東征-陸奥へ
房総半島での戦いの後、弟橘媛の遺品や遺骸は袖ケ浦から本納まで運ばれました。そして、日本武尊は君津あるいは富津、勝山の海岸から外洋を船で回り、勝浦を経由して本納近くの海岸に上陸しました。ここで弟橘媛の陵を造るためしばらく滞在しました。そのあと、再び海路で陸奥に向かうため下総の海角と言われる出航地に向かいました。
『日本書紀』
日本武尊はすぐに上総から陸奥国(東北地方)に入りました。このとき、尊は大きな鏡を掛けた船で、海路で葦浦を回り、玉浦の横を通って、蝦夷の境に到着しました。
陸奥への出航地
国土交通省関東地方整備局(https://www.ktr.mlit.go.jp/index.htm)が霞ヶ浦河川事務所ホームで公開している「霞ヶ浦の変遷 昔はどうなっていたか/約1千年前」の図を参考にして、FloofMaps(http://flood.firetree.net/?ll=35.5670,140.4013&zoom=9&m=6)で現在海水面を+6mに設定すると上のような地図を描くことができました。これに主な名称を入れてみました。この図から九十九里浜は現在よりも大きく陸地に入り込んでいることや北浦と霞ケ浦がつながっている(香取海:かとりのうみ)ことが分かります。この図はほぼ日本武尊時代の房総半島周辺の再現図としてもいいいのではないでしょうか。
葦浦や玉浦はどこなのか、また、日本武尊はどこから出航して海路で蝦夷の国に向かったのかを図を基にして考えてみたいと思います。
葦浦はどこか
『日本書紀』に書かれている順では葦浦は玉浦の前に通過しているはずです。
葦浦は「廻り」、玉浦は「横切り」と、同じ「浦」でも区別して書いていますから、葦浦は入り江から岬が続き、その岬を大きく廻り込むように航行したと考えます。蝦夷の国に入る前に、そのようなところを探してみます。
「浦」の意味から、弧を描くような入り江があるところを房総半島の東海岸から探すと、①南房総市の千倉から和田町にかけての海岸、②鴨川市の海岸、③勝浦市の海岸、④夷隅郡御宿町周辺の海岸、⑤いすみ市岬町周辺の海岸などに見ることができます。これらのうちのどこかが葦浦であったと考えられます。あるいは、南房総全体を葦浦と称していたのかもしれません。
葦浦(あしうら)は陸奥に属する地としている説もありますが「安房の海角」と説明する歴史書があります。安房国にある岬のようなところならば葦浦は九十九里浜の南端よりさらに南に位置していたことになります。
葦浦と書くのはそこが葦が生い茂った泥地であるからです。『常陸国風土記』では常陸国と下総国の境と書いていますが、現在の地形とは異なっていたであろうからその場所を特定することは難しいのかもしれません。利根川の河口付近から北に玉浦があり、その前に葦浦があったとすれば九十九里浜が葦浦なのかもしれません。しかし、これは玉浦は九十九里浜説を有力視したいため、選択しないでおこうと思います。
千葉県鴨川市に江見吉浦という地名があります。この吉は「よし」で「よしず」の原料の植物のヨシを示しています。すると、吉浦はヨシがたくさん茂っていた海岸に近いところの意味となります。この吉浦がかつて葦浦だったとする説もあります。
ヨシはもともとアシ(葦、葭など)と呼ばれていたイネ科ヨシ属の多年草です。(つまり、すだれやよしずの原料のヨシはアシと同じ植物です)アシは河口や湖沼の水際に生息し、茎は2m以上伸びる植物です。日本には記紀にも登場するもので『国史大辞典』には日本の古称として、葦原中国(あしはらなかつくに)や豊葦原之千秋長五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)が紹介されています。古代から我が国は豊かな水が流れる大河が海と交わり、その河口には人を隠してしまうほどのアシが生い茂ってる様子を想像することができます。平安時代になると、縁起の悪い漢字を別の字に変えようとすることが一般化しました。そのため、これまでアシと呼ばれていた植物は「悪し」ともとれるので「良し」と変わり、葦浦は吉浦となった可能性が高いです。これらのことから、江見吉浦辺りが葦原ではなかったかと思われるのです。
現在の江見吉浦付近の海岸は岩ばかりが見えます。そこに葦が生えていたとは思われません。古代は、さらに内側に広大な湿地帯があり、葦が生い茂って沖の船からもその様子を見ることができたと推測すべきでしょう。
*アシと言えば、駿河で野火の難に遭った日本武尊が入っていった所も葦原ではなかったかと思われます。
やはり、葦浦の場所を特定することは困難なようです。江見吉浦でも、それより南の南房総市でも可能性があります。「葦浦=安房の海角」は房総半島の南部を示していると思われます。
玉浦はどこか
次に、地図から玉浦の場所を推測してみます。
「玉の浦は九十九里浜の古称」と説明しているのはWikipedia他です。一般的にはこのように考えられているようです。
「浦」の意味は「海が湾曲して陸地に入り込んだ入り江」と多くの辞書に書かれているため、現在の地図や古代の再現図を見ると弧を描くような地形は九十九里浜が当てはまります。玉浦は「横切り」と書いていますから、南から北に航行した場合、浦であっても決して狭くなく、「横を通った」「横切った」と表現してもおかしくはない場所は九十九里浜以外に見つかりません。九十九里浜は、いすみ市の太東崎から旭市の刑部岬まで全長66Kmもあり、ここが玉浦にふさわしい場所と考えます。
房総半島の南を海路で廻ってきた日本武尊は九十九里浜の南の太東埼にある神洗神社(玉前神社元宮)付近から上陸し茂原市本納に向かい、そこで半島を陸路で横断してきた部隊と合流しました。本納で弟橘媛の陵を造営すると、再び近くの海岸から出航しました。そして、九十九里浜の海岸線を左に見ながら先に見えてくる犬吠埼を目指して横切り、九十九里浜北端の飯岡あたりに到着したと思われます。
九十九里浜南端の上陸地
御祭神は玉依姫命、上総の国一の宮です。
神社は房総半島の東、九十九里浜の南端にあり、ここには縄文・弥生時代のころから集落がありました。
玉前神社の境内に「白鳥井」があります。
日本武尊は東征の後尾張に戻りましたが、再び伊吹山で戦い亡くなりました。そして一羽の白鳥と化して飛び去ったと言われています。その白鳥が弟橘姫命の亡くなった上総の地へ飛来しました。白鳥が玉前神社の上空を舞っていたとき一枚の羽根が神社の井戸へ吸い込まれていきました。また、太東岬近くにあった湖に一羽の雌の白鳥が現れました。この白鳥は弟橘姫の化身と思われます。これを見た玉前神社の白鳥はすぐに湖の方に飛んでいき、湖で二羽が仲よく泳いでいました。夕方になると、一羽の白鳥が西の空へと飛んで行きました。
神社近くの海岸では砂鉄が取れていたようです。日本武尊の東征目的の一つでもある鉄の産地を支配するという大和朝廷の権力拡大を物語る白鳥伝説かもしれません。
祭神は日子火火出見尊、豊玉姫尊、玉依姫尊、鵜羽屋葺不合尊です。
玉前神社(一の宮)の元宮で現在は末社となっています。
祭神が海から上陸されたとき体を洗われたのが神洗池です。参道の赤鳥居脇の小さな池です。
玉浦で建稲種命と再会
玉浦がどこなのかを地図ではなく『尾張国熱田太神宮縁起』に書かれていることを参考にして推測したいと思います。『尾張国熱田太神宮縁起』は『日本書紀』の記述に建稲種命に関する言い伝えを加えています。熱田神宮宮庁が発行している現代語訳から引用すると、「日本武尊は上総から陸奥にお入りになり、大きな鏡を船首にかけて海路をとって葦浦に廻り、横切って玉の浦に渡られたとき、稲種の公と偶々に出会って、公は山道の様子を詳しく語り、共に蝦夷の地に向かわれた。」稲種は尾張国の建稲種命で後に日本武尊の妃となる宮簀姫の兄です。尾張から東征に向かうとき、建稲種命は副将軍として、日本武尊の東征からの帰路とは逆に、国の様子を見ながら信濃、甲斐、武蔵などの山の道を通って進み、坂東で会おうと誓い合っていました。その二人が玉の浦で再会しました。
『尾張国熱田太神宮縁起』に玉浦の場所が正確に書かれているわけではありません。山の道を進んで坂東に向かっていた稲種は古東山道を信濃-上野と進み、武蔵を経由して蝦夷の国の入り口に向かいました。それは日本武尊と合流するためです。本来はもっと早く、武蔵か上総で再会する予定だったかもしれません。日本武尊は房総半島西側での戦いの後、海路で南房総を回り茂原市本納に至りました。ここで弟橘媛の陵を造るためしばらく滞在していましたが、稲種は日本武尊の方が先に進んでいると思ったのでしょう。尊の後を追いかけて行くつもりが、実は尊が本納から東の海を遅れて出航したため、思いがけなく玉浦で再会することになったということかもしれません。
これにより、日本武尊軍は全軍そろって蝦夷の国に向かうことになったのです。
整理すると、現在の九十九里浜が玉浦で、日本武尊が建稲種命と再会した玉浦の地は現在の九十九里浜北端の飯岡です。ここが日本武尊が蝦夷に向け出航した地となります。
出航地は九十九里浜の北端
九十九里浜の北端には、南端にある玉前神社と読みが同じ玉崎神社があります。
祭神は玉依比賣命と日本武尊です。上総の国二の宮に位置付けられています。
日本武尊が東征の折、海上安穏、夷賊鎮定のため玉の浦の東端の玉が埼に創始されました。その後竜王岬に建てられ、天文年間に火災に遭い現在地に遷されました。
日本武尊は九十九里浜の北端から船出しました。
「御祭神 当神社の御祭神は、主神として玉依毘売命を祀り、日本武尊を配祀申し上げる。玉依毘売命と申すは、綿津見命の御女として畏くも葺不合尊の御后神にまし、神武天皇の御生母にあたらせ給う。古来、海上鎮護、漁業の大神として、また、除厄開運、結縁安産育児の守護神として崇敬されている。日本武尊は、古来、武神として国民の均しく崇敬し奉る大神であらせられる。御由緒当神社は、景行天皇12年の御創祀と伝えられている。人皇第十二代景行天皇の皇子、日本武尊が、御東征のみぎり、相模より上総にお渡りになろうとして、海難に遭われた時、御后弟橘姫命(おきさきおとたちばなひめのみこと)が「これは海神の御心に違いない」といって入水したことによって、無事上総の国に着くことができ、更に、海路、葦の浦より下総玉の浦にお渡りになられた。そこで尊は、その霊異を畏まれ海上平安、夷賊鎮定のために玉の浦の東端「玉ヶ崎」に海神玉依毘売命の神霊を斎き奉るによるものである。後世、「玉ヶ崎」を「竜王岬」と言うようになったのは、海神を竜宮の神に付会して、竜王の鎮まり坐す崎と言うようになったものである。「玉の浦の清き渚を行きかへり浪にかがやく月をみるかな」海上胤平(うなかみたねひら)「夕汐に月さへみちて打ちよする浪もかがやく玉崎の浦」海上胤平「つらつらに見れどもあかず満潮の入りてはかへる連浪の磯」大国隆正(おおくにたかまさ)中古、当神社は、三崎庄横根郷(みさきのしょうよこねごう)玉ヶ崎大明神、玉の浦総社玉ヶ崎大明神等と称せられ、武門武将の崇敬厚く、平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤等が参拝され、それぞれ祈願や報賽のために報幣や社殿の造営にかかわられた。御造営のことは、元禄13年に松平伊豆守へ書き上げた当神社由緒記によると、崇徳天皇の長承年間から明らかに古文書に見えている。しかし、竜王岬の欠損がはなはだしく、加えて、天文2年に兵火にかかって社殿は烏有に帰したので現今の地に御遷座申し上げたのである。江戸時代に入ってからは、武人の崇敬はもとより、平田篤胤(ひらたあつたね)、平田銕胤(ひらたかねたね)、斉藤彦麿(さいとうひこまろ)、高田与清(たかだともきよ)、大国隆正のような文人が参詣している。この頃の飯岡は、九十九里の代表的な漁場として隆盛を極めていたので、相模、三河、紀伊、伊予、阿波、和泉、安芸等の国々より移住するものが多かった。また、庶民の崇敬も厚く、現存する当時の寄進物によってもその間の消息をうかがうことができる。天保水滸伝に名高い飯岡助五郎は相模の生まれで、この地に渡って来て社領地に住み(当時の借地証文が保存されている)、天下に任侠を唱われた。当時、当神社の潮祭(陰暦9月15日)には、一党を引きつれ参拝し、竜虎相打つ奉納角力を執行した。今、境内にある「力石(60貫)」は、当時、彼が力比べや雇用の条件のために使用したものであると言われている。亨保14年には、地頭石束正詮、海野恭隆が当神社に祈願し、その神験が顕著で浜は大漁にわいた。そこで、時の神祇官領、従二位卜部朝臣兼雄に告げて、宗源の宣旨を乞われ、神階正一位を賜ったのである。拝殿内御神額はその時のもので、将軍義宗公の筆と伝えられている。明治になって、諸事一新したことを機にして、神社名を「玉崎神社」と改称し、明治19年1月18日に「郷社」に列せられ、同39年12月25日、本県より幣帛供進神社に指定される。爾来、星霜を経、御本殿は昭和48年3月2日、県有形文化財に指定され、御神宝狗一対はその形状面貌等特色ある逸品であることから平成3年3月18日、同じく県有形文化財に指定され、今日「飯岡の明神様」として御神威赫々たるものがある。」
海食崖の景勝地屏風ヶ浦の南に位置する刑部(ぎょうぶ)岬からは飯岡漁港を眼下に見ることができます。案内板を見ると、漁港の先端に竜王岬と書かています。そこがかつて 玉ヶ崎とも呼ばれたところのようです。
刑部岬から屏風ヶ浦を過ぎると犬吠埼に到ります。
別説 玉浦
玉浦の地は諸説あります。
その一つが行方の北浦湖の浜をさしているというものです。また、ずっと北の仙台付近をさすという説もあります。しかし、仙台はすでに蝦夷に入っています。『日本書紀』は玉浦を過ぎて蝦夷との境に入ったとしていますから、仙台は北すぎます。仙台はすでに蝦夷の領域で決して境ではありません。
東山道を通ってきた建稲種命と海路を北上した日本武尊が再会したところが玉浦と言われています。すると、それらの合流点としてふさわしいのは陸前名取玉浦であるとする説があります。ここも蝦夷の領域から考えると北すぎかと思われます。さらに、『常陸国風土記』にある玉清井(たまきよい)とする説もあります。ここは太平洋岸からは随分離れています。玉清井は湧水池です。玉清井に向かうのに古代の香取海を渡ることになりますが、そのような内海を浦と称していたのでしょうか。
千葉東部の伝承地
九十九里浜周辺には他にも玉崎神社があります。
祭神は、豊玉毘売命、火遠理尊、鵜葦草葦不合命です。
もとは夷隅川沿いの別の地に鎮座し、平安時代に大宮地区に遷座、戦国時代に火災で焼けたため江戸時代に本殿などを再建後現在地に遷座しました。
これより蝦夷の国、陸奥に入ります。
陸奥(東北地方)の伝承地見学・参拝に関しては『天翔る白鳥』などの書物を参考にしました。さらにホームページ「全国の日本武尊:縁の社寺・温泉」を拝読させていただきました。その上で、社伝・伝承をもとに最北への経路及びそこからの帰路を推測しました。
竹水門へ
玉の浦を過ぎた日本武尊が上陸したのは竹水門(たかのみなと)です。
*水門(みなと)は湊(港)を意味します。
陸奥の東岸沿いに海路を北上した一行は、竹水門までのいくつかの寄港地に上陸し、休息、宿泊しました。これらの伝承地は海岸からさほど離れていないところにあることから、日本武尊は海路で数か所寄港しながら北に向かったと考えられます。
北上経路や途中の寄港地、再出航地とされるところは日本武尊を祀る神社の社伝にはっきりと見えているところもありますが、多くは祭神として日本武尊を祀っているのみで、創建時のことがわからない社ばかりです。日本武尊が祀られているというだけで休息地や宿泊地だとすることは断言できません。しかし、それらの神社には江戸時代ぐらいまでは伝えられていた口碑伝承もあるようで、いつの間にかそれが途絶えてしまったのではないかと言われることがあります。口碑伝承は文書として残さない限り消えてしまうものなので、何がそこであったのか、あるいは何もなかったかは分かりません。しかし、何かの理由があって「祭神は日本武尊」としているということは「日本武尊の足跡」を最小限の形で伝えているのであろうと考えます。
日本武尊はどこに、どのような順に寄港・上陸したのでしょうか。北進の経路を推測するために地域ごとのまとまりを考えてみました。祭神が日本武尊としている神社と社伝として日本武尊とのかかわりが書かれている神社を地図上にマークし、比較的近いところをまとめたいくつかのブロックを作りました。
滞在地(寄港地or上陸地?) 1
祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)です。
昔から国家鎮護の神として祀られてきました。下総国の一宮で、『延喜式』神名帳で「神宮」と表記された3社の内の1社です。(他に伊勢神宮と鹿島神宮があります。)出雲の国譲り神話で、天上界の天照大神が神々と相談して地上の葦原中国(あしはらなかつくに:日本の国土)の大国主神(おおくにぬしのかみ)の元に遣わしたのが経津主神と鹿島神宮の祭神となっている武甕槌大神(たけみかづちのかみ)です。この二神に逆らうことはできず、大国主は国譲りを承諾するのです。二神は役目を終え、天上界に戻りました。
神社がある場所は蝦夷の領域の入り口に当たります。この重要な地点で、 武甕槌大神を祀る鹿島神宮とともに北ににらみを利かせています。
「<御事歴>大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島の大神と共に出雲国の大国主命と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸して荒振る神々を御平定され、日本建国の基を御築きになり、又東国開拓の大業を完遂せられて、平和国家の建設と民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕わされた。 <御神徳>古来国家鎮護の神として皇室の御崇敬最も篤く、特に「神宮」の御称号を以て奉祀され、名神大社として下総国の一の宮である。明治以後の社格制では官幣大社に列せられ、その後勅祭社に治定せられて今日に至っている。奈良の春日大社、東北の鹽竃神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地に及んでおり、昔からの伊勢の上参宮に対し下参宮と云われ、広く上下の尊崇をあつめて居る。又、一般からは産業(農業・商工業)指導の神、海上守護の神或は心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されている。尚その武徳は平和、外交の祖神と敬われ、勝運の神、交通安全の神、災難除けの神として有名である。 <御社殿>宮柱の創建は神武天皇御宇18年なる由香取古文書に記されている。去る昭和33年4月、御鎮座二千六百年祭が盛儀を以て斎行せられた。古くは伊勢神宮と同様式年御造営の制度により、御本殿を20年毎に造替されたのであるが現在の御社殿(本殿・楼門・祈祷殿)は元録13年(西紀1700)、徳川綱吉の造営に依るものである。昭和15年、国費により拝殿の改築と共に御本殿以下各社殿を御修営し、その後昭和52年から3年の歳月を懸けて、御屋根茸替・漆塗替が行われた。構造は本殿(重要文化財)、中殿、拝殿相連れる所謂権現造である。 <境内>香取の神域は大槻郷亀甲山と呼ばれ県の天然記念物に指定され、その面積は123、000平方米で他に境外社有地がある。神域内は老杉鬱蒼として森巌の気自ら襟を正さしめる。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
御祭神は天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)です。
日本武尊が東征のとき蝦夷征討祈願のため勧請したのが創建の由来です。そのためこの地には明確な足跡が残っています。
「景行天皇御宇、日本武尊東夷御証討の時、御勧請。宮柱御造営。其の後、天武天皇、伏見天皇、霊元天皇の御代々、御令旨に依り、社殿御改装。伏見・後小松両帝より社領一万貫被附置。尚、源家・北條家・豊臣家・千葉家等武門武将の宗崇厚く、御宝物其の他寄進状に依り顕らかなり。徳川家より社領百石を被定置。氏子の世帯、佐原市・大栄町・栗源町・茨城県東村に3000戸を抱擁す。明治六年、県社に列せらる。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成ワ年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)
また、近くに水戸光圀の生誕地を示す義公祠堂があります。
義公生誕地 案内
「水戸の生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で寛永5年(1628)6月10日家老三木仁兵衛之次の邸に生まれた。母は谷氏(靖定夫人)といい義公の生誕を前にこの屋敷に一粒の梅の実をまいた。義公生誕とともに芽生え、成長とともに育ち、寛文7年(1667)義公40才の春ここに賞花の宴を催し「朽残る老木の梅も此宿のはるにふたたびあふぞ嬉しき」と詠んだ。歌に生母への思慕の情がうかがわれる」
天乃日鷲尊(あめのひわしのみこと)、日本武尊他を祀っています。もと鷲宮・鷲賀岡神社と呼ばれていました。
神社の鎮座地は安食(あじき)で、この地名は下総の総が麻布を表しており、そり縁によりついた地名と言われています。主祭神も麻に関係がある神のようです。江戸時代に春日局の崇敬厚く、当時将軍の船につけられていた金の鷲が奉納されています。
日本武尊はこの地を御仮所に定め松の木を植えました。東国の平定を祈願し、松に熊手を立てかけて戦勝祈願したと伝えられています。その日が酉の日だったことから、今でも酉の市が行われています。
印旛沼の東側には18社の麻賀多神社があると言われ、中でも台方(公津)の麻賀多神社は本社と位置付けられています。麻賀多は千葉県は麻の産地であり、印波国造が多氏(おおし)出身、また、賀は喜びの意味もあるようで、それらを結び付けた名とも言われています。
この神社は伊勢豊受大神の親となる和久産巣日神(わくむすびのかみ)を主祭神としています。麻に関係のある神で、この地で作られた麻は衣服の材料として献上されていました。そのため社紋は麻の葉となっています。別説では勾玉からついた名とも言われています。
日本武尊がこの地にやってきたとき五穀の実りが悪いことを知りました。そこで村人たちに大木の虚(うろ)に鏡をかけさせ、根元には七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願しました。するとその後は豊作が続きました。
その後印旛の国造としてこの地を治めた伊都許利命(いつこりのみこと)は鏡の教えを聞き、この鏡をご神体として、稚日霊命(わかひるめのみこと)を手里神社に祀りました。その後日本武尊が埋めた七つの玉を掘り出し、稚産霊命(わかむすびのみこと)を台方神社に祀りました。そして、この両社は麻賀多眞大神(まがたまのおおかみ)として崇敬されることとなりました。
境内にある大杉は樹齢1300と言われています。日本武尊は大杉に戦勝祈願したとも伝えられているようですが、この大樹ではありません。
「麻賀多神社は、今より約1854余年前、人皇第十二代景行天皇42年6月晦日に、皇子日本建尊が、国内鎮撫、国土開発、五穀豊穣、の御指導の為、水路利根川、印旛沼を経て当地に御上陸なされ、近くの住民を集めて大きな杉の幹に御鏡を懸け「インバノクニタマオキツカガミと崇め祀れば五穀自ら豊穣する」とのたまわれ、この鏡を祭祀することを教えられた尊はこのとき、はるかに伊勢の大神を遥拝せられ前記の緒願を祈念遊ばされ、当地方開発の基礎を築かれこの偉大な御功績を残されたのが当社の創始である。その後約300年、人皇第十五代応神天皇20年現在の成田市船形手黒の地に印旛国造伊都許利命(神武天皇の皇子神八井耳命八世の孫)によって初めて社殿が創立せられ、その御鏡を御霊代としてワカヒルメノミコトを鎮祭されて以来、霊光が四方に輝き益々五穀豊穣し、住民の暮らしが更に豊かになり、泰平の世が続いた。又伊都許利命は、ワカヒルメノミコトの御神命によっておお杉の下より七つの玉を掘出しそれらを御霊代として、オキツミヤにワカムスビノミコトを併祀せられてより、一層当地方の五穀は豊かに稔り、永く明るい楽土が築かれ、子々孫々その思恵に浴し今日に至った。ワカヒルメノミコト、稚産霊命をマガタマの大神と崇められ、七つの玉(勾玉)から麻賀多と幾度か改称せられたるも、御神威は古くより輝き渡っている。なお応神天皇27年に至って伊都許利命の御子浦長多津命が病で臥せられた際、父命は、真賀多真大神の御神命によって、マガタマの二柱の大神と共に病気平癒の祈祷をなされた結果御子の病は奇跡的に神癒される等、古くより家内安全、病気平癒の守護神としての御神徳も顕彰され伝承されている。更に人皇第二十三代推古天皇16年に、伊都許利命第八世の孫広鋤手黒彦命に再び御神命があり、現在の成田市台方に「真賀多真の大神」としてオキツミヤよりワカヒルメノミコトを遷宮され、この御社を大宮殿と尊称する。その後、人皇第六十代醍醐天皇延喜十八年、延喜式神名帳に登載の際、御社名が三種の神器と同称なるを「真賀多大神」と改称され、更に麻の名産地に因み真を麻に替え現在の麻賀多神社と改称された。一方オキツミヤは、天水の神とし、大宮殿は五穀の神として、両社産業発展への御神威を発揚され、五穀の豊穣に関係が深いので、この地方住民の崇敬が特に篤く、千葉家を始め佐倉藩主等によって数回にわたって御社殿が造営せられ、一千数百年の永きにわたって社名が輝きわたっている。現在当印旛沼の当方台地に当社を祖社とする麻賀多神社が18社祀られて居ることからも当社に対する崇敬が如何に篤かったかが推察される。現在台方大宮殿には、筒粥祭、御田植祭、豊年神楽祭の特殊神事を始め、麻賀多神社にまつわる古事が継承されるほか、御縁起中の緒地名等(七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓)が当社近くに残っている又当社の御本殿は特別建造物とし、御神木の大杉(周囲八米樹齢約一千)は、千葉県指定自然記念樹として住古を物語っている。尚オキツミヤは1800余年の創祀時より、天然水を恵む御神徳を顕現せられたが、現在当社近く千葉県水道局成田給水場が建造されて、成田空港、成田ニュータウン等に給水して、我が国を訪れる全世界の人々にまで使用される事はまことに奇しき縁である。かくて当麻賀多神社の御神威は創祀以来数々の由緒と御縁起が輝きわたるとともに、新時代に添うてあまねく光被される。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)
滞在地(寄港地or上陸地?) 2
日本武尊は御船で蔵川の入り江に着岸し、ここから上陸し騎乗して進軍したと伝わっています。里人は着岸地に石祠を置いて祀りました。また、騎馬軍が勢ぞろいしたところに御船神社を建て、日本武尊を祀りました。その後日本武尊が乗ってきた船は岩となったと言われています。
*別ページでも触れていますが、この時代に馬は荷役用にのみ利用されており、人が騎乗しての利用はもっと後の時代からではなかったかと言われています。そのため、日本武尊が騎馬軍を組織したとは考えられません。御船神社には間違った情報が伝えられているとも思われます。しかし、馬の利用については必ずしも否定すべきものではないのかもしれません。つまり、正史などの記録にないだけで、実際には日本武尊の時代にも騎乗していたと考えるべきかもしれません。他にもそのほうが都合の良い社伝があるのです。
祭神は日本武尊です。
鉾田の民話には、日本武尊が東征の際に鉾田市上釜に上陸し、涸沼南岸の高台で休息しました。出発の際そばに置いた大弓を残し、村人たちはこれを祀る祠を建てました。
常陸国の一の宮です。 祭神は武甕槌大神で、天照大御神が出雲の大国主命のもとに香取神宮の祭神である経津主大神とともに遣わしました。この時行ったのが国譲りの交渉で、十握の剣を振りかざして武力を示したことから大国主命は逆らわず、葦原中国(あしはらなかつくに:日本の国土)を譲ったと伝えられています。また、古代、ここは蝦夷の平定神として北ににらみを利かせていました。鹿島神宮の社殿が北を向いていることもその意味があります。『延喜式』で神宮を表記した3社の内の1社で、他に伊勢神宮、香取神宮があります。鹿島神宮は香取神宮とともに古代の香取海の入り口に鎮座し、蝦夷へ進出する拠点でもありました。
「御祭神 武甕槌大神 創祀 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。御神徳 神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。またふる?霊剣の偉徳により武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により濃漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成ワ年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)
祭神は大己貴命 (おおなむちのみこと)、少彦名命 (すくなひこなのみこと)です。
ある夜製塩業を営む人が海に二つの奇妙な石があるのを見つけました。次の日には20個ぐらいの小石が奇石の周りにありました。石は色鮮やかで僧の姿をしていました。すると神霊が人にのり移り「我は大奈母知(おおなもち)、少比古奈命(すくなひこなのみこと)である。今人々を救うために現れた」と託宣しました。
「文徳実録の記録によれば齊衡三年常陸國鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り常世の國に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられました。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居りました大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨されたのです。即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。朝廷は國司の上奏に基づき翌天安元年八月七日官社に列せられ、次いで十月十五日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号を賜りました当時國司の上奏から八か月で此の待遇に預ると云う事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事とが出来ます。延喜の制当社を名神大社に列せられ東國の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せられます残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。水戸藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒廢を見るに忍びず、元禄三年御造営の工を起し、次いで綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し幕末に至りました。現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。明治新政府が、神社制度を定めらるるや、明治七年九月県社に指定せられ、明治十八年四月國幣中社に列せられましたが大東亜戦争終熄を機に、神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。神社が國家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり國家と共に栄えて行く事でしょう。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)
滞在地(寄港地or上陸地?) 3
朝日山に鎮座する神社で日本武尊を祀っています。全国の日本武尊を主祭神とする神社の中では最も古く由緒正しい神社としています。
日本武尊は天皇の命により全国のまつろわぬ者たちを平定してきましたが、最後に東夷の平定を成し遂げました。そしてその帰路、御船を藤蔦でつなぎ、旭山台地に立ち寄って兵を休息させました。朝日山の下にある地名が「藤柄」と呼ばれていたのはこの所以と言われています。
東征からの帰路に立ち寄ったとする伝承がありますが、他の常陸国の伝承地からは離れています。むしろ、東征往路の立ち寄り地とする東征神社に近いため、ここは那珂川を渡る前、往路の立ち寄り地ではなかったかと考えています。
朝日山(別名三角山)で日本武尊が御旗を朝日に輝かせて四方を展望したことから「御祭神御遺跡」として縄を張り聖域として立ち入りを禁じています。
日本武尊は那珂川を上りました。
日本武尊を祭神としています。
境内には「日本武尊東征の伝説地」と書かれた石碑が立っています。その碑文によると、 那珂川をさか上って着いた地に鹿島・香取の二神を祀りました。そして、武運を祈った後に乗ってきた船を沈めました。村人はその地に社を建て祀りました。今でもここには船体と錨が埋められていると伝えられています。
祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)です。
日本武尊が東征の折、この地に天神七代の霊を間坂の外六ケ所に祀って戦勝祈願した伝えられています。その後水戸藩主徳川光圀がこれらの神々を稲村神社に合祀しました。
『古事記』は12柱(神)で七代としています
・国之常立神(くにのとこたちのかみ)
・豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
・宇比地邇神(うひぢにのかみ)、須比智邇神(すひぢにのかみ)
・角杙神(つぬぐいのかみ)、活杙神(いくぐいのかみ)
・意富斗能地神(おおとのぢのかみ)、 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
・淤母陀琉神(おもだるのかみ) 、阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
・伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)
『日本書紀』は11柱(神)で七代としています
・国常立尊(くにのとこたちのみこと)
・国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
・豊斟渟尊(とよぐもぬのみこと)
・泥土煮尊(ういじにのみこと)、沙土煮尊(すいじにのみこと)
・大戸之道尊(おおとのぢのみこと)、大苫辺尊(おおとまべのみこと)
・面足尊 (おもだるのみこと) 、惶根尊 (かしこねのみこと)
・伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)、伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
滞在地(寄港地or上陸地?) 4
祭神は事代主命です。
日本武尊が東征の折、石浦(伊師浜?)に上陸しました。そして、賊征伐を前に赤見台に祠を建てて戦勝祈願しました。その後、近くの諏訪山に遷し諏訪大明神としましたが、江戸時代には水戸藩主の徳川光圀が津明神と改めました。大正時代に現在地に遷座しました。
「鎮座年代は詳らかでないが伝説によると、日本武尊御東征の時、石浦に上陸、土賊征討の際赤見台に祠を建て戦勝を祈誓したと云う。当時の住民、これを氏神として代々崇敬してきた。その後、波浪の侵蝕を恐れ長禄2年4月近傍の諏訪山に遷し、建御名方神を奉斎して諏訪大明神と尊称、豊漁の信仰が盛んであった。元禄8年水戸藩主徳川光圀公社号を津明神と改め社領4石6斗1升7合を与えて祭祀を行わしめた。大正2年11月現在地の前山に遷し、先祠八坂神社及び稲荷神社を合祀した。それ以来この地を鎮座地として、住民の産土神となり崇敬を集めている。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成ワ年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)
津神社近くには伊師浜 がありこの付近に上陸地したと思われます。
伊師浜は日本の白砂青松百選にも選ばれている海水浴場です。近くにはウミウの捕獲が許可されている鵜の岬があります。ここで捕獲された鵜は岐阜県の長良川の鵜飼いなどに提供されているそうです。海岸名の「伊師」は津神社の社伝に書かれている日本武尊の上陸地の「石浦」と同じではないでしょうか。犬吠埼付近を出航し、海路で北上した日本武尊は東海岸の各所に上陸し休息したと考えられます。津神社近くの海岸から上陸したと考えると、鵜の岬を回り込んだ伊師浜は「石浦」と思われます。
祭神は天日方奇日方命(あまのひがたくしひがたのみこと])で、大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)、事代主命、大物主命、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、五十鈴依姫命も祀っています。
唐帰山(からかいさん)に鎮座しています。日本武尊が東征の折、海で数日漂流してしまいました。ある夜に雲に乗った神が夢の中に現れ「吾ハ佐波波神也、今皇子ノ船ヲ守護センガタメ来レリ、直チニ順風ト為サン」と告げました。日本武尊が目覚めると船は陸へと着岸できました。これに感謝し佐波波の山に祀りました。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)です。古代はここより西の湯の岳を神体山として鎮座していましたが、江戸時代に現在地に遷座しました。日本武尊が東征の折、この地に大己貴命を勧進したと伝えられています。
いわき市常磐白鳥町には別の伝説があります。現在の常磐の賊徒らが悪さをしているという情報を得た景行天皇は武内宿祢を派遣して調査させました。この報告により日本武尊が征伐のため派遣されることになりました。日本武尊は小名浜の沖から様子をうかがうと、砦には巨人がいて容易に征伐することができないと分かりました。そこで、湯の岳の麓に回り込みむとそこには白千鳥がいたので、これは吉と判断し、そこから上陸して砦を攻撃して征伐できたと伝えられています。地名として「白鳥」や本陣を置いた「勝丘」などが残っています。
滞在地(寄港地or上陸地?) 5
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)です。
日本武尊が東征の折、出雲大社を勧請しました。甲子大明神とも称され、鳥居の近くの標柱には「甲子大国神社」と書かれていました。
祭神は伊邪那伎命(多珂荒御魂命)です。
多珂神社は陸奥の多賀神社の中でも唯一名神大社とされています。それだけ格上の神社を意味します。日本武尊が東征の折にこの地を訪れ、戦勝祈願をしたと伝えられています。
祭神は天照大御神、高皇産靈神です。
日本武尊の東征の折、祭壇を設けて大甕(かめ・みか)に酒を盛って祭壇に供え、高皇産霊神と天照大御神を勧請したと言われています。
祭神は少彦名命、天津彦火々出見命です。他には天津彦火邇邇芸命、天津彦火々出見命、八龍大明神を祭神とする説もあるようです。
日本武尊が東征の折、この地に陣を置きました。その際、地主神である猿田彦命の霊示を受け天津彦火邇邇芸命を勧請して17日間戦勝祈願を行いました。その結果、日本武尊は賊を征伐することができたと言われています。
冠嶺神社と称している神社は他にもあり、ここは主な論社の一社です。
参拝したときは9月の終わりで、草木がまだ生い茂っていました。本殿下の第2鳥居までは200mの長い石段が続きます。あまり人が入っていないようで、蜘蛛の巣との戦いでした。
祭神は少彦名命、天津彦火々出見命です。
境内の案内板によれば、日本武尊が東征の折、この地に陣を置きました。その際、17日間祭祀を行いました。その結果、日本武尊は賊を征伐することができたと言われています。
冠嶺神社と称している神社は他にもあり、ここは論社の一社です。
宮城県内の伝承地
滞在地(寄港地or上陸地?) 6
阿武隈川を渡る前に滞在・通過したと思われるところがあります。
武甕槌神を祭神としています。相殿神として左殿に稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)、右殿に猿田彦命が祀られています。
景行41年8月6日にここから北西にある三門山の山頂に日本武尊が創祀したと伝えられています。最初は1社で武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀っていましたが、後に稜威雄走神(いつのおはしりのかみ:鹿島伊都乃比気神社)と猿田彦命(鹿島緒名太神社)を祀り、鹿嶋三社大明神と称していました。常陸国一之宮の鹿島神宮との関係があります。山名は神社の門が3門あったことからつけられたと言われています。江戸時代に鹿島天足和気神社は三門山から現在地に遷座され、他の2社も別々の地区に遷座しました。現在三門山には石祠など何もないようです。
神社の境内には、要石や鹿島神社の石祠がありました。
三門山に鹿島天足和気神社が鎮座していた当時の石祠が、鹿島天足和気神社地から北北東にある春日八雲神社の境内にありました。鹿島天足和気神社は現在地に遷座するときに近隣の数社を合祀しました。八雲神社もその一社です。石祠は三門山から運ばれたと言われています。
祭神は速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)です。
景行天皇41年8月6日に日本尊命の勧請により創建されたと伝えられています。
案内板には次のように書かれています。
「前方の阿武隈川に突出した岩塊に刻まれた磨崖仏群を田沢磨崖仏あるいは岩地蔵とよんでいる。この付近には古墳時代末期の横穴墓群があり、後にこれからの横穴墓の幾つかを利用してこの磨崖仏が刻まれたものと思われる。磨崖仏は鎌倉時代初めのものと思われ、四窟からなり、四体の地蔵尊と三枚の板碑が刻まれている。この場所は古来、稲葉の渡したいわれた所で、阿武隈川を渡る重要な地点であった。」
日本武尊はこの近くから出航し、北の湊浜に向かったのではと推測しています。
阿武隈川
滞在地(寄港地or上陸地?) 7
港周辺は平成23年3月11日に発生した東日本大震災で姿を大きく変えてしまいました。写真は震災前と後 です。
閖上港がある名取市には日本武尊の足跡が残る高柳の多賀神社があり、皇壇ヶ原という伝承地もあります。竹水門の竹を「たか」と読み「多加」→「多賀」と変わったとする説から、ここも竹水門の候補地と考えました。
奈良時代には名取川河口に鎮守のための不動明王などが祀られ、後にゆりあげ水門(みなと)明神として祀られるようになりました。湊は港であり、古代の水門(みなと)を意味します。日本武尊が上陸した竹水門(たかのみなと)の候補地の所以です。
東日本大震災から8年経った参拝時も周辺の整備工事が行われており、復興はまだ先のように思われました。湊神社の社殿も流失してしまったため、現在は閖上日和山の富主姫神社の社を仮殿としています。
伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭神としています。
景行天皇の時代、日本武尊の東征の際に勧請したと言われています。
東征で陸奥に来た日本武尊はこれまでの戦いや旅の疲れが出て病となりました。そのため、柳の生い茂る地で病気平癒や国家安泰を祈願したところ体力が回復したと伝えられています。その際、柳の木で祭壇を造り、祠を設けて祈願しましたが、これが多賀神社の創始と言われています。 多加神社の2社ある論社のうちの1社です。
多賀神社のある地区は「皇壇ヶ原」と呼ばれ、 日本武尊異賊退治の陣所と伝わっています。また、日本武尊の病気平癒を祈願して祭壇を設けた場所とも言われています。
現在この地名は多賀神社を囲む狭い地域名として残っています。地名の表示が分かるものがなく、神社から北に200mほどの所にあった名取市内を運行するコミュニティバス(なとりん号)美田園下余田線のバス停の写真を掲載しました。
滞在地(寄港地or上陸地?) 8
祭神は武甕槌神です。
日本武尊が東征の折勧請したとされています。
主祭神として天津日高彦火廼邇邇杵命、日本武尊を祀っています。
日本武尊が大森山の麓に邇邇杵命を祀って平安を祈ったと言われています。
船を出し竹水門(有力候補地は仙台の七ヶ浜町湊浜)に向かいます。
『日本書紀』
蝦夷の首領の嶋津神(しまつかみ)や国津神(くにつかみ)たちは竹水門(たかのみなと)にいて入港を阻止しようとしていました。しかし、遠くから近付く尊の船を見て、その威勢を恐れ、勝ちそうもないことを悟ると、皆、弓矢を捨てて、拝みました。
「あなたを仰ぎ見るととても優れた人であることがわかりました。まるで神のようです。お名前を教えて下さい。」
日本武尊は答えました。
「私は、現人神(あらひとがみ)の皇子だ。」
蝦夷たちはおそれおののき、すぐに服の端をたくし上げて海に入ると、波をかき分け、船を着岸させました。その後、ひざまずき尊に服従しました。これを見た日本武尊は蝦夷たちの罪を許しました。そして、日本武尊は蝦夷の首領を従者としました。
上陸地 「竹水門(たかのみなと)」
『日本書紀』では蝦夷の首領(嶋津神、国津神)は竹水門で日本武尊の船団を入港妨害しようとしました。しかし、船に取り付けられていた鏡が光、それは遠くからも見ることができました。戦いをしようと待ち構えていた蝦夷らはその威勢に恐れ、弓矢を捨てました。
蝦夷らはその光り輝く人の前に跪き仰ぎ見て「あなたは神ですか」と問いました。日本武尊は「我は現人神の子だ」と答えると着物の裾を上げると海に入って船団の入港を助けました。その後、両手を後ろにして謝罪し、日本武尊に服従することを誓いました。これにより戦いをすることなく蝦夷を征伐することができたように読み取れます。
この点は『陸奥国風土記』に異なったことが書かれています。
竹水門がどこなのかは不明です。しかし、竹水門の竹(たか)は後の時代に「多賀」または「多珂」となったと推測します。水門(みなと)は湊(港)の意味ですから、現在の港があるところまたはその付近の海岸ではないかと考えました。候補地として推測されるところが2か所ありますが、その一つ閖上港 湊神社付近はかつては海ではなかったかと推測されます。
Floodmaps +3m
竹水門の有力候補地 七ヶ浜町湊浜
竹水門(たかのみなと 湊:港)がどこだったかについては諸説ありますが、宮城県の七ヶ浜町にある湊浜が有力視されているようです。その根拠は『大日本地名辞書』吉田東伍編纂には「竹(たか)」は「多賀」と書かれていることにもよります。これを確かめるため図書館で実際に辞書を調べてみました。確かに「たか」と読んでいた「竹」は「多賀」と変化したと理解できました。このような読みや文字の転化は他の場所でも見られるため、「多賀」も同様に「竹」から転化しており、竹水門の最有力地として考えられます。これを裏付けるように、湊浜付近には日本武尊の伝承がある冷鉱泉があります。また、 湊浜にある御殿埼の名は日本武尊が仮宮をおいたところが所以のようです。
震災前に行った時の写真です。
教育委員会が弁天沼に設置した案内では、ここが「竹水門(たかのみなと)」と書かれています。湊浜と呼ばれていた地は多賀城への交通の要地でした。戦国時代に伊達氏の命により河川工事が行われ、古代の地形とは違った姿になったようです。そのため、現在小さな湖のように見えるところは古代の川の跡とされています。入り江には小さな島もあったようですが、現在は陸続きで、弁天が祀られているところから弁天沼と呼ばれるところもあります。
日本武尊は波静かな湊浜から上陸したと考えられます。
日本武尊が東征の折に泉を発見しました。水温16.5度、成分として硫酸ナトリウムや硫酸カルシウム他を含む冷泉です。
7~8世紀頃に造られた横穴古墳群です。日本武尊による東征以降も、坂上田村麻呂により陸奥の平定が行われています。出土品から朝廷との関係がある豪族らの墓であろうと考えられています。日本武尊により一旦は平定された奥州でしたが、再び朝廷に反抗し始め、これを征伐するために征夷大将軍として坂上田村麻呂が派遣されました。
別名は大鷹宮で、伊弉諾尊を祀っています。
景行天皇40年、日本武尊が東夷追討の際に勧請されました。 多加神社の2社ある論社のうちの1社です。
二社が同一境内に鎮座し「志波彦神社・鹽竈神社」を名称とした一法人です。
鹽竈神社の祭神は塩土老翁神:しおつちのおじのかみ(別宮)、武甕槌神:たけみかづちのかみ(左宮)、経津主神:ふつぬしのかみ(右宮)です。
志波彦神社祭神は志波彦大神です。
もとは東山道の*北端の要衝にあったとされています。*しは=端の意味があるようです。明治時代に鹽竈神社境内に遷座されました。
竹水門から上陸した日本武尊は、早々と服従した首領たちを引き連れ、さらに北に進行しました。
祭神は高皇産靈命です。
日本武尊がこの地で賊を征伐し勧請したとされています。元は東の箱崎山の山頂に祀られていましたが、江戸時代に火災で焼けたため現在地に遷座しました。
祭神は日本武尊です。
創祀年月は不詳ですが日本武尊の東征と関係があるとされています。宮城県神社庁のホームページにはこの社には末社が2社あり、北に大伴武日速社(御嶽権現)、西に吉備武彦社(御嶽堂)とあり、二人の副将軍の足跡を見ることができます。地元の人に尋ねましたが、これら2社の場所はわかりませんでした。
祭神は日本武尊です。
日本武尊の東征の折、この地の豪族、朝日長者は日本武尊の皇威に服従しました。そして、朝来山に日本武尊を祀りました。平安時代、坂上田村麻呂も朝来山を訪れたと伝えられています。(宮城県神社庁より)
祭神は日本武尊です。
日本武尊が東征の折、蝦夷を征伐できたのは倭姫命から授けられた明玉の威光によるものが大きかった。この地を治めた後、山上に明玉を安置したところ、たちまち二つの霊石と化したと言われています。村人たちはこれらの石を「石母里の神」と崇めて祀りました。石は年々巨大になり、その周りは約3mにもなったため村人は石大神として崇めました。(宮城県神社庁より)
神社縁起によると、日本武尊が東征に出発して伊勢に立ち寄り、倭姫から「これを戴き就くべし」と天照皇大神より伝わる明玉を授かりました。東国の平定がなされるとこの石は霊石となって子石を産み50にわかれたと言われ、このことから「石子石の里」と呼ばれていました。それはやがて現在の地名「石越」に変わったと言われています。別説としては付近より産出する礫岩が風化して丸い子石になってちらばっていることから石が子を産んだかのように見え、 自然崇拝につながって石神社として祀ったと言います。
日本武尊の東征 最北の地
『日本書紀』では房総半島が折り返し点のように書きながらも、山梨県の酒折宮では、より北の地域まで行ったとわかるような歌を詠んでいます。日本武尊は実は現在の岩手県釜石市まで北上していることが社伝により見えてきました。そして、当時は東北の広い地域、辺境地域を「日高見国」と呼んでいたこともわかってきました。
日高見国(ひたかみのくに)は『常陸国風土記』(信太郡の条)に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」と書かれています。このことから筑波・茨城郡とよぶ以前、下総より北の広大な地域は総称として「日高見国」と呼んでいたことがわかります。しかし、東征の帰路、酒折宮で日本武尊が「新治(茨城県)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と地名を含んだ歌を詠んでいます。ここから、日本武尊の平定により新治や筑波は広大な日高見国の南部に新たにつけた地名と考えます。すると、日高見の国は下総より北の常陸、茨城、筑波、さらに北の地域をさすようになったと考えます。後にこの日高見国はさらにいくつかに分割され、それぞれに名がつきます。
日本武尊が蝦夷征伐のためたどり着いた東征最北の地(広い意味での日高見国内にあった)はどこだったのか。諸説ありますが、次の3か所が東征最北の足跡候補地です。
その① 釜石市の尾崎半島にある尾崎神社奥の院
尾崎半島にある尾崎神社奥の院の祭神は日本武尊です。
その② 一関市の配志和神社
この神社を最北地とする説(書籍 『天翔る白鳥』)があります。
その③ 福島県の八槻の郷にある都々古別神社
八溝山での戦いが蝦夷との戦いの最北地とする説があります。
これら候補地の中でも、尾崎神社奥の院が最北の地ではなかったかと考えています。
天照大神を主祭神として、日本武尊、武内宿禰命が祀られています。
『日本書紀』の中に日高見の地名が見られます。この神社の案内板から日本武尊の伝承は見つかりませんが「日高見」に行ったとする『日本書紀』の記述から、この神社に日本武尊が祭神として祀られています。
祭神は稚産霊神(わくむすびのかみ)、大山津見神(おおやまつみのかみ)、保食神(うけもちのかみ)です。他に、天水分神、少彦名命、国水分神、那良皇太子、加具土命、
火産霊神、大名持命、倭建命です。
日本武尊が東征の折、ここを本陣としました。食べ物が乏しくなって困っていたところ、この村の3人の老人が尊に米を炊いて献上しました。このことにいたく感動し、陸奥平定後に祠を建てました。
祭神は日本武尊です。
尾崎神社の里宮は釜石港の近くにあります。尾崎神社は本宮、里宮、尾崎半島に奥宮と奥の院があります。
釜石湾に突き出た尾崎半島の中ほど、かつて青出(あおだし)港があったところの背後に尾崎神社の奥宮があります。
最北の地 候補地①
日本武尊の東征の最北端はここであろうと考えています。
案内板には次のように書かれています。
「尾崎神社奥の院は、古来から社のないお宮で、日本武尊を祀り、御神体は宝剣といわれています。源頼朝のー武将、鎮西八郎為朝の三男で、当時三陸沿岸地域を治めた閉伊頼基が承久2年に死去した際、遺言によりこの宝剣の傍らに葬られたともいわれています。鎌倉時代以前からの古社として知られています。」
「尾崎神社縁起によれば、源頼朝に閉伊郡に封ぜられた閉伊頼基はと称した。承久二年、遺言によって天授院賢海はその遺骸を尾崎山宝剣の傍らに莽るとあります。尾崎神社の創立はこれより古く、宝剣を御神体として、石造の玉垣の中に、祀られてある。此処が奥ノ院です。近くに、天明元(一七八一)年六月建立の法華経丁子一石書写塔が現存しております。」
なぜここに宝剣が祀られているのかは不明ですが、祭神を日本武尊としていることからここにも足跡があると考えています。
釜石観光船はまゆり
尾崎半島は釜石湾に突き出した太刀のような形をしています。この半島の太刀根(たちがね)付近に尾崎神社の奥宮があります。神社近くの青出(あおだし)港へは観光船を利用するのが便利でした。しかし、現在この船は運航していません。震災以前は岩手県釜石市の遊覧船はまゆりが一日数回釜石港から尾崎半島を周回していました。はまゆりは全長28m、幅7.6mの双頭型高速観光船でした。尾崎神社の奥宮へは山道(途中から人があまり通らない獣道)を行く方法もありますが、釜石港から船で尾崎半島の中ほどに位置する青出港まで行くことで参拝できました。奥の院へはさらに約30分(陸中尾崎灯台コース入り口の案内による)ほど半島の先端に向かって山道を登って行きます。
私が奥の院に参拝したのは震災前です。その日の朝は霧が濃く、青出港に寄る船は霧が消えるまで出航しないと発表されました。昼近くなり、霧が少しずつ消え始めると観光船が出航できるようになりましたが、その時出発する便は青出港に寄港しないことになっていました。しかし、朝から港にいて待っていた私の気持ちを察して船長のご厚意で特別に青出港にも寄港してくださることになりました。釜石港を出航したはまゆりは青空の下で揺れることなく航行し、私は青出港に上陸することができました。出航前、この時期はよくクマが出没するからと観光船のスタッフの方がホイッスルを貸してくださいました。私は、次にはまゆりが青出港に寄港する定時までに港に戻らなければ、獣道を数時間歩いて釜石港に戻ることになります。そのため、青出港から奥の院の往復約60分の山道を不安な思いのまま走って行きました。そして、無事参拝することができました。帰りもはまゆりに乗船でき、目的を達成しました。
その後東北関東大震災が起こり、悲しい事実が目に飛び込んできました。地震が発生したときこの観光船は大槌町赤浜港で点検中でした。その船が地震後の津波により流され、海から随分離れた民宿の屋根の上に乗り上げてしまいました。それを伝えるニュースを見た時、愕然としました。船長はじめスタッフの皆さんは無事なのかという心配もありました。
震災後しばらくしてからのことです。後世に震災を伝えるため、はまゆりをこのままの状態で保存すべきという声もありましたが、地域住民の考えを尊重して解体することとなりました。そのため、二度とその雄姿を見ることはできなくなりました。私にとっては船長のご厚意とともに一生忘れることのできない船となりました。
青森の日本武尊
日本武尊が祀られている神社がさらに北にあります。平安時代に陸奥の平定のために派遣されたのは征夷大将軍の坂上田村麻呂です。坂上田村麻呂は東征を行った地で日本武尊を祀っています。青森県にもそれを伝える神社があります。日本武尊が蝦夷征伐のために来たという伝承はありません。
青森 ねぶた祭(2019年) 「浄焔日本武尊」
祭神は日本武尊です。
青森県にある十和田湖の中山崎という岬の元に建っています。創建に関わる由来は二つあるようで、その一つが坂上田村麻呂が東征の折ここを訪れたことによります。湖が荒れて渡れないため、祠を建てて日本武尊を祀り祈ったところ、筏を組んで渡ることができたというものです。少し歩けば高村光太郎が造った「乙女の像」があります。
東征の帰路 陸奥の道
陸奥の奥地から常陸や武蔵を経由して甲斐まではほぼ現在の国道4号沿いに南下したのではないかと思います。この道は古代東山道(とうざんどう)だった道です。
東征の帰路 奥州ブロック1
祭神は天照大御神 (あまてらすおおみかみ)、天常立尊 (あめのとこたちのみこと)、国狭立尊 (くにのさたちのみこと)、吾勝尊 (あかつのみこと)、置瀬尊 (おきせのみこと)、彦火尊 (ひこほのみこと)です。
1500年ほど前に駒ケ岳山頂に初めて社殿が建立されました。陸中国の一の宮となっています。明治時代に現在地に遷座しました。かつて蝦夷の守護神ともなっていたようです。別伝によると、日本武尊が東征の際、蝦夷平定のために祭神の6柱を勧請し創建したと伝えられてもいるようです。
平安時代に加賀国の白山比咩神社より勧請されたと伝えられています。日本武尊の通過地あるいは滞在地とも言われているようです。
最北の地 候補地②
祭神は高皇産霊尊(たかむすびのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。もとは磐座山に鎮座し「火石輪」と称していましたが、後に現在地に遷座しました。
日本武尊が東征の際に陣を置いたところで、山に登り戦勝祈願するため矛を収め、三神を祀って奥州鎮護の神として祠を建てました。これが「火石輪」の始まりです。後に「配志和」と改称されました。
本殿前の2本の杉の大木は樹齢千年以上で「夫婦杉」と呼ばれる神木です。市内では最古で最大の樹木です。
『ヤマトタケル』産経新聞取材班著 産経新聞出版 にはこの神社の宮司さんの話が紹介されており、「ヤマトタケルは東征先の各地で神々を祭ってきたが、ここが最北と言われています」と書いています。しかし、既に紹介したように、ここより北の釜石に伝承地があります。
東征の帰路 奥州ブロック2
標高314mの自鏡山にあります。吾勝大神、保呂羽大神、白鳥大神を祀っています。日本武尊はここで戦勝祈願をしました。
祭神は速須佐之男命、軻遇突智(かぐつち)命
日本武尊が東征の際、ここに勧請されたといわれています。
祭神は大日孁尊(おおひるめのみこと)、天常立尊(あめののとこたちのみこと)、吾勝尊、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、天津彦番邇々藝尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)、神日本磐余彦火々出見尊(かむやまといわれひこほほでみのみこと)です。
社伝によると、日本武尊が東征の折、大日孁尊の外五柱に祈願したことが始まりとされています。奥羽鎮護の一ノ宮として栗駒山山頂に奥宮、ここに里宮を祀りました。昔より日宮(ひるみや)と称しています。 平安時代に征夷大将軍となった坂上田村麻呂もここを参拝しています。
東征の帰路 奥州ブロック3
祭神は猿田彦大神と天鈿女命です。
社伝には、日本武尊の東征の折に勧請されたと書かれています。東征の時から毎年4月20日に例祭が行われているようです。
武内宿祢が東国を巡察した際にこの山に鎮祭しました。その後、日本武尊が東征の折、武内宿祢の奏言によってこの社に参拝しました。また夷賊鎮定祈願をするため厳瓮(いつべ:土器)及甕(かめ)等の器を大伴武日と共に製作したと伝えられています。また、蝦夷平定後に大伴武日に命じて血族の者を留めて奉仕させたと伝えています。
古墳時代前期から中期の前方後方墳と方墳が密集して造られている古墳群です。代表的な古墳は観音塚古墳(全長約65m)、宮山古墳(全長約60m)、薬師堂古墳(全長約65m)、山居古墳(全長約60m)、山居北古墳(全長約40m)、観音塚北1号墳・2号墳(1辺約15m)があります。被葬者はこの地域の首長と言われています。
墳丘長は168mあり、古墳時代中期に造られた 東北地方最大規模の前方後円墳です。後円部の頂に雷神を祀る祠があることから名がついたとされています。東国平定後大和朝廷との関係がある古墳と考えられます。
東征の帰路 奥州ブロック4
祭神は日本武尊です。
日本武尊が東征の折布陣した地と言われています。その後景行天皇が皇子を偲んで白鳥宮を建立しました。
また、平安時代に前九年の役が起こったとき、八幡太郎源義家はここに参拝し戦勝祈願をしています。境内には「奥州の蛇藤」と呼ばれる木がありますが、この木は大蛇に化身して敵に囲まれた源義家を救ったと言われています。
祭神は蔵王湯神です。
かつては「湯刈田温泉」と書かれていたようです。湯神神社の奥に古峯神社があり、日本武尊を祀っています。この地域一帯はタタラ製鉄の盛んなところで、ここにも日本武尊、つまりは大和朝廷と鉄との関係が見えています。
祭神は日本武尊です。
祭神は日本武尊です。
日本武尊が東征の折、在陣したところに日本武尊を祀り、別号として白鳥大明神と称えたと伝えられています。第14代仲哀天皇の時代に白鳥社が創設されました。昔は大刈田山(青麻山)頂上に鎮座していましたが、室町時代に現在地に遷座されました。
この地域では古くから白鳥信仰が行われてきました。
東征でこの地を訪れた日本武尊は長者の館に逗留しました。その際世話をしたのが長者の娘で、この娘と結ばれ一人の男児を出産しました。日本武尊は妻子を残し都へと帰っていきましたが、男児は成長するとともにその能力を発揮しました。里人はいつか征服されると恐れ、謀って川に投げ捨てました。すると、男児は白鳥に化身し西の方へと向かって飛んでいきました。その後この里には災いが起こるようになりました。神罰が下ったと恐れた里人は白鳥が飛んで行った西の山に祠を建てて祀りました。その後災いはなくなったとのことです。「内方」「児捨川」「西宮」などの白鳥伝説に関係のある地名が残っていると案内に書かれています。
祭神は天之水分神(あまのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)です。
宮城県刈田郡七ヶ宿町遠刈田温泉倉石岳国有地内
GoogleMap
刈田嶺神社の奥宮です。
温泉近くにあった金鉱跡です。平安時代に発見されたと言われることから日本武尊との直接の関係はないかもしれません。本格的な金の発掘は戦国時代になってからのようで、伊達政宗の命によって盛んに採掘されていたようです。
東征の帰路 奥州ブロック5
東征の帰路 奥州ブロック6
祭神は日本武尊です。
日本武尊が主祭神です。東征の時、この地が陣営となり、その跡が払鬼城(ふっきじょう)と呼ばれるようになりました。平安時代に鎮護国家を願い創建されました。
最上川沿いの山形県戸沢村に日本武尊の伝説があります。
山形県新庄市から国道47号を最上川沿いに西に進む(庄内町方面)と戸沢村三の滝近くを通ります。このとき自動車は猪ノ鼻高架橋を通りますが、左下に小さな赤い祠が一瞬見えます。そこが兜明神です。高架橋を通過してすぐに左の側道に入ると祠の下に至ります。
戸沢村教育委員会発行の 「仙境最上峡」に兜(甲:かぶと)明神を含む「最上の五明神」の伝説が記されています。
この伝説は、景行天皇の命により東国へ派遣された日本武尊が、最上川を下って庄内地方へ向かう途中で遭遇した困難にまつわるものです。最上川が古口(戸沢村古口)で激流となり、航行が難しくなった尊は、川を下るべきか山路を進むべきかを家来と相談しました。最終的に川を選んで舟を進めましたが、一人の武将は山路を選ぶべきだと強く主張し、川に飛び込み、竜の明神に尊の武運を祈りました。そして川の中を進み尊の舟を追いかけました。しかし彼は川の流れに呑まれて命を落としてしまいました。この武将が追いかける途中脱ぎ捨てた鎧や兜を祀ったのが甲の明神、鎧の明神で、竜の明神や他の神々を含めた五つの神を「最上の五明神」と呼び、庄内地方では巫女が神付けを行う際、まずこの五明神を呼び出す習慣があったとされています。しかし、江戸時代の記録では、甲の明神、矢向神社、仙人堂の三明神以外の二社の所在は不明になっていたことが記されています。この伝説は、古くからこの地域で語り継がれ、人々の間に広く伝わってきたものと考えられます。(要約)
東征の帰路 奥州ブロック7
日本武尊が病気になったとき、この地で湯浴したところ平癒したと言われています。その後江戸時代には松尾芭蕉も飯坂に立ち寄り湯に入ったと言われる名湯です。鯖湖湯は飯坂温泉の古称のようです。
日本武尊が佐波子の湯に入って病気が平癒したと伝えられています。
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東征の帰路 奥州ブロック8
祭神は日本武尊です。武神・文神・殖産興業の神と共に火難盗難除の神として祀られています。もとは標高475mの烏帽子ヶ岳山頂に鎮座されていました。1580年代に現在地に社殿を設け遷座されています。折戸が、居都とも呼ばれた地だったため、居都の明神とも呼ばれていたようです。由緒書を読みましたが、祭神として祀られていること以外、東征との関わりはわかりませんでした。八反田川の水によって稲が豊作であるったことが「しあわせ」で、その神恩恵に感謝して祭祀されたのが白和瀬神社とありました。
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祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
日本武尊が東征の折、この地に至りました。そのとき、ここには邪悪な者たちがいると知りました。日本武尊はそれらを征伐するために建御名方神に祈りました。そして退治することができました。これを喜んだ村人たちが日本武尊を伏し拝んだことが地名の由来となっています。
さらに、これとは別の伝承もあります。この地に至った日本武尊が信達湖 を渡ろうとすると急に強風が吹いてきたので諏訪の神に無事に渡ることができるように祈願しました。すると風は止み、対岸に上陸できました。これを感謝した日本武尊は諏訪大社の分霊をこの地に勧進しました。
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祭神は日本武尊、武甕槌神(たけみかづちのかみ)です。
境内の案内板によると、日本武尊が東征の折神居山(亀居山)に登り、柊(ひいらぎ)の八尋の矛を突き立てて武甕槌神に対して戦勝祈願したと伝えられています。
別説では常陸国の土着の豪族が鹿島大明神を勧請したとも言われています。そのためか、明治時代までは常陸国鹿島大明神と称していたようです。
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東征の帰路 奥州ブロック9
最北の地 候補地③ 蝦夷との戦い 八溝山周辺
八溝山の闘い『陸奥国風土記』逸文には「八槻」の地名の由来として日本武尊が賊を征伐した話が書かれています。風土記ではここで土蜘蛛らと激しく戦った様子も描かれています。
日本武尊が東国の蝦夷を征伐するためこの地にやってきました。そして、「八目(やつめ)の鳴鏑矢(なりかぶらや)」で賊を射て殺しました。この矢が落ちたところを矢が着いた所として「矢着(やつき)」と言うようになりました。726年(神亀3)、「八槻」という字に変わり現在に至っています。
『陸奥国風土記』には続きがあり、戦いについてさらに詳しく書かれていました。
この地には次の八種族の土蜘蛛が住んでいました。
1黒鷲(くろわし)
2神衣媛(かんみそめ)
3草野灰(くさのはい)
4保保吉灰(ほおきはい)
5阿邪尓那(あざにな)
6栲猪(たくしし)
7神石萱(かんいしかや)
8狭磯名(さしな)
それぞれの部族はそれぞれの要害の地にある岩屋に住んでいました。
昔国造の磐城彦(いわきひこ)と戦いましたが国造が敗走しそれからは人々を奪い去ることがありました。そこで、景行天皇は日本武尊を派遣し土蜘蛛たちを征伐させようとしました。それを知った土蜘蛛たちは互いに連携して防戦することとし、また、津軽の蝦夷とも共謀しました。蝦夷らは、猪鹿弓(さつゆみ:狩猟用の強弓)を岩城に連ねて張り、猪鹿矢(さつや:狩猟用の矢)で兵を打ちました。兵らは一歩も進むことができませんでした。このとき日本武尊が槻弓と槻矢を手に取り七発、八発と射放たところ、七発が雷鳴のように鳴り響き、蝦夷らを追い散らしました。そして、八発は土蜘蛛の首領八人を射殺しました。8人の土蜘蛛を倒した8本の矢は、やがて芽を出し、槻の木(けやき)となりました。これが八槻の言われです。
その後、神衣媛と神石萱の子孫は許されて綾戸(あやべ)族として住んでいます。
祭神は味秬高彦根命(まじすきたかひこねのみこと)で日本武尊が相殿に祀られています
神社名の表記は、他に都都古別、都々古和気があります。延喜式神名帳にある陸奥国白川郡にある「都都古和気神社 名神大社」と記載されている式内社ですが、棚倉町には論社が二社あります。八槻にある都々古別神社の額には「奥州一宮」と書かれています。祭神の味耜高彦根命は大国主の子で、父を助け東北の地の開拓に貢献しました。また、日本武尊は八溝山の賊を征伐しその威徳を称えて祀ったと言われています。この神社にはいくつかの伝承があります。
日本武尊が東征に来たとき、土蜘蛛たちが津軽の蝦夷と一緒になって抵抗しました。日本武尊が7本、8本と矢を放つと、7本の矢が雷の如く鳴り響きながら蝦夷の徒党を追い散らしました。そして8本の矢が土蜘蛛を射抜きました。この矢から芽が出て槻の木となりました。そこで、この地を「八槻」と言うようになりました。
日本武尊が東征の折、高篠山に陣をおき、八満山の賊と戦いましたが相手は強敵でなかなか勝つことができませんでした。そこで天地神明に祈ったところ、味秬高彦根命が現れて日本武尊を助け相手を討ち滅ぼすことができました。
日本武尊が八溝山の賊征伐に挑みましたが激しい戦いとなりました。そこに、面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)、事勝國勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと: 別名 塩土老翁:しおつちのおじ)の三神が現われ、日本武尊に味耜高彦根命の鉾を授けました。日本武尊はその鉾を立てかけて矢を放ったところ地面に矢が突き刺さりました。矢が刺さったところに都々古別神社を建て、味耜高彦根命の分霊を勧請しました。そして、戦勝祈願したところ戦いに勝利することができました。
祭神は味耜高彦根命(まじすきたかひこねのみこと)と日本武尊です。馬場にある都々古別神社の額には「陸奥国一宮」と書かれています。
日本武尊が東征の折、建鉾山(都々古山)に鉾を立てて祭神を祀ったことが創始と伝えられています。その後坂上田村麻呂が棚倉城跡の地に遷し、江戸時代に現在地に遷座されました。説明版には次のように書かれています。
「当都都古別神社は延喜式(延喜年間に書かれた書物)に登載されて居り陸奥国白河郷七座の唯一の名神大社であり、奥州一宮であります。
祭神味耜高彦根命は御父君大国主命の偉業を助けて東土の荒れ地を開拓し農業の道を教え民をますます蕃殖せしめました。民その恩恵を蒙りましたので命の徳を尊崇し農業の神として崇め奉祀したのであります。
日本武尊を配祀したのは日本武尊東夷討伐の時八溝山の盗賊を討って民が安んじて農業を営みさせた。その尊の徳により配祀したのであります。」
白河市表郷の国道289号を西に向かっていると円錘型をした山が左前に見えてきます。この山が標高402m(白河市教育委員会403m、国土地理院は423m、山頂の看板には402と書かれていました。)の建鉾山で、Google地図には都々古山と表記されています。白河市のホームページには建鉾山祭祀遺跡として紹介されており、山全体が古代の祭祀場であったようです。この山の調査により、古墳時代中頃の鉄鉾、青銅製擬鏡、鉄刀、鉄剣や石製の勾玉、鏡、剣、さらに多くの土器などが見つかり、これらは祭祀に使われていたと考えられています。山頂には磐座と思われる石(建鉾石)があり、日本武尊が東征の折、山頂に鉾を立て東夷平定を誓い、その際、味耜高彦根命:まじすきたかひこねのみこと)を勧進したと伝えられています。頂上には建鉾石と石の祠がありました。
案内板には次のように書かれています。
「指定年月日 昭和55年3月14日
所在地 白河市表郷高木字高野峯ほか
所有者 都都古別神社
建鉾山(武鉾山)は円錐型をした標高403mの山です。伝説によれば、日本武尊が東征した際、この山頂に鉾を立てて神を奉斎したとされ、頂上には建鉾石といわれる岩と小祠があります。
山の姿は典型的な神奈備型(神の領域)で、山頂付近に露出した珪質岩の母岩も、古来から神の降臨に相応しい磐座・石神とされていました。
安政3年(1856)の古図によると、北側斜面の巨岩下は「御宝前」と記されており、地区住民すら立ち入れない神聖な地でした。
また、かつては棚倉町の馬場都々古和気神社が鎮座していたとの伝承もあり、明治16年(1883)までは同社の神事が行われていた、とも伝えられています。
昭和32年(1957)と33年の発掘調査では、鏡・勾玉・剣・鎌の形をした石製模造品、青銅製擬鏡、土師器などの膨大な遺物が出土しました。古墳時代中期(5世紀)の、東日本を代表する祭祀遺跡と位置づけられています。
白河市教育委員会」
下山は都々古和気神社(奥宮)を経由しました。上りの道と比べるとこの道はきれいに整備されており、クモの巣を心配することはありませんでした。神社を参拝した後、三森口遊歩道入口から国道に出て高木口遊歩道入口看板を通過し、そこからすぐの都々古和気神社まで歩きました。(バス専用道を歩いてよいかは不明ですが歩道ではないので国道に出て歩きました。)
祭神は味耜高彦根命(まじすきたかひこねのみこと)、相殿神は日本武尊です。建鉾山(たてほこやま:都々古山・武鉾山・高野峯山)の中腹にあります。もとはここに馬場都々古和気神社があったとされています。
日本武尊が東征の折、建鉾山の頂に鉾を立て東夷平定を誓い、その際、味耜高彦根命を勧進したと伝えられています。
神社へは建鉾山の三森口遊歩道入口に鳥居が立っているので、そこから整備された山道を登ります。駐車場はないので、高木口入口前に停めて国道を南に歩くことになります。
「延喜式内社、白河郡七社の一つにして、人皇12代景行天皇御宇第三子の皇子、日本武尊が東夷御征伐のためにおいでなられた。この時、この都々古山に、味耜高彦根命を勧請され東夷平定の御誓いをたてられ、鉾を建て御親祭なされたのがはじまりで、この古事に因み都々古山山頂に梵天を奉弊する神事が行われている。
建鉾山あるいは、高野峯山の名をもって呼ばれている小山は、一際目立つ三角錐状の形をもち、周囲から特異な山容を望見することができ、古代における山岳信仰の対象としての特徴をよく見えている。棚倉町馬場都々古和気神社の原鎮座地としての伝承がある古代祭祀の遺跡としての建鉾山山頂には高さ1.4mの建鉾石があり、この岩の下部は巨大な母岩が続き、更に山腹までのびた典型的な神奈備山の山容をなして、神が降臨するにふさわしい磐座・石神である。神が降り給う岩座の前に、くさぐさの供物をささげ祭祀をおこなった神道祭祀の遺跡であり、古代の聖地をそのまま現在の神社の神域となっている。」
「このヨシは葉が片方にだけ生えています。昔天喜年間、今から950年位前後冷泉天皇の御代源義家が東征の折、武鉾山(高野峯山)に戦勝祈願のためこの地まで来ました。その時愛馬が腹痛をおこし困り果てました。その時この清水を呑み、側に生えていたヨシを食べて元気を取り戻しました。その時食べられたヨシの葉が今でも芽生いることなく生長しています。この武鉾山は、高木部落の古文書にお宝前と記されている巨岩の下に子供達が遺物品を発見、数多くの勾玉、鏡、白玉、直刀など出土いたしました。
案内板設置 表郷 村の案内人」
茨城県大子町と福島県棚倉町の境に位置している標高1022mの山です。山頂には城の形をしたコンクリート製の展望台があり、最上階からは阿武隈高地など周辺の山々を見ることができます。また、頂上に鎮座する八溝嶺神社全体を上から見ることができます。山頂下の駐車場まで林道があり車で行くことができます。登頂した日はあいにくの天気で、遠くまでの絶景を見ることはできませんでしたが、夏休み中でもあり、家族でいろいろな蝶を探して楽しんでいました。この山は歴史の舞台にも登場するようで、wikipediaには、山頂下にある日輪寺や八方に谷があることから「八溝の嶺」という名を空海が命名した、天狗党の乱で水戸天狗党の兵士らが山頂に立てこもったなどの出来事が紹介されています。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)、事代主命(ことしろぬしのみこと)です。
日本武尊が山頂に立てこもっていた賊を征伐し、ここに祭神を祀ったと伝えています。後に蝦夷征伐に向かう坂上田村麻呂が陣を置いたとも言われています。
東征の帰路 奥州ブロック10
日本武尊がこの地に立ち寄った折、村人が栗を拾ってきて差し出しました。この栗がおいしかったので日本武尊は「くりのす」と名付けました。それが「来栖」となったと言われています。
「常陸(ひたち)」の国 『常陸国風土記』より
倭武天皇が蝦夷から新治を通ったとき、国造の毘那良珠命(ひならすのみこと)が派遣され、井戸を掘りました。すると、清く澄んだ水が湧き出したので、この水で手を洗いました。そのとき、衣の袖が垂れて水にひた(浸)りました。尊が衣の袖を浸したことから「ひたち」となったと言われています。
東征の帰路 奥州ブロック11
祭神は磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)、国常立尊、天鏡尊、天萬尊です。
磐鹿六雁命は景行天皇が東国を巡視されたときに従っていた者です。船で淡水門(あわのみなと 浦賀水道)を渡ったとき、蛤と鰹を料理して献上したところ、天皇が大変喜び、膳臣(かしわでのおみ)を授けました。このことにより磐鹿六雁命は料理の神として祀られるようになりました。