草薙の剣を祀った地
名古屋市の熱田神宮が鎮座している辺りは雲見山あるいは蓬莱島と呼ばれていました。ここ熱田の森は名古屋市の都会の中にあって清々しい空気が流れる静寂で神聖な地にあります。現在は埋め立てが進んで海岸から離れていますが、創建時の社は伊勢湾に突き出た岬に建っていました。そこは熱田台地という周りより少し高くなったところで、海水面を今より+8mにして松巨嶋がはっきり見えるようにした上の地図でもその姿が分かります。
熱田神宮は尾張国の三宮で、主祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)です。
熱田大神は三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのつるぎ)を御霊代(みたましろ:御神体)とする天照大神です。
現在の熱田神宮では草薙剣は本殿に祀られていますが、かつては土用殿に祀られていました。『尾張名所図会』では本殿を回廊が囲んでおり、これを尾張造りと呼んでいたようです。また、本殿は西に正殿、東に土用殿と別れて建っていました。正殿の主祭神は日本武尊で、天照大神、素戔嗚尊、宮簀媛、建稲種命が祀られていました。現在のような神明造りに改築されたのは1893年(明治26年)です。八咫鏡をご神体とする伊勢神宮を意識して大きな改造をしたのかもしれません。
草薙剣は皇位継承のための三種の神器の一つです。倭姫から日本武尊に渡された「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」です。この神剣は八岐大蛇(やまたのおろち)から素戔嗚尊が得た剣で天照大神に献上されました。天孫降臨で瓊瓊杵尊はこの神剣を天照大神より贈られました。以降宮中にありましたが倭姫が天照大神を祀る地を巡る時に持参し、伊勢国で東征に向かう日本武尊に授けられました。駿河の国でこの神剣により草を薙いで難を逃れたことから「草薙剣」と呼ばれるようになりました。日本武尊はこの神剣のご加護により東国を平定することができました。日本武尊が亡くなると神剣は宮簀媛命が火上山で奉斎し、その後熱田の地に落ち着くことになりました。
相殿には草薙剣と関係のある天照大神(あまてらすおおかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)が祀られています。
天照大神は伊弉諾尊の娘で太陽神ともされています。皇祖神であり伊勢神宮にも祀られている国民の総氏神です。
素盞嗚尊は天照大神の弟神で勇ましく、出雲で八岐大蛇を退治しました。その時得た神剣の天叢雲剣を天照大神に献上しました。
日本武尊は景行天皇の皇子で九州の熊襲や東国の蝦夷を征伐し日本各地を平定しました。東征の帰路に尾張国の宮簀媛命を妃としましたが、伊吹山の神と戦ったのち病となり能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥と化して飛んでいきました。
宮簀媛命は尾張の国造 乎止与命(おとよのみこと)の女で日本武尊の妃です。日本武尊が亡くなると、神剣を熱田の地に祀ることにしました。
建稲種命は尾張の国造 乎止与命の子で宮簀媛命の兄にあたります。日本武尊の東征に従い大活躍しましたが、帰路駿河の海で亡くなりました。
日本武尊が亡くなってから、宮簀媛の館があった火上山(現在は境外摂社の名古屋市緑区大高の氷上姉子神社)で祀られていた草薙剣は宮簀媛が中心となって話し合い、熱田に社を建てて祀ることとしました。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
宮簀媛
宮簀媛は尾張国造の娘で東征の副将軍建稲種命の妹です。
宮簀媛が幼いころより暮らしていたのは現在名古屋市緑区にある氷上姉子神社が鎮座する地です。火上山(ひかみやま)あるいは火上邑(ひかみむら)とも言われた海に面して小高いところにありました。この鎮座地はもともと「火高」と書かれていました。また、火高火上の里とも称されていました。よって延喜式神名帳や愛知県史にも「火上姉子神社」として記載されています。しかし永徳3年(1382年)に社殿が火災に遭ったため、「火上」を「氷上」に、「火高」を「大高」に改めました。
宮簀媛命を祭神としています。熱田神宮に日本武尊の神剣が祀られる以前はここに祀られていました。
「姉子」は夫のいない女性をさしていますが、日本武尊が甲斐の酒折宮で詠んだ歌に「年魚市潟(あゆちがた) 火上姉子はわれ来むと床さるらむや あはれ姉子を」とあり、そこから宮簀媛をさしていることが分かります。
境内の摂社に源太夫社があり建稲種命を祀っています。また、紀太夫社は妃の玉姫命、白鳥社は日本武尊が祀られています。
この神社は仲哀天皇4年に尾張国造の屋敷跡に創建されました。それが現在元宮とされているところで、690年(持統天皇4年)に現在地に遷座されました。当時の本殿は火災で全焼したため、1893年(明治26年)に熱田神宮別宮の八剣宮の本殿をここに移築したものです。
宮簀媛命を祭神としています。別説では建稲種命も祀られているとしています。
熱田神宮の境外摂社で神宮の南鳥居の少し南に離れたところにあります。ここは日本武尊と宮簀媛の出会いの地です。日本武尊が川で衣を洗っていた娘に火上への道を尋ねたところ、娘は耳が聞こえないふりをしました。この娘が建稲種命の妹の宮簀媛です。聞こえないふりをしたことから「おつんぼ神」とも呼ばれ、耳の神様となっています。
『尾張名所図会』では、ここが建稲種命の陵墓(古墳)で、その上に建てられていて、命を祀っているとしています。
『熱田神宮史料 縁起由緒続編』には神社名の「松姤」について、「待つ」と「遇」からついたとし、宮簀媛が日本武尊の帰りを待っていたことを重視し、この祭神は宮簀媛としています。
日本武尊と宮簀媛は東征に出発する前、尾張国にいる間に結ばれ、東征後に結婚することを約束しました。宮簀媛は日本武尊の帰りを火上山の館で待ち続けました。
『熱田舊記』によれば、東征に出発した日本武尊を見送った宮簀媛は門戸を閉じ、館に閉じこもって誰とも会話をせず、ひたすら東征から無事に戻るよう天神地祇に祈っていたとされています。館は現在の松姤(后)社になっていますが、東征後の日本武尊は火上山に向かっていますから、宮簀媛の館は火上山にあったと思われます。
数年後、東征を終えた日本武尊は、鳴海潟から船で火上山に渡りました。火上山は建稲種命や宮簀媛の館がある地です。日本武尊は東征前に誓っていた通り宮簀媛を妃としました。
東征を終えた日本武尊は、草薙剣とともに鳴海潟から船で氷上山に渡りました。火上山は東征の副将軍建稲種命や宮簀媛の父乎止與命(おとよのみこと)の館があるところです。日本武尊はここで東征前に誓った通り宮簀媛と結婚しました。そして、伊吹山に賊退治に出かけるまでの間でしたがここに滞在していました。
現在氷上姉子神社がある社地の西の山上に元宮があります。ここが宮簀媛の館があったところと言われています。
日本武尊が伊吹山に向かう際、草薙剣はこの宮簀媛の館に留め置かれるのですが、これは日本武尊の宮簀媛への思いがありました。
日本武尊が宮簀媛の館に滞在しているときのことです。ある夜中に日本武尊は厠(かわや:トイレ)に入りました。厠のあたりには一本の桑の木がありました。日本武尊は厠に入る前、身に着けていた剣をその枝にかけたのですが、厠を出るとそれを忘れて寝殿に戻ってしまいました。夜が明けて剣を忘れたことを思い出し、桑の木から取ろうとしましたが、その木全体が光り輝き、それは目を射るような強い光でした。それを気にせず剣をとって、宮簀媛に桑の木のことを話しました。姫は「特に木には不思議なことはありませんが、きっと剣が光り輝いていたのでしょう」と言われたので、日本武尊はまた寝てしまいました。
数日たち、日本武尊は宮簀媛に「都に戻ったら媛を迎えに来るから、それまでこの剣を宝物とし、床の守りとしなさい」と言われました。
それを聞いていた大伴建日臣(おおとものたけひのおみ)が「この剣はここに置いたままにしてはいけません。伊吹山には荒ぶる神がいます。剣の霊気なしでその毒気を払いのけることはできません。」と進言しました。日本武尊は「もしそうであったら足で蹴り殺してしまいましょう」と言って剣を宮簀媛のもとに置いたまま出発してしまいました。(『尾張国熱田太神宮縁起』)
しかし、日本武尊が再びこの館に戻ることはありませんでした。
伊吹山の神と戦った日本武尊は病となり、歩くことも立つことも困難な状態でした。一旦は美濃国から尾張に入り、休息しました。休んでいるとき宮簀媛に知らせるため久米の八腹を遣わしました。知らせを聞いた宮簀媛は急ぎ萱津神社の方に向かいましたが、宮簀媛が着いた頃は日本武尊はここを発ち伊勢国に向かっていました。会えなかったことを悲嘆した宮簀媛の姿を見た村人たちは萱津神社がある森を「不遇(あわで)の森」と言うようになりました。日本武尊はここを発つ前、宮簀媛に会えなかったことを悲しみ、雌雄2本の榊の木を植樹しました。これは後の時代にこのような悲しみがないようにと願っての事でした。榊の木は成長し、高さが2m程になったところで連理となりました。御神木となった2本の榊はさらに成長を続け大木となりましたがやがて枯れ、現在は「連理の榊」として保存されています。
愛知県あま市に萱津(かやつ)神社があります。この一帯をかつて「阿波手の杜(あわでのもり)」と呼ばれていました。
日本武尊は伊吹山での闘いの後病気になってしまい、やっとこの地にたどり着きましたが、宮簀姫のもとへは戻れないと察しました。そのため久米の八腹(従者)に伝言を依頼しました。宮簀姫はすぐに萱津神社の地に向かいましたが日本武尊はすでにここをたっていました。そのため、宮簀姫は大変悲しみ、その様子を見た村人たちはこの森を「不遇(あわで)の森」と呼ぶようになりました。日本武尊が都に向かうとき、宮簀姫には再び会えない悲しみから、後の世に生まれた者がこのような悲しみに会うことがないようにと雌雄2本の榊を植えました。この2本の榊が地上2mぐらいのところでつながり(連理)、「連理の榊(れんりのさかき)」と呼ばれるようになりました。御神木となった2本の榊はさらに成長を続け大木となりましたがやがて枯れ、現在は「連理の榊」として保存されています。
宮簀媛が祀られている神社
祭神は日本武尊、宮簀媛(みやすひめ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)です。
景行天皇58年に創建された古社です。日本武尊が東征の帰路に赤須の里に滞在したことにより祀りました。
境内の案内板に祭神が紹介されています。その中で宮簀媛を「五郎姫(いついらつひめ)」と書いています。この神社が創建されたのは景行天皇58年とされていますから、43年に日本武尊が亡くなったあとのことです。
大御食神社が祀られているところは赤穂といい、もと上伊那郡赤穂町は町村合併により駒ケ根市となりました。
神社がある一帯は「美しの杜」と言われており、これは応神天皇の時代に尾張熱田神宮から日本武尊妃の宮簀媛を迎えて祀ったことによります。
熱田に神剣を祀るまでの地
尾張 火上山
日本武尊は伊勢国の桑名を過ぎ鈴鹿に入るといよいよ病が重くなりました。
その時歌を詠んだと『尾張国熱田太神宮縁記』には書かれています。
遠登賣能(おとめの)登許能辨爾(とこのべに)和賀於岐斯(わがおきし)都留岐能多知(つるぎのたち)曾能多知波夜(そのたちはや)
(宮簀媛の床の辺に私が置いた剣の太刀 その太刀よ)
景行天皇43年、大和をめざしていた日本武尊は能褒野(『熱田縁起』では鈴鹿川の中瀬)にて亡くなりました。そして、その体はすぐに白鳥となって大和に向かって飛び立っていきました。
火上山の館に戻った宮簀媛は日本武尊が留め置いた草薙の剣を前に、何日も深い悲しみの中にありました。しかし、日本武尊と交わした約束通り、独りで神剣を守っていました。この神剣は太陽のように光り輝いていました。
年月が経ち、宮簀媛は親しい人たちを集めて言いました。「私はもう年をとってしまい、そんなに長くはありません。これまで守ってきたこの神剣をどこかに社を建てて祀りたいと思います。」と言いました。これを聞いた人たちはみな賛成し、社を建てる地を決めることとなりました。こうして決まったのが熱田の地です。
熱田は、そこに一本の楓の木があって、自ら燃えて水田に倒れたけれど炎が消えることがなかったので水田は熱かったという出来事からついた地名です。熱田の地に社を建てることとなり「熱田の社」と名付けました。
神剣がご神体として奉斎されたのは熱田神宮の本宮ではありませんでした。本宮に祀られるようになったのは、熱田に遷ってからしばらく後のことです。それまでは土用殿に祀られていました。
その後、晩年まで宮簀媛は火上山で暮らしていたようです。そして、火上山で亡くなりました。宮簀媛の墓と言われているところは二か所あります。
宮簀媛の墓
熱田神宮の境内社
熱田神宮の境内に本宮と別宮1社、摂社8社、末社19社、境外に摂社4社、末社12社、合計45社が祀られています。
上知我麻神社(せっしゃ かみちかまじんじゃ)
尾張国造乎止与命(おとよのみこと)を祀っています。「知恵の文殊様」としても信仰されています。境内に、大黒様を祀る大国主社(おおくにぬししゃ)と恵比須様を祀る事代主社(ことしろぬししゃ)があり、毎年1月5日は「初えびす」です。
大国主社(おおくにぬししゃ)
事代主社(ことしろぬししゃ)
別宮・八剣宮(べつぐう・はっけんぐう)
本宮と同じ熱田大神が祀られています。
正門を通り西に入った上知我麻神社のとなりに鎮座しています。創建は飛鳥時代の708年(和銅元年)で宝剣が納められています。愛智郡八剣神社、八剣大明神などと称していましたが、明治時代に現在名に変更されました。
一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)
天照大神の荒魂を祀っています。
日割御子神社(ひさきみこじんじゃ)
天照大神の子 天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)を祀っています。境内の最東南端に鎮座し、ここはかつて伊勢湾に接し「干崎(ひさき)」と呼ばれていました。たと伝えられております。
孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)
天忍穂耳尊の子で尾張氏の祖とされる天火明命(あまのほあかりのみこと)を祀っています。
南新宮社(みなみしんぐうしゃ)
朱塗りされた唯一の社殿で素盞嗚尊(すさのおのみこと)が祀られています。
八子社(やこのやしろ)
祭神は天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)他五男三女です。
曽志茂利社(そしもりのやしろ)
祭神は居茂利大神(こもりのおおかみ)で、素盞嗚尊の別称です。
御田神社(みたじんじゃ)
五穀豊穣の神様とされる「大年神(おおとしのかみ)」を祀っています。祈年祭や新嘗祭(にいなめさい)の折、御供(ごく)を土用殿の屋根の上に投げ上げて鳥の餌としています。
下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)
乎止与命妃で、宮簀媛命や建稲種命の母真敷刀俾命(ましきとべのみこと)を祀っています。
龍神社(りゅうじんじゃ)
日本武尊の東征の副将軍だった吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)を祀っています。
大幸田神社(おおさきだじんじゃ)
食物の神宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」を祀っています。
清水社(しみずしゃ)
「お清水(しみず)さま」と呼ばれ、水をつかさどる神様で伊邪那岐、伊弉冉の子罔象女神(みずはのめのかみ)を祀っています。この水で眼を洗えば眼がよくなると言われていることから目の神様ともなっています。
「お清水さま」は今も絶え間なく湧き水が出ています。この水は目や肌をきれいにするという信仰があります。清水が流れる真ん中に小さな岩が頭を出しています。この岩には楊貴妃にまつわる話があります。
それは中国が唐の時代のことです。日本を侵略しようと考えていた6代皇帝玄宗を楊貴妃に姿を変えた熱田大明神が救ったというものです。楊貴妃に夢中になった皇帝は日本侵略を忘れてしまうのです。やがて反乱が起こったので、大明神は熱田に戻ってきます。しかし、玄宗は楊貴妃のことが忘れられず、風の便りに東海の蓬莱にいると聞き、使者を送るというものです。『熱田神宮』(篠田康雄著 学生社)には鎌倉末期に比叡山の僧が書いた『渓嵐拾葉集』の中で「蓬莱宮は熱田の社これなり、楊貴妃は今熱田明神これなり」と紹介されています。熱田神宮一帯が蓬莱の字をとり「蓬(よもぎ)が島」ともよばれる所以です。
西八百萬(にしやおよろず)神社
東八百萬(ひがしやおよろず)神社
内天神社(うちてんじんじゃ)
祭神は医薬の神様として少彦名命(すくなひこなのみこと)です。
六末社(ろくまっしゃ)
日本武尊に関係のある神が並んでいます。
乙子社(おとごしゃ)
祭神は弟彦連です。
姉子神社(あねごじんしゃ)
祭神は宮簀媛命です。
今彦神社(いまひこじんしゃ)
祭神は建稲種命です。
水向神社(みかじんじゃ)
祭神は弟橘媛命です。
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)
祭神は素戔嗚尊です。
日長神社(ひながじんじゃ)
祭神は乎止與命の子日長命です。
楠之御前社(くすのみまえしゃ)
社伝はありません。楠の神木が祀られております。安産の神様と言われています。
菅原社(すがわらしゃ)
学問の神様菅原道真公を祀っています。「内天神社」に対し「外天神」とも呼ばれています。
徹社(とおすのやしろ)
天照大神の和魂(にぎみたま)を祀っています。
熱田神宮境内の施設等
土用殿(どようでん)
明治時代に本宮が造られるまで草薙神剣を奉安していた御殿です。
ならずの梅
西楽所の北隣にある高さ3mほどの梅の木です。この梅は花は咲くのですが実がつきません。
信長塀(のぶながべい)
日本三大土塀(他は兵庫の西宮神社の大練塀、京都の三十三間堂の太閤塀)の一つです。1560年、織田信長は桶狭間の戦いの前に熱田に参り戦勝祈願をし、大勝したための礼として奉納した築地塀です。
御神木 大楠(おおくす)
弘法大師が植えたと伝えられています。樹齢は約千年の巨木です。
大きな御神木は本宮への参道脇と龍神社近くにもあります。
二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)
名古屋最古の石橋で尾張名所図会(おわりめいしょずえ)にもあります。石の板が25枚並んでいるところからこの名がついています。
佐久間燈籠(さくまどうろう)
江戸時代の事、1630年に佐久間大膳亮勝之が海難にあいましたが、熱田神宮に祈ったところ無事だったことから寄進された、高さは約8m、六角形の石灯篭です。
南神池(みなみしんいけ)
西楽所(にしがくしょ)
神楽殿
清雪門(せいせつもん)
開かずの門で、もとは本宮の北門として利用されていたと言われています。668年に新羅の僧が神剣を盗み出しこの 門を通ったことから不吉の門とされました。後に熱田に神剣が戻ると再び出ることがないように門を閉ざしました。
境外摂社
高座結御子神社(せっしゃ たかくらむすびみこじんじゃ) 愛知県名古屋市熱田区高蔵町9-9GoogleMap
熱田区高蔵町に鎮座し、尾張の祖神である高倉下命(たかくらじのみこと)を祀っています。熱田神宮創建時代に祀られたと伝えられています。境内には古墳があります。
境内末社
鉾取社 祭神は鉾取神
新宮社 祭神は素盞嗚尊
御井社 祭神は御井神
稲荷社 祭神は宇迦之御魂神
鉾取(ほことり)社
愛知県名古屋市熱田区高蔵町9-9GoogleMap
祭神は鉾取神です。高座結御子神社の境内に祀られています。
新宮社 愛知県名古屋市熱田区高蔵町9-9GoogleMap
祭神は素戔嗚尊です。
高座結御子神社の境内に祀られています。
御井(みい)社 愛知県名古屋市熱田区高蔵町9-9GoogleMap
祭神は御井神です。
高座結御子神社の境内に祀られています。
稲荷社 愛知県名古屋市熱田区高蔵町9-9GoogleMap
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。
高座結御子神社の境内、古墳の前に祀られています。
豊臣秀吉がまだ幼いころ、母親に手を引かれてお参りしたことから、「太閤出世稲荷」と呼ばれています。
氷上姉子神社(せっしゃ ひかみあねごじんじゃ) 愛知県名古屋市緑区大高町火上山1-3GoogleMap
日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃 宮簀媛命(みやすひめのみこと)を祀っています。仲哀天皇の時代に元宮の地に創祀され、持統天皇の時代に現在地に遷座しました。
元宮 愛知県名古屋市緑区大高町一色山4GoogleMap
宮簀媛命を祀っています。
姉子神社の境内摂社です。
神明社 愛知県名古屋市緑区大高町一色山4GoogleMap
天照大神を祀っています。
姉子神社の境内摂社です。
玉根社 愛知県名古屋市緑区大高町常世島6GoogleMap
氷上姉子神社の境内摂社で少彦名命を祀っているようですが、この社がある地は常世島と呼ばれています。『熱田舊記』や『熱田神宮史料 縁起由緒続編』には常世神社と紹介されており、宮簀媛の御陵としています。
朝苧(あさお)社 愛知県名古屋市緑区大高町東姥神GoogleMap
火上老婆霊(ひかみうばのみたま) を祀っています。
姉子神社の境外摂社で、大高町東姥神にあります。
青衾(あおふすま)神社 愛知県名古屋市熱田区白鳥2GoogleMap
天道日女命(あめのみちひめのみこと)を祀っています。
松姤社(まつごしゃ) 愛知県名古屋市熱田区神宮2 GoogleMap
宮簀媛命を祭神としています。別説では建稲種命も祀られているとしています。
熱田神宮の境外摂社で神宮の南鳥居の少し南に離れたところにあります。ここは日本武尊と宮簀媛の出会いの地です。日本武尊が川で衣を洗っていた娘に火上への道を尋ねたところ、娘は耳が聞こえないふりをしました。この娘が建稲種命の妹の宮簀媛です。聞こえないふりをしたことから「おつんぼ神」とも呼ばれ、耳の神様となっています。
『尾張名所図会』では、ここが建稲種命の陵墓(古墳)で、その上に建てられていて、命を祀っているとしています。
『熱田神宮史料 縁起由緒続編』には神社名の「松姤」について、「待つ」と「遇」からついたとし、宮簀媛が日本武尊の帰りを待っていたことを重視し、この祭神は宮簀媛としています。
南楠(みなみくす)社 愛知県名古屋市熱田区伝馬町1GoogleMap
熱田区伝馬町1に鎮座し、熱田大神が祀られています。火上山から熱田へ神剣を遷すときに宮簀媛が楠の下で休憩したところと言われています。
鈴之御前社(れいのみまえしゃ)愛知県名古屋市熱田区伝馬町2GoogleMap
天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。「鈴の宮」としても知られています。
浮島社
瑞穂区浮島町に鎮座し、火上老婆霊を祀っています。
琴瀬山(ことせやま)神社
愛知県北設楽郡東栄町に鎮座し、熱田大神他を祀っています。