蝦夷を平定した後、日高見国から帰って常陸(茨城県)を経由し、甲斐国(山梨県)に到着し、酒折宮(さかおりのみや)に来ました。
灯をともして食事をしてから、夜、歌を作ってで従者に尋ねました。
「新治(にいばり 茨城県)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
新治や筑波を過ぎてから何夜過ぎたのでしょう。
従者たちは答えられませんでした。この時、燭(あかり)番がいて、尊の歌に続けて、歌を詠みました。
「かがなへて 夜は九夜日には十日を」
日数を数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。
尊は燭(あかり)番の賢さを褒め、褒美を与えました。この宮に滞在中、靫部(ゆけいのとものお 矢を入れる道具を背負う者)を大伴連の先祖の武日に与えました。
日本武尊は言いました。
「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。ただ、信濃国(長野県)と越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、いまだに少し朝廷に従わないでいる。
日本武尊は甲斐(山梨県)より北の武蔵(むさし 東京都 埼玉県一帯)、上野(かみつけ 群馬県)を経由して西の碓日坂(うすいのさか 群馬県碓氷峠)に到着しました。
『日本書紀』には蝦夷を征伐するため日高見国(日高見神社があるところという意味ではなく、東北地方の広い範囲をさしています)まで遠征し、そののち、東北地方の内陸部を南下して常陸に至りました。そして、新治・筑波を過ぎて山梨の酒折宮に滞在したことが書かれています。酒折宮までの正確な経路や訪問順は不明ですが、各地の神社に伝わる記録により大まかなルートが見えてきます。酒折宮のあとは東京北西部を経由して群馬に向かっています。
祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)です。
今から2400年以上前、第五代孝昭天皇の代に創建されたと言われている古社です。現在の神社の周りには市街地が広がり、古代の様子は想像できませんが、この神社はやや高台(大宮台地)にあり、古代は神社の東に広大な湖沼があったようです。そこは「神沼」「御沼」「見沼」と呼ばれ、現在は境内の神池にその名残を見ることができるようです。また、地名の高鼻はこの土地の形状からつけられたと言われています。
日本武尊は東征の折ここを訪れ、東夷鎮定の祈願をしています。
天穂日命(あめのほひのみこと)、武夷鳥命(たけひなどりのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)を祭神としています。
付近には縄文時代の遺跡もあり、古墳時代以前より人々が生活していたところであったようで、日本武尊が東征の折、別宮を建てて戦勝祈願をしたと伝わっています。その別宮が現在の本殿と言われています。
祭神は木花咲耶姫命です。
日本武尊が東征の帰路ここに立ち寄りました。そのとき村人たちが旱害(かんがい:干ばつ)に苦しんでいるのを見て富士山に祈願したところ水が湧いてきたと伝えられています。村人たちは浅間神社を建てて祀りました。「堀兼井浅間社」とも呼ばれていました。本殿への石段下には朱塗りの随身門が建ち、中には豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)と櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)が祀られています。
いつ創建されたのかは不明です。この地には「堀兼の井」があり、平安時代にもこの井戸のことが書かれた記録があります。これは丘陵地の井戸として貴重なものであったとされています。
祭神は倭姫命です。
日本武尊が東征の帰路に立ち寄り、ここで水を得ようと井戸(掘兼の井)を掘らせたと言われています。その後、倭姫の一族がこの辺りを治め、倭姫命と日本武尊(蔵王神社)を祀りました。日本武尊が掘らせた井戸は「 掘難の井」または「掘兼の井」と呼ばれており、竪堀の井戸で、現在「七曲井」として残されています。
祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)で神火産霊命(かみほのむすびのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやびめのみこと)他です。
日本武尊が東国平定の折、この地が倭(大和:やまと)の河合に似ているとして大和の広瀬の神を祀ったと言われています。ただし、本社にその記録はありません。
祭神は素盞鳴命、奇稲田姫命です。
日本武尊が東征の折この地を通りかかりました。ここが見晴らしの良い台地であったため尾崎の宮として2神を祀ったと伝えられています。
祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)
で景行天皇の時代に創建されました。
日本武尊が東夷征伐のとき、小手指ヶ原(こてさしがはら)に至り、2神を祀ったと伝えられています。出雲伊波比神社とも書かれてていたようです。
祭神は櫛真智命(くしまちのみこと)、大己貴命(大国主:おおくにぬしのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)、安閑天皇(あんかんてんのう)、日本武尊です。
東京都青梅市の武蔵御嶽山に建つ神社で崇神天皇の時代に創建されたとしています。昔から「御嶽大権現」と呼ばれて関東を中心に厚く信仰されていた神社です。明治時代に現在の「御嶽神社」と改称され、その後「武蔵御嶽神社」となりました。祭神の櫛真智命は占いの神と言われていますが、日本武尊の伝説に由来する犬(ニホンオオカミ:絵馬)が祀られている大口真神社(おおくちまがみしゃ)も境内にあります。
御嶽山へは滝本駅からケーブルカーを利用します。御嶽山駅から歩いて神社本殿に向かいます。
祭神は「大口真神」で「おいぬ様」と呼ばれていますが、守り神となっているのはホンオオカミです。日本武尊が東征のとき、御岳山を進んでいると深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞ぎました。そこで、日本武尊は野蒜で白鹿を退治しましたが、山が鳴り、霧が発生して道に迷ってしまいました。すると白狼が現れて日本武尊らを道案内しました。こうして日本武尊らを無事に導くことができたと言われており「災いを防ぎこの地を守護せよ」との日本武尊の命に従い、この狼は御嶽山の守護神(大口真神)となりました。また、日本武尊は御嶽山に武具を納めたのでここを武蔵と名付けられたとも伝えられています。
*野蒜で大鹿を退治したとする伝説は信濃の神社にもあります。
大口真神社の左奥には奥の院の遥拝所があります。ここから奥の院がある山を見ることができます。
本殿から下りたところにある山道を鍋割山に向かって約40分ほど登った頂上(1077m)に奥の院があります。途中、ロックガーデンや天狗岩への分かれ道がありますが、天狗の腰かけ杉を見て山頂に向かいます。山頂は「男具那ノ峰」と書かれています。ここに日本武尊が祀られています。途中、橘姫(弟橘媛) を祀る石碑や日本武尊を意味する男具那社が参道にあります。
頂上(1077m)付近に奥の院があります。石祠の文字は判別できませんが、境内にある案内図には「征夷高祖御社」と書かれていました。
山梨県上野原市にある伝承地には東征の前、足柄峠を越えたのち相模川を船で上ったとも考えられます。そのように伝えている社伝もあります。しかし、神奈川県西部にある日本武尊を祀る神社が集まっている地域からは随分北にあり、東征前にここまで来たとするのには無理があるようにも思います。そのため、このページでは東征後の立ち寄りとしたいと思います。
祭神は日本武尊です。創立由緒は不詳です。
もとは三国山の山頂に祀られていましたが火災に遭い、現在地に遷されました。武勇の神様として日本武尊が祀られており、本殿前にも大きな剣が飾られています。参拝に来ていた地元の人の話では、最近パワースポットとして紹介されたそうで訪れる人が増えているようです。
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)を主祭神としています。
境内の案内板には次のように書かれていました。(一部省略)
「第十二代景行天皇の庚成四十年、日本武尊東征の砌り、持ち来った天磐楯を東国鎮護のため此処に鎮め、神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は、高座郡の県主で当地の住人であった。第四十七代淳仁天皇の天平宝字八年(764年)さきの太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢のため上京中で押勝の首を取り乱を鎮めた功により、高座・大住・鮎川・多摩・都留の五郡を賜ったといわれ、石楯尾神社の保護者であった。」
神社から少し離れていますが、山頂に向かって山道を登ったところに甘草水(かんぞうみず)という湧水地があるそうです。案内には次のように書かれています。
「甘草水は日本武尊の伝説に由来します。日本武尊が東征の折、この地に立ち寄りましたが、したが、周辺に水がなく難儀しました。そこで日本武尊は鉾をもって岩に穴を掘ったところ、こんこんと清水が湧き出し、兵士たちの喉の渇きを潤しました。日本武尊はこれを狭野尊(神武天皇の呼称)の賜と喜び、その泉を甘草水、下流を狭野川と名づけたとのことです。狭野川は後に佐野川と改められ、それが旧村名、佐野川になりました。現在甘草水は飲用禁止です。」
実際にこの場所を探しましたが見つかりませんでした。福祉施設の職員に教えていただいた山道をしばらく歩いていて工事をしている地元の人に出会いました。話を聞きましたが、今は枯れていて水はないとのことでした。その方も最近は行っていないし、整備されていない山道を随分登らないといけないのとわかりにくいから行くのは難しいと言われ、あきらめました。
石楯尾大神を主祭神とし、日本武尊他も祀られています。
神奈川県相模原市には他にも石楯尾神社があります。延喜式内社の石楯尾神社の論社が7社あり、現在でも確定されてはいません。その中で最も有力とされるところが名倉の石楯尾神社です。境内の案内板ではここは「名倉の権現様」とも呼ばれていたようで「エボシ岩」と言われる神籬磐座を信仰対象とする産土の神社でした。現在この岩はありません。
石楯尾神社の他の論社は以下の5社です。
石楯尾神社 神奈川県相模原市南区磯部字中峯2132
諏訪神社 神奈川県大和市下鶴間2555
諏訪神社 神奈川県座間市入谷1-1568
諏訪神社 神奈川県相模原市緑区大島594
石楯尾神社 神奈川県藤沢市鵠沼神明2-1-5
保食命(うけもちのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと) が祀られています。『甲斐国誌』では大宮牛倉明神と記されており、また「天王森」とも呼ばれているところです。日本武尊との関係ははっきりしませんが甲州街道近くにあるため通過地とも思われます。
祭神は日本武尊です。山梨県上野原市和見に里宮があり、権現山山頂に奥宮があります。伝承として記録はありません。祭神として日本武尊を祀っていることは、元々何らかの伝承があり、それを伝えることが絶えたと考えるべきかもしれません。
東征前にも紹介していますが、ここは大変わかりにくく、地元の方に尋ねてやっと見つけることができたところです。現在は修正されていますが、元のGoogleMap上の神社の位置は山王社を示しています。
素盞鳴尊、稲田姫命を祭神としていますが、江戸時代の創建のように思われるため日本武尊との関係はないようですが、他の稲村神社のように旧甲州街道沿いに建っていることからこの付近が通過地であったと思います。
祭神は建御名方命、誉田別命です。
日本武尊が東国平定の帰りに富士山を遥拝しました。その折に東国開拓と国家鎮護のために諏訪大神を勧進しました。
祭神は木花開耶姫命、彦火瓊々杵尊、大山祇神です。
日本武尊が東征の帰路、酒折宮に向かう途中に大塚丘に上って富士山を遥拝しました。村人たちはそこに祠を建て浅間明神を勧請し日本武尊を合祀しました。
祭神は建御名方命です。
日本武尊がこの地を通過したと伝えられています。
祭神は 国常立命、素盞鳴尊、日本武尊、稲田姫命です。
日本武尊が東征の帰路に立ち寄り休憩しました。黒野田の稲村神社にも同じ社伝があります。
祭神は国常立命、素盞鳴尊、日本武尊、稲田姫命です。
日本武尊が東征の帰路、ここで休息しました。
祭神は菅原道真公、大己貴命、少彦名命、日本武尊です。
甲斐の国造塩海宿祢が日本武尊を祀りました。
祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀っています。境内の林部天神社には菅原道真、日本武尊が祀られています。林部宮橋立明神に合祀されており、ここは日本武尊が休息したところと伝わっています。その際、ここで食事(案内には昼餉と書かれています)をしたときに杉の枝を箸に用いました。この箸を地面に刺したところ生長し「橋立の大杉」と呼ばれるほどになりましたが、今は枯れてしまいました。
大物主命を祭神としています。
日本武尊により甲斐の国造塩足尼が大和の大三輪神社から三輪明神を勧請しました。
祭神として大山祇神(おおやまつみのかみ)、高おかみ神、別雷神(わけいかづちのかみ)を祀っています。御室山をご神体としていたことから旧社地は背後の御室山(みむろやま)にありました。崇神天皇の時代に創建されたと伝えられています。郡境を定めるに当たり現在地に遷すことになり、梨の木を伐採した地に鎮座しました。そのため、「甲斐嶺山梨岡(かいがねやまなしおか)」と名付けました。県名のもとになった神社となっています。
山梨岡神社から約1キロ北にあり、摂社となっています。祭神は日本武尊、妃橘姫命です。額には「吾妻屋宮」と書かれていました。別名「四阿宮(あづまやぐう)」とも呼んでいるようです。ここは日本武尊が休息した地と言われています。wikipediaによると「四阿山権現(あづまやさんごんげん)」とも呼ばれていたと書かれています。
ここは大変わかりにくい場所にありました。地元で農作業をしていた方に教えていただき、獣よけの金網戸を開けて入り、そこから少し山道を登ったところにありました。
東征の帰路 甲斐国 酒折宮へ
『日本書紀』
(日本武尊は)灯をともして食事をしてから、夜、歌を作って従者に尋ねました。
「新治(にいばり 茨城県)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
新治や筑波を過ぎてから何夜過ぎたのでしょう。
従者たちは答えられませんでした。この時、燭(あかり)番がいて、尊の歌に続けて、歌を詠みました。
「かがなへて 夜は九夜日には十日を」
日数を数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。
尊は燭(あかり)番の賢さを褒め、褒美を与えました。この宮に滞在中、靫部(ゆけいべ 役職名 靫-矢を入れる道具)を大伴連の先祖の武日(大伴武日)に与えました。
酒折宮(さかおりのみや)
「愛知潟、氷上姉子は吾来むと床避るらむやあはれ姉子を」
(愛知潟の氷上姉子(宮簀媛)は私が来るかと床を避けて待っているでしょうね。ああ姉子よ。)
軍団の休息地でもあった酒折宮の候補地は甲府市内に2社あります。
酒折宮候補地①
祭神は日本武尊です。日本武尊が東征の帰路に滞在しました。
ある夜の事
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
(新治、筑波を通り過ぎてから何日経ったのだろう)
と日本武尊が問うと、近くにいた館の燭番が
「日々(かが)並(な)へ(べ)て夜(よ)には九夜 日には十日を」
(数えてみると九夜十日が過ぎました)
と答えました。この場面が酒折宮を連歌の発祥地とする所以です。
東国平定に尽力し、日本武尊も軍団も疲れていたことと思います。今はそれを癒すかのような静かな夜です。庭に篝火が灯り、平穏なひと時を過ごしていました。そんな時にふと思い出し、口にしました。
酒折宮候補地②
石碑には「日本武尊御舊蹟 坂折天神社」(舊=旧の意味)と書かれていますが、ここも酒折宮の候補地です。日本武尊を祭神としています。 社伝ではここが日本武尊が東征の帰路に立ち寄った酒折宮(さかおりのみや)としています。
酒折宮周辺の神社
山梨県には酒折宮以外にも日本武尊を祭神とする神社が多くあります。それぞれに滞在地、休息地、通過地などの伝承がありますが、どのような順で訪れたのかはわかっていません。酒折宮にしばらく滞在して近隣を散策したと推測します。
祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、速玉男命、事解男命です。
日本武尊が東征のとき、酒折宮に滞在しました。村人たちは朝餉(あさげ)を奉りました。神社がある場所の地名となっている朝気(あさけ)のもとになっています。
祭神は武田信玄です。武田氏の館跡に神社があります。
祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのみこと)、神皇産霊神(かむみむすびのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、宇気母知神(うけもちのみこと)です。
日本武尊が東征の帰りにここを通りかかった際に足を痛めてしまいました。そこで天照大神を祀って祈ったところ痛みが治まったと伝えられています。
石祠のある磐座をご神体としているそうです。社殿が少し壊れていましたが修理はされていませんでした。
祭神は少彦名命、大己貴命、須佐之男命で、相殿に日本武尊、櫛稲田姫命が祀られています。
日本武尊命が東征からの帰路、金峰山山頂(奥宮がある)に大己貴命と須佐之男命を合祀したことが始まりです。ここを国家鎮護の霊地と定め首鎧を納めたと言われています。*夏と秋に参拝したため、画像はミックスしています。
祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊です。
通過地でしょうか。
祭神は素戔嗚尊です。別名唐土大明神ともいいます。
境内の案内板には書かれていませんでしたが、日本武尊が東征の折、当国鎮護のため創建したと伝わっています。
黒戸奈神社の論社と言われています
祭神は日本武尊です。
『甲斐国史』に「諏方郡御射山と同じく日月星の三光を祭る。七月廿七日の祭時に祠辺りにて必ず日月星の三光を拝す。」と書かれていました。
日本武尊の通過地あるいは滞在地の可能性もあるのでしょうか。
中殿に誉田別命、左殿に足仲津彦命、右殿に息長足姫命、相殿には武田武大神が 祀られています。
日本武尊の子の武田王館跡に建てられました。
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、木花開那姫命(このはなのさくやびめのみこと)、弟橘姫命(おとたちばなひめ)です。
日本武尊は伊勢、尾張、駿河の賊を平定した後、常陸の国の蝦夷も討ちました。帰りに酒折宮で休息し、甲斐国の金峰山(標高約2600m)の麓にある本谷川沿いに進んでここに到着しました。ここで日本武尊は破魔弓を使って悪魔退治を行いました。また、ラヂウム鉱泉を発見したとも言われています。この後、御門、神戸、碓井峠を通り信濃国に入りました。
祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)、 誉田別命(ほんだわけのみこと)、 広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)です。
日本武尊は東小尾で湯治したと伝えられています。また、この地を通過する際に賊らを退治しました。
祭神は日本武尊、弟橘姫命です。
日本武尊が東征の帰りに甲斐国を通過しました。村人たちは日本武尊の徳を慕い社を築きました。もとは断崖の岩窟内にありましたが、工業団地の建設に伴い現在の岩窟内に改築されました。
祭神は罔象女命(みつはのめのかみ)、大和武命(やまとたけるのみこと)、大己貴命(おおあなむちのみこと)です。
祭神は大山祇命、大和武尊です。
日本武尊東征の際に勧請されました。
社殿の東に腰掛石があり、その上の天神社には日本武尊が祀られています。
建御名方命、天照大神、大山祇神を祭神としています。
日本武尊が東征の帰路にこの地を通りかかり、松の木の向こうに集落が見えることから「松向」という地名をつけたという伝承が『小淵沢町誌』を参考にしたWikipediaの小淵沢町のページに紹介されていました。
この神社につながる参道を裁断するようにJRの線路が通っており、参道を通って社殿に行くことができませんでした。近くを通行中の方にお尋ねし、線路に沿った細い道を通って神社に行くことがわかりました。
祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)です。
日本武尊が東征の際「建き大丈夫の立つるが如き」と言いここに仮宮を建てました。
祭神は 建御名方命です。
もとは諏訪明神と呼ばれていましたが社地が船山と呼ばれていたので船形神社となりました。日本武尊が信濃国に向かう途中に立ち寄り奉幣(ほうへい)しました。
祭神は天照大神、豊受大神、素盞鳴命、日本武尊です。
日本武尊が東征の折ここを通過した際、小丘で休まれました。この時、村人は天照大神の霊代を賜りました。日本武尊が立ち去ったのちここに社を造営し天照大神を安置しました。
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、大日霊貴命(おおひるめのみこと)です。
日本武尊東征の折の休息地です。
この石の名がもとでつけられた珍しい地名です。教来石は「経来石」とも書くようです。日本武尊がこの石の上に座って歌を詠んだと言われています。案内板にはもとは「清ら石」で、それが転じたものと書かれています。
案内板には教来石の上に祠を置いて日本武尊を祀ったと書かれていますが、案内板近くの石の上には石祠ではなく石仏が乗っています。教来石は地区内にいくつもあるようで、近くには案内板に書かれているように祠がある石を見ることができます。
祭神は建御名方命です。
日本武尊が通過の際祈願したと伝えられています。
祭神は建御名方命です。
日本武尊の東征の際、ここに住んでいた毒竜鬼を討伐し天神を祀りました。(注 ここでの天神は菅原道真ではありません)日本武尊は池の水で手を洗い清めましたが、その御手洗池が現在も残っているようです。後に現在地に遷しました。
祭神は瓊々杵命(ににぎのみこと)、木花開那姫命(このはなのさくやびめのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、大伴武日命(おおとものたけひ)です。
日本武尊が吉備武彦や大伴武日らとともに東国を平定した帰りに甲斐国の酒折宮に滞在されました。そのとき、日本武尊は大伴武日に靱部を与え、この地に住居を構え、一帯を治めるようにしました。社のある場所は大伴武日の館跡と言われています。村人たちは大伴武日に感謝し社を築いて靱部社としました。その後、「弓削」と変わりました。
東征の帰路 山間部を抜ける
『日本書紀』
日本武尊は言いました。
「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。ただ、信濃国(長野県)と越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、いまだに少し朝廷に従わないでいる。
日本武尊は甲斐(山梨県)より北の武蔵(むさし 東京都 埼玉県一帯)、上野(かみつけ 群馬県)を経由して西の碓日坂(うすいのさか 群馬県碓氷峠)に到着しました。
愛知県大府市にある三峯神社(熱田社)が伝えるところによると、日本武尊は酒折宮から雁坂峠を越えてきました。日本武尊は三峯山に登り仮宮を建て、伊弉諾尊と伊弉册尊を祀りました。
この伝承から酒折宮→(周辺の伝承地)→雁坂峠→三峯神社→(秩父の伝承地)への行程を推測することにしました。
祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)、高籠神(たかおかみのかみ)です。
日本武尊が東国を平定しての帰り、神助を得て甲武信の国境を越えてきました。この神の助けに感謝し、神恩奉謝の印として標高約2160mの国司ヶ岳に剣を留め置き三神を斎き祀ったと伝えられています。現在その場所には奥宮があります。
日本武尊は雁坂峠を越え三峯神社がある地へ向かいました。
現在、峠道の通行はやや難しく、トンネルを利用しました。
祭神は伊弉諾尊,伊弉册尊です。
日本武尊は甲斐国から上野国を通り碓氷峠に向かう途中にこの山に登りました。見渡せば山野がとても美しいところで、平和を祈願して伊弉諾尊と伊弉册尊を祀る社を造営しました。その後、景行天皇が東国を巡った際、上総国で3つの峰の連なりが美しいことを耳にし「三峯山」と名付け、また社を「三峯宮」としました。
日本武尊がこの地に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀りました。
埼玉県の秩父地区に椋神社が5社あります。椋神社は延喜式神名帳に掲載された由緒ある神社で、5社とも式内社とされているようです。祭神として猿田彦命や大己貴命が祀られています。日本武尊が創建したと伝えられています。
吉田椋神社(秩父市下吉田)
上蒔田椋神社(秩父市蒔田)
中蒔田椋神社(秩父市蒔田)
椋神社(秩父郡皆野町皆野)
椋神社(秩父郡皆野町野巻)
祭神は応神天皇、素盞嗚命外です。
地元では「椋宮」「井椋(いぐら)様」とよばれているそうです。
日本武尊が東征の折、この地を通りましたが霧が深くて進めませんでした。そこで、鉾を立て猿田彦神に祈ったところ、鉾が光を放ちながら飛び、椋の木の下に止まりました。するとそこに老翁が現われ、日本武尊を導いたと言われています。日本武尊はこの地に猿田彦命を祀る社を建てました。境内にある白鳥神社には日本武尊が祀られています。
1884年(明治17年11月1日)、秩父の農民が減税などを求めて武装ほう起した秩父事件で決起集会が行われたのが下吉田の椋神社です。境内には困民党決起の碑が建っています。また、椋神社で行われる「龍勢祭」では手作りロケットが打ち上げられることが知られています。これは光を放ちながら鉾が飛んだことに因んでいると言われています。
椋神社には由緒記が2枚あります。
(1)人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅3年芦田宿禰守孫造立すと云う。多治比直人籾5斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。(略)
(2)人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇貞観13年11月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長5年12月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功を奏し、五座の神となる。(略)
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
祭神は神武天皇、大山祇神、火産霊神です。
東国平定を終えた日本武尊は帰路に立ち寄りこの山に登りました。その際麓の玉の泉で身を清めました。頂上からの眺めはすばらしかったのですが、火に囲まれてしまいました。すると大犬が現れ火を消しました。山火事を止めたことから火止山と名付けられ、それが宝登山と変わりました。
ここを通りかかった日本武尊は喉が渇き、岩肌に剣を振るったところ泉が湧き出したという伝説があります。この水があまりに冷たかったので一杯しか飲めず「一杯水」とも呼ばれていたそうです。この湧水は「日本水」と呼ばれ現在もたくさんの水が湧き出ています。とても勢いよく湧き出ているきれいな水をこの日も隣の町から車で来たという人たちが次々にポリ容器に入れていました。取水している最中でしたが写真撮影の間だけ手を休めていただきました。ここは「日本名水百選」にも選ばれています。
粥を煮た釜を岩上に伏せたことから山の名がついたとされています。
釜伏山の山道を走ると塞神峠(さいじんとうげ)に至ります。この先に釜山神社があります。
標高582mの釜伏山山中にあります。大口真神(狼)を御祭神とする神社です。日本武尊が立ち寄り、釜で粥をたきました。この釜を御神体の岩の上に伏せて戦勝祈願をしたと伝えられています。粥を煮たところが粥新田(かゆにた)峠、箸を地面に挿したら木になったと伝えられるのが二本木峠です。
社伝によると、日本武尊が東夷征伐の折に山頂に大山祇命を祀ったのが始まりとされています。
「由緒 人皇第十二代景行天皇の四十一年皇子日本武尊東夷御征討の御帰路この里に到り拾い当山に霊畴を設け投け遙かに大和畝傍山の皇宗神武天皇の御陵を拝し東夷平定の由を奉告し拾い且つ躬ら矢を納めて大山祗命を祭りて一山の守神と崇め給う是れ即ち当山の起源にして当村矢納の地名も此の古事に緑由せり、天慶三年平将門の弟将平矢納絨を築きて謀叛せり時に藤原秀郷朝命奉じて討伐に向い当山祭神に賊徒平定を祈願し乱治って後厚く祭祀を行い城峰の社号を附せり、(略)」
髪流川から変わりました。弟橘姫の髪を流したら鬼石の諏訪に流れ着いたと言われています。
北関東を一望する御嶽山にあり、日本武尊は倭姫からもらった火打金を御霊代としてこの山に祀りました。御嶽山の中腹には鏡岩という赤褐色に光った岩があります。これは約9000万年前の断層活動でできたもので国の特別天然記念物に指定されています。
祭神は邇邇芸命(ににぎのみこと:天津日高日子番邇邇芸命)、 倭建命(日本武命)です。
倭建命が東国征討のあとこの地に滞在しました。このとき武運を祈願し武具(母衣)を奉納したと伝えられています。
氏子のみなさんが早朝より神社の清掃をされていました。お声をかけさせていただいたところ、社殿にある「日本武尊」と書かれた大きな額を見せていただけることになりました。撮影と掲載の許可をいただきました。
ここから車で15分ほどの所にもう一社母衣輪神社(群馬県太田市藪塚町)
があると聞きましたが詳しい場所を聞いてなかったためたどり着きませんでした。
祭神は日本武尊です。 相殿に大己貴命、事代主命、豊城入彦命が祀られています。
日本武尊がここに立ち寄ったという伝承はありません。社伝では783年、疫病が大流行したため日本武尊の神託によって退散祈願をしようと祠を建てたと書かれています。日本武尊は人々の平安を祈りながら全国を旅し、亡くなってからも白鳥と化して人々の生活を見守ったと言われていることからこの神社の祭神としました。境内には日本一の「平和の剣」が奉納されています。
未参拝地 産泰神社 群馬県前橋市下大屋町569 GoogleMaps
祭神は木花佐久夜毘売 です。
日本武尊の東征の折り、ここに勧請されました。
未参拝地 小石神社 群馬県前橋市敷島町255−1 GoogleMaps
素戔嗚尊を主祭神としています。
日本武尊の東征の折、南橘村の橘山の山頂に小石を安置して素戔嗚尊を祀り戦勝祈願しました。
主祭神は日本武尊です。妙義山に登嶽したことにより祀られています。
ここには日本一大きな大黒様があることでも知られています。
赤城山、榛名山とともに上毛の三山と呼ばれトレッキングに人気のある山です。火山噴火によってできた山で、現在見られる奇岩の景色は長年の風化によって火山性岩石の固い部分が残ったものと言われています。日本武尊もこの地域を通過しており、妙義山の景観を眺めていたと思います。
祭神は日本武尊、豊受大神他です。
この神社へは2回参拝しました。最初は天気が悪く、写真も暗くなってしまいました。これまで参拝した神社とは異なり、拝殿、本殿とも極彩色に飾られています。まるで東照宮を見ているかのような装飾に驚くばかりでした。
未参拝地 白髭神社 群馬県安中市松井田町原226 GoogleMaps
祭神は、猿田彦命、日本武尊、飛滝大神です。
猿田彦命の化身が白鹿(山の神)を退治しました。
東征の帰路この地に至った日本武尊の前に山の神が白鹿に化身して現れ進路を妨げました。そこで日本武尊は蛭を投げて征伐しようとすると、辺りに濃霧が発生し行き先が分からなくなりました。そこに剣を持った白髭の老人が現れて白鹿を撃退したため濃霧から脱出することができましたこれは猿田彦命 の加護と信じ石祠を建てて祠ったと言われています。
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