東征の帰路 碓日坂へ
『日本書紀』
日本武尊は言いました。
「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。ただ、信濃国(長野県)と越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、いまだに少し朝廷に従わないでいる。
日本武尊は甲斐(山梨県)より北の武蔵(むさし 東京都 埼玉県一帯)、上野(かみつけ 群馬県)を経由して西の碓日坂(うすいのさか)に到着しました。
日本武尊は弟橘媛(おとたちばなひめ)を思い出すことがありました。碓日峰に登り、東南の方を見ながら3回嘆いて言いました。
「吾嬬はや(あづまはや)」(「我が妻よ ああ」)
それでこの山より東の諸国を吾嬬国(あづまのくに:東国)」といいます。
ここからは分かれて進み、吉備武彦を越国に派遣してその土地や人民の様子を監察させました。
碓日坂(うすいざか)は碓氷(うすい)峠 ?
日本武尊は東征からの帰路に濃霧のため道に迷ってしまいました。その時八咫烏(やたがらす)が現れ、道案内をしました。そのお陰で無事に碓日坂(碓氷峠?)に着きました。日本武尊は八咫烏が現れたのは熊野の神のご加護によるものと考え、熊野三社を祀ったのが峠にある熊野神社と熊野皇大神社の始まりです。これは『日本書紀』には書かれていないことです。
碓氷嶺に立った日本武尊は雲海を見て走水で入水した弟橘媛を偲び「吾嬬者耶」と嘆いたと伝えられています。(*『古事記』ではこれは足柄峠でのこととしています。)峠の熊野神社の境内には「吾嬬者耶 詠嘆の地」碑が立っています。
また、ここから吉備武彦を派遣して越の国(北陸地方から新潟)の様子を探らせることにしました。
『日本書紀』に書かれている「碓日坂」はどこをさしているのでしょうか。
一般的には「碓日坂」は長野県と群馬県との境にある碓氷峠をさしていると言われています。しかし、長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ鳥居峠も昔は碓氷峠と呼ばれていたとも伝えられています。碓氷峠と鳥居峠のどちらが日本武尊が通った「碓日坂」でしょうか。
碓氷峠 群馬・長野県境の峠1
群馬県松井田から長野県の軽井沢との間には下の図のように峠がいくつかあります。それらの中で碓氷峠は2か所あります。(下図ABが碓氷峠)
碓氷峠に関所
碓氷関所(うすいせきしょ)の門 群馬県安中市松井田町 GoogleMap
碓氷関所の始まりは、平安時代の醍醐天皇の時代(899年)に旧中山道の碓氷坂に群盗を取り締まるのが目的で設けられたこととされています。その後、江戸時代には「入り鉄砲に出女」を取り締まるため、中山道の要所でもあった松井田町(旧上横川村)に設けられました。現在番所跡が残っています。
日本武尊もこの付近を通過して信濃に向かって山道を登って行ったのかもしれません。
碓氷関所の門には下のような案内板が設置され、ここが古代より要衝の地で、明治時代には富国強兵策を推し進めるための重要な拠点となっていたことがわかります。
うすいの歴史を残す会の案内板には以下のように書かれています。
「碓氷峠は、古代より要衝嶮難の地として東海道箱根の天嶮と並び称されていた。この地に明治十八年より碓氷アプト式鉄道の建設が開始され、当時の富国強兵の国是により太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離十一.二k、二十六のトンネル、十八の橋梁、高低差五百五十三米の碓氷線が一年半の短期問で開通した。当時の技術を考えるときおそらく人海戦術であったであろう。(略)」
現在の碓氷峠
松井田町坂本で国道18号と分かれた県道北軽井沢松井田線は旧中山道で、標高1200mにある頂上付近には見晴台があり、長くここを碓氷峠と呼んでいました。新道ができてからは旧中山道の峠を旧碓氷峠と呼ぶようになりました。
旧碓氷峠に通じる車道を走っていて「東山道」と書かれた板を見つけました。木柱には「東山道、丸山変電所、堂峯番所跡」と書かれています。古代の道東山道は江戸時代には中山道として交通の要衝となりました。碓氷峠の入り口に堂峯番所(松井田町横川)が置かれ、通行人の取り締まりを行っていました。
古代の東山道
日本武尊の時代の碓氷峠は入山峠?
■古墳時代は古東山道が通る入山峠が碓氷峠だったかもしれないが、史書及び社伝等に記載はない。
■飛鳥時代か奈良時代には古東山道は後の旧中山道が東山道と変更となり、旧碓氷峠を通っていた。東山道となる以前からこの道が通る峠が碓氷峠と呼ばれていた。
(熊野神社の社伝から解釈)
■明治時代に新道が整備され、新道の峠が碓氷峠と呼ばれるようになった(石碑に記載)旧中山道が通る熊野神社の峠は旧碓氷峠となった。
旧碓氷峠にある日本武尊の足跡
旧碓氷峠は標高1200m、群馬県と長野県境にあります。峠には2つの神社があります。しかし、両社の本殿は共通です。本殿の真ん中で県が分かれている大変珍しい神社なのです。神社へは夏と初冬の2回参拝しました。2回ともあいにくの天気で、雨で景色がかすんでしまいました。
旧中山道の碓氷峠付近を散策しました。峠にほど近い道の端には「日本武尊をしのぶ歌碑」がありました。これは「思婦石(おもふいし)」といいます。この石の説明には、
「群馬郡室田の国学者、関橋守(せきのはしもり)の作で安政四年(一八五七)の建立である。
ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」
と書かれています。
頂上に立った日本武尊は眼下に見た雲(雲海)が海のように見え、走水の海に身を投じた弟橘媛のことを思い出しました。この時、「吾嬬者耶(あづまはや)」と思わず声を出したと伝えられています。日本武尊が長く悲しんだので、山の名前が「長倉山」と濁って言うようになったと熊野皇大神社は伝えています。近くには「長倉」という地名もあるようです。また、「霧積」「嬬恋」「吾妻」など、この付近にはこの故事に由来する地名も見られます。
碓日坂は旧碓氷峠?
熊野神社(群馬県)と熊野皇大神社(長野県)
日本武尊は、碓日坂で道に迷ってしまったのを八咫烏が導いてくれたのは熊野の神霊のご加護によるものと考えました。そこでこの地に熊野三社を勧進して祀ることにしました。社伝では神社の創建は景行天皇の時代とされていますので、これを重視すれば『日本書紀』にある「碓日坂」は旧中山道の旧碓氷峠のこととなります。
旧碓氷峠には熊野神社と熊野皇大神社があります。管轄する県が違うため、宗教法人も二つあり、群馬県熊野神社と長野県熊野皇大神社とに分かれています。そのため、写真のように両神社に通じる参道に長野県と群馬県の県境を示す石板がはめ込まれています。また、本殿前には二つの賽銭箱が並んで置かれていますが、上方に県境の小さな表示板が取り付けられています。
熊野神社に隣接して長野県側に建っています。
熊野神社と共通の本宮の祭神は伊邪那美命と日本武尊です。那智宮の祭神は事解男命(ことさかおのみこと)です。
両社の社伝を重視することにより『日本書紀』の「碓日坂」は入山峠ではなく旧碓氷峠であったと思われます。古墳時代の東山道は入山峠を通っていたことは確かなようですが、日本武尊は古東山道を通らなかったと考えられるからです。
始めにふれたように、長野県上田市と群馬県嬬恋村境にある鳥居峠は、昔碓日坂と呼ばれていたという伝承があります。これについては、後述します。
碓日坂を越え北へ
「碓日坂」を越えた後の行程は伝承地を記した地図を見てやや戸惑うこととなりました。下の地図からも分かるように、群馬県にある武尊山(ほたかさん)周辺に日本武尊を祭神とする武尊神社がたくさんあることが理由です。これを無視してよいか悩みましたが、榛名山近くを通って北上し、その後南下して鳥居峠方面に向かったと推測することにしました。これは『日本書紀』には書かれていません。紀には上野→碓日坂→信濃という行程が書かれており、碓日坂から北の群馬に再び向かったとは考えにくいのです。もし、日本武尊軍団として移動していたとしたら、本隊とは別の部隊が賊の征伐のため北の武尊山に出かけたとも考えられます。
よく調べてみると、武尊山までの行程で日本武尊の足跡はそんなに多くないことがわかりました。まず子持神社がある群馬県渋川市に見られます。次に武尊山周辺には日本武尊を祀る神社が多くありますが、後の時代に武尊山と関係して村々で祀ったと思われ、足跡は見つかりません。武尊山の西に位置する宝川温泉には白鷹の湯の伝説があり日本武尊の足跡が見られます。確かな伝承がある場所をつないだ線上にある神社等は通過地と考えました。
群馬県にあり、赤城山、妙義山とともに上毛(じょうもう)三山の一つです。那須火山帯に属し、古来より信仰の山でした。榛名山は火山で、50万年も前から噴火を繰り返してきました。それによってカルデラ内の平らなところにできたのが榛名湖で、火口原湖です。この湖は「伊香保の沼」として万葉集にも登場します。この山の南西麓には榛名神社があります。江戸時代には雨ごい信仰の地として注目されていました。
日本武尊軍の行程を推測し、この山近くを通過していると考えています。
主祭神は榛名大神(埴山比売神 はにやまひめのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ)です。本殿背後の御姿石に強力なパワーがあるとされ、参拝者が多い神社です。
祭神は埴山比売神(はにやまひめのかみ)、倭建命、菅原道真、建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
榛名神社境内の案内板には日本武尊軍の足跡に関しては書かれていませんでした。9世紀に武尊山から石を持ってきてご神体とし、武尊様として祀ったと書いてあります。それが境内にある武尊雄石と思われます。
榛名山の東麓に位置する伊香保温泉は草津温泉と並ぶ群馬県を代表する温泉で、万葉集にも登場する古い温泉地です。垂仁天皇の時代に発見されたという説もあり、それが正しければ日本武尊軍もこの近くを通過しているかもしれません。かつて伊香保という地名は榛名山地域を含む広い範囲を指していたようです。戦国時代には長篠の合戦で負傷した兵の傷を癒すため武田勝頼が真田昌幸に命じて整備させました。伊香保温泉地のシンボルともなっている石段はこの時に造られたと言われています。
祭神は木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめ)です。子持神社の元宮です。
主祭神は木花開夜姫命(このはなさくやひめ)で他に猿田彦大神、蛭子命(ひるこのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、大山祇神(おおやまつみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、手力男命、須佐之男命を祀っています。また、山上に奥之院があり日本武尊を祀っています。
境内の案内板によると、日本武尊が東征の際、密かにこの山にこもって木花開夜姫命と七柱の大神を祀って征伐に出かけたところ、その加護によって平定することができたと書かれています。
別説によると、日本武尊が子持山の神に戦勝祈願を行い、平定することができたことを感謝して祀ったとも言われています。
また、この地を訪れた時、豊城入彦(とよきいりひこ)命の娘上妻媛(かづまひめのみこと)を妻とし、子持山に木花開夜姫命を勧進し子が授かることを祈ったところ、媛は無事岩鼓王(いわつづみおう)を産んだ と伝わっています。
この話は群馬県吾妻郡中之条町山田の吾妻(かづま)神社にも伝わっています。しかし、そこでは日本武尊妃となった上妻媛は豊城入彦命の曾孫(ひまご)になっています。
武尊山(ほたかさん)へ
武尊山の山麓には日本武尊を祭神とする武尊神社が数社あります。この地域で日本武尊は休息し、数日間滞在したようです。それが足跡として残っているのは西にある宝川温泉です。また、武尊山麓に滞在中、ここを治めていた賊らの抵抗にあい、征伐したとも伝えられていますが、この詳細は不明です。
武尊山は標高2158mの山で日本百名山に選ばれている名峰です。古くから山岳信仰の霊山とされてきました。北アルプスの穂高山と区別するため、江戸時代以降に武尊という名称にしたとも言われています。上州武尊山とも呼ばれていますが、武尊の名がついていても名付けたのは日本武尊ではありません。日本武尊の東征にからめてつけられた山名のようです。この山の周辺には30もの武尊神社があります。社名は明治期につけられ、各社の由緒も実ははっきりしません。
武尊山の頂上付近には日本武尊の像が置かれています。
武尊山周辺には温泉地があり、温泉宿があります。川場村の武尊温泉もその一つですが、日本武尊の足跡はありません。
日本武尊の伝承はない神社で、創建は推古天皇の時代です。その後沼田地方の開拓に際しここに石祠を祀りました。また、『日本書紀』の記述に感銘を受けた領主が日本武尊を祀り武尊を「ほたか」と読んだと言われています。
江戸時代の建立で日本武尊の伝承はありません。
江戸時代に湯前薬師堂として建立されました。
64号沿いに鳥居が見えましたが、参道を草が生い茂り、鳥居から本殿まで行くのが困難だったため、道路からの参拝となりました。鳥居額に武尊の文字が見えます。
鳥居額には武尊大明神、諏訪大明神の両方が書かれています。
由緒は不明です。
由緒は不明です。
祭神は大穴牟遅神(おおむなつちのかみ)、大山祇命他多数ありその中に日本武尊も祀られています。
大穴牟遅神を主祭神とし日本武尊や橘姫命の他多くの神々も祀られています。
境内にある案内板によると、通称は、和利宮(わりのみや)で和流宮とも称していました。創建年代や神社名の由来は不明ですが、もとは現社地の西南300mほどの御洗水山頂にありました。現社の鎮座地は遥拝所としていましたが、参拝者のために本殿をここに遷座させたと書かれています。日本武尊に関することは特に書かれていませんが、国道145号(日本ロマンチック街道)沿いにあり、通過地ではないかと思われます。
祭神は日本武尊です。鳥居には白鳥大明神と書かれた額がつけられています。
祭神は日本武尊です。
『吾妻郡誌』では小磯明神が訛って小泉明神となり、白鳥神社となったようです。
祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)、八坂刀女命(やさかとめのみこと)等で日本武尊も祀られています。
もとは諏訪神社と称していましたが、奥宮が王城山(おうじょうさん)の頂上にあることから、村内の神社を合祀して現在の名前にしたことが案内板に書かれていました。
草津温泉は日本三名泉の一つで、昔から多くの人が湯治に訪れている温泉です。白根山の東に位置し、硫黄の臭いが強いため「臭い」からついたとも言われていますが「草津の湯」として親しまれています。由緒については諸説あるようです。
草津温泉の中心には湯畑があり、大量の源泉が湧き出しています。これは温泉が大変熱いため、加水しないで自然に冷ますための施設です。
この温泉は日本武尊の東征の折りに発見されたと言われていますが、行基や源頼朝の開湯などとも言われています。
祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)です。
日本武尊は群馬県と長野県境の「碓日嶺 『紀』」から雲海を眺め走水の海に身を投じた弟橘媛を偲んで「吾妻はや」と嘆いたと伝えられています。この神社のある嬬恋という地名もその故事によるものです。標高2354mの四阿山(あずまやさん)も吾妻山、吾妻山であり、やはりこの故事によるものです。走水はここから見て東にあり、東(あずま)の地です。
鳥居峠 群馬・長野県境の峠2
別説 鳥居峠は碓氷峠
標高1362m、四阿山(吾妻山:あづまやま)登山道に向かう山道と国道144号が交差するところに鳥居峠があります。案内によれば、ここが日本武尊と関係の深い「碓日嶺」で、ここで弟橘媛を偲び「吾嬬者耶麻(わがつまはや)」と嘆いたと伝えられています。つまり『日本書紀』にある「碓日坂」は「碓日嶺」であり、昔そう呼んでいた現在の鳥居峠のこととしています。『天翔ける白鳥』小椋一葉著でも「鳥居峠は碓日嶺」と論じています。
峠がある場所の地名は嬬恋(つまごい)村で、群馬県の西にあります。この地名は日本武尊と弟橘媛の故事によりつけられています。四阿山(あずまやさん:吾妻山)山頂には日本武尊と弟橘媛が祀られた祠(戦国武将真田氏とゆかりのある山家神社奥宮)が建っており、鳥居峠近くにも「四阿山」と彫られた額がついた鳥居があり、山の方を向いています。峠の名はこの鳥居がもとになっていると思われます。
日本武尊は信濃へ
大山祇命、日本武尊を祭神としています。
日本武尊が東征の帰路に四阿山をながら鳥居峠を越えてこの地にやってきました。里人たちはここに梢を折って仮屋を建て歓迎しました。後にこの跡に柴宮を建てました。明治時代に柴宮を現在地に遷し、竹室神社としました。
本殿横には日本武尊の神足石があると言われています。*手水鉢を神足石と紹介しているホームページがありますが間違いです。
祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、伊邪那美神(いざなみのかみ)、菊理媛神(くくりひめのかみ)で、相殿に日本武尊、神八井耳神(かむやいみみのかみ)が祀られています。
この神社はもともと大国主神を産土神(うぶすながみ:土地の守護神)としていましたが、景行天皇の時代に日本武尊を合祀しました。四阿山山頂に奥宮があります。
祭神は日本武尊です。
社伝では景行天皇4年8月12日の創祀と伝えられています。日本武尊は東征の帰途にこの地に滞在しました。近くの小海を望み、上総での海難を思い出しながら「この海も野となれ」と言ったことから海野と名付けられました。日本武尊は亡くなると白鳥となって大和を飛び立ち、河内からこの海野に飛んできたと伝えられています。里人は白鳥が下りた地に祠を建てたのがこの神社です。
松代潘初代藩主の真田信之が海野郷の白鳥神社を勧請したと伝わっています。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)です。
坂城神社由緒として以下のように伝えています。
「日本武命東征の折、日野の里(日名)に住せし時、御陵が峯(五里ケ峯)の麓の霊地に奉祀せられ、天武天皇白鳳二年(西暦673年)社殿奉建されるといわれている。」
日本武尊が東征の帰途、この地に立ち寄りました。里人たちとともに祖神を祀ったのが始まりと言われています。
日本武尊は東征の帰路この地で温泉を見つけたと言われており、別所温泉がある里は昔七苦離(ななくり)の里と呼ばれていました。これは日本武尊が霧が立ち込める山中で翁と出会ったことに始まります。その翁がこの地に七つの湯が湧き出るところがあり、これは人の七つの苦を助けるであろうと申しました。そこで山中を探すと七つの湧き湯が見つかり、兵らの体を癒すことができたと言われています。この故事により、ここは七つの苦難(今の苦しみ)から離れられる楽土とされていました。温泉地入り口の駐車場の前にある七苦離地蔵尊堂にもその名がつけられています。この地蔵尊堂の案内板にそのいわれが書かれていました。別所温泉は弱アルカリ泉・単純硫黄泉で、独特の臭いがありますが、その効能がよく、大師の湯、石湯、大湯など風情のある温泉場があります。特に石湯は若き真田幸村の隠しの湯とも言われています。
日本武尊東征のおりの滞在地と言われています。
日本武尊への熱い信仰により尾張の熱田神宮から形影を迎えて産土神として祀りました。本殿の周りは豪華な彫刻で飾られています。『長野町村誌 長谷村』には祭神を日本武尊とする熱田八劔社と書かれています。
日本武尊は東征の帰路に険しい山々を越えて三峰川の河原に下りてきました。その時大蛇が現れて行く手を遮ったので剣で切り殺しました。この時流れた血で河原の石が赤く染まりました。そこから川下の溝口に至った日本武尊は桑の木の下に行宮を建て、傍に大蛇の頭を埋めたと言われています。これで里人たちは苦しみから解放されました。本殿建築の際欅の木を切ったところ、根元の空洞から大蛇の白骨が見つかり、高龗神(たかおかみのかみ)を祀ったのが龗神社です。その後日本武尊の霊蹟に来た藤原成文が社伝を改造し神明宮と八劔宮を合祀しました。
藤原成文の歌が境内の石碑に書かれていました。
「信濃なる伊那てふ里の片辺にもめぐみ熱田の神の御柱」
この歌は 「信濃なる伊那てふ里の片辺にもめぐみあった神の御社」
が正しいとされています。
(この神社についてはHP「南アルプス山麓探訪」を参考に内容を一部省略して紹介しています。)
余談ですが、熱田神社から10Km程南にゼロ磁場として有名になった分杭峠があります。
中央構造線と呼ばれる大断層の真上にあることから2つの地層がぶつかり合っている地点がゼロ磁場となっているとされ、パワースポットとテレビで多く紹介され訪れる人が多くなっています。現在2018年の自然災害により通行規制があるようです。出かける場合は伊那市観光協会に問い合わせたほうが無難です。
この中央構造線ですが、南アルプスの山々南下し渥美半島に至ると伊勢湾を西に、紀伊半島に向かいます。そして紀伊半島から四国へとつながるのですが、紀伊半島の最初の地点上に伊勢神宮があります。伊勢国各地を巡幸した倭姫命が天の声(天照大神)を聞いて五十鈴川上流の地に定めるとき、何らかのパワーを感じたのだと思われます。それは分杭峠のパワーと同じゼロ磁場がそこにあったのではないでしょうか。
日本武尊は太田切川を渡ろうとしましたが大水で水かさが増えて渡ることができませんでした。そこでこの石に座って休んでいると、西方から頭と尾が白い馬が現れました。里の翁が「この馬は秋冬は駒が原に住み、春夏は天山に住んでいる神馬です」と言いました。馬の背に乗った日本武尊は無事に川を渡ることができました。 (御座石案内板)
里の翁の名は「梅津彦」といいます。日本武尊が太田切川まで来た時、連日の大雨で川の水が増して渡ることができませんでした。そんな折、里の長が梅の木の下に案内し、酒宴を開いてくれました。梅は満開、その香りがあたりに漂っています。日本武尊は大変喜び、里の長を「梅津彦」と名付けました。
宮簀姫を尾張から迎え祭神としています。
日本武尊は川が渡れるようになるまで梅津彦の旅所に滞在していました。そこは現在姫宮神社が建っているところと言われています。
東征を終えた日本武尊は妃となる尾張の宮簀姫の館に戻り、そこから伊吹山の神と戦うため出発しました。しかし、戦いの後体調を崩して能褒野で逝去してしまいます。生前日本武尊からこの里の梅の香のことを聞いていた宮簀姫はここを訪れ尊を偲んだと伝えられています。
梅津彦の旅所に滞在し、近くの大石に座って荒れ狂う太田切川を眺めていると、日本武尊の前に荒々しい馬が突然に現れました。その馬は剛毛が額に垂れ下がり、赤く大きな目、地につくかのような長い尾があり、普通の馬ではありませんでした。梅津彦はこの馬こそ西の岳(天山=木曽駒ケ岳)の主で、駒ヶ原に遊びにきては山に帰っていくと言います。そして、昨夜、尊らを乗せて川を渡るようお告げがあったと申しました。馬は日本武尊を乗せると大きないななきを響かせ、川を飛び越しました。こうして日本武尊や従者らは太田切川を無事渡ることができました。馬はこの後西の岳に戻っていきました。(宮田村誌)
この昔話も史実を脚色して伝えていると考えると、川の流れがやや緩やかになったころ、駒ヶ原に住んでいた者たちが馬の背に日本武尊らを乗せて、自らは川に入って綱を引きながら川を渡ったということのようにも思えます。これは桃太郎に従って鬼(賊)退治(征伐)した猿、雉、犬は実は家来の武将だったと推測することに似ています。これまでも日本武尊は八咫烏や狗などの動物に助けられていますが、これらの動物は日本武尊を助けるためにやってきた地元の勇者であったろうと考えています。後世に史実を伝えるための話術なのかもしれません。
祭神は日本武尊、宮簀媛(みやすひめ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)です。
景行天皇58年に創建された古社です。日本武尊が東征の帰路に赤須の里に滞在したことにより祀りました。
(この神社に関してWikipediaには他の伝説が載せられていて興味深いです。今後情報収集を行っていきたいと思います。)
大御食神社が祀られているところは赤穂といい、もと上伊那郡赤穂町は町村合併により駒ケ根市となりました。
神社がある一帯は「美しの杜」と言われており、これは応神天皇の時代に尾張熱田神宮から日本武尊妃の宮簀媛を迎えて祀ったことによります。
東征の帰路 美濃へ
『日本書紀』
日本武尊は信濃(長野県)へと進みました。この国は山高く深い谷があります。峰々が連なっています。人は杖を使っても登ることができません。険しい巌、曲がりくねった石の道、長い峰は数千あり、馬は先に進もうとしません。しかし、日本武尊は霞を分け、霧の中をこえ、大山を突き進みました。そうして峰に着きました。お腹がすいてしまい、山の中で食事をしました。すると山の神が日本武尊を苦しめようとして、白鹿に化けて尊の前に立ちはだかりました。尊は何か変だと思って、一つまみの蒜(ひる 野蒜)を白鹿に向かって弾き飛ばしました。それが目に当たり、白鹿は死にました。
すると、尊は急に道に迷ってしまい、抜け出る所が分からなくなってしまいました。その時、白狗(いぬ)がやって来て、尊を導こうとしました。その白狗について行くと美濃に出ることができました。
吉備武彦が越からやってきて日本武尊と再会しました。
以前、信濃坂(しなののさか)を通る人の多くが神気(霊気)を浴び、病で伏せっていました。白鹿を殺してからは、この山を越える者は蒜を噛んで、人や馬に塗ると神気に当たらなくなりました。
温泉の名の昼神は日本武尊の故事にちなみ「蒜噛」の音を漢字を変えて表したものです。
日本武尊が山中で食事をしていると白鹿が現れました。白鹿は悪神が化けており、日本武尊の命を狙っていました。日本武尊は悪神に向けて噛んでいた蒜を投げつけたところ、目に当たってその白鹿は死んでしまったと伝えられています。白い鹿は山の神でもあり、この場合は当時この辺りを支配していた首領らのことと思われます。山中で小さな戦いがあったのではないかと思われます。
昼神温泉地にある古社です。祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)、天表春命(あめのうわはるのみこと)としています。社伝では第八代孝元天皇の時代に天八意思兼命が御子神を従えて信濃国に天降りて鎮座したとされています。
日本武尊が信濃の山中で山の神の化身の白鹿に蒜(ひる)を投げつけて殺したことにより道に迷ってしまいました。そこに白い狛(いぬ:犬)が現れ、道案内をしたので無事に美濃に出ました。それまで信濃坂を越える者は、神の毒気により病になってしまいましたが、この後は、山を越えるとき、蒜を噛んで体や牛馬に塗ると毒気にあたらなくなったと言われています。
昼神温泉地から約2キロ山に入ったところにあります。ここが元宮と言われており、境内には磐座(いわくら)があります。
祭神は表筒男命(うわつつのおのみこと) 、中筒男命(なかつつのおのみこと) 、底筒男命(そこつつのおのみこと)で日本武尊他が合祀されています。
神坂神社の境内には日本武尊の腰掛石があり、ここが休息地と伝えられています。また、境内の杉の木は日本武尊が食事をしたときに使った箸を地面にさしたところ、やがて大きく成長したものと言われています。
ここも阿智神社と同様に、山中で道に迷っていた日本武尊の前に白い狛(いぬ:犬)が現れて道案内をしたので無事に美濃に出ることができたという伝承があります。それまで信濃坂を越える者は、神の毒気により病になってしまいましたが、この後は、山を越えるとき、蒜を噛んで体や牛馬に塗ると毒気にあたらなくなったと言われています。この信濃坂は神坂峠のこととしています。
標高1595mにあり、神坂峠越えは険しい山越えが続く東山道の最大の難所と言われるところでした。
古代東山道は近江から美濃、信濃を通り、上毛野、下毛野から陸奥に至る約1000キロの道で、大和朝廷が東北を支配するための軍事的な目的を持った道です。
祭神は伊弉諾命、伊弉册命です。奥宮は恵那山頂2191mにあります。
日本武尊が東征の帰路、恵那山に登って恵那大神を拝んだと言われています。
神坂峠を越え、里に下りてきた日本武尊が着いたのが坂本です。信濃の阿智から美濃の坂本に続く東山道は神坂峠を越える難所でした。
古代坂本駅があった場所は特定されていません。中津川市駒場(こまんば)には碑が建っています。坂を上り西に向かうと中山道の中津川宿に着きます。
美濃へ
祭神は金山比古神(かなやまひこのかみ)、金山比売神(かなやまひめのかみ)で、摂末に磐長姫神(いわながひめのかみ)、木花佐久夜姫神(このはなさくよひめのかみ)、佐多毘古神(さたびこのかみ)が祀られています。
日本武尊の命により本隊から離れて越の国(現在の北陸から新潟に至る日本海側)の様子を見に行っていた吉備武彦が付知川渓谷を下り、木曽川を渡って戻ってきました。そして、ここで日本武尊と合流しました。
吉備武彦は見聞した国の様子を説明しました。「山は高く谷は深い。嶺が重なっているので杖を使っても登れません。」
大碓命との再会
兄の大碓命は美濃国に封じられ、現在の岐阜県山県市あたりに住んでいました。そのため、東征の帰路に信濃から尾張に向かうときに美濃で再開した可能性があります。しかし、大碓命が居住する美濃は尾張に向かって進んでいた道(下街道)から大きく離れることになります。どこから西に向かったのかは分かりませんが、古代東山道が通っていればそこを通ったはずですから、白狗の案内で美濃に至った日本武尊は尾張へ向かう下街道と分かれる瑞浪市から西に向かい、同じ道で戻ったのではないかと推測しました。
大碓命と美濃の伝承
景行天皇は大碓命を美濃の国に封じました。その痕跡が岐阜県山県市や土岐市にあります。両市に共通するものは地名です。「柿野」という地名が山県市と土岐市にあり、両市に大碓命・小碓尊が祀られた神社があります。美濃に封じられた大碓命が暮らしたところを「垣野」と呼び、大碓命は山県市から土岐市に移り住み、土岐市でも館があるところを「垣野」と名付けたのではないでしょうか。「垣野」は後に「柿野」と変更しています。
日本武尊も兄のことを気にかけていたようで、大碓命に会いに美濃に出かけていることが分かりました。それは、日本武尊が賊を討ちながら牛に乗って大碓命を訪ねてきましたが、乗っていた牛が死んだので遺骸を埋め碑を建てて牛塚(牛象)としたという伝承が日本武尊を祀る垣野神社にあるからです。
日本武尊と大碓命が再会したのはいつだったか、はっきりしたことはわかりません。日本武尊が東征には兄が行くべきと父天皇に進言したのを聞いた大碓命は急いで逃げたために美濃に封じられることになったのは確かなようです。
東征に出発し、伊勢を経由して尾張に滞在している間に会いに行った可能性もあります。東征を拒否した大碓命はすぐに美濃に送られたと思われるため、日本武尊が東征に出発するときは大碓命は既に美濃にいたと推測します。尾張から美濃まで川を利用して会いに行ったと考えられます。
また、日本武尊は東征を終えて尾張に滞在しているとき、伊吹山の神を征伐に出かけるのですが、その途中に再会したとも考えられます。地理的に考えるとこのほうが適しています。
いつそこに向かったのかは清瀬神社の伝承から分かりました。
主祭神は日本武尊、他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)豊宇気姫神(とようけびめのかみ)でを祀っています。
ここは「外宮柿野明神」「西宮」とも呼ばれていました。大碓命を訪ねて、日本武尊が牛に乗ってやってきたことに因んで主祭神として祀られているようです。乗ってきた牛は死んでしまったのでそれを葬ったところが「牛塚」「牛象」と呼ばれています。現在は境内にありますが、移転されてきたためです。
祭神は大碓命、猿子大神(ましこおおかみ)、門之宮(かどのみや)大神です。猿子大神と門之宮大神はそれぞれを祀る社がありましたが、現在は清瀬神社に合祀したようです。
「内宮柿野明神」「東宮」とも言われていました。ここに大碓命がひっそりと住んでいた館があったところではないでしょうか。岐阜県神社庁が公開している由緒を見ると「字戸立の渓谷に四方巌にて戸を廻らしたる如き所有り」とされ、そこが館跡のようです。後に大碓命の霊を祀ったのが始まりのようです。
この神社に関して、産経新聞取材班が平成29年発刊の『日本人なら知っておきたい英雄 ヤマトタケル』の中で、日本武尊が東国平定の帰路に美濃に着いたとき、都からの命令を待つ間、大碓命と睦まじく住んでいたと書かれています。私は柿野に3回出かけ、地元の方に尋ねましたが、この伝承を確認することはできませんでした。もしこの伝承が正しければ、随分遠回りしたことになります。
祭神は立野明神(たてのみょうじん)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、大山祇神(おおやまずみのかみ)です。
社伝によると、日本武尊や大碓命が御在世の時に常に持っていた剣や弓矢を納めて社を建てたとされています。この地域には大碓命の住居があったことが知られており、また日本武尊の由緒もあります。さらに、征西に同行した美濃弟彦の出身地でもあるようです。「太刀矢」は「立野」から変わったと言われています。
祭神は伊弉冊命(いざなみのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、菊理姫命(くくりひめのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)です。しかし、大碓命と日本武尊がまつられているとも言われています。
東山道(中山道)で美濃東部に戻った日本武尊は、尾張に向かうため江戸時代に脇街道として整備される下街道に入りました。下街道は日本武尊が通ったことで始まったともいわれています。現在中山道から下街道への別れ道となっているのは岐阜県恵那市武並町竹折 にある槇ケ根です。ここに道標があります。
大井(恵那市)ー追分(恵那市)ー武並(恵那市)ー釜戸(瑞浪市)ー土岐(土岐市)ー高山(土岐市)ー池田(多治見市)ー内津(春日井市)ー坂下(春日井市)ー勝川(春日井市)ー大曽根(名古屋市)ー伝馬町(名古屋市)
江戸時代、中山道(東山道)から離れ、尾張城下に向かう脇街道は木曽街道とも呼ばれた上(うわ)街道と善光寺道とも呼ばれた下(した)街道の2本ありました。上街道は現在の愛知県道102号(旧国道41号)で、参勤交代で尾張藩主が中山道を利用する際の重要な官道であったのに対し、下街道は現在の愛知県道508号(一部国道19号・旧国道19号)で、庶民の道として利用され、伊勢参り、御岳山や善光寺参りをはじめ、峠越えの少ない道として多くの利用者がありました。これらの街道は古代から利用されていた道が整備されたものです。古代の美濃と尾張を結ぶ道は後の下街道で、道沿いに日本武尊関連の地名や史跡を見ることができます。
下街道を日本武尊が通ったと言う伝承があり、下街道沿いにあるこの地域では日本武尊と何らかの関係があるとして日本武尊を祭神とする社を建てました。
熊野権現を祭神としています。
尾張との境にあり、土岐川を渡って内津峠を越えれば尾張です。
日本武尊は内津峠を越える前に日没となり、ここで駐泊しました。そのためここを「日ぐらしの宮」と呼んでいました。社殿の西側には熊野神社1号古墳があります。
北陸の神社
越の国に派遣された吉備武彦が日本武尊と再会しますが、石川県に日本武尊を祀る神社があり、何らかの関係があると思われます。
祭神は日本武尊です。
石碑には、鳥の宮、武部宮、建部大明神、建部社と名前の変遷が書かれています。
主祭神は日本武尊です。
神社より北に能登富士とよばれる高爪山があり山頂に奥宮が鎮座しています。高爪山は古代より神体山として信仰されていました。旧行政区は富来村だったようです。
日本武尊を祭神としています。白鳥大明神とも呼ばれていました。
小碓尊 大碓尊 帯中彦尊 天津児屋根命 誉田別命を祭神とし849年に創建されたとしています。
日本武尊が東国平定の際、賊を追いかけて船で越前海岸に上陸し賊を征伐しました。また、この時従者の一人阿部長広という者が持っていた草薙剣がひとりでに抜け出て賊を刺殺したと伝わっています。
さらに、日本武尊からの報告がないことを心配した景行天皇が大碓尊を遣わし、この地で再会し戦勝を祝ったとされています。(福井県神社庁による)
これら伝承は日本武尊及び大碓命の主流となっている伝説からは離れています。
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)神功皇后(じんぐうこうごう)応神天皇(おうじんてんのう)日本武尊(やまとたけるのみこと)
玉姫命(たまひめのみこと)武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を祀っています。北陸道総鎮守であり、航海安全、水産漁業の隆昌などに霊験著しいとされています。
日本武尊との関係はわかりませんが、武運長久や無病息災の神の一柱として祀られています。