病となった日本武尊
『日本書紀』
山の神は雲を発生させて雹(ひょう)を降らせました。
峰は霧がかかって谷は暗くなり、どこを歩いて行ったらよいか分からず、さまよってしまいました。それでも霧をかき分けて強引に進みました。するとやっと抜け出ることができました。
しかし、意識もうろうとして、酔っているようでした。そこで山の下の泉まで行き水を飲むと、正気に戻りました。この泉を居醒の泉(いさめのいずみ)といいます。
日本武尊はこの辺りから病気になってしまいました。しかし、立ち上がって尾張へ帰りました。しかし、宮簀媛の家には行かず、伊勢に向かい、尾津(おづ 三重県桑名市)に到着しました。
居醒泉(玉倉部の清水)
記紀共に伊吹山の荒ぶる神と戦った日本武尊は生きてはいたものの疲れ切っていたことを表しています。それは山に霧がかかり、谷が暗くなってしまったため道が分からなくなってしまったのです。そのため、長くさ迷い歩くこととなってしまいました。どこを歩いたかもわからず、道なき道を強引にかき分けて進んだところ、やっと山の下の泉の近くまで抜け出ることができたのです。心身ともに衰弱し、その疲れを癒したのが「居醒泉(いさめのいずみ)」です。『古事記』では「玉倉部(たまくらべ)の清水」「」としています。
伊吹山を下り、毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いた日本武尊清水を飲んで体を休めました。この清水の効果は大きく、高熱がさめたという話が伝わっています。
日本武尊が清水を飲んで正気をもどした所で有名な「居醒の清水」は滋賀県米原町醒ヶ井にあります。しかし、この伝説があるのは醒ヶ井だけではありません。伊吹山ゴンドラ乗り場付近の命水ケカチの湧(ゆ)や関ヶ原鍾乳洞入口の玉倉部神社など、伊吹山周辺には湧水池があり、現在も水が出ています。(個人の責任で飲用可のところもあります)
では、日本武尊が飲んだ清水の湧く居醒の泉(玉倉部の清水)はどこにあったのでしょうか。
「居醒の泉」候補地
伝承地が7か所あり現在も水が湧き出ていますが、これらのうちどれか一か所だけで休息したのではなく、次の場所へ行くまで数か所立ち寄っているのではないかとも思われます。
賀茂神社横、右拳を挙げた日本武尊像が池の背面に立っています。この池は大変きれいな水で、地元の方がいつも清掃活動を行っているそうです。池の中には日本武尊の鞍掛石と腰掛石があります。この水が流れる川には梅花藻も見られ絶滅危惧種のハリヨが泳いでいます。
案内板にはこの水は伊吹山山頂から直接湧き出ている水と書かれており、日本武尊がこの水を飲んで正気を取り戻した「命の水」としています。
伊吹山の神に打ち惑わされた日本武尊がこの水を飲んで正気に戻ったと伝えられています。この辺りは「たけくらべ」という所だったと言われていますが、それは玉倉部がもとになっていると伝えられています。
伊吹山の神が降らせた氷雨の毒気にあたりこの近くの湧水を飲んで正気に戻りました。しかし、十分には回復しておらず、ここで石に腰を掛けて休息しました。
歩くことができるまで回復した日本武尊は尾張へと向かいました。その道は現在の東海自然歩道にほぼ沿った道で「みゆき街道」と言われています。みゆき街道は「御行街道」で奈良時代に元正天皇や聖武天皇が行幸された時に通った道です。
祭神は日本武尊です。
日本武尊が伊吹山から下りてこの井戸の水を飲んで休息したと伝えられています。この井戸を「桜の井」と名づけられました。この水を飲んだ日本武尊が「水が甘い、桜の香りもする」と言ったと伝えられています。地名も桜の井戸からつけられています。
神社の案内によれば『美濃国神明帳』に記載されている18社のうちの1社で「大和武尊」を祀っています。伊吹山を平定した大和武尊は不破郡玉村ー松尾村ー美濃の中道(秋田街道)ー沢田村ー多芸郡 に至ったとしています。また、地名の上方は地理的に見て多芸野の上にあるところからついたとしています。この辺りは飲み水が少ないところでしたが、たまたまこの地は清水があったので立ち寄ったと伝えられています。後に白鳥明神として社が建てられることとなりました。
境内に「日本武尊史跡 当芸野」と書かれた石碑があります。
当芸野とは日本武尊の足がたぎたぎしくなった(腫れ上がって歩けない様子)ことからつけられたと言われています。
伊吹山での戦いの後、疲れ果ててしまった日本武尊は岐阜県養老町あたりにたどり着いて休憩しました。しかし、足はふくれあがり「私の足は歩くことも出来ず、たぎたぎしくなった」と言いました。後にこの地を当芸野(たぎの)とよぶようになりました。しばらく休んだ後、再び大和へ向かって歩き始めました。
尾張に戻った?
萱津神社には日本武尊が尾張国のこの地に戻ってきたことを「阿波手の杜(あわでのもり)」の伝承として伝えています。しかし、ここから宮簀媛の館には向かわず大和を目指しました。そのことを建稲種命に仕え、その後日本武尊に付き従っていた久米八腹(くめのやはら)を使いに出して宮簀媛に伝えるよう命じました。久米八腹からこれを知った宮簀媛はここまで追いかけて来たのですが、その時日本武尊は既に大和に向け出発した後でした。
祭神は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)です。草ノ社(かやのやしろ)、種の社(くさのやしろ)とも呼ばれていました。肥沃な土地を求めて移り住んできた祖先の人々がこの地に野の神鹿屋野比売神を奉祀したことが始まりとされています。神前に野菜と塩をお供えしていたところ、野菜が程よい塩漬物になったと言われ、女神の贈り物として伝えられてきました。
日本武尊が東征の折、村人たちはこの野菜を献上したところ「藪に神物(こうのもの)」と言われ、その後「香の物」と書いて漬物を表す言葉になりました。た。
萱津神社は東征の前にも立ち寄り、村人から漬物を献上され「香の物」と呼んだところです。
萱津神社のある地は「阿波手の杜(あわでのもり)」と呼ばれています。日本武尊は伊吹山での闘いの後病気になってしまい、やっとこの地にたどり着きましたが、宮簀姫のもとへは戻れないと察しました。そのため久米の八腹(従者)に伝言を依頼しました。宮簀姫はすぐに萱津神社の地に向かいましたが日本武尊はすでにここをたっていました。そのため、宮簀姫は大変悲しみ、その様子を見た村人たちはこの森を「不遇(あわで)の森」と呼ぶようになりました。日本武尊が都に向かうとき、宮簀姫には再び会えない悲しみから、後の世に生まれた者がこのような悲しみに会うことがないようにと雌雄2本の榊を植えました。この2本の榊が地上2mぐらいのところでつながり(連理)、「連理の榊(れんりのさかき)」と呼ばれるようになりました。御神木となった2本の榊はさらに成長を続け大木となりましたがやがて枯れ、現在は「連理の榊」として保存されています。
これが事実ならば、日本武尊は病の体で伊吹山から大きく寄り道をして尾張に戻ったことになります。
日本武尊は火上山の宮簀姫のもとに戻ることを諦めました。
大和に向かう
病となった日本武尊がこの坂を杖をついて歩いたと言われています。
桑名街道(あるいは伊勢街道)とも呼ばれた道は高低差がある坂がいくつもある道だったようです。その中でも杖突坂と呼ばれた坂はその差がやや大きくなっています。
出来山の千本桜の名所として樹齢100年以上のヤマザクラが1000本あり、海津市の天然記念物となっています。公園内に祠がありますが日本武尊との関係は不明です。ここを通って大上宮に至るため通過地と思われます。
字辰ケ平1563番地の1 GoogleMap
日本武尊がこの近くを通りかかったとき、その姿が大変疲れているようだったので村人は温かい粥を作りました。これを大変喜ばれ再び元気になって大和を目指し進まれたと伝わっています。
『日本書紀』
昔、日本武尊が東に向かった年に尾津浜で止まって食事をしました。この時、一本の剣を松の木の下に置いたのですが、それを忘れて立ち去ってしまいました。今、再び尾津に来てみると、あの時の剣がまだそこにありました。そこで歌を詠みました。
尾津浜(尾津) 三重県桑名郡多度町戸津に到着した日本武尊はそこにおいてある剣を見つけました。この剣は東征に行くときに忘れた剣でした。日本武尊はここで歌を詠みました。その歌は、尾張に向かって立つ一本の松よ この松が人ならば 服を着せてやるのに 剣をもたせてやるのに という意味です。
剣を忘れた「尾津浜」の伝承地
桑名市には尾津前伝承地が3か所あり特定されてはいません。それらの伝承地は当時は海岸線に近く、休息地としてふさわしいところであったように思われます。現在尾津前伝承地とされる神社が桑名市に3社あります。
尾津神社3社
いつ創建されたかは不明です。祭神は倭建命、足鏡別命(あしかがみわけのみこと)、大山津見神 八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、衝立久那戸神(つきたつくなどかみ)です。
神社の由緒には「当社の近辺は往古多度川が海にそそぐ海浜地帯であり、景行天皇紀にみえる『尾津浜』『尾津前』の地名は、この小山の尾津のうちに当ると考えられ、 又『小山』の地名は、小山連の氏族名からでたもので古い地名である。」と書かれています。
いつ創建されたかは不明です。祭神は倭建命、稚武彦命(わかたけひこのみこと)、足鏡別命(あしかがみわけのみこと)、弥都波能売神(みずはのめかみ)、火之加具土神(ほのかぐつちのかみ)、品陀和気之命(ほむだわけのみこと)、宇賀魂神(うがたまのかみ)、天照大神他です。境内には「尾張に直(ただ)に向へる一つ松あはれ 一つ松 人にありせば衣(きぬ)着せましを 太刀(たち)佩(は)けましを」という一つ松の歌が書かれた石碑があります。
祭神は倭建命、稚武彦命(わかたけひこのみこと)です。
神社入り口には「日本武尊尾津前御遺跡」(やまとたけるのみことおづさきおんいせき)と書かれた石碑が立っています。境内には太刀をかけたと伝えられる松の木(枯れている)が保存されています。地名の御衣野は昔熱田神宮に奉納する絹を作っていたことからついたと言われています。
能褒野へ
祭神は木菟宿根(ずくのすくね)、天照大御神、建内宿根命(たけうちのすくね)、大己貴命(おおなむちのみこと)、須佐之男命、櫛名田姫命(くしなだひめのみこと)、奇日方命(くしひかたのみこと)、大山津見命、倭建命です。木菟宿根は建内宿根命の子です。後裔の平群氏は大和から移り住んだ一族で、ここで祖神を祀りました。
社殿のある山全体が古墳とも言われ、古代の神奈備の遺跡でもあるようです。日本武尊はここで休息し「志知の宮池」で足を洗いました。
境内にある日本武尊御歌石碑には次のような歌が書かれています。
「命の全(また)けむ人は たたみこも (大和の)平群の山の熊白檮(くまかし)が葉を うずにさせ その子」
(命がある人は 幾重にも重なった山がある 平群の山の大きな樫の木の葉を(魔除けの)かんざしとして刺すとよい みな)
この歌にある平群は日本武尊の故郷大和(奈良)の平群と考えられています。
日本武尊目洗いの井ともよばれています。また 別名は「道西坊(どうさいぼう)」で、日本武尊がこの清水で目を洗ったと伝わっています。
公共施設に隣接して小さな池があります。日本武尊はここで足を洗って休んだと伝わっています。
三重村に至ったとき「私の足は三重に曲がってしまている。大変疲れてしまった。」と言ったのでここを「三重」と言うようになりました。
もう一つの杖突坂
鈴鹿の山を見ながら現在の三重県四日市市から鈴鹿市に入った倭健命でしたが大変疲れていました。目の前の急坂を上るために、杖をつきながら歩かなくてはなりませんでした。そこでこの坂を杖衝坂(杖突坂:つえつきざか)といい、旧東海道に残っています。
東海道上にある坂で「杖突坂」とも書かれています。結構急坂で、江戸時代に松尾芭蕉が「歩行ならば杖突坂を落馬かな」と俳句を残しています。
坂の上には血塚社があり、日本武尊の出血を封じたと伝えられています。
約200mほど坂を上ったところで足を見るとたくさんの血が出ていたのでここで洗いました。里人たちは日本武尊の血で染まった石を集めて葬りました。
大和を目指して歩き続ける倭健命でしたが、体力は衰え、「わが足三重の匂(まか)りなして、いと疲れたり」と言いました。このことからこの地を三重と呼ぶようになりました。
『日本書紀』
能褒野(のぼの)に着いても痛みはひいていませんでした。
連行してきた蝦夷たちを伊勢神宮に献上することにしました。
日本武尊は能褒野に至りました。病は重くなり痛みも無くなりませんでした。大和に戻るのが遅くなってしまうことを心配した日本武尊は全部隊を大和に帰還させました。この時、陸奥から従者としてきた蝦夷は伊勢神宮に献上しました。また、天皇に報告するため吉備武彦を派遣することにしました。
献上した蝦夷らについては次のような記述が後で書かれています。
『日本書紀』
景行天皇51年秋
蝦夷たちが昼夜を問わず騒いだり神官に迷惑をかけたりするので倭姫命は朝廷に蝦夷らを差し出しました。そのため、宮のある奈良の三輪山のふもとに住まわせました。しかし、蝦夷らはここでも大騒ぎし、三輪山の木を勝手に切ったり、大声をあげていた。これを聞いた天皇は、群臣らに「蝦夷らは人並み外れた者たちなので都には住まわせ難い。それぞれの希望を聞いて近畿より西に住まわせなさい」と命じられました。この人たちは、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波などの5つの国にいる佐伯部の先祖です。
「国思歌」
『古事記』には能褒野に至ったとき、日本武尊は歌を詠んだと書かれています。次の二首の歌は「国思歌(くにしのびうた)」と言われています。
この歌に続き
と詠みました。
さらに歌いました。次の一首は「片歌(かたうた)」と言われています。
この歌は『日本書紀』には日本武尊のこととしては書かれていません。この歌は景行天皇が17年春3月に子湯県(こゆのあがた:宮崎県児湯郡、西都市)に行き、丹裳小野(にものおの:西都市と思われるが不明)で遊んだときに東の方を眺めて「この国は日の出の方に向いている」と言いました。 そこでこの国を日向(ひむか)と言います。天皇は野中の大石に上って京都(と書かれていますが大和の意味)を偲んで歌を歌いました。 次の三首は「国邦歌(くにしのびうた)」と言います。意味は『古事記』と同じです。
愛(は)しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
倭は 国のまほらま 畳(たたな)づく 青垣
山籠(こも)れる 倭し麗(うるは)し
命の 全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の
白樫(しらかし)が枝(え)を 髻華(うず)に挿せ この子
『日本書紀』の方が後に完成していますし、記紀の両方の編纂に太安万侶が関わっているため「国思歌」を日本武尊の歌とした『古事記』の間違いに気づき『日本書紀』では景行天皇の歌として正したと思われます。
日本武尊終焉の地「能褒野」
『日本書紀』
吉備武彦を都に遣して、天皇に報告させました。
臣である私は天皇の命を受け遠く東国の蝦夷らを征伐しました。これは神の恩恵を受け、天皇の御威光があったからこそ、叛く者たちは罪を認め、荒ぶる者たちは自ずから服従しました。これをもって、甲(よろい)を片付け、矛(ほこ)を納めて、安心して帰ってきました。願わくはいつの日にか宮にもどりたい思っていました。しかし、私の命が尽きようとしています。隙駟(げきし)のようにすぐに止まってはくれません。(四頭立ての馬車が早く通り過ぎてゆくように時間が短いこと) 独り荒野に伏しています。誰かに話しかけることもありません。自分の身が滅びることを惜しむわけではありません。ただ天皇にお目にかかれないことだけが残念です。
日本武尊は能褒野(三重県亀山市)にて崩御されました。御歳30歳でした。
日本武尊は白鳥に
『日本書紀』
これを聞いた天皇は心安らかに寝られなくなりました。食事をしても甘味を感じないほどです。夜になるとむせび、胸をうちひしがれるほど悲しく泣きました。大変嘆いておおせられました。
「わが子の小碓尊(おうすのみこ)は昔、熊襲が叛いたときは、まだ総角(あげまき 大人の髪型)をしていないのに、長く戦い出て、天皇の近くにいて私を補ってくれた。しかし、東国が騒ぐと、討つ者がいなかったので愛情をぐっとがまんして乱暴者の領地に派遣した。一日も忘れることはなく、朝夕に行ったり来たりして帰る日を待ち望んでいた。何の禍(わざわい)なのか、何の罪なのか、思いがけず我が子が亡くしてしまった。これより後は、誰とともに大きな事業をなせばよいのか。
すぐに群臣を集め、多くの役人に命じて、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ 三重県亀山市)に葬りました。
この時、白鳥が陵から出て、倭国を目指して飛び立ちました。群臣が棺を開いて見てみると、明衣(みょうえ 神事の衣服)だけが空しく残っていて、屍骨(しかばね)はありませんでした。そのため、使者を遣わして白鳥を追い求めさせました。
日本武尊が亡くなったことを聞いた景行天皇は嘆いて寝込んでしまいました。そして、群臣らに能褒野に葬るように命じました。
日本武尊の亡骸は能褒野に陵を造って葬られました。すると、群臣らが見守る中、陵から一羽の白鳥(しらとり)が飛び立ちました。慌てて棺を見てみると、そこには亡骸はなく、着ていた衣服だけが残されていました。空に舞い上がった白鳥はここから西の方、大和に向かって飛んでいきました。群臣らはこの鳥を追いかけましたが、しばらくして見えなくなってしまいました。
白鳥陵
大和に向かった白鳥が最初に舞い降りたとする伝説地が琴弾原(奈良県御所市)です。そこで、この地にも陵を造りました。
しかし、白鳥は再び空へと舞い上がりました。
次に白鳥は旧市邑(ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ちました。ここにも陵を造りました。
能褒野、琴弾原、旧市邑の三つの陵を白鳥陵と呼んでいます。
『古事記』では能褒野から舞い上がった白鳥は河内国志幾に降りました。そこで、陵を造り「白鳥陵」と呼びました。しかし、再び白鳥となって飛び立っていきました。
三つの白鳥陵ですが、それぞれについて明確に所在地が決まっているわけではなく、日本武尊の陵と伝える場所はいくつか候補地があります。
日本武尊が最初に埋葬された能褒野の陵とされる古墳の場所は諸説(鈴鹿市加佐登の「白鳥塚」 鈴鹿市長沢の「武備塚」同じく「双児塚」鈴鹿市国府の「王塚」亀山市田村の「丁子塚」)あって定かではありませんが、明治12年に内務省が亀山市にある能褒野神社西の丁字(ちょうじ)塚を日本武尊の陵と指定しました。
鈴鹿川の支流となっている安楽川に御幣川が合流するところに近く、那久志里神社を含む近隣の多くの神社を合祀して明治28年に社殿が建てられました。社地は「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」とされた能褒野王塚古墳に隣接しています。能褒野神社には倭健命、弟橘姫命、建貝児王が祀られています。境内地には連理の榊があります。
鈴鹿市加佐登町の加佐登神社は倭健命、天照大御神を祭神とします。この地は景行天皇が行在所を置いた所であり、高宮の里ともよばれています。加佐登神社由来記によると、ここはもとは御笠殿(みかさどの)社といい、倭健命が最期まで持っていた笠と杖をご神体として祀ったとあります。近くに奉冠塚、奉装塚があり、着物などがおさめられたと言われています。
加佐登神社の北には日本武尊が葬られたとされる白鳥陵があり、ここから倭健命は白鳥となって飛んでいったと伝わっています。古墳は東西78m、南北59m、高さ13mの三重県下最大の円墳であり、墳丘には葺き石が一部残っています。
長瀬神社の祭神は日本武尊他です。ここにはもともと日本武尊を祀る武備神社がありました。明治時代に長瀬神社がここに移転しました。神社の本殿奥に武備塚があり、江戸時代に亀山藩はこの塚を「日本武尊能褒野陵」としました。神社への参道近くに日本武尊の衣装と冠を埋めたとされる塚があります。
武備は日本武尊の東征につき従った従者の大伴武日、あるいは吉備武彦の名がつけられたのではないかという説もあります。日本武尊の陵ならば古墳として石室があるはずというのが理由ともなっています。また、このような小さな塚ではなくもっと大きいのではないかという説があり、これは従者のうちの誰かの墓としています。
長瀬神社に続く参道の近く、茶畑の中に小さな塚があります。2本の石碑があり「寶冠之塚/享保十六年」「寶裳之塚/享保十六年」(前面/後面)と書かれています。この石碑は江戸時代に立てられたもののようです。
1号墳と2号墳が並んでいるので双子塚と呼ばれています。二つとも円墳で1号墳の直径は17m、高さ4mです。
やまとは 国のまほろば
たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし
倭健命は終焉の地となる能褒野(能煩野:のぼの)に着きました。そして、ここで力尽きたのです。
その知らせは宮にいる妃たちにも届きました。そして、能褒野に陵を造り、その周りを這いまわりました。
后たちはなお3首の歌を詠いました。これらの歌は「大御葬歌(おおみはふりのうた)」(天皇の葬儀に歌われる歌)となりました。
大和から 駆けつけた妻子らが陵を造りました。そして歌を詠みました。すると陵から白鳥が飛び立ちました。妻子らは浜に向かい海にも入ってその後を追いました。そして、次の4首の歌を詠みました。
なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに
蔓(かづら)ひもとろふ ところつづら
(陵のそばの稲の上でところつづら(蔓草)のように這い回って、私たちは悲しんでいます)
浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
(小竹が生える原は、竹が腰にまとわりついて進みにくい 私たちは空を飛べず、走るしかないのです)
海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ
(海中を行くのも進みにくい 大河に生える水草のように、足をとられてふらふらしてしまいます)
浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ
(浜千鳥のように、あなたは陸の上ではなく、磯伝いに飛んで行かれるのですね)
田から竹原へ、そして、海辺から磯へと追うこれら4首の歌は天皇が崩御されると「大喪の礼」で歌われるようになりました。
『日本書紀』
白鳥は倭の琴弾原(ことひきはら 奈良県御所市富田)に停まりました。そのためここに陵を造りました。白鳥はさらに飛んで河内(かわち)に到り、旧市邑(ふるいちむら 大阪府羽曳野市軽里)に停まりました。そこにまた陵を造りました。この時代の人たちは、日本武尊の三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んでいます。しかし、白鳥は天高く飛んでいってしまいました。そこで衣冠(いかん)を葬りました。景行天皇は日本武尊の功名を伝えようと考え、武部(たけるべ)を定められました。
能褒野を飛び立った白鳥が最初に舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原(奈良県御所市)で、日本武尊の陵とする白鳥陵古墳があります。
古墳の前には「日本武尊琴弾原白鳥陵」と書かれた石碑が立っています。
再び白鳥は空へと舞い上がりました。
白鳥は河内国旧市邑(ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ちました。
旧市邑にとどまった白鳥は埴生(はにゅう)の丘に向かって羽を曳くように再び飛び去ったと伝えられています。これが地名に表れています。1959年(昭和34年)1月15日 に南河内郡南大阪町は南大阪市となりました。しかし、南大阪市はすぐに羽曳野市と改称しました。河内国白鳥陵の伝説がある羽曳野市とその周辺には8基の天皇陵を含む多くの古墳があり、古市古墳群(ふるいちこふんぐん)を形成しています。また、2017年に百舌鳥(もず)古墳群と合わせた「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産に推薦されています。
祭神は日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命(頗梨采女)です。
もともと日本武尊を祀る社が軽里の伊岐谷にあり「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていましたが、戦国時代に戦火により焼けてしまい、峯ヶ塚古墳上に小さな祠として祀られていました。その後現在地に遷座されました。神社入り口には「白鳥神社」と「伊岐宮」と両方書かれた石柱が立っています。
河内国白鳥陵候補地
墳丘長200mの前方後円墳です。北に日本武尊の子の仲哀天皇陵や孫にあたる応神天皇陵など天皇陵が多く存在する古市古墳群(ふるいちこふんぐん)を構成する一基です。日本武尊は天皇にはなりませんでしたが、そのような皇族陵の規模としては異例の大きさです。大和朝廷の成立過程で日本武尊の活躍がいかに大きかったかが想像できるのではないでしょうか。
白鳥は再び空天高く飛び去っていったと言われています。
その後の白鳥の姿は、日本武尊の征西や東征に関係のあった地で見かけられるようになりました。
祭神は日本武尊です。境内の水分神社に弟橘媛が祀られています。
平安時代末ごろ、性空上人が白鳥山の霧島六観音御堂で法華経を唱えて修行をしていました。そのとき突然白髪の老人が現れて「私は日本武尊だ。今は白鳥となってこの山に住んでいる。私を祀る社を建てよ」と言って白鳥となって飛んでいきました。このことから白鳥山中腹に白鳥権現社が建てられたと伝えられています。
神社縁起では日本武尊はここ磯の地で亡くなったとされています。そのため陵を造りました。後に聖武天皇が命じてここに社殿が建てられ、磯崎大明神としました。
全長74mの前方後円墳で、6世紀初めごろの築造とされています。この古墳の案内板によると、ここは日本武尊の御陵で「白鳥御陵」とも呼ばれています。能褒野から飛び立った白鳥は尾張の国に向かいました。そして後に熱田神宮が創建される熱田台地に飛来し、松の木にとまりました。そのため、ここに白鳥陵を築いたと伝えられています。
名古屋市守山区の東谷山麓に広がる志段味古墳群に属する古墳です。この古墳群は名古屋市の史跡公園として整備されており、古墳の周りに石を敷き詰めていたとされる志段味大塚古墳などきれいに復元されています。
白鳥塚古墳は愛知県で3番目に大きな古墳で、墳長約115mの前方後円墳で4世紀前半の築造とされています。
『東春日井郡誌』(大正12年出版)には白鳥塚の伝説が書かれています。日本武尊が伊吹山の賊を征伐に行ったおり、小蛇に足をかまれてしまいました。この小蛇こそが大毒蛇で、尊の威光に恐れおののきその姿になることができませんでした。そこで尊の足をかんだのですが、その痛みは激しくなりました。尊は水戸川で足を洗いました。その時一羽の白鳥が現れたので尊は声をかけました。「白鳥よ、もしお前に力があるのなら私を尾張まで連れて行ってくれ」そう言うと白鳥はうなづき、尊を乗せて尾張東谷山麓まで飛んできて下ろしました。この白鳥は力尽きて死んでしまいました。尊はこの白鳥を下りた地に葬ったのが白鳥塚(古墳)です。
この古墳の近くには白鳥古墳もあります。
名古屋市守山区の東谷山麓に広がる志段味古墳群に属する古墳です。それらの中で唯一横穴式石室が残っている貴重な古墳です。
調査によって6~7世紀に造られた古墳と分かりました。直径17m、高さ約4mの円墳です。
祭神は日本武尊、両道入姫命、橘姫命です。
旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)を飛び去り天に昇って行った白鳥(ここでは白鶴)ですが、讃岐の大内郡鶴内の里でその姿が見られました。仲哀天皇の時代に創建されました。
祭神は日本武尊命です。仲哀天皇の時代に創建されたと言われています。
東征の帰途に毒に触れて亡くなった日本武尊は白鳥と化して天に昇り、この地に舞い降りてきたと伝えられています。
祭神は日本武尊、事代主命です。
日本武尊が能褒野で亡くなると白鳥となって飛び立ち、熱田に向かいますが、その時白鳥がここに降り立ち休息すると、再び飛んでいったと伝えられており「鳥出」と社名にもなっています。
和泉国の一之宮で日本武尊と大鳥速祖神を祀っています。
旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)を飛び去り天に昇って行った白鳥が最後に降り立った地と言われています。
祭神は日本武尊、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、級長津彦命(しいなつひこのみこと)、級長津姫命(しいなつひめのみこと)を祀っています。
日本武尊の妃の一人に山代之玖玖麻毛理比売(やましろくくまもりひめ)がいます。その子は足鏡別王(あしかがみわけのみこ)です。玖玖麻毛理比売はこの地の栗隈県主(くりくまあがたぬし)の娘とされています。
日本武尊が亡くなった後一羽の白鳥が鷺坂(さぎざか)に飛来しました。そのため社を建てて祀りました。
上総国一之宮で祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。社名の玉前(崎)は祭神由来からとする説とかつて「玉の浦」とよんでいた九十九里浜の南端に位置することからとする説などがあります。
あるとき白鳥がこの地に飛来しました。ここは弟橘媛の櫛が流れ着きそれを埋めて陵とした古墳(茂原市本納の橘樹神社)がそんなに遠くはないところにあります。白鳥が玉前神社の上空を舞っていると一枚の羽が落ちてきて神社の井戸の中へ吸い込まれるように入っていきました。この井戸は枯れることがない井戸でかつて太東岬付近にあった湖と地下でつながっているとされた「白鳥井」です。すると、太東岬の湖に別の白鳥が現れました。神社の上を舞っていた白鳥がその白鳥の方へ飛んでいき、二羽の白鳥は仲良く湖を泳いでいました。日が暮れると一羽の白鳥が西の空へ飛んでいきました。これを見ていた村人たちは飛んで行った白鳥は日本武尊でここに留まった白鳥は弟橘媛だと信じました。
祭神は日本武尊です。
仲哀天皇の時代に白鳥が飛来したので村人がこれを捕まえて献上したところ、日本武尊の神霊が白鳥となって飛び去ったのでここが白鳥のとどまった所と考え日本武尊を祀る宮を建てました。
祭神は日本武尊、大山祇命、天手力雄命です。創建は江戸時代です。
江戸時代のこと、この地に白雉が飛来してきて死にました。その夜、村人の夢の中に甲冑を着た人が現れ「私は日本武尊だ。私を祀れば国を護り、民は安全に暮らせるだろう」と言うと白雉と化して飛び去りました。この夢により死んだ白雉を埋めて大鳥明神として祀りました。『新編武蔵風土記稿』
祭神は日本武尊、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇です。
日本武尊が征西の折、瀬戸内海を船で戻る途中にこの地に滞在しました。日本武尊が亡くなると能褒野に葬られましたが、白鳥と化して飛び立ちました。そして、この地に飛来しとどまりました。ここに社を建て棹(さお)の森の皇大神と称しました。
祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。
仲哀天皇の時代、この地に巨大な白鳥が飛来しました。村人はこの鳥は日本武尊の神霊だと思いました。白鳥は数日間空に舞っていました。村人がこれを不思議に思っていると白鳥は森に入って休みましたがしばらくして空高く飛び去りました。その時一枚の羽根を落としていったので、この羽を箱に入れて岩上に祀りました。元正天皇の時代、白山の山頂に白鳥が現れました。そこで白山山頂の伊奘冉尊を合祀して白鳥社としました。
祭神は日本武尊です。社伝では景行天皇四年八月十二日の創祀と伝えられています。日本武尊は東征の帰途にこの地に滞在しました。近くの小海を望み、上総での海難を思い出しながら「この海も野となれ」と言ったことから海野と名付けられました。日本武尊は亡くなると白鳥となって大和を飛び立ち、河内からこの海野に飛んできたと伝えられています。里人は白鳥が下りた地に祠を建てたのがこの神社です。
赤紙神社の前から999段の石段があります。終点石段を上りきったところにあるのが五社堂です。五社堂は赤神神社の本殿です。左から「十禅師堂」「八王子堂」「赤神権現堂」「客人(まろうど)権現堂」「三の宮堂」と呼ばれています。中央に祀られているのが祭神の赤神です。赤神神社の名前の由来ともなっています。五社堂には男鹿半島のなまはげ伝説があります。
日本武尊が亡くなると宮簀媛は長く火上山の館で奉斎していましたが、宮簀媛も老い、現在の熱田神宮の地に社を建てこの神剣を祀ることにしました。