『日本書紀』
相模(神奈川県)まで到り、ここから海を挟んだ対岸の上総(千葉県)に進行しようとしました。海を見た日本武尊は、声高らかに自慢して言いました。
「こんな小さな海、一つ飛びで渡れるだろう。」
船が沖に進んだ時、急に暴風が吹き荒れました。そのため船は漂うばかりで先に進みません。
この時、日本武尊に同行していた妃で弟橘媛(おとたちばなひめ)が日本武尊言いました。弟橘媛は穂積氏忍山宿禰(ほずみのうじおしやまのすくね)の娘です。
「今、暴風が起きて波が高く、日本武尊の船は沈みそうです。これはきっと海神がお怒りなのです。私は身分の低い身です。尊の代わりにこの身を沈めましょう。」
そう言い終えると弟橘媛は波間に身を投じました。すると、暴風はすぐにとまりました。
こうして船は岸に着くことができました。この時よりこの海を「馳水(はしりみず)」(走水 東京湾)と呼んでいます。
日本武尊は走水神社の前から出航
鎌倉の北を過ぎ、三浦半島を南下してきた日本武尊らは東京湾が見える現在の走水の海岸に到着しました。到着した日本武尊一行はここに御所を建てました。その地を御所が崎と呼んでいます。村人たちは一行を歓迎し、食事を作って日本武尊らをもてなしました。食事を献上した者の中に大伴黒主(おおとものくろぬし)という名が見られます。
三浦半島の東海岸、海の向こうに房総半島が見えるところに日本武尊と弟橘媛は滞在していました。しばらくしていよいよ出航の朝となりました。川面を見ると、倭姫から授けられた宝剣によって水を金色に輝かせていました。そのためここを「金川」(かながわ:神奈川の地名所以)と言うようになりました。
対岸の房総半島上総の方を見やると、山々はとても近くに見え、海も穏やかでした。日本武尊はこの海に向かってつい「こんな海なら一つ飛びだ」と叫んだのです。
出発の時、これまでのもてなしに感謝した日本武尊は村の長に冠を与えました。長はその冠を石櫃に納め、土中に埋めて社を建てました。それが走水神社です。
日本武尊と弟橘媛命を祀っています。
境内に弟橘姫のプレート「舵の碑」があります。東京芝公園に日露戦争で亡くなった佐渡丸の乗組員を慰霊するため弟橘姫の銅像が立てられていましたが、関東大震災で崩壊してしまったようです。再びこれを建てようと画家の飯塚氏がこの慰霊の志を受け継ぎ、浦賀水道の全ての船の航行の安全を祈り作成したと言われています。(走水神社のサイトを調べていて得た情報です)
「走水神社は、十二代景行天皇の皇子、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神をお祀りしております。景行天皇即位四十年、東国の蝦夷が天皇に叛くので天皇は日本武尊にその鎮定を命じました。勅命を奉じて武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命より神宝の天叢雲之剣と火打袋とを授けられ、東国に東征の軍を起こされました。御齢30歳と云われております。途中、静岡(焼津)において賊にだまされ火攻めの難に遭遇されましたが天叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したと云われ、これよりこの神宝を草薙之剣とも呼ばれ、以来熱田神宮の御神宝となっております。武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。ここに御所(御座所)を建てました。(現在、御所ガ崎と云われております。)走水の地において、軍船等の準備をし上総国に出発する時に村人等が武尊と橘媛命を非常に慕いますので、武尊は自分の冠を村人等に与えました。村人等はこの冠を石櫃納め土中に埋めその上に社をたてました。(走水神社の創建です。)武尊は、上総国へ軍船にていっきに渡らんと船出なされましたが、海上中ばにおいて突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進みもならず戻りも叶わずあわや軍船は転覆するかの危機に、武尊につき添ってこられたお后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、私が海に入り荒ぶる神の御魂の怒りを鎮めるほどに尊様はつつがなく勅命を奉じてその任を完遂してほしい」と告げ「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と辞詠し、海上に菅畳八重、皮畳八重、あしぎぬ畳八重を敷き、その上に身を投じたところ忽ちに波は凪ぎ風は静まり武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に到着なされました。(以来、水走る走水と云われております。)上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて京に帰る途中、碓氷峠より遥か東方に光る走の水の海の輝きを眺め、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」嘆き呼びかけたと云う、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったと云われております。武尊は、京へ帰路の途中伊吹山の賊と戦いの後、病にかかり伊勢国能襃野でお亡くなりになりました。御齢33歳と云われております。以上は、奈良朝時代初期に編纂された「古事記」「日本書紀」に誌るされており又、弟橘媛命が御入水してから数日して海岸に櫛が流れつきました。村人たちはその櫛を武尊と弟橘媛命が住んでおりました御所ガ崎に社を建て櫛を納め橘神社としましたが、明治18年御所ガ崎が軍用地になったため橘神社は走水神社境内(神殿の横の機雷のあるところ)に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。記念碑、顕彰碑、感謝の碑 一、弟橘媛命記念碑「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」 媛の辞詠 (明治43年建) 一、庖丁塚「庖丁と鳥獣魚介菜類等食物に感謝」(昭和47年建) 一、舵之碑「弟橘媛命の顕彰と海の平和安全を祈る」(昭和50年建) 一、針之碑「草枕 旅の丸寝の紐絶えば あが手とつけろ これの針持し」針と衣類等に感謝(昭和58年建) 一、顕現之碑「武尊と橘媛命の愛と御神徳を崇める。」(平成3年建) 史跡・伝承 一、御所ガ崎「武尊と橘媛命が御滞在したときの御座所のあった所」 一、旗立山「武尊が征軍の旗を立てた所」(御所ガ崎の後背) 一、御座島「武尊と橘媛命の訣別のお盃があった所」(神社前の岩礁) 一、皇島「武尊が軍船に乗船された所」(御所ガ崎の北岩礁) 一、むぐりの鼻「橘媛命の侍女等が媛に殉じた所」(御所ガ崎の最先端岩礁) 一、伊勢山崎「武尊が伊勢神宮で授けた御神符を祀った所」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国常猛命(くにのとこたけのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと・いたけるのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、豊雲野命(とよくものみこと)、国狭槌命(くにさつちのみこと)、豊受比売命(とようけひめのみこと)、岐久理比売命(きくりひめのみこと)、誉田別命、菅原道真公です。大正時代に御嶽社と杉山社が合祀され潮田神社となりました。
日本武尊が東征の折、近くの海岸にあった松や杉が生い茂る森に小祠を建てて祭神を奉斎し無事に東征できることを祈願しました。
別説があります。
日本武尊が 東征で相模から上総に渡るとき、従者に命じて旧西潮田村海岸近くの古杉老松の森に豊斟渟尊(とよくむねのみこと=別名 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)と国狭槌尊(くにさつちのみこと=別名 国狭立尊(くにのさたちのみこと))を祀る祠を建てさせたと言われています。
境内の案内板には以下のように書かれています。
「当社は、大正初期、京浜工業地帯の一代発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため、西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立尊」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられています。
中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親天皇の御世、永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました」
船の端に立った弟橘媛は日本武尊と過ごした日々のことや、火の海の中この身を守ってくれたやさしいまなざしを走馬灯のように思い出し「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と歌を詠みました。そして、日本武尊の方を振り向くと、自ら海に身を投げました。
海神の怒りを鎮めるため弟橘媛は海に身を投じました。
『古事記』では弟橘媛が海に入ろうとするとき、菅畳八重、皮畳八重、絁畳(きぬたたみ)八重をを波の上に敷いてその上に下りたと書かれています。この時弟橘媛は次のような歌を詠んでいます。
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
(相模の小野の燃える火の中で、私のことを気遣って声をかけて下さったあなたよ)
*小野は単に野原を意味する あるいは「小野」という地名をさします。
神奈川県の小野神社(神奈川県厚木市小野428)には野火の難の伝承があります。
弟橘媛が身を投げてすぐに波風がおさまり、一行は無事に上総国に着岸することができました。日本武尊は倭姫命の配慮に続き、再び女性によって助けられました。これは美談ではあるのですが、最愛の妻を亡くすことになった悲劇です。火打ち石と草薙剣を授けた倭姫命や東征の最後に宮簀媛が登場するように、日本武尊の活躍の陰には女性の存在があるようです。

弟橘媛のルーツを探ってみました。
「弟橘媛」は『日本書紀』による漢字表記です。『古事記』は「弟橘比売命」と書いています。
父は穂積氏忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね) 『日本書紀』、 建忍山垂根(たけおしやまたりね)『古事記』 で香川県の出身とされています。『西讃府志』によると「弟橘姫ハ讃岐人穂積氏忍山宿禰ノ女也」(さぬきびとほずみしおしやまのすくねのむすめなり)とされていますから、弟橘媛が誕生する前の父は香川県に住んでいたことになります。
香川県善通寺市に大麻(おおさ)神社があり、境内に白玖祖霊社(はくそれいしゃ)という弟橘媛を祀る神社があります。


また、讃岐香川県の東かがわ市には白鳥神社が鎮座し、日本武尊と橘姫が祭神ですが、ここには白鳥が飛来したという伝説があります。

忍山宿禰は物部氏と同族の穂積氏の祖となっています。讃岐を出た次の任地が三重県亀山市であったようです。
三重県亀山市の忍山(おしやま)神社は垂仁天皇の時代、倭姫命が倭姫が御杖代となって天照皇大神の鎮座の地をもとめて各地を御遷幸されていた際に天照大神を奉じた元伊勢の鈴鹿小山宮跡の有力候補地とされています。倭姫命は桑名市の野代宮から亀山市に移り、鈴鹿小山宮で天照大神を奉じました。忍山宿禰が神官として忍山神社に就いていましたが、倭姫命が亀山を訪れる以前のことだったようです。
倭姫命御巡幸地の一社 鈴鹿小山宮(奈其波志忍山宮)
鈴鹿小山宮があったと言われる忍山神社ですがその候補地がいくつかあります。その最有力候補地が亀山おお市野村の忍山神社です。

忍山神社(おしやまじんじゃ) 三重県亀山市野村4丁目4−65
この神社入り口の案内板に「皇大神宮遷幸地跡」及び「弟橘媛命生誕地」と書かれており、社伝ではここで弟橘媛が生まれたと伝わっています。

愛宕神社・愛宕山 三重県亀山市若山町
亀山という地名は忍山神社が神山にあり、それが転じたものとも言われています。神山は現在の愛宕山のことで押田山とも呼ばれていました。押田山は忍山が転じたとも言われ、愛宕山が忍山神社の旧社地とされています。

徳川家康の母於大の方はこの東浦町緒川で生まれました。居城の緒川城は忍山宿禰の古墳と言われているところに古墳を壊して築城されました。古墳の石室を構成していた石は城の建設に使われましたが、この城跡近くに古墳にあった石と分かっている2つの石があります。一つは入海神社の参道わきにある「夜泣き石」です。江戸時代、村人が城跡を歩いていると奇妙な声が聞こえてきました。何だろうと見回してみると石から聞こえてくるのがわかりました。この石は古墳の石であろうと考え、祟りのないように入海神社まで運んだのです。さらに二つ目の石は近くの地蔵禅院境内にある「うなり石」です。



東海道、駿河と同行していた弟橘姫は、日本武尊一行が神奈川県走水から現在の浦賀水道を渡ろうとした時、海が荒れて難破しそうになったため、皆の無事を祈り海中に身を投じました。東征のあと従軍していた里人たちが帰ってきたとき、弟橘姫が身に着けていた櫛が緒川の紅葉川に流れてきたのを見つけました。人々は弟橘姫を偲び、この櫛を祀る神社を建てたと伝えられています。(入海神社社伝)
忍山宿禰は東征後、相模国西部(現在の小田原市)に国造となり移り住みました。
日本武尊が東征に出かける前に、都に近い奈良県の神社に二人で参拝したという言い伝えがあります。二人がいつ出会ったのかは不明ですが、二人の間には稚武彦王(わかたけひこのみこ)(『古事記』では若建王と表記)の他7人の子がいます。そのため、二人は日本武尊の熊襲征伐後に出会い、都で一緒に暮らしていた期間があるかもしれません。

境内に大和天神山古墳があり全長103mの前方後円墳です。
創建時の詳しい社記・由緒等は天文年間に火災で焼失してしまいましたが、崇神天皇の時代に伊勢神宮と同じ時期に創建された古社と伝わっています。境内の由緒書には日本武尊が東征の前に妃の弟橘媛とともにここで戦勝祈願をしたことが書かれています。
<説1 弟橘姫は船から入水>
この時、日本武尊の船に乗船していた妃の弟橘姫が「これは海神がお怒りなのです。これを鎮めるには私の身を海に捧げるのがいいのです。私の身分はそんなに高くはありません。気になさらないでください。」と言い終えると、波間に身を投じました。弟橘姫に従ってきた10人の侍女たちもこれに続きました。
すると、あれほど荒れていた波風がおさまり、元の静かな海に戻りました。日本武尊たちの船は無事に対岸の上総の国に着くことができました。
<説2 弟橘媛は島の岩から入水>
しかし、いくら待っても荒れた海が静まりません。すると、日本武尊に同行していた妃の弟橘媛が「これは海神がお怒りなのです。これを鎮めるには私の身を海に捧げるしかありません。」と言いました。これを聞いた日本武尊はうなづき、御所崎先端の御所島(御座島)で別れの盃を交しました。
そして、弟橘媛は海に身を投げました。これを知った10人の侍女たちも姥島のむぐりの鼻から身を投げました。やがて海が静まり、日本武尊らは船を出すことができました。この時、村人のもてなしに感謝し村の長に冠を与えました。村人らはこの冠を石櫃に納めて土中に埋め、その上に社を建てました。
日本武尊らは皇島(すめらじま)から出航しました。日本武尊らの船は海の上を滑るように進みました。これを見て日本武尊が「水が走る」と言ったので「走水(はしりみず)」という地名になりました。これが走水神社の名の所以です。
説1も2も弟橘媛が身を投じる様子がわかりますが、説2は説1をより詳しくしているとも考えられます。『日本書紀』では説1の書き方ですが、説2にある1か月間の出来事を要点のみ短く書いたとも解釈できるのではないでしょうか。
侍女らも入水していた
この神社は天照皇大御神(伊勢の大神)、蘇我比咩(蘇我氏の祖)らを祀っています。
弟橘媛が入水する際、姫に付き従っていた次女ら5人も海に身を投じました。その中の一人が蘇我大臣の娘の蘇我比咩です。娘は海岸に流れ着き村人たちの看護で生き返り、都に戻ることができました。看護されていた時「我蘇り」と言ったということで神社のある地名が「蘇我」となったと言われていますが、蘇我大臣の娘だからついたとも言われています。他の次女らも姉崎、五井、八幡に流れ着いて生き返ったと言われています。
応神天皇の時代、この村人たちの行いに感銘した天皇はこの地に蘇我氏を派遣し国造として治めさせました。村人たちは蘇我氏の守護神でもある春日社と比咩社の分霊を祀り神社を建立しました。
また、672年の壬申の乱の後大友皇子側に就いていた重臣の蘇我赤兄(あかえ)が配流されてきたこともいわれとなっています。
弟橘媛と共に侍女らを祀っています。
境内には本殿を挟んで両側に新旧別宮があります。
風鎮めの神

祭神は風鎮めの神の志那都比古尊です。
海が荒れ船が転覆しそうになったため、弟橘媛は大和国の風鎮めの神である龍田大社を遥拝し、安全に航海できたならば上陸地に風鎮めの神を祀ると言いながら海に身を投じました。船は無事に上総に着いたので、日本武尊はここに志那都比古尊(しなつひこのみこと)を祀る神社を創建しました。志那都比古尊は風鎮めの神であり自然災害から守る神でもあります。

祭神は志那斗弁命で日本武尊、天児屋根命他が祀られています。
社伝では景行40年に舟軍の安全航海を祈って宮山台とよばれるこの地に志那斗弁命を祀ったとされています。志那斗弁命は弟橘姫が入水時に祈っていた風神です。後に源頼朝が房総から鎌倉に向かう途中ここで馬ぞろえをして武運長久を祈ったので、以前は流鏑馬が行われていたようです。
海神
千葉県船橋市にある船橋神社には日本武尊が上陸したという伝承があります。
船橋神社の元宮は入日神社といい、船橋大神宮の元宮となっています。この神社のあるところが海神という地名です。
御祭神は、天照皇大神で、日本武尊が東征の途中に船橋の港に到着し、そこで天照皇大神を祈誓、奉祀されました。景行天皇から「意富比神社」の称号を賜ったと言われています。
弟橘媛が海に身を投げて数日経ってからのことです。走水の海を囲む各地の海岸に弟橘媛の遺骸や媛が身に着けていた遺品が流れ着きました。村人たちはそれを埋めて神社を建立して祀ったと伝えられています。弟橘媛が着ていた服の袖が流れ着いたことから「袖ヶ浦」という地名がついたとされています。
各地の伝承を整理してみました。
<櫛と遺骸が流れ着いた>
木更津市にある標高44mの太田山に鎮座しています。日本武尊はこの山に登り海を見下ろして弟橘媛を偲んだと伝えられています。この神社は縁結びの神で、周辺は「恋の森」とよばれています。またここを立ち去りがたく思いしばらく滞在していました。その時「君去らず袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」の歌を詠んだとも言われています。木更津の古称は「君不去里」です。この歌がもとでついた地名です。
里の言い伝えではここに弟橘媛の御櫛を埋めたともいわれています。
これらの伝承は里に伝わっており、『上総国史』にも書かれていることが『君津郡誌』にふれられています。
千葉県木更津市の太田山山頂にあります。木更津市の名の謂れともなっている日本武尊の歌はこの高台から詠まれたとも言われています。公園にある展望台には2本の塔があります。これらの先端に日本武尊と弟橘媛の像が向き合って立っています。この展望台は平成4年に建てられたものです。展望台からは天気が良いと東京湾まで見渡せます。
<衣の袖が流れ着いた>
主祭神は弟橘姫です。
弟橘姫が着ていた着物の袖が近くの海岸に流れ着き、ここに埋めたとされています。
日本武尊の歌
「君去らず袖しが浦に立つ波のその面影をみるぞ悲しき」
近くに池があり、「鏡が池」と呼ばれています。弟橘姫の鏡を沈めたところと言われています。
千葉県の『君津郡誌』では

大友伝説
遠方の浮島には景行天皇が逗留したとする言い伝えがあります。このとき浮島宮がおかれました。天皇がこの宮にいるとき『日本書紀』にある以下の来事がありました。(下画像右端が浮島)
<櫛が流れ着いた>
<衣の袖や櫛が流れ着いた>
祭神は弟橘姫命です。
弟橘媛が入水したときに身に着けていた白布がこの近くの海岸に漂着したので祠を建てたと伝えられています。白布が漂着したところ布流津(ふるつ)と呼んでいましたが、これが富津と変わりました。

野見金山は標高約180mの山です。日本武尊が東征でこの近くに来た時のどが渇いてしまいました。しかし、あたりを見ても飲み水はありませんでした。そこで「飲み兼ね」と言ったと言われています。それが野見金に転化したと伝えられています。市原市との境に小高いところがあり鏡塚と呼んでいるそうです。その鏡塚には弟橘媛の鏡が収められていると言われていますが、その場所を確認することができませんでした。
<衣が流れ着いた>
<弟橘姫の御衣とかんざし>
倭建命と弟橘比賣命が祀られています。
弟橘比賣命が入水した後、着物や冠が流れ着きました。そのため、ここに墓を築き社を建てました。近くの富士見台古墳は弟橘姫の墓という説もあります。
<笄(こうがい) 髪飾り >
<櫛が流れ着いた最も遠い伝承地>
弟橘媛の遺骸は本納へ
<遺骸が流れ着いた>
この神社がある地名は地図からは三黒以外わかりませんが、以前は「吾妻越(あづまのこし)」とも呼ばれていたそうです。
祭神は日本武尊です。御鉾殿社とも記載されています。
祭神は天照大日孁貴尊、保食神、面足神です。
ここには二つの伝承があります。その一つは、確認はできませんでしたが、かつて神代には七つの塚があったようです。日本武尊は弟橘媛の遺骸に付き従って歩いていましたが、三黒を過ぎてしばらくして激しく雨が降り出してしまいました。一つの塚でその雨を避けるために休んだと言われています。その時洪水にあい、先に進めなくなったので休んだとも言われています。その塚は「いもた塚」と呼ばれているようです。後にここに弟橘媛を祀って神代神社としました。もう一つの伝承では神代神社は景行天皇40年に日本武尊により天照大神を祀って創建されたとなっています。
神社名から祭神は弟橘媛と思われます。
ここは弟橘媛の遺物(神鏡とも言われています)を納めたところです。後にここに祠を建てました。近くの薬師堂の庭に日本武尊の腰掛松があるそうですがわかりませんでした。
市原市の川在(かわざい)に水飲坂と呼ばれるところがありました。そこは大変景観のよいところで日本武尊がこの地で清水を飲んだことによりついた地名です。川在地区には大宮神社がありますが、水飲坂はこの神社に伝わる伝承ではありません。
日本武尊は鹿野山の賊徒を征伐したのち、房総半島を横断し東海岸を目指しました。その途中にここに至りました。土地の首領の山座王らが日本武尊を歓迎し迎えたのでここに駐軍し、兵士らの労をねぎらいました。
村名の「六地蔵」は道の傍らに六体の地蔵があったことによりつけられましたが、もとは「成武村」と称していたようです。武尊がここにお成りになったことから「成武村」と称していたようです。武峯神社には日本武尊が祀られています。
ナビで武峯神社を指定すると下の写真の遥拝地に着きます。近くの畑で作業をしている方に本宮の場所を尋ねました。昔、山上の本宮まで行くのは容易ではなかったことから里で拝むための宮を建てたそうです。
武峯神社本宮は標高176mの権現森と呼ばれるところにあります。長い石段を上った先にひっそりと本殿の社が建っています。普段あまり人が出入りするところではない山の中なので獣に出会わないかと心配しながら参拝しました。その日は11月でも早朝の夜明け前から雷が鳴り響き、落雷で地響きがするほどでした。参拝を半ばあきらめていましたが、明るくなると小雨になってきたので山に入ることにしました。神社の周りは杉の高木で囲まれておりここから遠くの景色を見ることはできません。当時は景観地で九十九里湾や山々を眺めることができたのかもしれません。
弟橘媛を祀っていますが、別に日本武尊と建稲種命も祀るとも言われています。
社殿の床下に 釜という赤土の塊が埋めてあるようです。その大きさは今の長さに換算すると約1.5m、幅0.62mで上面に3つの穴がある(陶棺とも)と伝えています。また、それにはご神体となる弟橘媛の衣装が埋めてあると伝えています。
<日本武尊が築いた墓>
111年(景行41)に創建されたと伝えられています。日本武尊は弟橘姫の櫛を埋めて墓を自ら築き、そこに橘の木を2本植樹しました。この櫛は海から流れ着いたものと伝わっています。社殿裏の古墳が日本武尊が築いた弟橘姫の墓です。
他に弟橘姫が祀られている神社
弟橘媛に関係のある神社は東京湾周辺に30か所以上あります。
栗原氷川神社の本殿に向かって右に社が建っています。左は稲荷神社です。祭神は弟橘媛と第六天大神で、吾妻明神社と第六天社が合祀されています。氷川神社は室町時代以前の創建かと思われますが、境内地にある3社にはかつてこの周辺にあった10の社が合祀されています。ここに弟橘媛を祀る神社がなぜあるのかはよくわかりません。弟橘媛が身に着けていたものが近くの海岸に流れ着いたという伝承があって吾妻明神として祀っていたのかもしれません。
弟橘姫の御陵と伝わっています。
<魂が宿る森>
<船の一部が流れ着いた>
祭神は日本武尊、橘媛(弟橘媛)です。
継体天皇の時代に創建されたようですが、美濃の国で弟橘媛を祀っているというのは珍しいと思われます。案内板には日本武尊の足跡に関することは書かれていませんでした。
<その他の未参拝地>
弟橘姫神社 茨城県北茨城市磯原町磯原