景行天皇が九州を平定してしばらく経ちました。大和朝廷は各地に群臣を派遣して国の様子を見て回らせていました。そんな折、東国に視察に行っていた者たちから、蝦夷らが反乱を起こしているとの情報が入りました。そこで、急ぎ群臣らを集め、東国平定の計画をすることとなりました。
『日本書紀』
景行天皇40年(西暦110年) 夏6月
東方の夷人の多くが叛いて、辺境が騒がしくなりました。
景行天皇40年(西暦110年) 秋7月16日
天皇は群臣を集めて言いました。
「今、東国が心配である。荒ぶる者たちがたくさんいるようだ。蝦夷は朝廷に叛いてしばしば人民を奪ってしまう。乱れを平定するために誰かを派遣しよう。」
群臣は誰を派遣したらよいかわかりませんでした。
すぐさま日本武尊が申しました。
「私は西征してもどり疲れています。この役は必ず大碓皇子にさせてください。」
すると大碓皇子は愕然として、草の中に逃げ隠れてしまいました。天皇はすぐに使者を遣わして隠れた大碓皇子を見つけて都に連れて来させました。
天皇は大碓皇子を責めました。
「お前が望まないのなら、無理して派遣させることはない。しかし、どうして乱暴者に会ってもいないうちから、恐れてしまうのか。」
天皇は大碓皇子を美濃に送って治めさせることにしました。美濃に送られた大碓皇子は身毛津君(むげつのきみ)と守君(もりのきみ)の先祖となりました。
こうして大碓皇子は美濃に封じられることとなりました。 「日本武尊と家族」大碓皇子
将軍となって国の平定に活躍するのは天皇の皇子たちです。今蝦夷が反乱を起こし、これをおさめるために誰を蝦夷に派遣したらよいか、すぐには決まりませんでした。そんな様子を見ていた日本武尊が再び立ち上がりました。
『日本書紀』
日本武尊が勇ましく声をあげて申しました。
「熊襲が平定され、そんなに年月が経っているわけではないのに、今度は東国の乱暴者たちが騒ぎ始めました。いつか落ち着かせることができましょう。私には大変な重荷ですがすぐに乱れを平定しましょう。」
天皇は日本武尊に斧(おの)と鉞(まさかり)を渡しながら言いました。
「聞いたところでは、東国の者たちは性格が凶暴で悪いことばかりしている。村に長(おさ)も首(おびと)もおらず、領土を奪い合っている。山には邪神、野には姦鬼がいて、往来の邪魔をするのでたくさん人々が苦しんでいる。東国の中でも蝦夷はとくに強い。男も女も一緒に住み、父と子の区別もない。冬は洞穴で寝て、夏は森に住む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合っている。飛ぶように山を登り、獣のように草原を走る。獣のよう。恩を忘れ、恨みははらす。髻(もとどり 頭の上で髪を束ねたもの)の中に矢を隠し、衣の中に刀を入れている。仲間を集めて、領地を犯し、収穫期に作物を略奪する。弓を射ると草に隠れ、追いかければ山に逃げる。昔から今まで朝廷に従ったことがない。
お前は背が高くて大きい。容姿は美しく、力強くてその勇ましさは雷電のようだ。向かうところ敵は無く、戦えば必ず勝つだろう。これでわかった。お前は私の子ではあるが、本当は神だ。天は国が乱れないためにも天皇の務めを怠らないようにし、天皇の家系が絶えないようにしてくれているのだろう。天下はお前のものだ。天皇の位というのもお前の位ということだ。願わくは物事を深く考え、裏にある悪い心を探り、背くか背かないかを判断し、時には武力を示し、従う者には徳をもって接し、戦わなくても従わせるように考えなさい。言うことをよくよく考え、乱暴者たちを鎮め、悪い奴らは武力で追い払いなさい。」
「昔、西征したとき、天皇の威力によって、短刀で熊襲を討つことができました。しばらくして賊の首領らは服従しました。また天皇の霊力を借りて東国に出向き、徳を示しても従わないようならば、すぐに兵を挙げて討ちとりましょう。」
と言うと日本武尊は再度お辞儀をして下がりました。
東征に行くことを自ら名乗り出た日本武尊は天皇から最大の賛辞と皇位継承の約束(尊)を与えられました。これで日本武尊の東征が決まりました。同時に、天皇の後継者とすることが決まりました。(下線部)
東征に早々に出発させるため景行天皇は信頼できる臣下らを呼び寄せ、副将軍として同行させることにしました。
征西時の日本武尊(小碓尊)は女装が似合う美形男子でした。だから酔っていた熊襲建がその容姿に惹かれ、傍に座らせたことで小碓尊は容易に熊襲建を刺し殺すことができました。しかし、東征時は日本武尊の容姿に関して景行天皇の言葉として「身長が高く大きい、容姿は端正、鼎(重い鍋)を持ち上げるぐらい力が強い、雷電のように勇ましい 」と書いています。それをイメージするとマッチョな背の高い大柄な人物像が浮かび上がります。征西から東征までの間に随分成長したことがわかります。東征前は美形男子ではないのです。天皇に匹敵するくらいの力強さと威厳のある若者になっていたのです。そのイメージに合う姿を日本平にある日本武尊から見ることができると思います。
『日本書紀』
天皇は吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)に命じて、日本武尊に同行させました。また、七掬脛(ななつかはぎ)を料理人にしました。
天皇は日本武尊の出発に際し、吉備武彦や大伴武日らを副将軍として従軍させました。また、尾張からも多く出陣していることから、天皇が直接使いを出して命じたのではないでしょうか。
その中でも尾張国造の子建稲種命(たけいなだねのみこと)の活躍は大きいです。日本武尊の東征が決まると、大和の宮で働いていた建稲種命はすぐに大和を出て尾張に戻り、日本武尊が到着する間に軍を整えて待っていたのではないでしょうか。しかし、『日本書紀』にこの名が出てきません。吉備武彦や大伴武日の名や料理人の名までも書かれているのに重要人物の建稲種命の名が見られません。この名は『尾張国熱田太神宮縁起』と愛知県各地の神社の社伝に見られるのみです。これが意味するのは、建稲種命は大和からの同行者ではなく、尾張の国造として尾張にいたとも思われます。
日本武尊が直接に同行依頼をした一人かもしれません。
『古事記』では、景行天皇は吉備臣の祖先で名が御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)という者を従わせたとしています。
熱田神宮の境内でも東方の奥まったところに龍神社があります。本宮と比べれば小さな祠ですが、ここには日本武尊とともに宮から東征に同行した吉備武彦や大伴武日が祭神として祀られています。この二人は日本武尊が亡くなるまで同行していたと見られ、吉備武彦は日本武尊の最期の様子と遺言を宮にいる天皇に伝えたと言われています。
『古事記』は東征に派遣する場面の内容が『日本書紀』と大きく違っています
『日本書紀』と『古事記』では天皇がわが子日本武尊(倭建命)に対する見方が大きく異なっています。
『古事記』では、景行天皇は倭建命が征西から帰るとすぐに東征を命じています。そもそも征西は兄を殺した荒々しさを見かねた父景行天皇が熊襲征伐に倭建命を派遣したのです。熊襲を征伐し、征西から戻った倭建命が再び都にいることは避けたいのです。そのため、征西後すぐに蝦夷征伐に向かわせたのです。都を出発した倭建命は途中伊勢国にいる叔母の倭比売命を訪ねました。自分は父に疎んじられていることを感じていた倭建命は「父は自分に死ねと思っているようだ」と嘆くのです。倭比売命はそんな倭建命をなだめて草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋(火打石が入っている)を守りとして与えたと書かれています。
景行天皇が授けたもの
『日本書紀』
天皇は日本武尊に斧(おの)と鉞(まさかり)を授けています。
『古事記』
天皇は比比羅木(ひいらぎ)の八尋矛(やひろほこ)を授けています。
*ヒイラギは昔から邪鬼を追い 払う力があると言われ、節分にも使われます。
八尋の矛は長い矛の意味です。
景行天皇が授けた"護りの楯"
征西で我が子の実力を知った景行天皇が、『日本書紀』に書かれているように次の東征にも大変大きな期待をかけていたことがわかる伝承があります。
神奈川県大和市に諏訪神社があります。建御名方神 (たけみなかたのかみ)を祭神として祀っている神社です。日本武尊が東征の際、景行天皇は「東国を鎮護せよ」と楯を護りとして授けたと伝わっています。これが「石楯」と言われているものです。社記によれば、東国に向う日本武尊は足柄峠をこえ相模に入り、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至りました。一説ではここで野火の難にあいますが、草薙剣で逃れました。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村、大島、座間から下鶴間村に入り、横須賀(走水)に至りました。(この経路に関しては諸説あり、別ページで紹介しています。)下鶴間村で天皇から授かった石楯を安置して鎮護を祈願したところが石楯尾神社の元宮のあるところです。元宮は現在地より東の方にあったそうです。
第10代崇神天皇の時代に四道将軍の一人として建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が派遣され、一旦は大和朝廷に従ったかのように静かにしていたのでしょう。景行天皇の時代になり、東夷が騒ぎ始め、大和朝廷としては早くこれを抑えねばならなかったのです
記紀それぞれに蝦夷の特徴が描かれています。
『古事記』
東国の十二道の悪しき者たちとのみ書かれています。まつろわぬ者たちが多くいるようになったので平定せよと命じたのです。
東国十二道は大和から見て東にある国で、近江、美濃、尾張などを含み、さらに東に位置するまだ十分に大和朝廷の力が及んでいない地域が尾張より東から陸奥までに12あることを示しています。駿河、相模、武蔵、越、甲斐、信濃、常陸、陸奥の国々と思われます。
『日本書紀』
東国を視察して戻ってきた者から聞いたこととして、天皇の言葉の中に詳しく書かれています。箇条書きに整理してみました。
1 東国の者たち(東夷)は性格が凶暴で悪いことばかりしている。
2 村に長(おさ)も首(おびと)もいないので一つにまとまっていない。
3 東国の者たちは領土を奪い合っている。
4 山に邪神、野に姦鬼がいて往来する人々を苦しめている。
5 東国の者たちの中に特別強い蝦夷と呼ばれる集団がいる。
6 男女一緒に住んで父子の区別はない。
7 兄弟でも信用しない。
8 冬は洞穴で寝て、夏は森に住んでいる。
9 毛皮を着て、動物の血を飲んでいる。
9 飛ぶように山を登り、獣のように草原を走っている。
10 恩を忘れ、恨みははらす。
11 髪を束ねた中に矢を隠し、衣の中に刀を入れている。
12 領地を奪い収穫期には作物を略奪する。
13 弓を射ると草に隠れ、追いかければ山に逃げる。
14 昔から今まで朝廷に従ったことはない。
天皇の命によって都から従軍した者たちです。
吉備武彦(きびのたけひこ)
<吉備武彥が祀られている神社>
日本武尊軍の滞在地となったところです。地名の吉美は吉備がもとになっています。
大伴武日連(おおとものたけいのむらじ)
大伴武日は倭姫命が伊勢五十鈴川の地を天照大神を祀る地と定めるまで倭姫命を警護する目的で仕えていました。それが終わると都に戻っていたと思われます。
大伴武日は天皇に命じられ、吉備武彦らとともに日本武尊の東征に出かけました。東征後、甲斐の酒折宮で日本武尊から靭部(ゆげいのとものお 弓を入れるものか)を賜りました。
<大伴武日連が祀られている神社>
七掬脛(ななつかはぎ)
膳夫(かしわで:料理番)として従軍した、現在のコック長のような人です。
カシワの葉を食器にしたことで膳夫と言われていたようです。
<七掬脛が祀られている神社>
久佐奈岐神社(旧東久佐奈岐神社) 静岡県静岡市清水区山切101
焼津神社
建部大社 滋賀県大津市神領1丁目16−1
子の久米の八腹も同行しています。久米の八腹は副将軍の建稲種命について行動しており、東征の帰りに駿河の海で建稲種命が命を落としたことを尾張内津峠に帰ってきた日本武尊に知らせた人です。
『古事記』でもこの名が見られますが、それが書かれているのは倭建命が亡くなって河内の白鳥陵が造られたことが書かれた後です。
倭建命が国を平らげているとき、久米直(くめのあたい)の祖で名が七拳脛(ななつかはぎ)という者が常に膳夫(かしわで:料理人)として従っていました。
その他多くの兵
大和から同行してきた3人の従者や他の地域からも合流したと考えられるその他の従軍兵士たちがここに祀られています。
『古事記』では、景行天皇は吉備臣の祖先で名が御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)という者を従わせています。 この人は吉備臣の祖先としていることもあり『日本書紀』に副将軍として従った吉備武彦と同一人物であろうと思われます。吉備武彦は吉備氏の祖と言われる若建吉備津彦の子で日本武尊にとっては伯父にあたります。
当時景行天皇の宮は日代宮(ひしろのみや)といい、現在の奈良県桜井市にありました。そこは、近くに箸墓古墳、黒塚古墳、纏向遺跡などがあり、邪馬台国近畿説の元ともなっている場所が隣接しています。現在一帯は田や畑が広がり、日代宮伝承地の碑がある場所からはその広さを感じることができます。また、景行天皇陵を見ることもできます。この宮域のどこかに日本武尊が暮らしていた場所があったはずです。日本武尊は東征に出発する際天皇に挨拶をし、副将軍らを引き連れて東へと進軍しました。
『日本書紀』
景行天皇40年(西暦110年) 冬10月2日
日本武尊一行は出発しました。
10月7日
倭姫命(やまとひめのみこと)にあいさつするため、伊勢神宮に寄り道しました。
倭姫命を前にして日本武尊は
「私は天皇から東国の背く者たちを討つように命じられましたが本当はやめたいのです。」
と言うと、倭姫命は日本武尊に草薙剣を授けて
「慎んでこれを持って行きなさい。油断してはいけませんよ。」と励ましました。
出発地
第12代景行天皇(垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日)の宮は纒向日代宮です。現在宮跡の調査は終了しており、宮内と思われる地に石碑が立っています。
弟橘媛
日本武尊は出発に際して弟橘媛(おとたちばなひめ)と一緒に戦勝祈願を行いました。それを伝えている神社があります。
日本武尊は東征に出かける前に弟橘媛を妻としました。二人は都に近い神社に参拝したという言い伝えがあります。二人がいつ出会ったのかは不明ですが、二人の間には稚武彦王(わかたけひこのみこ)(『古事記』では若建王と表記)の他7人の子がいます。そのため、二人は日本武尊の熊襲征伐後に出会い、都で一緒に暮らしていたことがあるかもしれません。
『古事記』には次のように書かれています。
『古事記』
(征西を終えて)宮に戻った倭健命は羽曳野で一人の娘と出会いました。名は弟橘比売(おとたちばなひめ)といいます。やがて二人は結ばれました。
境内に大和天神山古墳があり全長103mの前方後円墳です。
創建時の詳しい社記・由緒等は天文年間に火災で焼失してしまったようですが、崇神天皇の時代に伊勢神宮と同じ時期に創建された古社と伝わっています。境内の由緒書には日本武尊が東征に出発する前に、その身を案じ妃の弟橘媛とともにここで戦勝祈願をしたことが書かれています。
日本武尊と弟橘媛は忍山宿禰の館に入ったときに出会ったようにも言われていますが、伊射奈岐神社の伝承により、都にいた時に既に出会っていることが分かりました。
弟橘媛は穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の娘で三重県亀山市にある忍山神社の地が生誕地と伝えられています。このころ都に住んでいた弟橘媛は巫女的な仕事をしていたのではないかと考えられています。伊射奈岐神社には二人の様子が伝えられています。『古事記』では、二人は羽曳野で出会ったことになっています。
三重県亀山市の忍山神社の社伝では、日本武尊は神主の忍山宿禰の館でもあった忍山神社で弟橘媛を妃としています。これが正しければ東征開始時の忍山宿禰の館は亀山市にありました。日本武尊は伊勢神宮で倭姫命に会った後、伊勢湾岸沿いに船で北上していると思われます。
『古事記』
倭健命は休む間もなく、次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。
父の景行天皇は、東国の12か国(伊勢:いせ、尾張:おわり、三河:みかわ、遠江:とおとうみ、駿河:するが、甲斐:かい、伊豆:いず、相模:さがみ、武蔵:むさし、総:ふさ、常陸:ひたち、陸奥:みちのく)が従わないので平定するよう倭健命に命じたのです。
出発前、倭健命は伊勢にいる叔母の倭比売(やまとひめ:景行天皇の同母妹)のもとを訪れました。
そこで倭建命は倭比売に父天皇は自分に死ねと思っておられるのかと嘆きました。
倭比売は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた天叢雲(あめのむらくも)の剣と袋とを授け、「危急の時にはこれを開けなさい」と言いました。
尾張に到ると尾張の国造を親とする美夜受比売(みやずひめ:宮簀媛)の家に入り、すぐに結婚したい思いましたが、帰りにまた会ってからすると約束しました。この後東国に行き山河の荒ぶる神と従わない人々を平らげることとなります。
伊勢国に向かう
紀伊半島東岸沿い、北は現在の三重県桑名市から南は伊勢市一帯は伊勢国と呼ばれていました。都から見れば東国にありますが、すでに大和政権化に組み込まれており、崇神天皇の時代に始まった天照大神を祀る地を探す御巡幸も垂仁天皇26年に終わっているため倭姫命は現在の伊勢神宮で祀っていました。
都を出発した日本武尊は東に向かい伊勢湾を目指しました。当時伊勢までの道は山越えで南下して熊野に出てから北上する道と現在の国道25号で伊賀を経由する道、あるいは宇陀から名張を経由して松阪から南下する道があったようですが、山越えの少ない方を選んだのではないかと思われます。この道沿いに伝承がなく伊勢神宮までのはっきりした行程はわかりません。倭姫命の元伊勢伝承地が宇陀、名張、伊賀、亀山、津、松阪とあるため、ほぼこの伝承地に沿って伊勢神宮に向かったのではないでしょうか。
天照大御神は皇祖神です。そのため宮殿内で天皇とともに同居していました。第10代崇神(すじん)天皇の時代に政情不安になると、その原因が天照大御神が宮で祀られているからと考えました。そこで、天照大御神を祀るのにふさわしい場所を探すよう命じたのです。そして、その命を受けて天照大神を祀る地を決めるために巡幸したのが豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と倭姫命(やまとひめのみこと)の二人です。豊鍬入姫命は主に宮から北陸の方に向かい、その後倭姫命が東に向かいました。大和を出た倭姫命の主な経路は次のようになります。
大和国(奈良県宇陀市)→伊賀国(三重県名張市→伊賀市)→近江国(滋賀県甲賀市→湖南市→甲賀市→滋賀県米原市)→美濃国(岐阜県瑞穂市→安八郡)から尾張国中島宮(愛知県一宮市→清州市)→桑名野代宮(三重県桑名市)→忍山宮(亀山市)→伊勢国内(津市→松阪市→多気郡→伊勢市)→五十鈴宮(現在の伊勢神宮外宮・内宮がある三重県伊勢市)
東征時の伊勢神宮 野代宮伝承地説
日本武尊が東征を始めた頃の倭姫命が天照大神を祀っていた「伊勢神宮」は伊勢国の北部にあったという説があります。当時の伊勢国は紀伊半島の伊勢湾側にあり、現在の四日市市・亀山市~伊勢市一帯の広い範囲をさしています。
伊勢国の中でも日本武尊の立ち寄り地、倭姫命が天照大神を祀っていたところは、その説によると桑名野代宮が最有力と考えられています。その野代宮があった場所は現在桑名市にある野志里神社であろうとされています。それは、尾張へ向かう方法として、日本武尊は桑名から船出し現在の熱田神宮近くに着船していると伝えられているからです。桑名野代宮は当時の海岸線に近く、周辺には船出する港もあったと思われます。船で熱田へ向かうルートは江戸時代の東海道も同じ海路が制定されています。現在の熱田神宮は海岸線から随分離れていますが、古代は神社前に海が広がっていました。
桑名野代宮の次の鎮座地は三重県亀山市にある奈其波志忍山宮(なぐわしのおしやまのみや)で、亀山市の布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)や同市の忍山神社(おしやまじんじゃ)が候補地とされています。ここは忍山宿禰の館があったところで、弟橘媛の生誕地です。
しかし、日本武尊が活躍した時代に天照大神を祀っていたのは現在の伊勢神宮がある五十鈴川沿いのはずです。垂仁天皇の26年に倭姫命は各地の御巡幸を終え、そこに祀っていることになっていますから、上の説は考えられないと思われます。ただ、西暦に置き換えることができず、出来事を時系列に並べると矛盾が生じてしまう時代の事なので正しいことが分からなくなっています。
野代宮伝承地3社
案内板にはここが野代宮跡地であるとして説明されています。
「野志里神社は延喜式(九〇五年編さんの書物)に名を列ねる古社で、皇太神宮御遷座の旧跡です。倭姫命世紀(やまとひめのみことのせいき)にという古典によると、垂仁天皇は、皇女倭姫命を御杖代(みつえしろ)と定められ、姫は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊と御神璽(ごしんじ)をお持ちになり、新たに清浄な御鎮座の土地を求めて、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)を離れられた。この後、伊賀・近江・美濃・尾張などの各地を御巡幸、この伊勢国の野代の里に御遷幸されたと伝えられています。その旧跡が・この野志里神社だといわれていますが、その時代にはもう少し山寄りであったと考えられます。さて、ここにお祀りして四年、宇冶の土公の祖(おや)、太田命(おおたのみこと)が地相を占い、「五十鈴の川上に霊地があります。御先導申し上げます。」と奏(そう)し、姫はこれを聞き入れ、現在の伊勢市宇冶に御到着になり、ここに御神域と御神殿を整え、皇太神宮として奉祀(ほうし)することになりました。こののち、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主となり、倭姫命は斎宮となられて、奉仕されるようになりました。」
各地を巡幸した倭姫命が最終的に落ち着いたのが現在の伊勢神宮のある地です。水清らかな五十鈴川が流れ、巨木が立ち並ぶ神聖な場所です。
日本武尊の東征時代、倭姫命はここで天照大神を祀っていました。征西時にも訪れ、景行天皇の妹に当たる倭姫命から御衣を授けられました。東征前、日本武尊は再びここを訪れ、かつて素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した時に得た天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:後の草薙剣)と(火打石の入った)袋を授かり「油断しないように」と声をかけられました。
英雄の陰には女性が見え隠れするようですが、日本武尊は3人の女性に助けられます。最初の一人が倭姫命で、あとの二人は弟橘媛と宮簀媛です。
倭姫命との再会
大和を出た日本武尊はまず伊勢神宮に向かい、倭姫命と再会しました。征西の時も会い、熊襲と戦う知恵を授けてもらったのではないかと思われますが、今回は少し違っていました。日本武尊は倭姫命を前にしてその心の内を話したのです。記紀それぞれに書き方は違っていますが、景行天皇の前で見せた姿とは異なり、日本武尊の弱気な姿が見えてしまっています。
『古事記』では、
倭建命は倭比売に父天皇は自分に死ねと思っていると嘆いています。
倭比売は天叢雲(あめのむらくも)の剣と袋とを授け、危急の時に開けるよう言います。これから倭建命に起こるであろう難を予感しているのです。
『日本書紀』では、
日本武尊は東夷征伐を本当はやめたいと打ち明けます。
倭姫命は草薙剣を授け、油断するなと励まします。
*原文でも草薙剣となっていますが、正確にはこの時点で授けた剣は天叢雲剣です。
原文は「今被天皇之命而東征將誅諸叛者 故辭之」です。「故辭之」と短く確かに書いています。『古事記』のような嘆きの英雄では弱いイメージが生まれてしまいます。そこで『日本書紀』の編者は強い英雄に表現を変えました。しかし、日本武尊の人間らしい面を残すこともしたのでしょう。
父天皇にとっても、大和朝廷にとっても日本武尊にかける期待は大きく、それに応えるように気を張って生きている毎日です。不安な思いを顔に出すこともできず、常に冷静でいないといけないのが強いリーダーの務めでもあるのです。しかし、日本武尊も人です。心を開放する時や相手が必要です。妃の弟橘媛はいつも傍にいたのでそんな夫の心を知っていたのかもしれません。しかし、日本武尊は威厳を見せるばかりで、心の内を誰にも話すことができませんでした。そんな中、ただ一人心を許せる女性が叔母の倭姫命でした。姫の前では嘆き、悲しみ、不安を見せることができたのです。そのため、大和から遠くても、征西時に遠征の前に伊勢国に行っているし、今回東征でも、わざわざ全く方向が違う紀伊半島南部の伊勢神宮に立ち寄ってから北上し尾張に向かっています。英雄日本武尊を陰で支えた特別な女性の一人です。
倭姫命が日本武尊に授けたもの
祭神は日本武尊です。
日本武尊が東征の折、蝦夷を征伐できたのは倭姫命から授けられた明玉の威光によるものが大きかった。この地を治めた後、山上に明玉を安置したところ、たちまち二つの霊石と化したと言われています。村人たちはこれらの石を「石母里の神」と崇めて祀りました。石は年々巨大になり、その周りは約3mにもなったため村人は石大神として崇めました。(宮城県神社庁より)
日本武尊を救ったのは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。東征中のある出来事がもとでこの剣が神剣となり草薙剣と呼ばれるようになりました。この剣は素戔嗚尊が八岐大蛇から得た剣と言われ、刃の文様が天に雲がかかるように見えることから「天叢雲」ついた名と言われています。素戔嗚尊が高天原に献上しましたが天孫降臨の際、邇邇藝命(ににぎのみこと)が天叢雲剣を携え、葦原中国(あしはらのなかつくに =日本国)を治めるため高天原から降りてきました。これ以降天皇の元にありましたが、垂仁天皇の時代、この神剣を祀るため倭姫命が保管していました。
日本武尊はここで倭姫命から天叢雲剣と(火打石が入った)袋を授かり、「油断しないように」と声をかけられました。
日本武尊は駿河の賊らに騙され、弟橘媛とともに危うく命を奪われるところでしたがこの霊剣によって野火の難から逃れることができました。日本武尊と弟橘媛を救った剣は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになりました。
東征後、日本武尊は火上山(名古屋市緑区大高町)の宮簀媛(みやずひめ)の館に滞在しました。草薙剣もここにありました。
日本武尊が亡くなると宮簀媛は神剣を祀る神社を熱田の地に建てました。
新羅の僧によって草薙剣が熱田神宮から盗み出されました。その時盗人が通ったのが境内にある清雪門です。そのため、現在は二度と開けることのない門となっています。
神剣を放り投げたことから、この地を「放出」と書いて「はなてん」と読みます。
難波で剣が見つかると宮のある大和(石上神社)に留め置かれました。そのため「布留剣(ふるのつるぎ)」とも言われました。
天叢雲剣は1本の剣の名ではなく、出雲で作られた名剣で何本もあったと言われています。そのうちの1本が草薙剣となり現在熱田神宮に祀られています。
伊勢を後に尾張に向かう
倭姫命は東征に向かう日本武尊に神剣を授けました。『古事記』では神剣と袋を授け、非常時に開けるよう伝えたと書かれています。『尾張国熱田太神宮縁起』では神剣一振りを授け「決してこれを身から離すな」と伝えました。さらに御袋一つ授け「もし火急の難があれば袋の口を解きなさい」と言い含めたと書かれています。
倭姫が授けた袋の中身は火打石でした。火をつけるために使用する石で、硬い材質の石英やめのうなどが使われています。石と石をたたきつけても火は起きませんが、石と火打ち金と呼ばれる鉄製の道具があれば火花が出ます。火打石は火おこしに使う以外、魔除けや縁起担ぎなどに使われていました。
三重県の度会町には倭姫が彦山で見つけたと言われている天然記念物火打石があります。火打石集落から渓流沿いに歩いていくと案内板が見つかりますが、そこからさらに1km行ったところに高さ2mほどの岩が山肌に露出しているそうです。途中まで行ってみましたが夕方近くだったので引き返しました。
伊勢神宮前近くの商店で火打石が販売されていました。打ち金とセットで販売している石もありました。日本武尊がもらった火打ち石もこれぐらいの大きさであったと思われます。
日本武尊は本当に尾張に向かったのか
日本武尊は天叢雲剣(後の草薙剣)と袋(火打石)を携え、倭姫命のもとを去りました。
古代は伊勢国松阪と渥美半島を結ぶ古東海道と呼ばれる海路があったようです。伊勢の高台から伊勢湾越しに東を見ると渥美半島が以外に近いように見えます。しかし、ここを渡るのは容易ではありませんでした。それは伊勢湾と伊良湖水道の潮の流れが速いためです。しっかりとした船を利用しない限り渡海は難しかったようです。『日本書紀』が尾張でのことを書かなかったのは、伊勢から駿河に直接渡ったため尾張には行っていない可能性もあるのかもしれません。
『古事記』では伊勢国の後尾張に入り、美夜受比売(みやずひめ)と婚約したと書かれています。
『日本書紀』の記述通り(海路で)伊勢から駿河に直行したと読むべきか『古事記』に書かれているように、景行天皇は尾張や三河を含む12か国平定を命じているので、伊勢の次は尾張で滞在してから陸路または海路で駿河に向かったと考えるべきか迷うところでしょう。記紀だけでは判断できないようです。
どんな船を利用したか
当時どのような船を利用していたか、完全な形で出土されることはないのですが、埴輪なら出土しています。
かつての伊勢国内(三重県松阪市)に「宝塚」と昔から呼ばれてきたところがあり、昭和時代の初めに調査が行われ国の指定史跡となりました。その後1999年に古墳とその周辺の整備のため再調査したところ、大変珍しい埴輪が出土しました。現在宝塚古墳公園として整備がされ、見学できるようになっている宝塚1号墳(全長111m)は5世紀初めに造られたとされる伊勢国最大の前方後円墳で、宝塚2号墳(全長89m)は帆立貝形古墳です。この地方を治めていた人物の墓と考えられています。ここ松阪は大和と伊勢から東国をつなぐ海路の玄関口にあたり、海上交通の拠点であったと思われます。ここから古東海道と呼ばれる伊勢湾や伊良湖水道を通り、船で交流していたと思われます。その松阪から船の埴輪が出土したこともそれを裏付けているようです。また、この埴輪は全長140cmもあり、国内最大の船の埴輪です。甲板上にいくつもの飾り物を立て、実用的ではない形をしているため「葬送船(そうそうせん)」ではないかとも言われています。
* 埴輪は垂仁天皇の時代から古墳の周りに置かれるようになりました。それまでは主人が亡くなると臣下は殉死するという風習がありましたが、垂仁天皇は野見宿禰(のみのすくね)の助言を聞き入れこれをやめさせました。皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)が亡くなると、野見宿禰は出雲から土部(はにべ)100人を連れてきて、埴土を使って人、動物、建物などの造形物を作らせ天皇に献上しました。日葉酢媛の陵が造られると、生きた人ではなく、土で作った造形物を並べて置きました。そして、これを今後の決まりとしました。これが埴輪の始まりです。
日本武尊が尾張に滞在し東征に出発するまでの間、弟橘媛は日本武尊に同行せず、父忍山宿禰の館に滞在していたと思われます。いよいよ東征に出発する時、父とともに船で駿河に向かい、浜名湖西岸で合流したと推測しています。
伊勢神宮を出発した日本武尊は伊勢湾岸沿いに北上し亀山市に向かいました。この時船を利用したとも考えられます。
日本武尊は東征の前に忍山宿禰を訪ねています。忍山宿禰は穂積氏の祖とされています。忍山宿禰は東征の際、日本武尊のために水軍を出しました。自らも乗船して出陣しています。また、娘の弟橘姫は日本武尊の妃として日本武尊に同行しています。
忍山神社の社記には日本武尊は伊勢神宮の参拝の後立ち寄ったことが書かれています。社記にある伊勢神宮は倭姫命が五十鈴川川上の地で天照大神を祀っているところで、最終的な鎮座地です。
祭神は猿田比古命、天照皇大神、太玉命、天児屋根命、倭姫命、忍山宿禰他で多くの神々が祀られています。また、忍山神社は弟橘姫の生誕地と記されています。
垂仁天皇御代に倭姫命が御杖代(みつえしろ)となって天照大御神を祀る地を求めて各地を巡幸していました。この忍山神社の地でも祀られていたと伝えられています。日本武尊は東征の折に忍山神社に立ち寄り、忍山宿禰に出陣要請をするとともに弟橘媛を妃とすることを伝えたと考えられます。弟橘媛は日本武尊とともに東征に従い走水で海神の怒りを鎮めるため入水しました。
当時忍山宿禰はここに住んではおらず、愛知県東海市に館があったとも言われています。
詳細は不明となっていますが、忍山神社は現在地の亀山市野村にあったのではなく、元は別の地にあったのではないかと言われています。その候補地として次の2か所があります。
忍山神社は元は愛宕山にあったのではないかと伝えられています。現在山頂に小さな祠が建っていますが元宮ではありません。ここは現在の忍山神社から北東の高台にあります。
現在の忍山神社同様に河曲鈴鹿小山宮(奈其波志忍山宮)の候補地ともなっています。愛宕山にあった忍山神社がなんらかの事情で亀山市野村の地に移転したのですが、その地にはもともと布気皇舘神社がありました。つまり布気皇舘神社があったところに愛宕山から忍山神社が移転してきたというのです。しばらく同居していましたが、忍山神社の勢いが強く、布気皇舘神社は仕方なく現在地の布気町に移転したのです。倭姫の忍山宮はもともと布気皇舘神社があった地、現在の忍山神社の地にあったと言われています。
忍山宿禰は穂積忍山宿禰とも称されています。東征の後、忍山宿禰はこの故郷に戻りました。東征の喜びとともに娘を亡くした悲しみも伴っていました。しばらくして、景行天皇が伊勢に行幸され、忍山宿禰に会うため亀山にも立ち寄りました。その際忍山宿禰は稲穂を積んで差し出したと言われています。これがもとで穂積の姓を賜りました。
この時代尾張は既に大和朝廷の支配下にありました。最初に尾張の娘が皇族に嫁いだのは第5代考昭(こうしょう)天皇の時代です。尾張連の娘が天皇の妃となっています。これで東は美濃や尾張まで支配下に置き、第7代孝霊天皇の時代に西は吉備国まで勢力を広げていました。これを裏付けるように、大和の三輪山に近い纏向遺跡を発掘したところ、そこから東海系の土器が多く出土し、吉備、北陸、近江、山陰の土器も多く混じっていたのです。
崇神天皇以降、さらに西や東の地まで支配を広げようとしていたのです。そして、景行天皇の時代に日本武尊が登場することで全盛期を迎えるのです。
尾張国造の祖とされるのが乎止与命(おとよのみこと)で、その祖先は大和国の葛城小治田(尾治田:おはりだ)に住んでいたのが、いつの時代かこの地に移り住みました。乎止与命の子で次に国造になる人物が建稲種命(たけいなだねのみこと)です。建稲種命は日本武尊の東征に従いました。このことは記紀に記載されていませんが『尾張国熱田太神宮縁起』『愛知郡史談』などにはその名を見ることができます。
倭姫命と別れた日本武尊は東征に同行する勇者たちと合流するため、尾張に向かいます。日本武尊にとって多くの勇敢で信頼できる将たちが付き従っていましたが、その中の一人尾張の国造の子建稲種命と再会し合流することが尾張へ向かった最大の目的だと考えています。
当時の国造の館は火上邑(火上山:氷上:現在の名古屋市緑区大高)にありました。尾張国へは桑名から船で伊勢湾を渡ります。その海路は江戸時代の東海道「七里の渡し」とほぼ同じコースだったと思われます。そのため、一旦現在の熱田にある「宮の渡し」付近まで船で向かい、そのあと再び船で火上山の館に向かったと考えられます。これは東征後も同じで、尾張の平野部を陸路で南下してきた日本武尊は熱田に近い鳴海潟で一旦休息し、そのあと船で火上の宮簀媛の館に向かっています。
記紀の編纂を命じたのは天武天皇です。672年の壬申の乱のとき、大海人皇子に尾張からの軍勢10万の兵が勝敗に大きく影響しました。遡って、尾張氏と天皇家の関係は継体天皇の時代にも見られます。継体天皇の妃となり次の天皇となる皇子を生んだ目の子媛は尾張出身です。歴史上、尾張は陰で中央政権を支えているのです。しかし、記紀において尾張を大きくは扱っていません。記紀の完成時は藤原氏が台頭しており、その影響があったのかもしれません。
尾張への海路 伊勢湾航路
松巨嶋(まつこじま)
神社の境内に「松巨嶋」と彫られた手水鉢が置かれています。この場所はもとは松巨嶋(まつこじま)という小さな島だったところです。その島の名が伝えられているのです。
年魚市潟(あゆちがた)
このあたりはかつて松巨嶋にある高台でした。そこから見下ろせば「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれる干潟が広がっていました。いつの時代までそれが見えたのかはわかりませんが、石碑には「勝景」と書かれています。眼下に広がる輝く海と遠くに見える伊勢国の山々はとても美しい景色だったことでしょう。『日本書紀』には「尾張国年魚市郡熱田」の文字が見られます。「年魚市:あゆち」→「愛智:あゆち」は「愛知:あいち」と転じて県名の語源となりました。
桑名宿は伊勢国の入口に位置しますからここに伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられています。そして、この鳥居は伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
熱田神宮から南西約500mのところにあります。江戸時代にはそれぞれの渡し場が整備され、宮の渡と桑名の渡とを船で行き来していました。日本武尊の時代には整備されてはおらず、渡し船が行き交うような決まった航路はなかったと思われます。
日本武尊の伊勢国出航伝承地「尾津前」
剣を置き忘れた「尾津浜」の伝承地は三重県桑名市に3か所あり、いずれも現在は揖斐川河口から少し上った所にありますが、当時はそれぞれの伝承地近くまでが海岸でした。
海水面を現在より7m程度上昇させた地図を見ると三重県桑名市の桑名駅から岐阜県揖斐郡揖斐川町の揖斐駅までを結ぶ養老鉄道養老線(ようろうせん)が海岸にそって引かれているように見えてきます。この線に沿って、野志里神社、尾津神社、船着神社が建っています。「尾津浜」とする小山か戸津の尾津神社は古代の海岸に沿っていることになり、御衣野の戸津神社はやや離れていることになります。
剣を忘れた「尾津浜」の伝承地
<伝承地1>
祭神は倭建命、足鏡別命、大山津見神他です。
神社の由緒には「当社の近辺は往古多度川が海にそそぐ海浜地帯であり、景行天皇紀にみえる『尾津浜』『尾津前』の地名は、この小山の尾津のうちに当ると考えられ、 又『小山』の地名は、小山連の氏族名からでたもので古い地名である。」と書かれています。
<伝承地2>
祭神は倭建命、稚武彦命、足鏡別命、品陀和気之命、宇賀魂神、天照大神他です。
<伝承地3>
祭神は倭建命です。
神社入り口には「日本武尊尾津前御遺跡」(やまとたけるのみことおづさきおんいせき)と書かれた石碑が立っています。境内には太刀をかけたと伝えられる松の木(枯れている)が保存されています。
尾張に向けて船を出した港
社名からここに船の発着場、つまり港があったと思われます。
日本武尊の着岸地
着岸地 推測1
祭神は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)です。草ノ社(かやのやしろ)、種の社(くさのやしろ)とも呼ばれていました。肥沃な土地を求めて移り住んできた祖先の人々がこの地に野の神鹿屋野比売神を奉祀したことが始まりとされています。神前に野菜と塩をお供えしていたところ、野菜が程よい塩漬物になったと言われ、女神の贈り物として伝えられてきました。
日本武尊が東征の折、村人たちはこの野菜を献上したところ「藪に神物(こうのもの)」と言われ、その後「香の物」と書いて漬物を表す言葉になりました。
日本武尊が休息したことは社伝にも書かれていますが、それがいつのことなのかは案内板にも「日本武尊御東征の途参拝あり」と書かれているだけで分かりません。そこで、以下のように推測しました。
1 伊勢国から船で尾張国に入り、この近くで一旦上陸して休息した。
日本武尊は熱田の地で宮簀媛と出会ったと言う伝承がありますから、伊勢国から熱田の地に寄港しています。萱津神社は桑名と熱田を結んだ線より北にあるため、立ち寄り地とはならないと思われます。また、今より伊勢湾の海水面は+5mはあったとも考えられ、それによると萱津神社辺りは海水面より下になってしまいます。ただ、海岸線に沿って伝承地があったとも考えられます。
2 尾張に入り宮簀媛の館に滞在しているとき、知多方面に出かけていることもあり、愛智郡の西部にも出かけた際に立ち寄った。
3 東征後、内津峠を越えて尾張国に入り、鳴海潟に向かうときやや大回りして立ち寄った。
4 伊吹山の荒ぶる神々と戦う前、伊吹に向かう途中立ち寄った。
5 伊吹山の戦いの後、重い病気になった日本武尊は伊勢に向かう途中立ち寄った。
これらのうち可能性があるのは4・5であるように思います。
着岸地 推測2
日本武尊と宮簀媛は火上山の館で初めて会ったのではなく、日本武尊が尾張に入ったときすでに出会っていたことが次の伝承から分かります。
宮簀媛命を祭神としています。
熱田神宮の境外摂社で神宮の南鳥居の少し南に離れたところにあります。ここは日本武尊と宮簀媛の出会いの地です。日本武尊が川で衣を洗っていた娘に火上への道を尋ねたところ、娘は耳が聞こえないふりをしました。この娘が建稲種命の妹の宮簀媛です。聞こえないふりをしたことから「おつんぼ神」とも呼ばれ、耳の神様となっています。
二人の出会いは熱田神宮が創建される前の出来事になりますが、熱田台地に二人がいたことになります。それは、伊勢国(桑名)を船出した日本武尊は火上山に行く前にここに立ち寄っていたことになります。つまり、伊勢湾に突き出た熱田の地(宮の渡し跡近く)が着岸地となります。
着岸地 推測3
伊勢国(桑名)を出航した船が着くのは東海市の船津神社の可能性があります。そこは火上山に近く、建稲種命が迎えたところかもしれません。
祭神は建甕槌大神、塩土老翁大神です、
社伝によれば、日本武尊が東征の時、伊勢国(現在の桑名市)から海を渡りここに着岸しました。縄を使って船を松の木につないだので「名和」「船津」という地名がつきました。鎮座地の地名「名和」は縄からつけられたものです(船の縄→名和)
この社伝に従えば、桑名の港を出航した日本武尊は伊勢湾を渡り、最初にこの地に到着したことになります。
熱田区の松后社と東海市の船津神社の社伝を合わせて考えれば、日本武尊は桑名から伊勢湾を渡り直接火上山近くの港に向かったのではなく、熱田に立ち寄ったと考えられます。
尾張国愛智郡(あゆちのこおり)に入った日本武尊は建稲種命(たけいなだねのみこと)と会いました。
建稲種命は「私の故郷は火上の里です。そこでお休み下さい。」と言うと、その言葉に従い、日本武尊は火上を訪れました。すると、そこに美しい娘がおり、名を尋ねると建稲種命の妹の宮簀媛と分かりました。日本武尊は建稲種命
に声をかけ、宮簀媛を召して館に滞在することとしました。(『尾張国熱田太神宮縁起』より)
尾張氏系図(…かなり省略しています)
副将軍となる建稲種命の館は火上山(現在の名古屋市緑区大高)にあったと思われますが「火上の里は故郷」と言っていますので、火上山には父と妹宮簀媛が住んでいたのでしょう。(このとき国造の父乎止与命はすでに亡くなっていて、国造は建稲種命だったとも考えられます)
建稲種命は妃の玉姫とともに知多半島先端の師崎(もろざき)に住んでいたとも伝えられており、日本武尊の東征に同行するため尾張各地に出向き兵を集めていたのかもしれません。
建稲種命は大和では景行天皇に仕えていたと思われます。そうならば、鳴海での日本武尊と建稲種命の出会いは初めてではないでしょう。建稲種命は尾張国に戻り、乎止与命のあとを継いで尾張国の国造となっていました。二人が出会った時、建稲種命はかねてより話していた妹の宮簀媛を紹介しました。宮簀媛は鳴海潟の向こう、火上山に住んでいました。
宮簀媛は日本武尊を兄建稲種命から紹介され、日本武尊は東征への出発までしばらくの間宮簀媛の館に滞在することになりました。
いよいよ出発の時、二人は東征後に結婚することを誓い合いました。宮簀媛は日本武尊の東征には同行しませんでした。一人館にこもっていたようです。尾張藩の歴史書『尾張志』は日本武尊が東征に行っている間、宮簀媛の館の門戸は閉められ、無事に戻ることを祈願していたと伝えています。
宮簀媛を祭神とする神社です。氷上姉子神社の元宮があるところが宮簀媛の館があったところです。東征後、日本武尊はこの館に滞在しました。そして、伊吹山の荒ぶる神を征伐するために出かけるのですが、神剣の草薙剣をこの館に置いていきました。宮簀媛は日本武尊が亡くなってからも草薙剣をこの館で祀っていましたが、媛は後に熱田に社地を定めて神剣を祀りました。
氷上神社のあるところは火高火上(ほだかひかみ)と呼ばれており、元は火上姉子神社でしたが、社伝によれば、この名が火災を連想させるために神社名を「氷上」と改めたとされています。
主祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)で、草薙剣の神霊を指していると言われています。また、熱田大神は天照大神としたり、日本武尊としたりする説もあります。ここには草薙剣とつながりのある天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命も祀られています。日本武尊が亡くなってから、氷上姉子神社のある地で祀られていた草薙剣は熱田に社を建てて祀ることとしました。
尾張に滞在中知多に出かけました
尾張の建稲種命の尾張に滞在していた間にこの国の各地を見て回っています。これは東征の前か後かははっきりしません。社伝等でそこまで明確に伝えていないためです。東征後も火上山の尾張氏の館に滞在していますから、その時に出かけたことが伝えられているのかもしれません。
『古事記』では天皇は12の地域の賊の征伐を命じており、尾張も含まれていますが、尾張西部から知多一帯は尾張氏の支配下にあり、逆らう者はいません。三河の岡崎では戦いがあったという伝承がありますが、これは東征に向けて進軍してからのことであろうと推測しています。そのため、広く尾張国は全体に大和朝廷に従っており、国の平和な様子を見て回ったと考えます。
日本武尊はこの地を訪れ、村人に日の沈む方向を尋ねられました。村人が「日はまだ高いですよ。」とお答えすると、この地を「日高」と名付けられたそうです。後に「日永」と呼ぶようになり、さらに、「日長」と書くようになりました。境内にある池は日照りが続いても水が枯れないと伝わっています。ここを訪問したのは日長氏に東征への従軍を依頼する目的もあったかもしれません。
「元禄年中(1690年頃)に書かれた「日永大名神略縁起」によれば、戦国時代に匹田氏、駒沢氏と云う武将が砦を築いていたが兵火に会い、神宝・古記録等が消滅したとあり、創立年月日は詳かでない。御本殿の東にある大きな岩は「磐境」であったと云われている。社殿に神様を祭るようになる前には、榊を枝に立てたり、大きな岩に神様をお招きして祭りが行われた。磐境があることは歴史が非常に古いことを物語っている。社伝によれば、景行天皇の皇子日本武尊が御東征の折この地に来られ、里人に此の所の名、及び日の暮れる方向をたずねられたので、里人が畏こんで〝日は未だ高し〟とお答すると、尊はこれを聞かれ、それでは此の所を「日高」と呼ぶがよいと仰せられたのが地名になり、後に「日永」となり、江戸時代中期以後は日長となった。山頂にある手水池は、命が里人に掘らせられた池と伝えられているが、如何なる日照りが続いても、水の涸れたことのない不思議な池である。水が澄んでいると平和、濁ると戦争になるとも云い伝えられている。平安時代に書かれた和名抄によれば、知多郡は蕃賀、贄代、富具、但馬、生道、英我の六郷に分かれていたが、蕃賀郷は、日長神社を中心とする知多半島西北海岸地帯を範囲としていたと云われる。現在残っている最古の棟札には南・部□大日本国東海道尾□智多郡大野庄日永□□神社□□所 天正九辛巳拾弐年吉日とあり、それ以後13回御本殿を修覆した棟札が残っている。江戸時代には、江文大明神とも称せられ、倉稲魂命の御神徳が崇敬され、国内神明帳には、従三位上日長天神とあり、文政3年の棟札には、正二位日長神社とある。江戸時代には、日長7村の総社として崇敬を受けた。その範囲は、宝永七年の棟札によれば、岡田村、羽根村、大草村、松原村、鍛冶屋村、森村となっている。 明治5年には郷社に列せられ、戦後は宗教法人日長神社となり、現在にいたっている。御馬頭 現在では、例祭日に一区、二区、三区、新舞子南北区の四地区から奉納されている。御幣、水引、標具巻(だしまき)、首 (くびかぶと)等で飾られた馬を法被、もも引、草履ばき姿の42厄才が大門とよばれる道を四往復する。昔は山、里、鍛冶屋、上ゲ、松原の地区から七頭が出馬し、目出度いことがあるとやなぎ馬を出し若衆が引いていた。伝説村の北にあり、昔奥の院と号し、金1000両、朱1000両が埋まっている云う。日長崎淵に鰐魚がいて、沖を通る船が帆を下げて拝まないと、梶をくわえて船を留めたので帆下天神とも云われた。紅葉谷 明治42年、愛知電気鉄道(名古屋鉄道の全身)が開通するに先立ち、愛電の手塚技師により、遊園地にするため紅葉が植えられたが、諸般の事情により荒廃したが、戦後、42厄才により下草刈が奉仕され、整備されて現在にいたっている。例祭日 4月第2日曜日」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
東征軍の出発地
大和の宮からの兵らと建稲種命の呼びかけで集まった尾張の兵らが集い、いよいよ出発の時を迎えました。
祭神は弟橘媛のみの一柱です。やや高台に神社があり。この辺りは入海貝塚と呼ばれる縄文時代の遺跡があることから、当時は海岸線が目前であったと考えられます。この遺跡からは入海式土器と呼ばれる砲弾型の土器が発見されています。
ここから忍山宿禰(おしやまのすくね 弟橘媛の父)らが出航したと考えています。
祭神は日本武尊です。
神社は戦国時代の村木砦跡に建てられています。戦いの兵を弔うために建てられたともいわれています。
近くの緒川城は織田軍×今川軍の戦場ともなりました。この砦は緒川城を攻めるために今川軍が築いたものです。この砦跡に八剣神社があり、日本武尊が祀られています。この神社がなぜ日本武尊を祭神としているかはよくわかっていません。
尾張から駿河まで弟橘媛はどうしていたか
大和の宮から日本武尊に同行してきた弟橘媛ですが、入海神社に名前が見える以外にそこから駿河までの行動が不明です。そのため、尾張からは日本武尊と離れ、駿河までは別部隊とともに行ったとも推測できます。そこで、二つの行程を考えてみました。
1 陸路で同行した。
2 海路で駿河に向かい、途中浜名湖岸の熱田神社がある地(静岡県湖西市吉美)で下船し合流した。
3 海路で駿河まで行き、駿河(静岡県静岡市清水区)で下船後日本武尊と合流した。
私は3と考えています。
理由1 三河の地を陸路で移動中は別の妃が同行していました。この妃は京が峯のある里で皇子を出産しています。(後述) この妃は皇子とともにこの里に残り、これ以降同行はしていません。
理由2 三河や静岡県西部に弟橘媛を祀る神社がなく、入海神社の次に祀られているのは清水区の久佐奈岐神社です。つまり、三河に弟橘媛と関係のある伝承地がありません。
東征に 進軍した主な将()たちを整理してみます。
<大和からの副将軍たち>
吉備武彦(きびのたけひこー副将軍)
大伴武日(おおとものたけひー副将軍)
七拳脛(ななつかはぎ-食事係)
久米八腹(くめのやはら:七拳脛の子ー建稲種命に従う)
武卵王(たけかいごのみこ 別表記:建貝児王-妃吉備穴戸武媛の子)
日本武尊の東征に同行した副将軍らは滋賀県大津市にある建部大社に祀られています。
「当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神日本武尊は御年僅に十六才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死をいたく歎かれ御名代として建部を定め46年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳四年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として崇め奉ったのが現在の当大社である。歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190)11月右大将として上洛の際再び社前に額き襄年蒙った深い神助に対し、幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、明治18年4月官幣中社に、同32年7月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。昭和50年4月15日御鎮座壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。そして平成2年3月17日には本殿遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)
日本武尊命を祭神とする神社です。日本武尊と両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)の子の仲哀天皇によって創建されました。三重県の能褒野で亡くなり、神霊白鶴となって飛び去りましたが、大和、河内からこの鶴内の里に舞い降りたと伝えられています。境内にある三社神社には東征に従った吉備武彦と大伴武日も祀られています。
<伊勢で合流>
五十功彦命(いとこひこのみこと)
五十功彦命は景行天皇の皇子で日本武尊の異母弟です。東征後、日本武尊が大和に戻る際、五十功彦命は伊勢国北部(三重県四日市)に留まり、国造としてこの地を開墾しました。
神社の近くに伊吹山の戦いを終えて大和に向かった日本武尊が休息した足洗池があります。一説ではこの池に寄ったのは弟に会いに行くためだったともいわれています。
五十功彦命が祀られている神社
祭神は五十功彦命です。
飛鳥時代、大海人皇子は密かに吉野を抜け出し伊賀、鈴鹿を経由して四日市に入りました。その時の滞在地となったのかこの地にあった館でした。
<尾張で合流>
祭神は天穂日命、少彦名命、大己命貴命、誉田別尊、素盞雄命、日本武尊です。知多半島にあり、東征軍の通過地あるいは出航地となった地かもしれません。
半田市山車保存会のホームページには『熱田舊記』に「日本武尊の東征で功績のあったので土師臣をここに封じた」とあることが紹介されています。そこで『熱田舊記』や『張州府誌』『尾張国知多郡誌』などを何度か読みましたがそれらしき記述は見つかりませんでした。さらに調べてみたいと思います。
このような役割から、日本武尊の東征においては大和から同行したとも考えられ、千葉県茂原市橘樹神社境内の弟橘媛の陵造営にも関わったと思われます。また、日本武尊が亡くなった際にも陵の造営に関わったかもしれません。
神主「押根」
祭神は志那都比古命(しなつひこのみこと)、志那都比賣命(しなつひめのみこ)、瀬織津比咩命(せおりつひめのみこ)、宇加之御魂神(うかのみたまのかみ)他です。また地名伝承から日本武尊も祀られています。垂仁天皇の時代に創建された古社です。元宮は鎌ヶ岳の頂上にあったとも言われています。日本武尊の東征の折、神主の押根が供をしたことが伝えられています。
伊吹の神と戦った日本武尊は病となり、ここに立ち寄った時に「吾が足は三重のまがりの如くして、大変疲れた」と言ったとされています。この故事により三重県の名称の発祥の地となっています。
建稲種命
尾張国造の子、日本武尊の妃となった宮簀媛の兄です。日本武尊の東征に尾張から従っていますが、本隊とは別行動しています。『日本書紀』で日本武尊は海路で駿河に向かったように読み取れますが実際は三河を陸路で進み、浜名湖岸から船を利用したと考えています。それに対して建稲種命は尾張から陸路で山間部を経由して武蔵に至って上総で本隊と合流したと推測しています。
建蘇美命(たけそみのみこと)
建稲種命の子で東征に従軍しました。
東征後は愛知県額田地区の開拓に尽くしました。そのためこの地域は「蘇美郷」と呼ばれていました。
祭神は建稲種命の子建蘇美命です。神社に隣接して建蘇美命の墓と伝えられている古墳があります。
穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)
弟橘媛の父で入海神社前から水軍を出したと思われます。(入海神社社伝)
日本武尊は東征に出発する際、紅葉川から船出したと伝えられ、また、忍山宿禰の娘で走水で海神の怒りを鎮めるために海に身を投じた弟橘姫の櫛が紅葉川に流れついたと言われています。*紅葉川がどこなのか分かりませんでした。
日本武尊が東征の折立ち寄り幣祈願(ほうべいきがん)したところです。
祭神は大名貴命(おおなむじのみこと)、大物忌命(おおものいみのみこと)、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長津姫命(しなつひめのみこと)、衣通姫命(そとほりひめのみこと)です。垂仁天皇の時代に創建された古社です。
相模国の二宮とされています。そのため地名も「二宮町」で、昔から「二宮大明神」、「二宮明神社」とも呼ばれていました。ここは磯長国(しながのくに)に属し、磯長国造に関係がある神社のようです。また「川勾」の名は、古代は押切川が曲流していたことからついたと言われています。
忍山宿禰は東征後、相模の国造に任じられています。相模国は相武と磯長の2国に分かれていました。『二宮川勾神社縁起書』には磯長国造の大鷲臣命、相模国造の穂積忍山宿禰とありその名を見ることができます。
日長氏
日本武尊は尾張に滞在中知多半島に出かけ、日長氏に直接依頼したのではないでしょうか。
日本武尊はこの地を訪れ、村人に日の沈む方向を尋ねられました。村人が「日はまだ高いですよ。」とお答えすると、この地を「日高」と名付けられたそうです。後に「日永」と呼ぶようになり、さらに、「日長」と書くようになりました。境内にある池は日照りが続いても水が枯れないと伝わっています。ここを訪問したのは日長氏に東征への従軍を依頼する目的もあったかもしれません。
丸氏(わにし)
愛知県知多郡阿久比町の熱田神社の社伝には「日本武尊の御東征に随伴したる丸氏の奉祀したるものなり」とあり、この地を治めていた丸氏が出陣していたことがわかります。丸氏は大和で勢力を持っていた古代豪族の和爾氏(和珥氏)と同じ一族です。Wikipediaには和珥氏に関して「漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある」と紹介されており、この視点から、丸氏は日本武尊船団のリーダー的存在であったのかもしれません。
衣浦港付近 阿久比川・十ケ川河口
古代の阿久比町の辺りは現在とは異なり、船が奥に入ることができる入り江があったかもしれません。FloodMaps
FloodMapsの海水面を+7m上昇させ、古代の地形を推測した図を見てみると、現在の衣浦港に流れる阿久比川の川幅が広がり、阿久比町中心部までの切込みが見えてきます。この切込み部分の先端付近に船団の停泊地があったのではないでしょうか。
猿投山の兵
愛知県豊田市の猿投(さなげ)神社にはとても面白い言い伝えがあります。猿投山は美濃に封じられた大碓命が命を落としたところで、山中に墓があります。この辺りに美濃から移り住んだ大碓命の館があったともいわれています。
景行天皇は猿が好きでした。ある日、天皇が伊勢(現在の伊勢ではない。倭姫の巡幸地の当時の伊勢国のどこか)に行幸するとき、この猿を連れていきましたが、猿が不幸なことを行ったので海に投げ捨ててしまいました。日本武尊が東征に出かける時、この猿が壮士(勇者)として同行したと言うのです。東征後、この猿は猿投山にこもったそうです。猿投山の名はこの故事がもとになってつけられています。大碓命に仕えていた者が大碓の命によって弟に従軍させたのかもしれません。
日本武尊の子 建貝児王
大和から父日本武尊に同行していた建貝児王(たてかいこおう)をこの地に留め、地域の開拓を進めるよう命じたようです。
祭神は建具児王(たけがいこおう)、大山咋命、草壁皇子です。
日本武尊の東征の折、子の建貝児王(たてかいこおう)をここに封じたと言われています。建貝児王は宮道別(みやじわけ)の祖で、子の宮道宿禰速麿が穂国の県主となりました。別説として、宮道別は景行天皇の子の宮道別王とする説があります。また、672年の壬申の乱の時に天武天皇・持統天皇の子草壁皇子が宮路山に住んでおり、その跡地に社が建てられたと伝えられています。
*日本武尊が行った東征の行程を征西の行程と同じように推測しました。それは尾張から東の東海・関東・東北各地に残る伝承を調べ、それらを伝える史跡や神社を地図上に印し、地図全体を見て見て推測することです。そして、点と点を線でつなぐのですが、日本武尊の確かな行程を導き出せたわけではありません。
海路か陸路か
日本武尊軍の本隊は知多およびその周辺の干潟に接する港から東国に向けて出発したとします。日本武尊が倭姫命がいる伊勢に立ち寄った後、次に記紀が書いているのは駿河(『古事記』では相模)での出来事です。尾張に立ち寄ったとするのは『古事記』によるものです。尾張から駿河まで海路で行ったのか陸路で行ったのかは書かれていません。そのため、尾張から駿河までは何事もなかったかのように思われてしまいます。しかし、無視できない伝承が三河にあるのです。それらはほぼ東海道に沿っています。そこで、駿河に入る前に三河山間部を含めた地での出来事があったとしたいと思います。記紀では三河路の小さな出来事はすべて省略されてしまったと考えます。
しかし、 三河路の日本武尊の足跡を無視できません。そのために、日本武尊は尾張の港を出航したが三河湾沿いの要所に寄港しながら駿河に向かったとします。そして、三河湾のどこかに上陸する必要があり、早々と上陸して陸路で進軍したのかもしれません。再び海に戻ったのは浜名湖だったと考えてもよいのではないでしょうか。三河山間部に多くの足跡があることは、伝承のある岡崎を経由して現在の国道1号に沿って進軍し、途中三河山間部に入り、大回りして海路と陸路軍の集合地となる浜名湖に向かったとも考えられます。
『尾張国太神宮縁起』は記紀をもとにしてそれに沿った形で書かれています。紀では倭姫と別れた後は駿河に入ったことが書かれています。これに従えば桑名から静岡(焼津として)まで船で航行したと考えてもいいのかもしれません。『尾張国太神宮縁起』も三河路の伝承を無視したのでしょうか。だから建稲種命は陸路、日本武尊は海路で行ったとしたのでしょうか。
愛知県内東海道にほぼ沿った神社に日本武尊の足跡が残っています。やはりこれを無視しないようにしたいと思います。そこで、日本武尊と建稲種命の行程を次のように整理しました。
『尾張国太神宮縁起』は山道を行った建稲種命が次に日本武尊と合流したのは房総半島の玉崎と伝えています。つまり、尾張を出発してからの建稲種命は日本武尊本隊とは別行動だったのです。 建稲種命は陸路で情報収集しながら山間部(古東山道)を関東地方に向かって行きました。この時得た情報によって東国平定後の日本武尊の帰路を決めることにつながったのではないでしょうか。
日本武尊は尾張の港から海路で出航しましたが、三河西部のどこかで寄港し、岡崎で反乱軍を制圧した後、今度は陸路で駿河を目指したのではないか。このとき、日本武尊は吉備武彦や大伴武日らを伴っていたと考えます。
*吉備武彦は東征の帰路、碓日坂(碓氷峠あるいは鳥居峠)より越の国に向かい視察してから美濃で再会します。大伴武日は東征の帰路信濃に留まっています。
また、海路で知多・渥美半島をまわり、駿河に向かう軍もあり、それが日長氏や忍山氏らで弟橘媛もここに同行していたのではないかと思うのです。忍山氏が海路で向かったことは、入海神社付近から水軍を出したことが入海神社社伝に書かれていますから否定できないと考えます。
出航地
また別伝承として「御舟流し祭」は日本武尊らが鳴海潟から東征に出航したことに因んで行われているとも言われているそうです。このように、成海神社の「御舟流し祭」は2つの伝承がもとになっていることになります。東征のときの日本武尊の出航地とするなら『尾張国太神宮縁起』の記述と合ってきます。
成海神社のある地は高台にあり当時は鳴海潟ごしに火上山(熱田神宮元宮、現在 氷上姉子神社)を望むことができたと思います。ここで宿泊した日本武尊は
「鳴海浦を 見やれば遠し火高地に この夕潮に渡らへむかも」と詠んでいます。
天智天皇の時代に草薙剣盗難事件が起こり、686年(朱鳥元年)に草薙剣は熱田に戻りました。この年、日本武尊の縁由によって10社が建てられたと『熱田大神宮御鎮座次第本紀』に書かれており、成海神社もその一社です。もとは現在地より南にあり、室町時代にこの地を治めた安原氏により根古屋城(鳴海城)が築かれることになり、成海神社は現在地の乙子山に遷されました。
当時の成海神社はこちらにありました。小さな境内ですが、鳴海城跡石碑や日本武尊の歌碑があります。
この近くに「年魚市潟(あゆちがた)」が広がり、船を出す港があったと推測されます。成海神社旧社地の辺りはかつて愛知県の名称起源とされる「年魚市潟(あゆちがた)」が広がっていました。船団の出発地の一つと考えられます。
日本武尊は滞在していた火上山の宮簀媛の館近くから出発したと思われますが、現在の阿久比市か半田市で全軍が集まっていたところかもしれません。宮簀媛はこの出発を見送った後、日本武尊が東征から戻るまで、門戸を閉め、誰とも会話をせず、ひたすら無事に戻ることを天神地祇に祈っていたと『熱田舊記』に書かれています。その場所は名古屋市熱田区の松姤社となっていますが、東征後日本武尊が向かったのは火上山ですから、宮簀媛が籠った館は熱田台地ではなかったと思います。
東征後の話です。
日本武尊は東征からのもどった時、鳴海潟の岸辺で歌を詠みました。鳴海潟の向こうには建稲種命の妹宮簀媛(みやずひめ)の館がある火上山が見えています。夕方、日本武尊はここから船で火上山に渡ったのでしょう。
「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」
『熱田大神縁起』によると成海神社は是を縁起として創祀されました。