伊吹山への道
出発前の滞在地
東征を終えた日本武尊は尾張氏の館にしばらく滞在していました。
宮簀媛が父とともに暮らしていた館は現在名古屋市緑区にある氷上姉子(ひかみあねこ)神社が鎮座するところです。火上山(ひかみやま)とも言われた海に面して小高いところにありました。この鎮座地はもともと「火高」と書かれていました。また、火高火上の里とも称されていました。よって延喜式神名帳にも「火上姉子神社」として記載されています。しかし永徳3年(1382年)に社殿が火災に遭ったため、「火上」を「氷上」に、「火高」を「大高」に改めました。
宮簀媛命を祭神としています。
火上山は宮簀媛や父乎止与命(おとよのみこと)の館があったところです。日本武尊はここで東征前に宮簀媛に誓った結婚をしました。そして、伊吹山に賊退治に出かけるまでしばらくの間ここに滞在していました。
この神社の西に「元宮」とするところがあります。ここは宮簀媛の館があったところで、その跡地に仲哀天皇の時代に社殿が創建されました。現在の氷上姉子神社は持統天皇の時代に遷宮されました。
宮簀媛の館
『日本書紀』
近江の五十葺山(いぶきやま 伊吹山)に荒ぶる神がいると聞いた日本武尊は宮簀媛の家に剣を置いて、歩いて行きました。五十葺山に着くと山の神が大蛇(おろち)に化けて道を塞いでいました。日本武尊は主神が蛇に化けているとは知らず「この大蛇はきっと荒ぶる神の従者にちがいない。主神さえ殺してしまえば従者なんかはどうでもよい」
と言われました。そして蛇を踏み越えて進みました。
その時、山の神は雲を発生させて雹(ひょう)を降らせました。峰は霧がかかって谷は暗くなり、どこを歩いて行ったらよいか分からず、さまよってしまいました。それでも霧をかき分けて強引に進みました。するとやっと抜け出ることができました。
宮簀媛の館に滞在しているとき、岐阜県と滋賀県境にある伊吹山を拠点として勢力を持っていた一族が大和朝廷に反抗していることを聞き、賊らの征伐に出かけることにしました。東征での賊退治を成功させた日本武尊には、伊吹山の賊なら難なく退治できるであろうという大きな自信があったのかもしれません。伊吹山へは神剣である草薙剣を宮簀媛の館に留め置いたまま出かけました。しかし、走水の海で海神を怒らせて最愛の妃弟橘媛を亡くしたという失敗は脳裏に焼き付いているはずなのに、再び過信して、伊吹山の賊を甘く見てしまったのかもしれません。
神剣を火高の地に留め置いたまま出かけることにした理由は『尾張国熱田大神宮縁起』に見ることができます。

日本武尊が伊吹山に向かう際、草薙剣はこの宮簀媛の館に留め置かれるのですが、これは日本武尊の宮簀媛への思いがありました。
日本武尊が宮簀媛の館に滞在しているときのことです。ある夜中に日本武尊は厠(かわや:トイレ)に入りました。厠のあたりには一本の桑の木がありました。日本武尊は厠に入る前、身に着けていた剣をその枝にかけたのですが、厠を出るとそれを忘れて寝殿に戻ってしまいました。夜が明けて剣を忘れたことを思い出し、桑の木から取ろうとしましたが、その木全体が光り輝き、それは目を射るような強い光でした。それを気にせず剣をとって、宮簀媛に桑の木のことを話しました。姫は「特に木には不思議なことはありませんが、きっと剣が光り輝いていたのでしょう」と言われたので、日本武尊はまた寝てしまいました。
数日たち、日本武尊は宮簀媛に「都に戻ったら媛を迎えに来るから、それまでこの剣を宝物とし、床の守りとしなさい」と言われました。
それを聞いていた大伴武日臣(おおとものたけひのおみ)が「この剣はここに置いたままにしてはいけません。伊吹山には荒ぶる神がいます。剣の霊気なしでその毒気を払いのけることはできません。」と進言しました。日本武尊は「もしそうであったら足で蹴り殺してしまいましょう」と言って剣を宮簀媛のもとに置いたまま出発してしまいました。(『尾張国熱田太神宮縁起』より)
このように、日本武尊は伊吹山に出発するとき、神剣を奉斎するよう宮簀媛に頼んだのです。それは、伊吹山に出かけた後の宮簀媛を剣の神霊により護らせるためだったと思われます。神剣がなくても勝てると考えたのは、伊吹山の神々を日本武尊は軽く見てしまていたのでしょうか。
このような油断は二度目です。最初は走水の海を渡るとき海神を怒らせてしまったことです。さらに三度目があります。伊吹の神は日本武尊の前に現れ戦いを挑んできたのに、日本武尊はそれを従者だからと軽くあしらい、相手にしなかったことが大きな怒りを生んだのです。(後述)
伊吹山へ
日本武尊がどのようなコースで伊吹山に向かったかを地図に伝承地を置き、それ見ながら推測してみました。伊吹山に行くには伊吹山までは次のような行程で出かけたと考えています。


滞在地の火上山を下り、船津神社があるところにから出航したと考えています。

祭神は日本武尊、高倉下命(たかくらじのみこと)、天照大神、宮簀姫命、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、乎止與命(おとよのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の七神です。熱田神宮との関係があり、もとはその領地だったところにあるようです。『尾張地名考』には延喜式御田神社は七社明神と書かれており、熱田神宮にあるのはここの遥拝所としています。現在は摂社として祀られています。室町時代に岩塚城主 が熱田神宮から八剱社、大幸田神社、日割御子神社、高座結御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社の七社を勧請して祀ったとされ「七所社」と名付けられました。現在この七所社を挟んで東に御田神社、南に上知我麻神社があります。
境内に日本武尊腰掛石があります。伊吹山に向かう途中庄内川を渡るための船を待つ間座っていた石と言われています。また境内には3つの小塚(奈良時代の円墳)があり、その一つの塚の真ん中に大きな石があることから地名が「岩塚」となったと伝えられています。
上のflood mapから推測して、当時は西に庄内川の河口があったかもしれません。
「尾張地名考に「岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社、本国帳の従三位御田天神とあるは七社明神を言うなり」とあり、神社に祀られている神鏡に元慶8年(884)の銘があるところからこのころの創建と考えられる。尾張志に「熱田七社神を祀る故に社号を七社と言う。応永32年(1425)に吉田治郎右衛門守重、社殿修造(棟札あり)す。境内に縦横26尺の塚あり。そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という」と記されている。この岩は日本武尊腰掛岩と伝えられ、塚(古墳と考えられる)と共に現存している。この神社境内は太古より古木繁り清浄な神域であった。吉田社家の祖、岩塚城主吉田守重は足利尊氏の一族で尾張の守足利高径の祖父宗家の兄の系(大系図による)であり、この岩塚および隣邑を領有していたが、武威盛んで民を愛し敬神の志厚く常に国家の太平を祈り(尾張雑記)応永32年(1425)にこの神域に熱田七社を勧請し祀った。境内末社の内、白山社、熊野社、石神社、若宮社、天神社、神明社はかって村内に別に社地を有し鎮座されていたが享保19年(1734)に当社境内に遷座された。現在七所社の祭礼として行われている「きねこさ祭」は御田祭とも言われ、もとは御田神社の祭礼であったものが七所社に受け継がれ連綿として続けられているものである。この祭では、昔は吉田神官に四位の束帯を差許され(文化3年裁許状)、その後当社 神官は従五位下に叙せられた(天保12年2月宣旨)」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
祭神は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)です。草ノ社(かやのやしろ)、種の社(くさのやしろ)とも呼ばれていました。肥沃な土地を求めて移り住んできた祖先の人々がこの地に野の神鹿屋野比売神を奉祀したことが始まりとされています。神前に野菜と塩をお供えしていたところ、野菜が程よい塩漬物になったと言われ、女神の贈り物として伝えられてきました。
日本武尊が東征の折、村人たちはこの野菜を献上したところ「藪に神物(こうのもの)」と言われ、その後「香の物」と書いて漬物を表す言葉になりました。

伊吹山に向かう途中ここで剣を研いだので砥塚と呼ばれていました。それが地名の戸塚となりました。
これらの石は、一説では古墳の石室に使われていたのではないかと言われています。

「日本武尊笠懸松舊跡」と「笠懸の松」碑が建っています。伊吹山に向かう途中、七つ石を過ぎてここで休息しました。北にあった池の蓮の花がきれいに咲いていたのでそれを愛でたと伝えられています。小さな社があり笠懸社となっています。案内版からはこの社が熱田社と読み取れます。
垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大神を祀った元伊勢中嶋宮の伝承地があります。一宮の七つ石、笠懸社から海津に向かう行程を推測するとここは通過地と考えていいと思います。

垂仁天皇の時代に天照大神を祭神として創建されたと言割れています。神名神社参道入り口(県道182号から分かれるところ)に「聖蹟日本武尊倭媛命」と書かれた立派な石柱があり、背面に「中嶋宮」の文字が書かれています。鳥居をくぐり参道を進むと神社があります。中嶋宮を記す石柱に日本武尊の名も彫られている理由はわかりません。この付近を通過したと言う伝承がかつてあったのかもしれません。

もとは八剣社で、神明社、白山社、天神社などが合祀されていました。昭和35年に現在名に変更されました。丸宮とも呼ばれています。一宮市内には他にも中嶋宮と伝える神社が数社あります。丸宮が「中嶋宮」とする説が有力のようですがはっきりとした根拠はありません。「中嶋宮」として『尾張名所図会』に描かれている社がこの社によく似ていると言われているのもその理由かもしれません。
伊吹山の神は大蛇となって日本武尊を待ち構えます。
岐阜県海津市の御霊神社には蛇池の大蛇退治が伝わっています。尾張国と美濃国の境に来た日本武尊は、蛇池に住む大蛇が里人たちを苦しめていることを知り、これを殺しました。この戦いはそれほど苦労はしなかったのではないでしょうか。ここにいた大蛇は伊吹山の神が差し向けた従者だったのかもしれません。このように考えれば、伊吹山山中で大蛇と出くわしてもそれを伊吹山の神とは思わず、蛇池で征伐した従者と同じだから放っておこうと思ったとしても不思議ではありません。

主祭神は御霊大神(ごりょうのおおかみ)です。創建年は不詳です。
日本武尊が里人を苦しめていた大蛇を退治したと伝えられています。
この伝承は『尾張国風土記』にも見ることができます。
昔この村には大蛇が住む蛇池という池がありました。日本武尊がこれを誅殺したと伝えられています。地名の者結(じゃけつ)は「蛇穴」がもとになっています。所在地は美濃国になりますが、昔はこの村は尾張国中島郡に属していました。その後海西郡に属しました。御霊神社は大蛇の霊をまつっているようです。
大蛇はそのまま大きな蛇(世界には体長8mを超えるニシキヘビがいます)のことでしょうか。あるいは、里人たちを苦しめていた伊吹山の賊らを大蛇と呼んだのでしょうか。


祭神は猿田彦神です。
ここにも蛇池の大蛇退治が伝えられています。
日本武尊が蛇池の大蛇を退治し、池の真ん中を埋め立てて社殿を建てました。

ここは日本武尊が伊吹山に向かう通過地と伝えられています。

主祭神は日本武尊です。
日本武尊が伊吹山に向かうとき、霊泉があったこの地で休息しました。そのときの食事がとてもおいしかったので「味佳(あじか)」(佳は良いの意味)と褒めたとされ、地名の「阿遅加」の所以となっています。
日本武尊が亡くなると子の若武彦王がここを訪れ社を建てたと伝えられています。
阿遅加神社と同様の伝承が、同じ地区の八剣神社にもあります。

祭神は倭建命です。
倭建命が伊吹山に向かう途中、海東、海西、中島を経て葉栗郡まできました。川を舟でやってきて橋の根本で休憩しました。このときの食事がおいしくて「味食(あじか)」と言ったことから「足近」と称されるようになりました。以前は「阿遅迦」と書いていました。
岐阜県南部の八剣神社
岐阜県には日本武尊を祀る八剣神社が多くあります。
その中で日本武尊の足跡が分かるのは上の2社と岐南町の1社です。他は後世の創建や由緒不詳です。以下それらを記載しておきますが、立ち寄り、滞在などの伝承はありません。

主祭神は日本武尊です。
創立年不詳


祭神は日本武尊

祭神は日本武尊

祭神は日本武尊

祭神は日本武尊
創立年不詳

祭神は大山祇神(おおやまずみのかみ)

祭神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
祭神は日本武尊です。日本武尊が東征の折、伊吹山へ向かう途中にここで休息しました。後に、この地に社を建てて熱田神宮の神霊を祀りました。
祭神は高皇産霊神(たかみむすひのかみ) 神産霊神(かんむすひのかみ)です。
倭姫がここに4年間天照大御神を祀った元伊勢伊久良河宮跡(いくらかわのみや)跡と伝えられています。境内には「御船代石(みふなしろいし)」と呼ばれる祭壇があります。右の祠は神明宮、左は倭姫命が祀られています。
日本武尊はこの地を通過し池田町に向かいました。

祭神は日本武尊です。
日本武尊が伊吹山に向かう時の通過地と言われ、葦原で道に迷っているところに白鳥が飛んできて道案内しました。揖斐川を利用して下流から船でここまで来たのではないかと思われます。当時はこの近くに葦原が広がり、それを突っ切ったように思います。背の高い葦の中に入り、方向を見失ってしまったところ、山に帰る鳥を見てその方に進んだところ現在の池田町に至ったと思われます。
この神社には大碓命と小碓尊の木像が祀られているようですが見ることはできませんでした。
武宣都(むぎつ)白鳥はどこなのか。
後に牟義都国造(むげつのくにのみやつこ)が美濃北中部を支配していますが、この国造の支配領域は当時牟義都(むげつ)国と呼ばれた地域で後の美濃国武儀郡(むぎぐん)にあたります。現在の岐阜県関市、美濃市、山県市一帯です。かつてこの神社のある地域が「白鳥」と呼ばれていたかどうかはわかりません。
この神社とは別に岐阜県加茂郡七宗町神渕に倭建之命(やまとたけるのみこと)を祭神とする白鳥神社があり、岐阜県神社庁HPには「武儀郡神名帳正五位下白鳥天神」と紹介されています。現在の住所は七宗町神渕となっていますが以前は七宗町白鳥でした。この地が武宣都(むぎつ)白鳥と考えられなくもないのですが、池田町の白鳥神社から直線距離でおよそ60Km北東にあり、痛手を負った日本武尊が帰り着く場所ではないと考えられます。
岐阜県南部の白鳥神社
他にはも日本武尊を祀る白鳥神社があります。
その中で日本武尊の足跡が分かるのは池田町白鳥の白鳥神社のみです。他は後世の創建や由緒不詳ですが、池田町近くの神戸(ごうど)町にかたまっています。以下それらを記載しておきますが、何らかの関係があったと思われます。

祭神は日本武尊 創祀不詳

祭神は日本武尊 創祀不詳

祭神は日本武尊 創祀不詳

祭神は日本武尊、橘媛(弟橘媛)です。
継体天皇の時代に創建されたようですが、美濃の国で弟橘媛を祀っているというのは珍しいと思われます。案内板には日本武尊の足跡に関することは書かれていませんでした。

祭神は日本武尊
創祀不詳ですが美濃に封じられた大碓命との縁で祀られているようなことが拝殿内の案内板には書かれています。
岐阜県揖斐郡池田町の白鳥神社からは二手に分かれて進んだと思われます。それは、伊吹山山麓を支配していた賊を西と東から挟む形になります。
一軍は伊吹山の北を回り長浜市の方に行き、雲雀山に陣取ります。もう一軍は伊吹山の東から岩手峠を越えて山上の賊を攻撃します。

日本武尊の通過地と伝えられています。松明に火をつけ暖をとりました。

祭神は日本武尊です。ここは岩手山の杖立神社の遥拝所となっています。
ここは伊吹山に向かうときの通過地と伝えられています。日本武尊は伊吹山に杖をついて登りました。この杖が伊吹山の途中で大樹となったと言われています。
杖立明神二社
岩手山に杖立神社があります。GoogleMapで確認すると、この山には杖立神社と明神神社の二社あることが分かります。別々の社と思いましたが垂井町にお住まいの方からその理由を聞くことができました。
この神社地に町境があります。そのため、杖立明神は関ケ原町側の明神神社と垂井町側の杖立神社奥宮の二社あることになっています。二社とも祭神は日本武尊です。垂井町側にある逆さ杉が御神体となっています。

駐車場から鳥居をくぐると最近改築された木製の祠が見えてきます。日本武尊を祭神とする明神神社です。

杖立神社の御神木であり御神体ともされています。日本武尊が山を登るときに使っていた杉の杖を突き刺しておいたらやがて芽が出ました。それが成長して大樹となったと言われています。杖を上下逆に刺したため枝が下を向いていると伝えられていますが、これは枝に積もった雪の重みによって下がったのではないかとも思われます。
この杉は杖立明神下にある表示に従って420mほど狭い山道を下ったところにあります。
伊吹山での戦い

伊吹山の西にある小高いところです。ここに日本武尊軍が布陣しました。
また、ここには伊吹山周辺で対立していた息長氏の軍も参加したと思われます。息長氏の娘は日本武尊の妃となっていますから(『日本書紀』に記載なし)、この戦いも息長氏の要請によるものであったとも考えられます。
雲雀山にある古矢眞神社は日本武尊が東征の帰路滞在したとも伝えられていますが、ここは日本武尊軍の滞在地となっていたと思われます。
息長氏の要請


第30代敏達天皇の皇后に広姫がいます。この広姫の陵が息長陵(村居田古墳)とされています。古墳時代中期の築造で、もとは前方後円墳だったようです。付近には滋賀県の茶臼山古墳や垣籠古墳などがあり、長浜古墳群を構成していますが、いずれも息長氏に関係のある人物の墓と言われています。大和朝廷の成立時から朝廷との関係があり、第26代継体天皇は滋賀県高島市で生まれ福井県坂井市で育ったと言われていますが、息長氏との関係があるとも言われています。
戦いの相手
古代鉄の産地

良質な石灰岩が採掘できることから、早くから多くの工場が立ち並び山を削ってきました。その結果写真のように山形が変わってしまいました。現在も続けられており、伊吹山周辺道路では毎日のように大型トラックの通行が見られます。また、ここは多種の化石の産地でもあり、学術的にも価値のあるところのようです。さらに、鉄鉱石が採れるところでもあったようです。化石博物館の方からいくつか見せていただきました。持ってみると手のひらに乗る大きさでも結構重く感じました。これに目を付けた有力者がいて、伊吹山東から南側にかけての広い範囲を支配していたと思われます。
金生山の頂上付近ににある化石館に隣接して建っています。この辺りで金生山の化石を多く見ることができます。また、ここから少し離れた明星輪寺にかつて蔵王権現宮がありました。明星輪寺は飛鳥時代に持統天皇の勅命により役小角(えんのおづぬ)が開山しました。虚空蔵菩薩を本尊とするため「こくぞうさん」とも呼ばれています。蔵王権現が安閑天皇を祭神として改称し金生山神社となりました。
日本武尊との関係はないようです。

鉱山、鍛冶の神とされる金山彦命(かなやまひこのみこと)を主祭神としています。金山彦命は天照大神の兄神で神武天皇の東征で大活躍したと言われています。神武天皇の時代にここから2キロ離れたところに創建されたと言われ、崇神天皇の時代に仲山金山彦神社として現在地に遷座されました。その後、国府の南にある社ということから名称が現在名に変更されました。美濃国一宮であり、金の神の総本宮となっています。
社殿は関ケ原の戦いで全焼してしまったため、徳川家光の時代に再建されたものです。
この地に金の神がはやくから祀られていたことは、この地が鉄の産地であったことを物語っています。日本武尊の時代にはすでに存在していた社ですから、この前をとおっていても不思議ではありません。

大垣市に長さ150mの岐阜県最大の前方後円墳があります。築造は4世紀末とされています。関ケ原に近く、濃尾平野の北端に位置します。前方後円墳という形、古墳の大きさなどから、この地域の首長が大和政権とつながっていたことを示していると考えられています。築造時期から考えれば日本武尊が伊吹山で戦った後の時代の古墳ですが、日本武尊とともに戦った首長につながる勢力地であったかもしれません。
古墳の上からは北に金生山が間近に見えます。日本武尊との戦いのあと、大和朝廷の勢力下に入った伊吹山東側一帯を治めることになった一族の首長墓とも考えられます。
伊吹山

『日本書紀』では「五十葺山」「膽吹山」と表記されています。
『古事記』では「伊服阜能山」と表記されています。
伊吹山は滋賀県と岐阜県境にある標高1377mの山です。琵琶湖国定公園に指定され、山頂からは眼下に日本一の湖琵琶湖を眺めることができます。
山麓東から南側には木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)がつくる肥沃な濃尾平野が広がり、現在は宅地化が進んでいますが、かつては美濃国、尾張国の穀倉地帯を形成していました。また、伊吹山や養老山脈が造る地形により、冬に日本海から吹く冷たい季節風により濃尾平野に雪を降らすことがあり「伊吹おろし」と呼ばれています。

日本武尊が戦った場所は伊吹山の3合目辺りと言われています。現在そこに石祠(倭健命遭難碑)が置かれ、案内板にはここが難を逃れたところと書かれています。
日本武尊本隊は杖立明神を過ぎて山頂の方を目指し、途中で伊吹山の荒ぶる神々の攻撃にあったのではないでしょうか。
伊吹山の戦い 記紀比較
『日本書紀』
近江の伊吹山(五十葺山:いぶきやま)に荒ぶる神がいると聞いた日本武尊は宮簀媛の家に剣を置いて、歩いて行きました。
伊吹山に着くと大蛇(おろち)が道を塞いでいました。
この大蛇は荒ぶる神の従者だとして踏み越えて進みました。
実は山の神が大蛇に化けていたのです。
山の神は雲を発生させて雹(ひょう)を降らせました。
峰に霧がかり、谷が暗くなって道をさまよってしまいました。
霧をかき分け進むと抜け出すことができました。
日本武尊は意識もうろうとして、酔ったようになりました。
居醒泉(いさめのいずみ)で正気にもどりました。
しかし、病気になってしまいました。
尾張へ帰り着いたのですが、宮簀媛の家には向かいませんでした。
尾津(おづ 三重県桑名市)に到着しました。
『古事記』
倭健命は素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かけることにしました。
伊吹山のふもとで牛のように大きな白い猪が現れました。
山の神の使いだから大したことはないと思って進みました。
白猪は山の神自身だったのです。
山の神は大氷雨を降らせました。
倭健命は大きな痛手を被ってしまいました。
病にかかり伊吹山を下りました。
玉倉部の清水を飲んで体を休めました。
伊福氏と「いぶき神社」4社
伊吹山の位置から推測すると、当時、伊吹山東山麓を支配していたのは東山麓の神社に祀られている「息吹氏」と考えられています。
『古代氏族辞典』によると「息吹氏」は「伊福氏」とあり、天火明命を祖神とする「尾張氏」と同じ祖神で同族の「五百木氏」と書かれています。岐阜県不破郡垂井町の伊富岐(いぶき)神社には尾張氏の祖神が祀られています。この「五百木氏」→「伊福氏」と日本武尊は戦ったのではないでしょうか。
岐阜県米原市にも伊夫岐神社があり、伊福(いぶき)氏と関係があります。

祭神は伊富岐大神(いぶきのおおかみ)です。創祀年代は不詳です。式内伊夫岐神社に比定されています。伊吹山山頂に祀られていたとも言われています。
滋賀県神社庁は「祭神については、霜速比古命、多々美比古命、気吹男命、天之吹男命、又は素盞鳴尊であると、諸説があったが、明治初年より、八岐大蛇神霊として崇拝して来たところ、昭和18年、祭神を伊富岐神と改称された。」としています。

祭神は伊吹山の神で多多美彦命(たたみひこのみこと)、八岐大蛇、天火明命、草葦不合尊ですが、実ははっきりしません。式内社で美濃国二之宮です。創祀年代は不詳です。
この地域を治めていた伊福氏がここに祖神を祀りました。祭神の多多美彦命は伊吹山の神で、別名夷服岳(いぶきだけ)神、気吹(いぶき)男神、伊富岐神とも言われています。また、他の祭神として八岐大蛇(伊吹山の荒ぶる神が化けた大蛇)、天火明命(尾張氏祖神)、草葦不合尊(うがやふきあえず:彦火火出見尊、別名山幸彦の子)が祀られているという説もあるようです。

祭神は伊吹神で創祀年代は不詳です。伊福氏との関係があると思われます。石碑には境内に湧水があり、農業神として「山田大蛇」が祀られていると書かれています。

祭神は素盞鳴尊で、創祀年代は不詳です。戦国時代に北近江を支配していた京極氏の館跡に建っています。上平寺を建立した僧が鎮護神として勧請したとも言われています。
伊吹山の神の正体
日本武尊は楽勝ではなかった
