浦市、木更津市を流れて東京湾に注ぐ全長約88㎞の二級河川です。この川の名は、弟橘媛の遺骸が海岸に流れ着き、村人たちは山で木を切り倒してこの川に流し、その木で小さな櫃を作ったことからつけられたと言われています。
 
 君津市には672年の壬申の乱のとき大海人皇子軍と戦って敗れた大友皇子(弘文天皇)が逃れてきたという伝説があります。『君津郡誌』にも詳しく書かれており、その伝承がある神社も数社あります。詳細は飛鳥の扉
大友伝説
 
 
 
 
 
みさご島・浮島 千葉県安房郡鋸南町勝山  地図 GoogleMap
 ここも弟橘姫のなきがらが流れ着いたと伝えられています。勝山海岸に見える小島で、村人たちはここに流れ着いた弟橘姫のなきがらを葬りました。「みささぎ島」や「操島」と呼んでいたそうですが、それが「みささご」→「みさご」となったようです。写真を見てもわかると思いますが、みさご島はとても小さな島で、島というより岩です。*島名については覚賀鳥(かくかのとり:みさご)との関係があるかもしれません。東征の後、海路で帰る途中の建稲種命(たけいなだねのみこと:日本武尊の副将)は覚賀鳥を尊に献上しようとして海に落ち亡くなっています。
 遠方の浮島には景行天皇が逗留したとする言い伝えがあります。このとき浮島宮がおかれました。天皇がこの宮にいるとき『日本書紀』にある以下の来事がありました。(下画像右端が浮島)
  『日本書紀』には景行天皇53年冬10月のこととして次のように書いています。
 上総の国に至った景行天皇は海路で淡水門(あわのみなと 淡=安房:淡水門を浦賀水道とする説と館山湾とする説があります)を渡りました。この時覚賀鳥(かくかのとり:ミサゴ)の声を聴きました。天皇はその姿を見たいと、海に出て探しました。その時白蛤(しろうむぎ:はまぐり)を得ることができました。膳臣(かしわでのおみ)の祖先で名を磐鹿六雁(いわかのむつかり)という者が白蛤をとって料理し献上しました。この働きを大変ほめた天皇は六雁を膳大伴部(かしわでのおおともべ)という役に就けました。この出来事は千葉県南房総市にある高家(たかべ)神社にも伝わっています。
 *景行天皇の行程は、上総→淡水門と書かれています。三浦半島から浦賀水道を渡り、一旦上総(房総半島)に着いた天皇は、その後淡水門を船で渡ったと理解できるため、淡水門は館山湾とするのが適しているのではないでしょうか。
 
 
 

 

<櫛が流れ着いた>

 
吾妻神社・奥の院  千葉県富津市西大和田98 GoogleMap

 里の言い伝えではここが吉野の吾妻神社とされており、小高い山の上に社殿が建っています。境内の案内板に祭神は弟橘媛尊と書かれていますが尊ではなく命の間違いと思われます。海岸に弟橘媛の櫛が岩瀬の布引の浜(布引浦とも呼ばれていた)に流れ着いたので社殿に納めたと書かれていました。また、この時この櫛を馬がくわえて吾妻山に駆け上がったので、それがもとで「馬だし祭り」として行われています。
 地名の富津は「布流津」からついたそうです。弟橘媛が入水時に身に着けていた白布が流れ着いたので、里人が埋めて祠を建てたと伝えられています。現在 千葉県富津市富津に貴布祢神社がありそれを伝えています。
 
 
 
奥の院
 
 
 
 
 

<衣の袖や櫛が流れ着いた>

 
人見神社  千葉県君津市人見892 GoogleMap
 人見山の山頂に建っています。祭神は天之御中主命(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊命、神皇産霊命です。
 神社のある山頂から東京湾が見渡せ、晴れた日には富士山を見ることもできます。
 木更津市の大田山の伝承と同様に、日本武尊はここから弟橘媛を想い海を眺めていたと伝わっています。この時「不斗見会奈波志給う」から「不斗見」となり「人見」となったと社伝に書かれています。この神社より北の海岸には媛が来ていた衣の袖や櫛が流れ着きました。袖ケ浦の地名由来になっています。現在の海岸はここから随分離れています。当時の景色を想像することは難しく思われます。
 
 
 

 
  

貴布禰(きふね)神社 千葉県富津1174   GoogleMap

 祭神は弟橘姫命です。
 弟橘媛が入水したときに身に着けていた白布がこの近くの海岸に漂着したので祠を建てたと伝えられています。白布が漂着したところ布流津(ふるつ)と呼んでいましたが、これが富津と変わりました。

 
 
 
 
 現在の富津岬 富津公園
 
 
 
 
 

野見金山(のみがねやま)・野見金(のみがね)公園 千葉県長生郡長南町水沼  GoogleMap
 野見金山は標高約180mの山です。日本武尊が東征でこの近くに来た時のどが渇いてしまいました。しかし、あたりを見ても飲み水はありませんでした。そこで「飲み兼ね」と言ったと言われています。それが野見金に転化したと伝えられています。市原市との境に小高いところがあり鏡塚と呼んでいるそうです。その鏡塚には弟橘媛の鏡が収められていると言われていますが、その場所を確認することができませんでした。

 
 
 
 
 

<衣が流れ着いた>

 
吾嬬神社  東京都墨田区立花1丁目1−15  GoogleMap

 弟橘姫の御裳が流れ着いたのでこれを祀りました。
 
 
 
 

<弟橘姫の御衣とかんざし>

橘樹神社(たちばなじんじゃ)(神奈川県川崎市高津区子母口122)・子母口貝塚・ 富士見台古墳GoogleMap

倭建命と弟橘比賣命が祀られています。
弟橘比賣命が入水した後、着物や冠が流れ着きました。そのため、ここに墓を築き社を建てました。近くの富士見台古墳は弟橘姫の墓という説もあります。

 
 
 
 

<笄(こうがい) 髪飾り >

亀戸浅間神社・笄(こうがい)塚     東京都江東区亀戸9-15-7 GoogleMap
笄が付近の海岸に流れ着きました。
 
 
 

  

<櫛が流れ着いた最も遠い伝承地>

入海神社   愛知県知多郡東浦町緒川屋敷壱区48   GoogleMap
  弟橘姫が身に着けていた櫛が緒川の紅葉川に流れてきたのを見つけました。人々は弟橘姫を偲び、この櫛を祀る神社を建てたと伝えられています。入海神社社伝より
 
 
 
 
 ここは父忍山宿禰が出航した湊です。

 

弟橘媛の遺骸は本納へ

 弟橘媛の遺骸は千葉県袖ケ浦市か木更津市の海岸に漂着したとし、その後、袖ケ浦市三黒に移送されました。三黒の吾妻神社の伝承ではここに埋めたことになっていますが、さらに茂原市本納の橘樹神社まで移送されたのではないかと考えています。その行程は房総半島南岸に沿って回る海路だったとも考えられるのですが、三黒から本納までにいくつかの伝承があり、それらを伝える神社を線でつなぐと移送の行程が見えてきました。そこで、弟橘姫は陸路で運ばれたと推測しました。
 
 

<遺骸が流れ着いた>

吾妻神社 千葉県袖ケ浦市三黒417-1 GoogleMap
 黒戸(現在は木更津市畔戸:くろと という地名がかつて海岸であったろうと思われるところにあります)の海岸に弟橘媛の遺骸が流れ着きました。御陵を造るために本納に遺骸を運んでいると三畔(みくろ)村で御車が止まってしまったため、ここに葬ることにしました。そして、この地を御骸(みくろ)村と名付けました。これが三畔(みくろ)と書くようになり、やがて「三黒」と替わりました。「三黒」の読みは「御骸(むくろ)」「御崩」「御櫛」などが転じたとも言われています。 

 この神社がある地名は地図からは三黒以外わかりませんが、以前は「吾妻越(あづまのこし)」とも呼ばれていたそうです。

 
 
 
 
吾妻神社 臂松(ひじまつ)古墳 千葉県袖ケ浦市三黒417-1 GoogleMap 
 遺骸を本納に送ろうとしましたがここで乗せていた車が動きませんでした。そこで本納には御櫛(別説では首飾り)を送ることとし、遺骸はここに葬ることにしました。目印として松を植樹しました。この松の姿が臂(ひじ)の形に似ていたので臂松と言われました。ここに臂松古墳があります。この古墳は伝承では丸山と呼ばれ弟橘媛の遺骸が葬られたところとされています。 
 
 
 
 三黒には他にも弟橘媛にちなんだ地名があったとされています。
 ・姫子添(ひめこぞえ) 
 ・休所(やすみどころ) 日本武尊が弟橘媛の亡骸とともにここで休息したと伝わっています。
 
 
 

御鉾神社 千葉県袖ケ浦市三黒80 GoogleMap

 祭神は日本武尊です。御鉾殿社とも記載されています。

 
 
神代(かじろ)神社 千葉県市原市神代265  GoogleMap

 祭神は天照大日孁貴尊、保食神、面足神です。
 ここには二つの伝承があります。その一つは、確認はできませんでしたが、かつて神代には七つの塚があったようです。日本武尊は弟橘媛の遺骸に付き従って歩いていましたが、三黒を過ぎてしばらくして激しく雨が降り出してしまいました。一つの塚でその雨を避けるために休んだと言われています。その時洪水にあい、先に進めなくなったので休んだとも言われています。その塚は「いもた塚」と呼ばれているようです。後にここに弟橘媛を祀って神代神社としました。もう一つの伝承では神代神社は景行天皇40年に日本武尊により天照大神を祀って創建されたとなっています。
 
 
 
 
 
 
弟橘神社 千葉県市原市皆吉 GoogleMap

 神社名から祭神は弟橘媛と思われます。
 ここは弟橘媛の遺物(神鏡とも言われています)を納めたところです。後にここに祠を建てました。近くの薬師堂の庭に日本武尊の腰掛松があるそうですがわかりませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
御嶽神社 千葉県市原市皆吉72  GoogleMap

 祭神は日本武尊です。弟橘神社から里に戻り、少し東に行ったところにあります。
 
 
 
 
 

 

 

 

大宮神社 千葉県市原市川在1032  LinkIconGoogleMap

 市原市の川在(かわざい)に水飲坂と呼ばれるところがありました。そこは大変景観のよいところで日本武尊がこの地で清水を飲んだことによりついた地名です。川在地区には大宮神社がありますが、水飲坂はこの神社に伝わる伝承ではありません。

 
 
 
 

 

 

 

武峯神社 千葉県長生郡長柄町六地蔵529  LinkIconGoogleMap

 日本武尊は鹿野山の賊徒を征伐したのち、房総半島を横断し東海岸を目指しました。その途中にここに至りました。土地の首領の山座王らが日本武尊を歓迎し迎えたのでここに駐軍し、兵士らの労をねぎらいました。
 村名の「六地蔵」は道の傍らに六体の地蔵があったことによりつけられましたが、もとは「成武村」と称していたようです。武尊がここにお成りになったことから「成武村」と称していたようです。武峯神社には日本武尊が祀られています。
 ナビで武峯神社を指定すると下の写真の遥拝地に着きます。近くの畑で作業をしている方に本宮の場所を尋ねました。昔、山上の本宮まで行くのは容易ではなかったことから里で拝むための宮を建てたそうです。

 
 

 武峯神社本宮は標高176mの権現森と呼ばれるところにあります。長い石段を上った先にひっそりと本殿の社が建っています。普段あまり人が出入りするところではない山の中なので獣に出会わないかと心配しながら参拝しました。その日は11月でも早朝の夜明け前から雷が鳴り響き、落雷で地響きがするほどでした。参拝を半ばあきらめていましたが、明るくなると小雨になってきたので山に入ることにしました。神社の周りは杉の高木で囲まれておりここから遠くの景色を見ることはできません。当時は景観地で九十九里湾や山々を眺めることができたのかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天照大神社 千葉県茂原市真名1456 GoogleMap
 この地を通りかかった日本武尊は路傍に湧き出す清水を飲みました。「この泉は天の眞井」と呼んだことから地名となりました。後に真名(まんな)と変わりました。現在この地に天照大神を祀る神社があります。この付近に湧水は見つかりませんでした。
 
 
 
 
 

 

橘神社 千葉県茂原市長尾1463  LinkIconGoogleMap

 弟橘媛を祀っていますが、別に日本武尊と建稲種命も祀るとも言われています。
 社殿の床下に 釜という赤土の塊が埋めてあるようです。その大きさは今の長さに換算すると約1.5m、幅0.62mで上面に3つの穴がある(陶棺とも)と伝えています。また、それにはご神体となる弟橘媛の衣装が埋めてあると伝えています。

 
 
 
 
 
 
 
 

   

<日本武尊が築いた墓>

  
橘樹(たちばな)神社 千葉県茂原市本納738  LinkIconGoogleMap

 111年(景行41)に創建されたと伝えられています。日本武尊は弟橘姫の櫛を埋めて墓を自ら築き、そこに橘の木を2本植樹しました。この櫛は海から流れ着いたものと伝わっています。社殿裏の古墳が日本武尊が築いた弟橘姫の墓です。
 かつて神社のすぐ東は海でした。江戸時代には新田開発の時に日本武尊が乗ってきたと思われる船の帆柱が出土したと『房総の伝説民話紀行』に書かれています。境内には池があり「吾妻池」と呼ばれています。この池は陵を築くために土を掘ったためできたものです。
 
 
 
 
吾妻池
 
 この御陵は前方後円墳として造られました。江戸時代に橘樹神社の本殿を再建するために南側前方部を切り崩しました。その際、土中から人が入るぐらいの封をした土瓶や鉄台などが出土したため御祓いをして埋め戻したそうです。このことを幕府に報告すると、当時の神主は蟄居(ちっきょ)を申し渡されたことが神社の記録として残されています。
 『君津郡誌』では橘樹神社の社伝として、日本武尊が東征で蝦夷に至るところで初めてここに弟橘媛の陵を築いたと書かれています。その標として橘を植樹し社を建てて祀ったのが橘樹神社であるとしています。江戸時代の寛政十二年十一月に社殿の再建のため敷地を掘ったところいくつかの土器とともに人が入るくらいの巨大な壺が出てきました。それを見た役人たちは恐れおののき、この壺を開けずに土中に戻したと伝えられています。
 
 
 
弟橘媛の御陵 
 
 弟橘媛の遺物を納めたところが船の形に似ていたので御船形、あるいは帆丘と称していました。また、船具(帆)を埋めたところが帆埋と称していましたが法目に移しました。長尾にも橘神社があり、媛の衣服を土器に入れて社殿の下に納めていると伝えられています。
 
 
  
 
 
 
 
    橘樹神社 拝殿 本殿
 
 房総半島の東に位置する本納の橘樹神社へは遺品や遺骸が陸路で運ばれたとする説と、日本武尊らは海路で房総半島の外洋を廻り、本納近くの海岸から運んだとする説があります。現在は本納が海から離れていますが、古代の海岸線は神社からそんなに離れてはいませんでした。諸説あって答えは出ませんが、弟橘媛の遺骸は陸路で運ばれ、日本武尊は海路で来たのではないでしょうか。そして、日本武尊は宿泊地とした本納に弟橘媛の陵を築いたとするのがよいかとも考えています。 
 

他に弟橘姫が祀られている神社

弟橘媛に関係のある神社は東京湾周辺に30か所以上あります。

 
妻恋神社  東京都文京区湯島 GoogleMap
 日本武尊が湯島に滞在しました。日本武尊のため荒海に身を投じた弟橘姫を村人が哀れんで祀りました。  弟橘比賣神社 
 
 
 
 
 
吾妻神社 氷川神社末社 東京都足立区栗原2-1-19 GoogleMap

 栗原氷川神社の本殿に向かって右に社が建っています。左は稲荷神社です。祭神は弟橘媛と第六天大神で、吾妻明神社と第六天社が合祀されています。氷川神社は室町時代以前の創建かと思われますが、境内地にある3社にはかつてこの周辺にあった10の社が合祀されています。ここに弟橘媛を祀る神社がなぜあるのかはよくわかりません。弟橘媛が身に着けていたものが近くの海岸に流れ着いたという伝承があって吾妻明神として祀っていたのかもしれません。

 
 
 
 

弟橘比売神社(白鳥神社)   千葉県君津市鹿野山118  GoogleMap

 
 
 
 
那久志里神社(能褒野神社合祀) 三重県亀山市田村町  GoogleMap
 
 
 
諸口神社(御浜崎 戸田湾) 静岡県沼津市戸田2711 GoogleMap  

 弟橘姫の御陵と伝わっています。

 
 
 

 
寒田神社 神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767  GoogleMap
倭建命が祭神で弟橘比売命が合祀されています。ここは立ち寄り地と言われています。
 
 
 
 
久佐奈岐神社 静岡県静岡市清水区山切101  GoogleMap
 日本武尊が主祭神ですが、東征の副将軍らとともに弟橘媛命が合祀されています。
 
 
 
 
熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1−1  GoogleMap
 
 
 
 

<魂が宿る森>

奥石神社・老蘇(おいそ)の森  滋賀県近江八幡市安土町東老蘇1615  地図 GoogleMap
 弟橘姫は子を宿した身ながら荒海を鎮めるため身を投じました。その魂は近江に飛び、ここに留まりました。
 老蘇の森は滋賀県の近江八幡市にあります。2300年以上も前のこと、この地は地が裂け、水が湧き出し人が住むことができませんでした。第7代孝霊天皇の時代に、石辺大連(いしべのおおむらじ)という者が神に祈り、松、杉、檜などを植樹したところ大森林になったとの伝承があります。石辺大連は100歳を超えて長生きしたため老が蘇ったと言われ、森ができた地を「老蘇の森」というようになりました。
 日本武尊の子を身ごもっていた弟橘姫は身を投じる前に「私は老蘇の森に留まって安産を守りましょう」と言い残しました。この言い伝えにより、老蘇の森にある奥石神社は安産の神が祀られています。
 
 
 
 

<船の一部が流れ着いた>

 
寄木神社 東京都品川区東品川1丁目35 GoogleMap

 走水の海で暴風にあい転覆した船もありました。それらの船材の一部が流れ着いたので、これを寄木明神として祀りました。
 
 
 
 

 

白鳥神社 岐阜県瑞穂市呂久1149番地  GoogleMap

 祭神は日本武尊、橘媛(弟橘媛)です。
 継体天皇の時代に創建されたようですが、美濃の国で弟橘媛を祀っているというのは珍しいと思われます。案内板には日本武尊の足跡に関することは書かれていませんでした。

 
 
 

 
<その他の未参拝地> 

 
加世智神社  三重県松阪市大平尾町67
 
橘樹神社     神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町1丁目8−12
 
高森神社   神奈川県伊勢原市高森530−2
 
三嶋神社   神奈川県足柄上郡大井町上大井331
 
弟橘比売神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町
 

弟橘姫神社  茨城県北茨城市磯原町磯原
 

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