神宮
「お伊勢さん」とよぶことがあります。日本の多くの神社の中でも特別格の神社です。平成から令和と改元される前の2019年4月、平成の天皇は勾玉と神剣を携えて伊勢神宮を参拝し、退位のご報告をされました。天皇が直接報告されるのは大変珍しいことです。
伊勢神宮には三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)が天照大神の霊魂の依代(よりしろ:ご神体)として祀られています。
以下125社全てを総称して「神宮」としています。
皇大神宮(こうたいじんぐう) 内宮(ないくう)
皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っています。
豊受大神宮(とようけだいじんぐう) 外宮(げくう)
衣食住や産業の守り神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っています。
14の別宮、43の摂社、24の末社、その他42社
三種の神器
八咫鏡(やたのかがみ)
この鏡は天照大神が岩戸に隠れた際に石凝姥命(いしこりどめのみこと)が作ったとされるものです。
天孫降臨で日向の高千穂に降りられた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神のもとにあった神鏡を持ってきました。天照大神は降臨する瓊瓊杵尊に「鏡を我が魂として祀れ」と託しました。『古事記』
三種の神器は皇位継承のみしるしですが、宮中の賢所(かしこどころ)に祀られているのは模造品の鏡です。
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(後に草薙剣)
素戔嗚尊が十握剣(とつかのつるぎ)で八岐大蛇の尾を切ったときに出てきた剣で、高天原の天照大神に献上されていたものです。天孫降臨の際、瓊瓊杵尊は高天原の天照大神から三種の神器を授けられました。
源平の合戦で安徳天皇は三種の神器とともに壇ノ浦で入水しましたが、鏡と勾玉は海中から回収されました。しかし、神剣は見つからなかったとされています。これは現在熱田神宮に祀られている草薙剣とは別の分身をさしています。
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)
「八尺」「勾玉」と書くこともあります。
天照大神が天岩戸に御隠れになったとき、再び現れることを願って玉祖命(たまのおやのみこと)が作り榊の木に飾られました。このとき八咫鏡もつけられています。
伊勢神宮に祀られる以前に天皇の宮にあった神鏡、神剣、勾玉の三種の神器は高天原から天孫降臨の際に瓊瓊杵尊とともに高千穂に天降ったものです。その後は天皇の宮で祀られていました。これらを祀る場所を宮中以外で探すためとはいえ、外に持ち出すと言うことは天皇の証が宮からなくなることを意味します。天皇は祭祀を司る斎部(いんべ:忌部)氏を呼び、石凝姥命(いしこりどめのみこと)と天目一箇(あめのまひとつのかみ)の子孫を指導させました。そして、新しく鏡と剣を作らせ、これらを天皇の護りとしました。これらは単にレプリカではなく、それぞれの分身と考えられています。つまり、この時代より現在まで、三種の神器のうち(本物の)勾玉以外の神鏡と神剣は本物ではなく分身が皇位継承に伴って受け継がれています。
石凝姥命(別字:伊斯許理度売命:いしこりどめのみこと)は鏡作連(かがみづくりのむらじ)らの祖神です。
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は製鉄や鍛冶の神です。
後世斎部(いんべ)氏の子孫は平安時代に編纂された『古語拾遺(こごしゅうい)』の編纂に携わっています。
三種の神器のうち、分身の神鏡は皇居の「賢所(かしこどころ)」、本物の勾玉と伊勢神宮が献上した分身の神剣は天皇の寝室の隣にある「剣璽の間(けんじのま)」に置かれています。そして、分身ではないもともとの本物ですが、八咫鏡は伊勢神宮内宮、草薙剣は熱田神宮に祀られています。
天神地祇(てんじんちぎ)
天照大神は天の神です。宮殿内で地の神とともに天皇のもとに同居していました。
崇神天皇6年のことです。世の中が不安になり反乱が起きてしまうのため、天皇は天の神地の神にお祈りをしました。天皇は天神地祇(てんじんちぎ)=天の神(天照大神)と地の神(大和大国魂神:やまとおおくにたまのかみ)を宮中で一緒に祀っていましたが、この神々とともに住むことには畏れ多いと思っていました。そこで、二神を離し、天照大御神の御霊代(みたましろ)とする八咫鏡(やたのかがみ)を祀るのにふさわしい場所を探すよう皇女の豊鍬(鋤)入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じたのです。
豊鍬入姫命は大和の笠縫邑(かさぬいのむら)で長く祀っていました。それは次のようなことがあったからです。
第10代崇神(すじん)天皇6年9月のこと、天皇は大和国の笠縫邑(かさぬいむら)におこしになり、皇女の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に神鏡の八咫鏡(やたのかがみ)と神剣の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授けて、ここで天照大神を奉斎するよう命じました。
『倭姫命世紀』
*天皇年は『倭姫命世紀』によるものですが、記紀も同様にこの時代の天皇の在位年や年齢は正確ではありません。正しい年齢など確定された書物もありません。
笠縫邑には33年間祀られていました。
檜原神社 奈良県桜井市三輪
飛鳥坐神社 奈良県高市郡明日香村
その他にも笠縫邑とされる神社が数社あります。
祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)、高皇産靈神(たかみむすびのかみ)、飛鳥神奈備三日女神(加夜奈留美:かやなるみ)、大物主神です。
この地が天照大神を宮の外で初めて祀った地「笠縫邑(かさぬいむら)」であったとしており、元伊勢と呼ばれることもあったようです。
笠縫邑に長く奉斎した後、天照大神の言葉を聞いた豊鋤入姫命はそれを祀るのにふさわしい場所を探すため各地を巡幸することとなりました。そして、丹波、和歌山、岡山を廻り、現在の奈良県の三輪山に戻ってきました。崇神天皇58年、豊鍬入姫命は姪の倭姫命にこの役を引き継ぐことにしました。次の垂仁天皇は天照大神の御杖代(みつえしろ)として皇女倭姫命に鎮座地を探すよう託しました。倭姫命も各地を巡幸し、最後に御神託により五十鈴川沿いに落ち着きました。豊鍬入姫命と倭姫命が巡幸され、天照大神を仮に祀ったところは「元伊勢」とよばれています。
大和大国魂神は淳名城入媛命(ぬなきいりひめのみこと)に預けましたが、媛の髪が落ち、やせ細ってしまいました。その後、夢のお告げにより市磯長尾市(いちしのながおち)を大国魂神を祀る祭主としました。
祭神は日本大国魂大神(やまとのおおくにたまのかみ)、八千戈大神(やちほこのおおかみ:大国主)、御年大神(みとしのかみ)です。
ここに国土の神である大和大国魂神を祀ることとしました。
豊鋤(鍬)入姫命(とよすきいりひこのみこと)は大和国笠縫邑を出てまず丹波国に向かい、吉佐宮(よさみや)で祀っていました。その後、紀の国、吉備国を回り大和国御室嶺上宮(みむろのみねのうえみや)で奉斎することとなりました。
豊鍬入姫命が天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)で33年間祀ったあと丹波国吉佐宮(よさのみや)へ遷座しました。吉佐宮は4年間滞在しました。
この年、豊受大神が天上界から降りて、天照大神の食事の世話をしました。
丹波国の元伊勢二社

GoogleMap
祭神は天照大神です。
鬼退治で有名な大江山の近くにあります。元伊勢内宮と呼ばれています。
豊鍬入姫命は次の遷座地を現在の奈良県桜井市としますが、里人たちは豊鍬入姫命が旅立った後も内宮元宮として祀ることとし、元明天皇の時代に天照大神を祭神とする社を建てたと言われています。
祭神は彦火明命 (ひこほあかりのみこと)です。丹後国一宮です。景勝地天橋立がある宮津市にあります。
伊勢神宮の外宮の祭神豊受大神は「真名井原」(真名井神社の奥宮)に鎮座していたとされ、そこが「與佐宮」(よさのみや)と呼ばれていました。豊鍬入姫命が豊受大神と天照大神を4年間併せ祀った場所としています。
豊受大神は天上界から丹波に降りた彦火明命(ひこほあかりのみこと)
天照大神が遷座されたのちも豊受大神はこの地に祀られていましたが、第21代雄略天皇22年7月7日に天照大神の傍である伊勢の地に遷しました。
飛鳥時代に、代々神職を務める海部氏は、祭神彦火明命が竹で編んだ籠に乗って海神の宮に行かれたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」としました。これは浦島太郎の話にも似ています。
豊鍬入姫命は木々が生い茂る木乃国(紀国 和歌山県)に遷り、3年間祀りました。豊鍬入姫命の母は国造の荒河刀弁(あらかわとべ)の娘だったので、ここは母の故郷です。和歌山市に日前(ひのくま)神宮と國懸(くにかかす)神宮があり、日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)がご神体とされています。この鏡は銅製で天照大神の八咫鏡が造られる前に造られたと伝えられています。
紀伊の国造は舎人の紀麻呂良(きのまろら)と御田を献上しました。
4年間ここで祀りました。その間に吉備の国造が采女の吉備都比売(きびつひめ)と御田を献上しました。
吉備国の伝承地
垂仁天皇の時代、景行天皇の妹で日本武尊の叔母にあたる倭姫命は天照大神を祀る地を探して関西・東海地方各地を巡幸しました。
同行者
次の従者たちが倭姫命に同行しました。
十千根命(とおちねのみこと)
大鹿嶋命(おおかしまのみこと)
武渟川別命(たけぬなかわけのみこと)
大宇祢奈(おおうねな)ー篠畑姫命
大荒命(おおあれのみこと)
彦国葺命(ひこくにふくのみこと)
武日命(たけひのみこと)ー大伴武日
和泉姫
高美姫
佐伯毘古
瑞穂毘古
倭姫命の巡幸地
大和国(奈良県宇陀市)→伊賀国(三重県名張市→伊賀市)→淡海国(滋賀県甲賀市→湖南市→甲賀市→滋賀県米原市)→美濃国(岐阜県瑞穂市→安八郡)から尾張国中島宮(愛知県一宮市→清州市)→野代宮(三重県桑名市)→忍山宮(三重県亀山市)→伊勢国各地(津市→松阪市→多気郡→伊勢市→度合郡→伊勢市)→五十鈴宮(現在の伊勢神宮外宮・内宮がある三重県伊勢市)
ここで4年間天照大神を祀りました。倭姫命の夢の中に天照大神が現れ「高天原にいた時に見た国に我を鎮座せよ」と諭されました。倭姫命は東に向かいました。「もし、この先に天照大神が気に入る場所があるのなら、まだ結婚していない乙女に会わせ給え」と願いました。すると、一人の乙女と出会いました。名を尋ねると「天見通命(あめのみとおしのみこと)の孫で宇太の大宇祢奈(おおうねな)」と答えました。倭姫命に仕えるように言うとすぐに「お仕えします」と言い同行することとなりました。倭姫命はこの乙女を神に仕える大物忌(おおものいみ)と定め、天の岩戸の鍵を預け、神鏡と神剣を護るように命じました。さらに弟の大荒命(おおあれのみこと)がやってきたので仕えさせることにしました。




倭姫命は村人たちによって献上された船に乗って野洲川を下り、淡海の国に入りました。琵琶湖に至ると米原市に上陸しここで2年間祀りました。坂田の者たちが御田を献上しました。現在米原市には坂田宮比定地となっている坂田神明宮があります。
ここで4年間天照大神を祀りました。
美濃国の元伊勢
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、天照大神、倭姫命が祀られています。倭姫命が天照大神を4年間祀った伊久良河宮跡と言われています。境内にはその古代祭祀跡があり、ここから神獣鏡が出土しています。禁足地の中には御船代石(みふねしろいし)と倭姫命の腰掛石が祀られています。後方には神明宮と倭姫宮が並んでいます。この神社の前には「富有柿発祥の地」と書かれた石碑がありました。
ここで倭姫命は国を称えました。美濃の国造が舎人の市主(いちぬし)と御田を献上しました。また、船を一隻献上し、美濃の県主は鏑矢(かぶらや)と頑丈な船を二隻献上しました。采女の忍比売(おしひめ)も御田を献上しました。忍比売の子は御饌用の皿を80枚献上しました。
「元伊勢」の宮は一地域一宮に対して複数の神社あり
天照大神が祀られていた宮跡と伝えているところは各地に多くありますが、実際はどこにあったのかわかっていません。現在、それを特定することはできませんし、それがわかったとしても何か重要なことにつながるというようなこともありません。住んでいる地域に「元伊勢」伝承があれば、その地域の人たちにはそこが宮跡であり、他の同じ名の宮跡には関心がありません。それでいいのかもしれません。
尾張国「元伊勢」
愛知県一宮市には木曽川を下ってきた倭姫命が天照大神を祀った「中嶋宮」伝承がある神社があり、他の宮跡と比べても多くの伝承地があって驚きます。「中嶋宮」は美濃国伊久良河宮で4年間祀った後、ここに遷り3か月間祀っていたと伝えられています。それぞれの神社ではどのように重要視しているのかが知りたくて全伝承地を訪ねてみました。なお、一宮市は尾張国ですが当時は美濃国の一部とされていたようです。
倭姫が持っていた鉾を突き立てたところで、鉾を納めた地とされています。
垂仁天皇の時代に天照大神を祭神として創建されたと言割れています。神名神社参道入り口(県道182号から分かれるところ)に「聖蹟日本武尊倭媛命」と書かれた立派な石柱があり、背面に「中嶋宮」の文字が書かれています。鳥居をくぐり参道を進むと神社があります。
明治時代まで毎年伊勢神宮の御厨(みくりや:伊勢神宮に供え物を送るところ)を賜っていたと言われています。地名の「佐千原」は「佐手原」が変わったとされています。境内には「大神御神石(おおかみごしんせき)」があり、御座(みしろ)として祀っています。
坂手神社から南西の方位にある田の中にあります。大きいほうの石碑が、この地が伊勢神宮の御厨(みくりや)だったことを示し、小さいほうは倭姫命が荷を置いて休息したところと伝えています。
倭姫命が垂仁天皇14年6月1日にこの地にやってきたので社を建てたと伝えられています。境内には「栄水(さかみ)の井」や清酒を醸造するときに使われた「酒槽石(さかふねいし)」があります。
もとは八剣社で、神明社、白山社、天神社などが合祀されていました。昭和35年に現在名に変更されました。丸宮とも呼ばれています。ここが「中嶋宮」とする説は多くあり「中嶋宮」として『尾張名所図会』に描かれている社もここによく似ていると言われています。
祭神は天照大神です。創建年代など由緒については不詳とされています。
真清田(ますみだ)神社の境外摂社となっています。倭姫命の滞在地あるいはここが中嶋宮の地と言われています。古代この辺りは浜辺であったようで、境内には船つなぎ松の跡とする石碑が立ち、またその隣には倭姫命が腰かけたとする石があります。
愛知県一宮市萩原町にあった「中嶋宮」をここに遷座したと伝わっています。入り口に「伊勢神宮伝承地 中嶋宮」の碑が建っています。
倭姫命の巡幸地は『倭姫命世紀』に詳しく紹介されています。これに基づきそれぞれ伝承地としています。しかし、それには書かれていない口碑のみで倭姫命が滞在したことを伝えている神社があります。
意外なところに元伊勢?
浜名湖の奥、みかんで有名な三ヶ日町にあります。祭神は天照皇大御神、太田命(おおたのみこと)、天羽槌雄命(あめのはづちのおのみこと)、天棚機媛命(あめのたなばたひめのみこと)です。
この神社は氏神の太田田根子命(「大田」の表記有 紀では大物主神の子 記は「意富多多泥古命」と表記)を祀る神社でした。平安時代の940年に伊勢神領となり天照大神を主祭神とする現在名の神社となりました。入り口の案内板には浜名県主(あがたぬし)が祖神の太田命を祀った神社としています。
垂仁天皇時代に倭姫命が太田命の先道により船でここに至り、40日間行宮をおいたと伝えています。このあと伊勢国の度会(わたらい)に向かったことになっています。
伊勢国に入り4年間天照大神を祀りました。
桑名野代宮にいるとき、伊勢国の国造大若子命(おおわくこのみこと 別名 大幡主命:おおはたぬしのみこと)が参上し伊勢国の習いを話されました。また、国造の建日方命(たけひかたのみこと)に倭姫命が国名を尋ねると「神風の伊勢国」と答えました。ここから、伊尓方命(いにかたのみこと)と乙若子命(おとわくこのみこと)が舎人に加わりました。
伊勢国最初の元伊勢
日本武尊が東征を始めた頃の伊勢国は紀伊半島の伊勢湾側、現在の四日市市・亀山市~伊勢市一帯の広い範囲をさしていました。
倭姫命が尾張国から伊勢国に入り最初に天照大神を祀ったのが野代宮です。桑名野代宮は当時の海岸線に近く、周辺には船出する港もあったと思われます。当時の船で熱田へ向かうルートは江戸時代の東海道も同じコースが制定されています。現在の熱田神宮は海岸線から随分離れていますが、古代は神社前に海が広がっていました。日本武尊の東征開始時、倭姫命の元伊勢は桑名野代宮がふさわしいとする説がありますが、倭姫命は垂仁天皇の時代に五十鈴川沿いに祀ったとしています。
桑名野代宮も特定されていません。地元の言い伝えもあり「野代」という地名や「野志里(古くはのしろと読む)」という神社名から推測して桑名市の野志里神社が野代宮の最有力候補地とされているだけです。しかし、桑名市内には他にも候補地があります。
桑名の元伊勢 野代宮伝承地3社と休息地伝承地
主祭神は天照大神で、他に建御雷神(たけみかづちのかみ)、天児屋根命(あめのみやねのみこと)、経津主神(ふつぬしのかみ)、姫神、大山咋神(おおやまくいのかみ)、速玉之男神(はやたまおのかみ)、事解之男神(ことさかおのみこと)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、衝立久那戸神(つきたつくなとのかみ)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、品陀和気命(ほむだわけのみこと)、大山津見神(おおやまつみのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、白山比売神(はくさんひめのかみ)が祀られています。垂仁天皇の御代の創始とされています。
案内板にはここが天照大神を4年間祀った野代宮跡地であると書かれています。
「野志里神社は延喜式(九〇五年編さんの書物)に名を列ねる古社で、皇太神宮御遷座の旧跡です。
『倭姫命世紀(やまとひめのみことのせいき)」という古典によると、垂仁天皇は、皇女倭姫命を御杖代(みつえしろ)と定められ、姫は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊と御神璽(ごしんじ)をお持ちになり、新たに清浄な御鎮座の土地を求めて、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)を離れられた。この後、伊賀・近江・美濃・尾張などの各地を御巡幸、この伊勢国の野代の里に御遷幸されたと伝えられています。その旧跡がこの野志里神社だといわれていますが、その時代にはもう少し山寄りであったと考えられます。
さて、ここにお祀りして四年、宇治の土公の祖(おや)、太田命(おおたのみこと)が地相を占い、「五十鈴の川上に霊地があります。御先導申し上げます。」と奏(そう)し、姫はこれを聞き入れ、現在の伊勢市宇治に御到着になり、ここに御神域と御神殿を整え、皇太神宮として奉祀(ほうし)することになりました。
こののち、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主となり、倭姫命は斎宮となられて、奉仕されるようになりした。」
祭神は天照皇大御神、豊受大神、倭姫命、大山祗神、火産靈神です。
野代宮の候補地の一社ですが倭姫命の休息地あるいは館跡(神館)が建てられた跡で御厨神社ともされているようです。天照大神が五十鈴の宮に定まった後、この地にあった倭姫命の館跡に神明社として建てられたと言われています。
祭神は天神帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)です。野代宮の候補地の一社です。天神帯日子命は第5代孝昭天皇の皇子でこの地方開拓の祖神とされています。本殿裏山は「御霊様」とよばれている陵墓となっています。崇神天皇28年9月に創建されたとしています。境内に船繋ぎ松(船着き松)があり、もとは「船着大明神」でした。神社の境内地は少し高い位置にあり、この辺りまで海だったのかもしれません。船の出入りがあったことを示す遺跡と思われます。
明治時代に立坂神社が合祀され、社殿が尾野神社社殿とつながって建てられています。

鈴鹿国忍山宮の最有力候補地が亀山市野村の忍山神社ですが、他にも候補地がいくつかあります。ここは鈴鹿郡小山宮というよびかたもあります。

猿田彦命を主祭とし、他に天照皇大神、天児屋根命、天布刃玉命、倭姫命、天照大御神荒御魂、大比古命、大若子命、乙若子命、天宇受売命、大山津見命、豊宇賀乃売命、木花佐久夜姫命、饒速日命、大水口宿禰穂積命、忍山宿禰、建速須佐之男命、大名牟遅命、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、市杵島姫命、火産霊神、菅原道真公、保食神、伊香我子雄命を祀っています。
この神社入り口の案内板に「皇大神宮遷幸地跡」及び「弟橘媛命生誕地」と書かれており、社伝ではここで弟橘媛が生まれたと伝わっています。
垂仁天皇御代、倭姫命が御杖代となって御巡幸され天照大御神を大和の国から忍山に遷され、ここで半年間御鎮座されました。その跡に天照大神を奉斎する社を建てました。また景行天皇の時代に日本武尊は東征の際、忍山神社に立ち寄り、神主忍山宿禰の娘弟橘媛を妃としました。弟橘媛は日本武尊とともに東征に従い、走水の海で海神の怒りを鎮めるため入水しました。

この神社は亀山市布気町にありますが、もとは現在の忍山神社の地にあった社で、忍山神社の方が別地から合祀されていました。そのため、布気神社(白鬚神社)と忍山神社の2社が同居状態となっていました。しかし、いつの間にか神社名が忍山神社だけとなり、そのため、もともとあった布気神社が移転せざるを得なくなりました。そこで現在地に移転したということです。現在忍山神社がある亀山市野村は旧地名を「布気林」といっていたようです。
倭姫命は忍山宮を出て南に進みました。阿野県主の祖となる真桑枝大命(まくはしおほのみこと)と出会い国名を尋ねると「草蔭(くさふか)阿野(あの)国」と答えました。真桑枝大命は神田と神戸を献上しました。
詳細不明です。三重県津市に安濃(あのう)町があります。どこかに宮跡があるかもしれません。
さらに進むと市師県主の祖の建呰古命(たけしこのみこと)に出会いました。国名を尋ねると「害行(あらひゆく)阿佐賀(あさか)国」と答えました。
浅瀬を渡ってさらに進むと美しいところに至りました。真奈胡神に国名を尋ねると「大河の滝原国」と言いました。そこで大宇祢奈に草を刈らせ宮を造ったところ「ここではない」と天照大神の諭(さとし)がありました。
大紀町滝原に広大な宮地があり、瀧原宮(たきはらのみや)と瀧原竝宮(たきはらならびのみや)があります。宮川下流の伊蘓宮から上流に進んだところにあった滝原国に天照大神を祀りました。現在瀧原宮に天照大神の和魂(にぎみたま)、瀧原竝宮に荒魂(あらみたま)が祀られています。

倭姫命は 天照大神を渡会の五十鈴川の川上に遷しました。この時倭姫命は付きの者たちに次のように話しました。
「五十鈴原の荒草や木の根を刈り掃い、大小の石を平らに敷きなさい。遠くのあるいは近くの山に立っている木を清めた斧で伐採し、木の中ほどを持ってきて清めた鋤で柱を立てて、天御柱と心御柱とし、神殿を建てて天照大神と荒魂宮(あらみたまのみや)、和魂宮(にぎみたまのみや)として鎮め祀りましょう」と仰せになりました。
美船神と朝熊水神らは倭姫命を小舟に乗せて五十鈴川の川上に遷しました。船に乗っているとき、倭姫命の衣が川の水についてしまいました。この川は「御裳須曽河(みもすそがわ)」(御裳裾川)と名付けました。
采女忍比売(うねめおしひめ)は平らな形の土器を80枚作り、天富命(あめとみのみこと)の孫に命じて神宝の鏡、大刀、小刀、楯鉾、弓箭、木綿などを作らせて神宝やお祓いの道具を準備させました。
夜、倭姫命の夢の中に天照大神が現れ「私が高天原から見ていた宮どころはここです。ここに鎮まりたい。」と告げられました。
倭姫命は夢のお告げを、安倍武渟川別命(あべのたけぬなかわけのみこと)、和珥彦国葺命(わにのひこくにふくのみこと)、中臣国摩大鹿嶋命(なかとみのくにまのおおかしまのみこと)、物部十千根命(もののべのとおちねのみこと)、大伴武日命(おおとものたけひのみこと)、渡会の大幡主命(おおはたぬしのみこと:大若子命)らに知らせました。大幡主命は大変喜び「神風の伊勢の国、百船渡会の県、佐古久志呂宇治の五十鈴の川上に鎮まり定まり坐す皇大神」と称えました。そして、宴を催し高天原の儀式のように舞ったり歌ったりしました。
ここに倭姫命は
「朝日が向かいくる国 夕日が向かう国 波の音が聞こえない国 風の音が聞こえない国 弓矢鞆の音が聞こえない国 打摩伎志売留国(うちまきしめるくに) 波が幾重にも寄せる良き国 神風の伊勢の国の百伝う渡会の県の佐古久志呂五十鈴の宮に鎮まりたまえ」と国を称えました。
各地を回った倭姫命が最終的に落ち着いたのが現在の伊勢神宮のある地です。水清らかな五十鈴川が流れ、巨木が並ぶ神聖な場所です。(社殿の撮影は禁止されています)
倭姫命を祀る神社はありませんでした。そこで倉田山公園内に大正12年に建てられました。近くには神宮徴古館があり神宮の宝物や歴史を知ることができます。
伊勢の御贄処(みにえどころ)
五十鈴川の宮に定めた後も倭姫命は落ち着くことがなく天照大神にお供えする物を調達する場所を探しました。
ここは良質なあわびの産地です。倭姫命は身に着けていた鎧をはずしたことから鎧崎と名付けられました。
『続日本紀』の文武天皇2年(698年)12月29日には多気大神宮を渡会郡に遷したことが書かれています。多気大神宮という宮は存在しませんが、宮川上流の多気地区に倭姫命が祀った佐佐牟江宮(ささむえのみや)のことかもしれません。このように理解すると、この時伊勢神宮はまだ五十鈴川川上には祀られてはいないことになります。現在の度会郡大宮町にある瀧原宮あるいは五十鈴川沿いの現在地に遷ったことを書いているとする説があります。