東征の帰路 下総国を経由して武蔵の国へ
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古代において霞ケ浦は現在よりも奥に海が入り込んでおり北浦とつながって「香取海」と呼ばれていました。また、東京湾とは河川でつながり、蝦夷征伐あるいは物流の要衝地となっていました。江戸時代ごろに現在のような姿になるのですが、その過程で手賀沼や印旛沼、が形成されました。舟を利用して移動することが多い日本武尊は香取海を渡ったのかもしれません。
日本武尊が東征の帰路で立ち寄ったと伝えている神社が都内に数社あります。
武蔵の国へは新治・筑波を過ぎ、常陸を経由して甲斐の酒折宮に到る途中に立ち寄っているようです。常陸国から武蔵国へは、下総国(千葉県)の北部を通過したのではないでしょうか。千葉県我孫子市、印西市、成田市などにその足跡を見ることができました。
下総国へ
平将門の家臣であった久寺家(くじけ)豊後大炊左馬助が勧進したとされています。祭神は日本武尊としているサイトがあり、確かめるため参拝に行きましたが日本武尊との関連や足跡は確認できませんでした。天日鷲神(あめのひわしのかみ)が祭神と紹介しているサイトもあります。
祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)で、素戔嗚尊、蒼稲魂尊(うかのみたまのかみ)、日本武尊、別雷神(わけいかずちのかみ)、金山彦神、大山咋命(おおやまくいのみこと)も祀られています。
日本武尊がこの地に到り武運長久を祈ったと伝えられています。
祭神は日本武尊、水速比売神(みずはのひめのかみ)です。
手賀沼の手賀大橋の近く、鳥の博物館に隣接して建っています。創建は江戸時代のようで日本武尊との関係ははっきりしません。
手賀沼
神社境内の案内板を読むと祭神は大日霊売命(おおひるめのみこと)です。創建は景行天皇の時代と書かれていますので何らかの関係があるのかもしれませんが詳しいことはわかりません。
祭神は鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。鵜葺草葺不合尊は瓊瓊杵尊の孫で神武天皇の父です。
拝殿は元々独立した神社で、昔から「沖田村の弁天様」と言われていた市杵島比売命を祀っていたことが石碑に書かれていました。そのため拝殿の額には「天女宮」と書かれています。また、旧名は沖田神社で、創建は奈良時代のようです。この神社の祭神を日本武尊として紹介しているホームページがあり参拝してきました。本殿の彫刻が見事で、側面から背面をゆっくり見学させてもらいました。本殿裏には神社名が書かれた石碑がありました。
祭神は天之迦具土命(あめのかぐつちのみこと)、日本武尊、竹内宿祢です。
日本武尊が東征でこの地を通りかかると、村人たちが田植をしていました。そこで、自らも苗を植えたと伝えられています。
沢山の泉と呼ばれる湧水地にある石祠は弁財天です。ここには草薙神社があり清水が湧き出ていると言われてもいますがそれらしき祠は見つかりませんでした。日本武尊の東征の折、ここで休息し清水を飲んだことが伝えられています。
ここを訪れたのは夏です。事前にGoogleMapのストリートビューで行き方を確認しようとしましたが、いろいろ調べても分からず、現地で地元の人に尋ねることにしました。最初に谷田の森の南に位置する農家の方に声をかけたところ、今はまむしがいて危ないし道はないから行くことは難しいと言われました。ただ、別の行き方があることも分かりました。地元で弁天様と呼ばれている祠へは森の北から行くことができるけれど、そこは分かりにくいと言われました。それでもあきらめられず、北側に行ってみることにしました。森の北東角に梨の販売店があり、泉のことを尋ねました。御主人は子供の頃に湿地帯でよく遊んだことがあるけれど今はどうなっているかはわからないと言うことでしたが、大体の入り口を教えていただきました。鉄パイプの切れ目をくぐり、腰ほども伸びた草をかき分け、蛇などに注意しながら50mほどで山のふちに着きました。ここからは斜面を下ることになります。道はないため足で草木を踏み固めながら降りていくと、湿地帯に到りました。周囲を見回していると少し先に石祠があるのがわかりました。この辺りが沢山の泉と呼ばれているところで、GoogleMapのポイントはほぼ合っているようです。梨店の御主人の話では、以前この一帯は山野地で森や田畑しかなかったそうです。今は、広い道や宅地もでき、風景が大きく変わりました。その結果、湿地帯の水量が減少し、水が湧き出る泉は消えてしまったようです。
祭神は石凝留命、石裂命、日本武尊、根裂命です。
境内の案内板に次のように由来が書かれていました。
「明和元年、海上郡銚子海底より青石二個取上しに、其の石往々奇怪のおとあり、其の土地に於いて、住民之を崇敬する者多し。其の後祈願も其の願いに応じ利益少からず、のち住民供之を名づけて世直し石尊と尊称す。すなわち悪風を直し正に帰せしむるが故なり。住民或は其里に移し鎮守となさんとするものあり、或は相模の国石尊社へ奉納なさんとするものあり、論議の末終に奉納するの議に決せり。因て俄に神輿を作り其内に蔵し、発程方角を占して、各駅村を巡行し、将に奉納なさんとす。同年十二月中旬、近隣誉田村村及清戸村へ着せり、夫より浦部村鳥見社に着し、此処に暫時安置し程なく近隣同国相馬郡布佐駅へ奉送せんとせしに、豈図らんや時すでに月迫の故か、同駅に於いては更に受けず引返し、なお亦帰村の上安置す。其夜村吏のもの夢みらく、青衣の老人ニ名、来り曰く「俄等を高西新田鎮守両社の内へ合祭せよ」と言い捨て消失せり。村吏驚きて其夜明くるを待ち、同新田兼帯浦部白幡両村一同集議して神意に任せ同二年六月ニ十七日両社境内の凸地の頂に奉納す。因って年々歳々同日を以て祭る。」
日本武尊が東征の帰路、常陸から武蔵に向かう途中の休息地ではなかったかと推測しています。
「明和元年、海上郡銚子海底より青石二個取上しに、其の石往々奇怪のおとあり、其の土地に於いて、住民之を崇敬する者多し。其の後祈願も其の願いに応じ利益少からず、のち住民供之を名づけて世直し石尊と尊称す。すなわち悪風を直し正に帰せしむるが故なり。住民或は其里に移し鎮守となさんとするものあり、或は相模の国石尊社へ奉納なさんとするものあり、論議の末終に奉納するの議に決せり。因て俄に神輿を作り其内に蔵し、発程方角を占して、各駅村を巡行し、将に奉納なさんとす。同年十二月中旬、近隣誉田村村及清戸村へ着せり、夫より浦部村鳥見社に着し、此処に暫時安置し程なく近隣同国相馬郡布佐駅へ奉送せんとせしに、豈図らんや時すでに月迫の故か、同駅に於いては更に受けず引返し、なお亦帰村の上安置す。其夜村吏のもの夢みらく、青衣の老人ニ名、来り曰く「俄等を高西新田鎮守両社の内へ合祭せよ」と言い捨て消失せり。村吏驚きて其夜明くるを待ち、同新田兼帯浦部白幡両村一同集議して神意に任せ同二年六月ニ十七日両社境内の凸地の頂に奉納す。因って年々歳々同日を以て祭る。」
日本武尊が東征の帰路、常陸から武蔵に向かう途中の休息地ではなかったかと推測しています。
千葉県北部にあり利根川水系の湖沼です。もとは一つの大きな沼でしたが、現在は二つに分かれています。太古は香取海と呼ばれる広大な内海の一部で、印旛沼はその名残です。常陸から武蔵に戻る際にこの沼を船で渡ったのではないかと思われます。
「総の国回顧録」サイトには「印東体育館の南に位置する瓢箪型の山」と紹介されています。日本武尊が東征の折、印波浦を渡ったときに乗っていた舟を里人が埋めて塚を築いたと伝えられています。塚の形が舟に似ていたことから船形という地名をつけました。
瓢箪の形をした小山をGoogleMapを利用して印東体育館の南方向で探すと、体育館から続くすぐ南の小山がそれらしき山に思えます。畑で作業をしている方数人に声をかけて尋ねましたが、どの方もそのような伝承は聞いたことがないと言われてしまいました。周辺を歩き、やはりこの小山が船塚山であろうと判断し撮影しました。
瓢箪の形をした小山をGoogleMapを利用して印東体育館の南方向で探すと、体育館から続くすぐ南の小山がそれらしき山に思えます。畑で作業をしている方数人に声をかけて尋ねましたが、どの方もそのような伝承は聞いたことがないと言われてしまいました。周辺を歩き、やはりこの小山が船塚山であろうと判断し撮影しました。
祭神は鷲大明神です。鳥居額には「鷲神社」と書かれていますが、入り口の看板には「尾鷲神社」と書かれています。検見川神社の境外末社です。この神社の北側に自治会館をはさんで秋葉神社、三峯神社、古峯神社の三社の祠が並んでいます。古峯神社は日本武尊を祭神としています。
祭神は神祇三社検見川大明神(素盞嗚尊:すさのおのみこと、宇迦之御魂神:うかのみたまのかみ、伊弉冉尊:いざなみのみこと)です。
平安時代前期の第56代清和天皇の代に創建されたと伝えられています。当時全国的に疫病が流行したため、これを鎮めるために各地で神に祈りました。下総国においてはこの神社地にて素盞嗚尊が祀られ、災厄消除を祈ったと言われています。神社近くの花見川区朝日ヶ丘町には縄文時代後期の検見川泥炭遺跡があり、丸木舟が発見されています。検見川神社が創建される以前のこの辺りは海岸だったと考えられます。境内摂社として古峯神社があり日本武尊が祀られています。
平安時代前期の第56代清和天皇の代に創建されたと伝えられています。当時全国的に疫病が流行したため、これを鎮めるために各地で神に祈りました。下総国においてはこの神社地にて素盞嗚尊が祀られ、災厄消除を祈ったと言われています。神社近くの花見川区朝日ヶ丘町には縄文時代後期の検見川泥炭遺跡があり、丸木舟が発見されています。検見川神社が創建される以前のこの辺りは海岸だったと考えられます。境内摂社として古峯神社があり日本武尊が祀られています。
祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)、下照姫命(したてるひめのみこと)、日本武命、猿田彦命、健佐賀足智命(たけさがあしのちのみこと)、伊波比主命(いはひぬしのみこと)他です。
境内の石板には坂上田村麻呂が蝦夷征討の帰路中に諏訪大社を勧請したことが書かれています。
祭神は日本武尊で、ご神体はコウノトリの嘴(くちばし)です。大鳥大神とも呼ばれているようです。江戸時代は鳳凰大明神とも称されていました。ここは日本武尊の東征の帰路に立ち寄った所と伝えられています。
境内の案内板には次のように書かれています。「永保7年2月8日(1087)創建の古社である。大鳥大神とも称される神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の際.今の江戸川の市川側の台地から武蔵国側に、大河を渡河する場所が見つからずにいると、どこからともなく一羽のコウノトリが飛来し渡河地点を指示し、無事に渡河できたことより、その地を鴻の台と名づけ、神社は、日本武尊を御祭神として祀られている。」神社名から、近くに国府が置かれていたと思われます。
境内の案内板には次のように書かれています。「永保7年2月8日(1087)創建の古社である。大鳥大神とも称される神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の際.今の江戸川の市川側の台地から武蔵国側に、大河を渡河する場所が見つからずにいると、どこからともなく一羽のコウノトリが飛来し渡河地点を指示し、無事に渡河できたことより、その地を鴻の台と名づけ、神社は、日本武尊を御祭神として祀られている。」神社名から、近くに国府が置かれていたと思われます。
日本武尊が渡ろうとした江戸川は羅漢の井付近であろうと思われます。江戸川は一級河川利根川の分流です。
地名の国府台(こうのだい)の由来については国府神社の由緒に書かれていることと同じです。日本武尊が東征の折、江戸川を渡ろうとした時にコウノトリが飛んできて浅瀬を教えてくれたためこの地を褒美として与えたことから付けられています。羅漢の井の近くの台地上には下総国国府がおかれていました。この井戸からは現在も清水が湧き出ていますが飲用としては適していないようです。この井戸を発見したのは弘法大師と言われています。かつては『江戸名所図会』にも描かれている名水だったようです。
現在市川市のスポーツセンターの敷地内に総社跡の石碑が立っています。律令国家の下で各地に国府が置かれ、国司が治めていました。当時は国内の安定を神に祈ることが常であり、国司は国内の神社を一つ一つ回っていましたが、次第に一か所に神々を集めて祈るようになりました。それが総社です。ここは下総国内の神社を一括してまとめたところです。総社は国府の近くに置かれていましたので、下総国府もこの近く(現在の野球場と言われています)にありました。ここは台地上にあり西の江戸川方向に坂を下りていくと羅漢の井戸があります。また、南に少し下った所に国府神社があります。
祭神は日本武尊です。
日本武尊の東征の折、常陸から武蔵に向かう途中にここで従者たちと合流するため陣を設けたところです。日本武尊が待っていたのは吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日(おおとものたけひ)です。この伝承がもとで、「待つ郷(まつさと)」から=「待土(まつど)」と呼ばれ、「松戸」の地名となったと伝えられています。
東京都内の伝承地
都内の伝承地の中には東征の往路復路のどちらかがはっきりしているところがあります。東征後の立ち寄り地としての伝承がある神社を数社紹介します。
天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神としています。
日本武尊が東夷に行く時はここで戦勝祈願をされました。そして、東征後にも立ち寄り、社前の松に熊手をかけて戦勝を祝ったと言われています。その日が11月酉の日だったため、酉の祭となりました。
日本武尊、國常立尊、弟橘媛命を祀っています。
日本武尊は東征の折にここに立寄り、東夷平定と部下の目の病が治ることを祈願しました。後に東国を平定することができ、また、目も治りました。日本武尊は帰途再び参拝し、十握剣(天武雲剣)を献上しました。日本武尊が亡くなるとその霊(みたま)が白鳥となって現れたので「鳥明神」して社を築いて祀りました。
祭神は日本武命、大己貴命(おおなむちみこと)、少彦名命(すくなひこなみこと)、平将門公(たいらのまさかどこう)です。
日本武尊が東征の時、甲冑六具の内をこの地に収めました。
天照大御神、月読尊、須佐之男尊、豊受大神を祀っています。
日本武尊が東征からの帰途の際の休息地と伝わっています。