三浦半島から暴風雨の中房総半島に上陸した日本武尊ですが、このことは記紀には詳しく書かれていません。『日本書紀』では日本武尊はすぐに上総から陸奥国(東北地方)に入ったと書かれており、また『古事記』では上総の国に渡ることができたとして、記紀ともに房総半島での出来事は全く書かれていません。しかし、古老の口碑や里人の伝承、神社の社記などには日本武尊がこの地に長く滞在し、蝦夷らを征伐したことや弟橘媛のための陵を造ったことなどが多く伝えられています。それらは『君津郡誌』『安房郡誌』など千葉県内に残る歴史書にも紹介されています。しかし、驚かされるのは、千葉県内には日本武尊や弟橘媛を祭神とする神社がかなり多いことです。祭神は日本武尊でもその由緒のはっきりしない神社もありますが、由緒がはっきりとわかっている神社が多いのです。それら一つ一つの社を参拝し、記紀には書かれなかった日本武尊の足跡を見つけたいと考えました。このページは、各神社の社記や歴史書、及び数冊の書籍をもとに何日かにわけて訪問し調査たことを紹介しています。
また、房総半島の日本武尊を探るにあたり、HP「総の国回顧録」総の国回顧録を参考にさせていただきました。房総半島内の日本武尊に関する伝承地について地区別に大変詳しく調べてあり、私はこのHPをもとに実際に各地を訪問してきました。作者に連絡をし、実際に使用した書物等が保管されている施設を教えていただきましたので、私もそこに伺い市町村誌等で確認することができました。各地の伝承について「総の国回顧録」では簡潔に表現されており、私のHPでもその表現を参考に紹介させていただくことにしました。
房総半島とは
房総半島という呼び名は昔の律令制に基づく地方行政区名だった安房(あわ)の「房」と上総(かずさ)と下総(しもうさ・しもふさ)の「総」が合体したものです。この国名は飛鳥時代から明治時代初期まで使われていました。「総」は良い麻という意味があり、総国は良い麻がとれる地ということになります。また、安房という名は四国の阿波国にいた天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)が新開拓地として房総半島南部を選びました。阿波から移住するとき、天太玉命を祖とする忌部(いんべ)氏を伴っていました。そして、海路で房総半島南部に上陸し開拓を始めました。この忌部氏が住んだところを阿波→安房と呼んでいました。
当時は都を出た役人が後の東海道を通って東に向かい、房総半島に至るのに北部の陸路で行くか三浦半島から海路で渡るかの二通りの道を利用しました。通常は後者の海路を利用することが多く、そのため房総半島の中部を「上総」とし、その北を「下総」と定めました。都から行くのにより近いほうを「上」としたのです。
『古事記』『日本書紀』は飛鳥時代に天武天皇の命により編纂され始め、奈良時代に成立しています。そのため、日本武尊の時代には使われていなかった国名も記紀には書かれています。
房総半島上陸
走水から船出した日本武尊は弟橘姫の入水により突然の暴風から難を逃れることができました。そして、房総半島で最初に着岸した地は現在の富津市か木更津市のどこかであったろうと考えます。房総半島西岸に日本武尊が上陸したことを伝える神社がありますが、その他にもいくつかの上陸候補地が地図から見えてきました。伝承をもとにすると、上陸した可能性がある海岸は、八剱八幡神社近く、三舟山近く、金谷神社近く、みさご島近くのどこかで、軍船の停泊地が館山湾内ではなかったかと考えました。
*参考までに、東京湾周辺で同様な推測図を作成すると、現在と異なり、古代の東京都は海面が深く入り込んでいる様子がわかります。武蔵の国
房総半島の上陸候補地1 千葉市 八剱神社付近

御祭神は日本武尊、大日霊貴尊、大己貴尊です。
日本武尊が東征の折、相模国三浦から船でこの地に渡ってきました。日本武尊は当時起きていた争いを平定し、国を2つに分割して南を上総、北を下総とするように命じました。村人たちは「東国鎮護征夷神八劔神社」として祀りました。八劔神社に天神社を合祀しています。
房総半島の上陸候補地2 木更津市 八剱八幡神社付近
祭神は誉田別命、息長足姫命、足仲彦命、素盞鳴命、日本武尊です。
社伝によると、日本武尊はここに漂着し、しばらく滞在したとあります。静かな海を見ると入水した弟橘姫のことが思い出され、悲しみのあまりなかなかこの地を離れることができなくなっていました。そのため、この地を「君不去」(きみさらず)と言うようになり木更津(きさらず)の地名の所以となっています。
東京湾の浦賀水道の流れに乗り、走水から見るとやや北に位置する海岸に着いたことになります。
房総半島の上陸候補地3 三舟山(君津市)付近
君津市にある三舟山はもと御船山と書かれていました。それが三船山→三舟山と書かれるようになったと言われています。三浦半島を出航し、日本武尊が嵐のあと着岸したのがこの山の南に位置する海岸付近だったという伝承があります。 これは『吾妻神社記』によるものですが、『君津郡誌』にも取り上げられています。
古代の海岸線を推測した地図では現在富津市にある岬はなくなり、三舟山付近に海岸線があります。この辺りに日本武尊の船が着岸したというのも考えられることのように思われます。(赤○が三舟山)
三舟山周辺は公園として整備されており山頂までの遊歩道があります。
房総半島の上陸候補地4 富津市 金谷神社付近
『君津郡誌』では三浦半島と斜めに対し、房総半島に渡る最短コースを考えると富津に着くことになると説明しています。富津という地名の由来については「古津(古い港)」から変わったなど諸説ありますが、その中に、弟橘媛が入水した際身に着けていた布が海岸に流れ着いたという伝承から「布流津(ふるつ)」となり「富津」に変わったという説もあります。海の流れが三浦半島と房総半島を最短で結ぶ現在の富津岬方向であったなら、日本武尊の船もそこに着いたと考えられます。しかし、暴風を考慮しなければならず、簡単に決定することはできないと思われます。

祭神は豊受姫神、金山彦神、日本武尊です。
境内には大鏡鉄(だいきょうてつ)と言う円形の大きな鉄板があります。長年これは日本武尊らが乗船した船の先につけていた鏡だと信じられていました。そして、ここが上陸した湊ではないかと思われていました。しかし、現代の調査によって、大鏡鉄は製塩する際の釜の一部であることがわかりました。
鉄板の正体が判明していますが、それだけでここが着岸地ではないと否定することはできません。三浦半島からの距離や方位を考えれば金谷付近が上陸地であっても不思議ではありません。
房総半島の上陸候補地5 勝山の海岸
勝山のみさご島には弟橘姫のなきがらが流れ着いたと伝えられています。みさご島は勝山海岸から見える小島で、村人たちはここに流れ着いた弟橘姫のなきがらを葬りました。「みささぎ島」や「操島」と呼んでいたそうですが、それが「陵:みささぎ」→「みささご」→「みさご」となったようです。
暴風の中舵取りもできず風任せに海を渡ったと考えられ、船の着岸地と遺骸の着岸地はほぼ同じではなかったかとも考えられます。後にみさご島沖の浮島に景行天皇が訪れていることを考慮すると、よほど重要な場所であったかもと思われます。そこで、この島付近も上陸の候補地としました。
弟橘媛の遺骸はここから三黒を経由して山間部を抜けて茂原市本納に運ばれたと考えます。日本武尊が海路で房総半島を南岸を周り、東岸を北上して陸奥に向かったとすれば、本納の地は寄港地となり、陸路で運ばれた弟橘媛の遺骸と対面できたのではないでしょうか。
遠方の浮島には景行天皇が逗留し仮宮をおいたとする言い伝えがあります。
地図を見ると、三浦半島の南端から出航した場合、途中浮島を経由して房総半島に着岸するのが浦賀水道を渡る最短コースであろうと考えられます。日本武尊は走水から渡ろうとしましたので、最短は富津岬付近ですが、暴風雨の中でしたから最短ではたどり着きませんでした。船が南に流されて着いたのがみさご島付近であったのではないでしょうか。日本武尊の船団はその後さらに南下し、波静かな館山湾に停泊していたと考えています。
房総半島の上陸候補地6 館山湾(館山市)
前述のように『安房郡誌』には一説として、日本武尊は走水より安房の館山湾付近に着いたと書かれています。そして、上総に上陸したとする「上総」とは房総半島全体をさしているという意味であり、房総半島の淡水(あわ)の渡り場を渡ったと説明しています。この淡水の渡り場が館山湾ではないかとも考えられるのです。そして、後に陸奥に向かうときに通った葦浦は「吉浦」のことであり陸路で館山から吉浦(現在の吉浦海岸)に行ったとしています。ただ、葦浦は野島崎、玉浦は夷隅郡で海路で南を回って着いたとも書いています。その他の説もあり定まっていません。
景行天皇が浮島の宮にいるとき『日本書紀』にある以下の出来事がありました。(みさご島画像の右端が浮島)
『日本書紀』
是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總国、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。
この月(景行天皇53年8月)に天皇は伊勢に行幸しました。そして東海に入りました。冬10月に上総国に到着しました。海路で淡水門(あわのみなと)に渡りました。この時、覺賀鳥(かくかのとり:みさごという鳥)の声を聞きました。その鳥を見たいと思って海に出たところ、白蛤(しろうむぎ:はまぐり)を得ました。膳臣(かしわでのおみ)の遠祖で磐鹿六鴈(いわかむつかり)という者が蒲(がま)をたすきにして、白蛤を膾(なます)に造って奉りました。天皇は六鴈臣(むつかりのおみ)の功績を褒めて、膳大伴部(かしわでのとものべ)という役職を与えました。
景行天皇が皇子日本武尊の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(しろうむぎ)(=はまぐり)がとれた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾(なます)や焼き物にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜った。この功により若狭の国、安房の国の長と定められ、以後代々子孫は膳の職を継ぎ、もし世継ぎの無いときは、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜った。また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え、高倍さまとして宮中醤院(ひしおつかさ)で醤油醸造・調味料の神として祀られている。醤(ひしお)には、野菜を発酵させた草醤、穀物を発酵させた穀醤、魚などを発酵させた肉醤があった。今でいう漬物・味噌醤油・塩辛の三種だが、これらは日本料理の基礎をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由緑であります。」
淡水門ー館山の湾内に停泊

弟橘姫を偲ぶ日々
日本武尊は相模の海を渡る際に遭難しますが弟橘姫が身代わりとなって入水したことで無事上陸することができました。着いたところが「八剱の海」と呼ばれるようになったと言われています。日本武尊はしばらくここに滞在しました。対岸の走水の方を眺めると、海は穏やかに光り輝いています。最愛の媛を失い、日本武尊は心に深い傷を負っていました。
日本武尊の歌
「君去らず袖しが浦に立つ波のその面影をみるぞ悲しき」
この歌の「君不去(きみさらず)」はやがて「木更津(きさらず)」と変わり、現在の地名となりました。地名の由来については諸説あり、日本武尊によるものとする説には否定的なものが多いかもしれません。
また、君津市では「君去津(きみさらず)」から君津となったことを由来としています。
房総半島に上陸した日本武尊が滞在した場所にも多くの神社が建てられています。また、荒れた海に身を投じた弟橘媛の死を悼み、海を見つめながらここを去りがたく思っていた日本武尊の姿も見えてきます。大きな戦を前に、しばらくこの地に留まっていたのではないかと考えられます。
走水の海を囲む海岸には、入水した弟橘媛の遺品が流れ着きました。房総半島には遺骸や身に着けていた衣服の一部が流れついたと伝わっています。これらを村人たちが海岸近くに丁重に埋葬し、そこに祠を建てました。

木更津市にある標高44mの太田山に鎮座しています。日本武尊はこの山に登り海を見下ろして弟橘媛を偲んだと伝えられています。この神社は縁結びの神で、周辺は「恋の森」とよばれています。君去らず・・・の歌をここで詠んだとも言われています。

千葉県木更津市にある標高44mの太田山山頂にあります。木更津市の名の謂れともなっている「君去らず・・・」という日本武尊の歌はこの高台から詠まれたとも言われています。公園にある展望台には2本の塔があります。これらの先端に日本武尊と弟橘媛の像が向き合って立っています。この展望台は平成4年に建てられたものです。展望台からは天気が良いと東京湾まで見渡せます。

日本武尊他を祭神としています。太田山にて日本武尊が海を見つめて弟橘媛を偲んだことにより祀られました。

祭神は風鎮めの神の志那都比古尊です。弟橘姫は大和国の龍田大社を遥拝し、無事に航行できたなら上総の地に風鎮目めの神を祀ると祈りながら海に身を投じました。日本武尊はその遺志を継いでここに祀ったとされています。

祭神は風鎮めの神の志那斗弁命で日本武尊、天児屋根命他も祀られています。
社伝では景行40年に舟軍の安全航海を祈って宮山台とよばれるこの地に志那斗弁命を祀ったとされています。志那斗弁命は弟橘姫が入水時に祈っていた風神です。後に源頼朝が房総から鎌倉に向かう途中ここで馬ぞろえをして武運長久を祈ったので、以前は流鏑馬が行われていたようです。
主祭神は弟橘姫です。
弟橘姫が着ていた着物の袖が近くの海岸に流れ着き、ここに埋めたとされています。
日本武尊の歌「君去らず袖しが浦に立つ波のその面影をみるぞ悲しき」
近くに池があり、「鏡が池」と呼ばれています。弟橘姫の鏡を沈めたところと言われています。

日本武尊が滞在または立ち寄ったかどうかは不明です。
祭神は弟橘姫命です。
弟橘媛が入水したときに身に着けていた白布がこの近くの海岸に漂着したので祠を建てたと伝えられています。白布が漂着したところ布流津(ふるつ)と呼んでいましたが、これが富津と変わりました。
この後の弟橘媛の伝承については
弟橘媛の悲劇
房総半島は激戦地
記紀両方に書かれている蝦夷との最大の戦いは房総半島での出来事であろうと考えています。鹿野山一帯を支配していた阿久留(あくる)王(六手王)は大和の支配を拒否するため全軍挙げて戦いを挑みました。それは壮絶な戦いであったようで、兵士らの血は川をも赤く染めていたと言われています。
日本武尊が東征に派遣されたのは房総半島の袖ケ浦に宮をおいて治めていた景行天皇の皇子が阿久留王に攻められて滅んだことから、それを奪いかえすことにあったとも言われています。それが主目的であるなら『古事記』に書かれているように、房総半島での戦いこそが東征の最大の目的である蝦夷との戦いとなり、これに勝利したのち、山間部を経由して尾張の熱田に向け歩んだことになります。
『古事記』とは異なり『日本書紀』では陸奥の日高見国まで行ったことになっています。酒折宮での歌から、日高見国は新治・筑波より北にある地域と推測できます。房総半島での激しい戦いのあと、日本武尊はさらに北に進みます。
戦の前の滞在地
千葉県の西海岸沿いの地域には日本武尊を祭神とする多くの神社や伝承があります。このことから、房総半島での戦いを前にして、西海岸のどこかを拠点として各地にでかけ、抵抗する賊らに圧力をかけていたのかもしれません。あるいは、戦いの後も西海岸近くにしばらく滞在していた可能性もあります。
祭神は日本武尊、源頼朝です。
日本武尊が東征の折、この地で休憩しました。塚に杖を立てて置いたことによりこり村を「武の郷」と呼び、武の塚神社が建てられました。後に、源頼朝がこの神社を日本武尊と関係があるところと聞き、ここに白旗を納めて戦勝祈願しました。この白旗が残っていると言われ、このことから現在の神社名になりました。
祭神は日本武尊、源頼朝、源頼家です。
祭神として祀られている以外に日本武尊の伝承はないようです。
源頼朝に関して市原市君塚の伝承と同様のことが伝わっています。
祭神は日本武尊、源頼朝です。
祭神として祀られている以外に日本武尊の伝承はないようです。
源頼朝がここで野宿をし、その記念に松を植樹して「白旗の松」と称したと伝わっています。後にその松があるところに神社を建てました。
祭神は日本武尊他です。
少し小高い所にありました。現在はこの辺りの地名を押沼と書いていますが、昔は鴛沼と書いていたようです。かつてここは沼のある湿地帯が広がっていたようです。さらに調べてみると付近に製鉄遺跡があることが分かってきました。日本武尊と大和政権が支配したい鉄産地はここでも何らかの関係があるようです。
祭神は日本武尊、天日鷲命です。
氏子は鶏肉、鶏卵を食することを禁じられていましたが、それは日本武尊が白鳥となったことによるものと言われています。
祭神は日本武尊です。鳥居までの長い参道は流鏑馬を行っていたためと分かりました。
日本武尊の滞在地で、付近の住民が食事を献上したと言われています。しかし、境内の案内板には日本武尊に関わる由緒等は書かれていませんでした。

市原市分目(旧海上村分目)に日本武尊を祭神とする大鷲神社がありました。現在その所在地は不明ですが分目地区を歩いていてこの神社を教えてもらいました。大鷲神社との関係はわかりませんが、雷公大明神についても祭神等分かっていません。
祭神は倭建命です。石神大明神と称していました。
ご神体とされる石は、日本武尊が東征の時、この地の鬼神に投げつけて殺した石と伝えられているものです。石は養老川に沈みましたが、江戸時代に漁師が網で引き上げたので祀ったと言われています。
祭神は武御雷命(たけみかづちのみこと)、大宮姫命、大日霊尊(おおひるめのみこと)
少し小高い所にあります。この神社の裏山は「人見塚」と呼ばれています。日本武尊がこの塚に立って民を眺めたことからついた名です。

富士山に祀られている木花之開耶媛(このはなさくやひめ)や大山祇神(おおやまつみのかみ)他を祭神としている富士山信仰の神社です。近隣の地区にも浅間神社が数社ありますが、丘陵上にあるこの神社には日本武尊の伝承がありました。日本武尊は東征の途次、ここに富士の大神を祀りました。

野見金山は標高約180mの山です。日本武尊が東征でこの近くに来た時のどが渇いてしまいました。しかし、あたりを見ても飲み水はありませんでした。そこで「飲み兼ね」と言ったと言われています。それが野見金に転化したと伝えられています。市原市との境に小高いところがあり鏡塚と呼んでいるそうです。その鏡塚には弟橘媛の鏡が収められていると言われていますが、現在その場所を確認することができませんでした。
祭神は日本武尊です。市原市石神にも羽雄(はねお)神社がありますが、そちらは大山祇命を祭神としています。
日本武尊と鹿野山の賊との戦いは10日間(11/26~12/5)続いたとされています。この地方の人たちはこの間、武人と会わず、髪を結わず、沐浴せず、談笑せず、夜は火を灯さずの習慣があったとされています。
祭神は国狭槌尊です。
日本武尊が東征の折創建したと伝わっています。
祭神は天照皇大神、國常立命、大己貴命です。
日本武尊が東征したときに創建されました。境内地が広いため大宮と名付けられました。後に源頼朝も戦勝祈願をおこないました。

祭神は建速須佐之男命です。
日本武尊が東征の時、東夷平定の祈願をしたと伝えられています。

誉田別命、息長帯姫命、玉依姫他を祀っています。もと六所御影神社と称していましたが、天武天皇の時代に八幡神社として創建されたと伝えられています。また、石清水八幡宮の上総国市原別宮でもあったとされています。
境内の案内板には書かれていませんが、日本武尊は東征の折六所御影神社を休息地としました。その際村人が出した飯の香りがよかったのでこの地を「飯香岡」と呼びそれが地名となりました。
地名の所以は日本武尊が馬の数を数えたことによります。
最強の敵「阿久留王(六手王)」との闘い
日本武尊の東征は「まつろわぬ者たち」を征伐するという勝者の立場で書かれています。そのため、東征の敵となっている蝦夷は熊襲同様に野蛮な者たちであり、鬼のような悪賊たちとしています。それは『日本書紀』の中で、武内宿禰の報告を聞いた後に語った景行天皇の言葉にも表されています。
『日本書紀』
天皇は日本武尊に斧(おの)と鉞(まさかり)を渡しながら言いました。「聞いたところでは、東国の者たちは性格が凶暴で悪いことばかりしている。村に長(おさ)も首(おびと)もおらず、領土を奪い合っている。山には邪神、野には姦鬼がいて、往来の邪魔をするのでたくさん人々が苦しんでいる。東国の中でも蝦夷はとくに強い。男も女も一緒に住み、父と子の区別もない。冬は洞穴で寝て、夏は森に住む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合っている。飛ぶように山を登り、獣のように草原を走る。獣のよう。恩を忘れ、恨みははらす。髻(もとどり 頭の上で髪を束ねたもの)の中に矢を隠し、衣の中に刀を入れている。仲間を集めて、領地を犯し、収穫期に作物を略奪する。弓を射ると草に隠れ、追いかければ山に逃げる。昔から今まで朝廷に従ったことがない。
これにより「滅ぼされて当然の悪鬼」が生まれるのです。
悪鬼 阿久留王(六手王)
鹿野山(かのうざん)周辺を拠点として治めていた悪久留(あくる)王という名の首長がいました。六手(むて)で生まれ育ったので別名「六手王」と言われていました。六手王はこの地域では郷土開拓の祖神ともされていますが、当時、中央の政権からすれば朝廷に反旗を翻していた賊にほかなりませんでした。六手王が朝廷の命に逆らったということは、土着の者以外の侵入を受け入れないという、いわゆる自治の意志を示したものでしたが、全国を武力で支配している天皇は日本武尊に征伐を命じたのです。
*阿久留王は悪路王、悪褸王、亜久留王とも表記されています。
*鹿野山明王は六臂なので六手王と呼ばれ、六手王が生まれたところを六手というと『君津郡誌』には書かれています。
軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)は八臂(ぴ)に対して鹿野山明王は六臂で手足に蛇をかけていました。六手王の名はここからつけられたと言われています。
戦勝祈願
日本武尊が戦勝祈願したと伝えられている神社がいくつかあります。
豊宇気比責命(とようけひめのみこと:豊宇気大神) 久久能知命(くくのちのみこと)です。
もとは駒原神社といいました。日本武尊が東征の折、夷族退治を願い駒を放ったと言われています。案内板に以下のように書かれていました。
「往昔、日本武尊が東夷征伐のため上総國へ赴く際、当地に「御駒(馬)」を放ち、この地主神に夷賊退治の無事達成を祈り誓いを立てた事から、此の地は「駒ヶ原」と呼ぼれた(駒原神社再建寄進帳・文政五年)御社は「駒原神社」として豊宇気大神を祀った。」
日本武尊が東征の折、山の端に神々しく上る朝日を拝み、天の岩戸から出る天照大神もこのようだったのだろうとしてこの山を「磐戸山」と名付けました。岩井の地名もそこからついたとされています。そして、ここで戦勝祈願したと伝えられています。小高い所に建っており、現在は社殿周りは高い木に囲まれているため眺めがよくありませんが、創建時は清澄山や鹿野山が見えたようです。


もとは磐戸神社と呼ばれていましたが、奈良時代に現在の名に変わりました。ここは日本武尊が戦勝祈願し、親(みずか)ら奉幣したところと伝えられています。
祭神は出雲大社の神々で素盞鳴命(すさおうのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、大巳貴命(おおなもちのみこと)です。
日本武尊が東征の折、この地に神籬磐境(ひもろぎいわさか)を立てて素盞嗚尊を祀り、戦勝祈願しました。その結果、阿久留王を討つことができました。その後、景行天皇がこの地に御巡幸の折社殿を造営したと伝わっています。
房総半島の昔話と地名
房総半島には日本武尊が九頭龍(くずりゅう)と戦ったという昔話があります。九頭龍は阿久留王のことともいわれ、千葉県君津市、木更津市、富津市には日本武尊との戦いを伝える地名がいくつか残っています。
九頭龍は九つの頭を持つ大蛇で、九頭龍に関わる伝説は箱根や熊本など日本各地で見られます。房総半島の鹿野山にも日本武尊の戦いとして伝えられています。(wikipedia参考)
昔、鹿野山の鬼泪山には九頭龍と呼ぶ大蛇が住んでいました。九頭龍は村人たちを襲い困らせるので、村人たちは都に九頭龍退治を願い出ました。それに応えるかのように村に日本武尊がやってきました。日本武尊は村人たちの前で草薙剣を見せ、九頭龍退治を誓いました。
日本武尊は村人の案内で鬼泪山に入り九頭龍を探しましたが見つかりませんでした。夜になり、日本武尊は疲れて眠ってしまいました。そこに九頭龍が現れ、日本武尊は飲み込まれてしまいました。それから3日経ち、村を流れる川の水が赤く染まりました。赤い川を見た村人たちは日本武尊が九頭龍を退治したにちがいないとか、日本武尊は九頭龍に殺されてしまったなどと騒いでいましたが、村人たちの目の前に姿を現しました。日本武尊は九頭龍に飲み込まれると草薙剣で腹を切り裂き外に出たのです。そして、九つの頭を切り落とし、村に帰ってきたのです。
九頭龍の血で赤く染まった川を「血染川」後に「染川」と呼ぶようになったと伝えられています。九頭龍の霊は後で祟りがないように神野寺の境内に九頭龍大権現として祀られています。

鹿野山鬼泪で阿久留王の流した血で真っ赤に染まった
「血草川」あるいは「血染川」といい、と言われています。

鎗水川は小櫃川の支流です。日本武尊は賊を征伐したのち、鎗を川で洗ったと伝えられており、このことから鎗水川という名になったと言われています。

「千種」は「血臭」「血草」から変わった地名と言われています。千種新田の海辺はかつて血臭浦と呼ばれていたそうです。戦いで流れた地で川が赤く染まったと言われています。
袖ケ浦市には日本武尊の戦いの様子を伝えていると思われる地名が下のようにいくつかあったようです。しかし、これらを探してみましたが見つけることができませんでした。
高谷 飯戸井(いいどい)
賊を征伐するために戦った兵や村人に保食神が飯を出した。
高谷 鬼ヶ谷
賊が山にこもって抵抗した
高谷 上勘命・下勘命(かみかんめい・しもかんめい)
もとは「神迷」と書いていました。日本武尊と戦っていた賊が鬼ヶ谷に籠り抵抗していました。その時毒気を含んだ雲霧を吐き出したので兵らは倒れてしまいました。日本武尊も気を失ってしまいましたが桜大明神が現れて救いました。神が迷ったという意味で「神迷(かんめい)」と地名がつきましたが、後に「勘命」と変わりました。
滝ノ口 鬼塚(きづか)
賊の遺骸を埋めたところと伝わっています。
滝ノ口 木別当
もとは鬼別当と書いていました。日本武尊と戦って逃げてきた鬼らがここで死んだと言われています。
滝ノ口 鎗水 日本武尊が東征に派遣されたのはここを治めていた景行天皇の皇子が阿久留王に攻められて滅んだことから、それを奪いかえすことにあったとも言われています。日本武尊は賊を征伐したのち、鎗を川で洗ったことから鎗水川という名になったと言われています。
主戦場 鹿野山
日本武尊と阿久留王との戦いの様子は、君津市、富津市などにある神社にも伝わっています。
戦の中心地となった鹿野山一帯では壮絶な戦いが行われていました。鹿野山は千葉県君津市にある標高380mの山で、白鳥峯、熊野峰、春日峰を合わせて鹿野山と呼んでいます。この山の名前は、一説では賊を追っていた日本武尊が道に迷っていたところに鹿が現れ道案内をしたことからついた名ともいわれています。また、山頂付近には神野寺が建っています。この寺の名は鹿野山での激しい戦いの中、山頂に諸神が現れて日本武尊の味方をしたことからついたと言われています。神野寺は関東地方最古の寺で1400年の歴史があります。
鹿野山の最高峰にある神社で、白鳥大明神とも称されています。ここには日本武尊と弟橘媛が祭神として祀られています。ここ鹿野山を拠点として阿久留王が猛威を振るっていましたが天皇の皇子日本武尊が派遣され征伐されました。東国平定の後日本武尊は三重で亡くなりますが、白鳥となってこの地に飛来しました。村人たちは日本武尊の徳を偲んでここに白鳥神社を建てました。また、白鳥山山頂に日本武尊を祀る塚を築き、神社入り口には弟橘媛を祀る弟橘比売神社が建っています。
鹿野山の白鳥神社境内にあります。祭神は弟橘媛です。神社名額の代わりに大きな櫛が掲げられていますが、走水で入水した弟橘媛の櫛が海岸に流れ着いたことを伝えているようです。
白鳥神社から少し下りたところにある眺めの良いところです。いくつも連なる山々を一目にすることができるので「九十九谷」と呼ばれています。この地にはかつて神野大明神の大華表(おおとりい:鳥居)が建てられていたと言われています。

鹿野山白鳥神社から神野寺前に至る県道93号は上り坂になっています。この坂をアクル坂と呼んでいます。阿久留王がこの地で征伐されたことによりつけられた名です。
日本武尊は全軍をあげて阿久留王と戦いました。阿久留王もそれに挑みましたが時間が経つにつれて敗戦の色が濃くなってきました。そんなとき日本武尊軍の兵士が射た矢が阿久留王の目に当たりました。これ以上戦うことができなくなった阿久留王は涙を流して命乞いをしたと言われています。鹿野山近くにあるその場所は鬼泪山と呼ばれています。この山の名はもとは血泪(ちなだ)山と言っていたようですが、後に鬼泪山に転化したようです。阿久留王らの賊鬼たちは鹿野山の窟屋を攻められこの山に敗走してきましたが、ここは草木の生えない山で身を隠すことができませんでした。
地図からはこの山がどこを指すのかはっきりしませんが、現在マザー牧場がある付近かとも思われます。県道163号を走ると「鬼泪」と書かれた標識が建っていました。

社伝によると房総の鹿野山に土着の豪族阿久留王がいて小糸川流域を支配していました。これを征伐するため日本武尊が東国開拓の先駆として派遣されました。吉備武彦や大伴武日連らとともに房総に上陸した日本武尊は鬼泪山で対戦することになりました。阿久留王軍は勇敢で日本武尊軍は苦戦を強いられました。その時、諸神が現れ日本武尊を助けました。激戦の後、阿久留王は深手を負い、故郷の六手に敗走しました。この神社のある「皿引」という地名は元は「血引」でした。これは阿久留王が血を流しながらこの地を通過したことを意味しています。
東国が平定されたのち、ここに東国平定の勇者として日本武尊を祀る社を建て、御太刀神社としました。
神社のある集落は六手王に関する伝承があります。鹿野山の悪久留(あくる)王はこの地方を治めていた首長で、阿久留王の生誕地は六手地区です。六手で生まれ育ったので別名「六手王」とも呼ばれています。六手王は日本武尊と鬼泪(きなだ)山で戦い、敗れました。
この地域に六手神社があり小さな古墳が隣接していますが、宮司さんによればこの神社には六手王に関わる伝承はないそうです。祭神は誉田別命、息長帯姫命、神功皇后の他郷土開拓の祖神と言われる人たちです。ここは鎌倉時代に鶴岡八幡宮から分社されたと伝えられています。六手八幡宮の社務所には六手王の霊を鎮めるためのお札のみが収められているそうです。
この戦で敗れた阿久留王(六手王)は日本武尊軍によって再び蘇らないように首と胴体を別々にして葬られました。首が埋められたのがお八つが塚で胴体は阿久留王塚と言われています。現在、阿久留王塚は残っていますが、お八つが塚は館山自動車道の建設とともに壊されてしまいました。
戦いの激戦地に阿久留王の体は八つ裂きにされ、それぞれ別々の場所に埋められました。胴体を埋めたところが阿久留王塚です。(一説には首塚とも)ここは鹿野山神野寺から北に下った境内地で、毎月13日の9時30分から供養が営まれています。
西暦598年(推古天皇6年)に聖徳太子の開山による寺で本尊は薬師如来です。1400年の歴史があります。阿久留王塚は神野寺が管理しています。寺の近くにはアクル坂があり、阿久留王の名からつけられています。阿久留王との戦いでは諸神が現れ日本武尊に味方したと伝えられ、そのためここを「神野(じんや)」と称しています。
阿久留王は凶暴なため征伐されたのちも祟ることがあると恐れられました。そのため日本武尊は神野大明神を祀りました。神野寺が開山される以前の事です。その後里人たちは祟りが及ばぬように神野寺に祀ることにしました。
房総半島には日本武尊と九頭龍の伝説があります。この九頭龍は阿久留王のことと言われており、その祟りがないように、神野寺境内に九頭龍大権現が祀られています。
この塚を含む一帯は鹿島台遺跡と呼ばれる弥生時代の集落跡が自動車道建設の際見つかりました。建設に先立ち詳しく調査がされた後に取り壊されましたので、現在はその姿を見ることはできません。鹿島台遺跡を知っている地元の方に話を聞くと、お八つが塚は小さな塚だったそうです。
この地を訪問した時、GoogleMapを利用し、鹿島台遺跡と地図上に表示された場所を目指して行きましたが何もありませんでした。そこで、近くの畑で作業している人たちに話を聞きましたが、昔この付近に遺跡が確かにあったそうですが子供のころの記憶ではっきりとは覚えていないとのことでした。ただ、GoogleMapの位置を示すとそこには何もないし、発掘調査は現在の自動車道があるところで行われていたとお聞きしました。六手八幡神社の宮司さんはお八つが塚の調査に立ち会われたそうです。数年前、道路建設工事の前に塚を掘ったけれども、何も出土しなかったそうです。その塚は昔から阿久留王の首塚と言い伝えられてきたので何か出土するであろうと期待していたけれど、何も出なかったそうです。しかし、鹿島台遺跡があったところに鹿島神社の祠があり、鹿島神社は蝦夷征伐の神と伝えれているため、この一帯は戦の拠点であったのではないかと話されました。これは想像であって証拠は何もないとのことでした。
祭神は日本武尊です。鹿野山での戦いの際、大福山に逃げた賊を追いかけてここで征伐しました。大福山は房総半島のほぼ中央に位置し、標高290mの自然林におおわれた山です。山頂付近には白鳥神社があり日本武尊を祀っています。後に源頼朝が大福山に蔵王権現を祀ろうとしましたが果たせませんでした。そのため、妻の政子が神鏡を納めて蔵王権現を勧進したことから、もとは蔵王権現社と呼ばれていました。
祭神は日本武尊です。
もと小鷹大明神とよばれていました。日本武尊がこの地で賊を征伐したことにより建てられたと案内板に書かれています。
祭神は日本武尊です。
日本武尊がこの地で賊を征伐したことにより建てられたと言われています。
祭神は日本武尊です。
この神社は社殿の戸が閉ざされており、管理されていないように思われました。社殿の様子がわからず、現地に着いても参拝することができませんでした。小高神社と同様の伝承がありそうですが、詳細は分かりませんでした。
房総の伝説
日本武尊を主祭神としています。
相模より海を渡ってきた日本武尊は木更津から鹿野山を経てここに東夷の征伐に来ました。夷賊を平らげて後、人々を愛撫し村人はその威徳を仰いで日本武尊を村の鎮護の神として祀ることにしました。
また、『房総の伝説民話紀行』には、阿久留王の家来がこの山奥に逃亡してきた話が伝わっています。家来たちが逃げてきたこの地は山深く食べ物もありませんでしたが、谷間の池や沼には多くの亀がいました。兵士たちは崖に穴を掘り住みかとして暮らし、亀を捕まえて食べていましたが、やがて亀を食べつくしてしまい、挙句の果て皆飢え死にしてしまいました。兵士らは悪霊となり霧や雨となって山谷を暗くし、ここに人が住むことはできませんでした。ここに不動明王が現れ悪霊を退治したので、山仕事をする人々が住みはじめました。しかし、山深く穀物は育ちません。飢え死にする人もいました。そこに再び不動明王が現れ、炭焼き人が滝のそばで不動明王像を発見したこともあり堂を建てたと伝わっています。
東北の悪路王
記紀には蝦夷についての具体名は書かれておらず、日本武尊が房総半島で阿久留王と戦ったという記述もありません。しかし、木更津市、君津市、富津市などに多く伝えられている話から蝦夷との戦いが実際にあったと考えています。『古事記』の中の蝦夷との戦いは阿久留王との戦いをさしていると考えています。
房総半島で阿久留王と戦ったことは事実であろうと思われますが、実は東北地方に興味深い言い伝えがあり、史書(『吾妻鏡』)にも記載されていることから『君津郡誌』では東北の出来事が誤って伝えられているのではないかとしています。
『房総の伝説民話紀行』には、阿久留王が土着勢力を率いて駿河まで進出して日本武尊と戦ったが、敗れて地元にもどって再び戦ったと書かれています。
桓武天皇の時代、岩手県平泉に田谷の巌と呼ばれるところに、悪路王(あくろおう)、赤頭(あかがしら)、高丸(たかまる)らの蝦夷が住んでおり、村人たちを襲い暴虐の限りつくしていました。国府も制圧することができずにいたため、悪路王たちはますます勢いをつけ三千の賊らを従えて駿河の国にまで進んできました。そこで天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ蝦夷征伐に派遣しました。この知らせを聞いた悪路王らは恐れをなして田谷の巌に引き返して守りを固めました。801年、坂上田村麻呂たちは田谷に着くと蝦夷らは毒矢を射ってきました。そこで、田谷の巌に総攻撃をかけました。激戦の末朝廷軍は勝利しました。悪賊らは首をはねられ、ついに平定することができました。この勝利は毘沙門天のご加護があってのこととして巌谷に清水寺に似た精舎を創建し百八体の毘沙門天を祀りました。それがこの巌毘沙門堂です。
写真は2007年に参拝したもので、現在の堂は改築され朱く塗られています。
景行天皇の東国御巡幸
東征の後日本武尊は白鳥となって飛び立ちました。その10年後の景行天皇53年8月に天皇は日本武尊が平定した東国を巡行しました。景行天皇は伊勢から東海に入り、10月に上総に至りました。
淡水門を渡った天皇は安房の浮島宮に至りました。
景行天皇の安房巡幸を伝える神社が南房総市にあります。
景行天皇は日本武尊が平定した東国を実際に訪問し、その様子を見て回りました。そのことは、景行天皇の伝承があるところは日本武尊が訪れたところであるとも言えます。その意味だけを重視すると、日本武尊は海路で房総半島の南を回ったことになります。しかし、日本武尊が実際に訪れたとする房総半島東海岸に向かう際、天皇は海路で向かったため、その寄港地が千倉町だったのであり、日本武尊の滞在地とは関係がないと考えることもできます。景行天皇の巡幸地だけでは陸路か海路か判断できないようです。
神社の駐車場に案内板があります。以下のことが書かれています。
「主祭神 磐鹿六雁命、天照大神・稲荷大神を併せ祀る。
主祭神 磐鹿六雁命については「日本書紀」の第12代景行天皇53年冬10月の条および延暦8年(789)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」に記述されています。
景行天皇が皇子日本武尊の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(=はまぐり)がとれた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾(なます)や焼き物にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜った。
この功により若狭の国、安房の国の長と定められ、以後代々子孫は膳の職を継ぎ、もし世継ぎの無いときは、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜った。
また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え、高倍さまとして宮中醤院(ひしおつかさ)で醤油醸造・調味料の神として祀られている。醤(ひしお)には、野菜を発酵させた草醤(くさびしお)、穀物を発酵させた穀醤(こくびしお)、魚などを発酵させた肉醤(にくびしお)があった。今でいう漬物・味噌醤油・塩辛の三種だが、これらは日本料理の基礎をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由縁であります。」
上総より陸奥へ
柴崎神社 千葉県我孫子市柴崎 -戦勝祈願
祭神は天之御中主神です。
日本武尊が東征の折に創建されたといわれています。
千葉神社 千葉県千葉市中央区院内1丁目16−1
阿久留王を征伐したあとの日本武尊の行程は2説あります。上総の西海岸から陸奥への出発地となる房総半島北東海岸へは房総半島内陸部を陸路で進むか、あるいは、西の海岸から出航し海路で房総半島の外洋を回って勝浦経由で北に進むかです。
房総半島の東に位置する本納の橘樹神社へは弟橘媛の遺品や遺骸が運ばれました。日本武尊はここに弟橘媛の御陵を築いたのです。現在の本納は海から離れていますが、古代の海岸線は神社からそんなに遠くはなかったようです。陸路で遺骸に付き添ってここまで来たのか、海路を航海し、近くの海岸から上陸してここまで来たのか、それを決めることができません。
それはどちらも可能性があるからです。陸路で考えたコース上には日本武尊が滞在したと伝える神社が数社あり、海路では寄港地と推測できる勝浦に伝わっている昔話があるからです。伝承の数で比較すれば陸路となりますが、その場合船団のみ海路で移動したと考えることもできます。
陸路説
木更津から東に向かった日本武尊は袖ケ浦市三黒から茂原市長尾を経由して同市本納に向かいました。その行程は各地の神社に伝わっており、市原市皆吉の弟橘媛神社と御嶽神社がやや外れていますが、それを除けばほぼ袖ケ浦の三黒から本納の橘樹神社に至る最短コースに沿っていると考えられます。
そこで『君津郡誌』に記載の経路をたどってみました。




祭神は日本武尊です。
日本武尊が東征の折ここで鉾を立てて休息したと言われています。


祭神は天照大日孁貴尊、保食神、面足神です。
日本武尊は弟橘媛の遺骸とともにこの近くを通過したのではと思います。その際洪水にあい、先に進めなくなったので近くで休んだと言われています。そこは「いもた塚」と呼ばれているようです。
また、神代台に大小七つの塚があり、神代七塚と称しています。その一つが神のお休み場と呼んでおり、その跡に弟橘媛のを祀る社を建てたとも言われています。


弟橘媛神社は橘禅寺の背後の山の中にあります。橘禅寺は天平九年に僧の行基が薬師如来を祀ったところです。そこは、日本武尊が弟橘媛の遺品(櫛)を埋めたところにああります。後に弟橘媛を祀る社を建てました。ここは袖ケ浦市三黒から茂原市本納に向かう道沿いにあり、いわゆる葬列がたどった道とも考えられます。
薬師堂の前に日本武尊がここで休息したことを伝える「腰掛松」があったようですが、参拝時、それを確認することはできませんでした。






市原市の川在(かわざい)に水飲坂と呼ばれるところがありました。そこは日本武尊がこの地で清水を飲んだことによりついた地名です。川在地内には大宮神社があります。


日本武尊は鹿野山の賊徒を征伐したのち、房総半島を横断し東海岸を目指しました。その途中にここに至りました。土地の首領の山座王らが日本武尊を歓迎し迎えたのでここに駐軍し、兵士らの労をねぎらいました。
村の名六地蔵は道の傍らに六体の地蔵があったことによりつけられましたが、もとは成武村と称していたようです。武尊がここにお成りになったことにより成武村となっていたようです。武峯神社には日本武尊が祀られています。
ナビで武峯神社を指定すると下の写真の遥拝地に着きます。近くの畑で作業をしている方に本宮の場所を尋ねました。昔、山上の本宮まで行くのは容易ではなかったことから里で拝むための宮を建てたそうです。
武峯神社本宮は標高176mの権現森と呼ばれるところにあります。長い石段を上った先にひっそりと本殿の社が建っています。普段あまり人が出入りするところではない山の中なので獣に出会わないかと心配しながら参拝しました。その日は11月でも早朝の夜明け前から雷が鳴り響き、落雷で地響きがするほどでした。参拝を半ばあきらめていましたが、明るくなると小雨になってきたので山に入ることにしました。神社の周りは杉の高木で囲まれておりここから遠くの景色を見ることはできません。当時は景観地で九十九里湾や山々を眺めることができたのかもしれません。



弟橘媛を祀っていますが、別に日本武尊と建稲種命も祀るとも言われています。
社殿の床下に 釜という赤土の塊が埋めてあるようです。その大きさは今の長さに換算すると約1.5m、幅0.62mで上面に3つの穴がある(陶棺とも)と伝えています。また、それにはご神体となる弟橘媛の衣装が埋めてあると伝えています。
日本武尊が築いた弟橘姫の陵
海路(または陸路)でこの近くに着いた日本武尊は弟橘姫の櫛を埋めて陵を築くことにしました。そして、そこに橘の木を2本植樹しました。埋めた櫛は走水の海から海岸に流れ着いたものをここまで運んだと伝わっています。それをこの地で陵を造って埋めました。社殿裏の古墳が日本武尊が築いた弟橘姫の御陵です。本殿左にそれを示す石碑が立っています。
境内には池があり「吾妻池」と呼ばれています。この池は陵を築くために土を掘ったためできたものです。
海路説
房総半島南部の伝承地

日本武尊を祭神としています。

莫越山神社は神武天皇元年の創建と言われる古社です。この境内にある若宮神社に白鳥神社が祀られており祭神は日本武尊です。

祭神は日本武尊です。

祭神は日本武尊です。
勝浦市に伝わる昔話-「日本武尊と大蛇」
千葉県勝浦市の部原地区には若い娘を大蛇が襲うのを日本武尊が助けたという「日本武尊と大蛇」という昔話があります。この話は出雲に伝わる素戔嗚尊と八岐大蛇の伝説とよく似ています。
日本武尊が部原(へばら)に来た時、村人たちが集まって泣いているところに出会いました。どうして泣いているのかと尋ねると、毎年秋に山奥に住む大蛇が村に下りて来るので、村一番の美しい娘を貢物として差し出さねばならず、それが今日の夕方だと言うのです。この大蛇は砂浜の長さほどもあり、真っ赤な目と山ほどの大きさの頭を持ち、口から出る舌は炎のようでとても大きく恐ろしいと言い、もし差し出さなければ大蛇が大暴れして村人は殺されてしまうのです。日本武尊はこの大蛇を一目見てみることにしました。
日が沈むと西の空は真っ赤に染まり、村人たちは一人の娘を残して泣きながら家に帰りました。突然大きな音がして山から赤い目を光らせた大蛇が現れ、頭をふって娘を探し始めました。そして娘を見つけ、娘の顔を間近で見ようとしたとき、太刀を抜いた日本武尊が大蛇に切りかかりました。そして、大蛇と日本武尊の激しい戦いが始まりました。地鳴りが起こり海は嵐のように波立ちました。日本武尊は体をかわし、大蛇に乗って太刀を振り上げ大蛇の体や目に突き刺しました。大蛇の体からは血が吹き出し、山海は真っ赤に染まりました。日本武尊の猛攻撃に遭った大蛇は海に崩れ落ち死にました。こうして大蛇を退治することができました。これを見ていた村人たちは抱き合って喜びました。そして、村人たちは日本武尊らを厚くもてなしました。この言い伝えからこの地を「蛇原(へびはら)」というようになり、それがいつしか「部原(へばら)」となりました。
祭神は日本武尊です。
祭神は日本武尊です。
房総半島東海岸の伝承地
勝浦
新戸ー日本武尊はこの地で休息しました。神が休止したという意味から「しんど」となりました。
新官ー日本武尊の東征時にこの地に館を建てたことにより地名としたと言われています。

祭神は日本武尊です。

祭神は日本武尊です。

祭神は日本武尊です。
この地に日本武尊が船でやってきたことにちなんで創建されました。
日本武尊が東征の折この地を通過した時は日が沈むところでした。これを見て「惜しい日」と言われたことか惜日と地名が付きましたが、その後の時代に押日と転化しました。

日本武尊が乗っていた船が難破したため、船の帆柱を埋ところ帆埋(ほうめ)と呼んでいましたが、法目と書くようになりました

祭神は日本武尊です。

里人が粥をたいて献上したため粥米(かやめ)とついた名と言われています。現在はこの地名が使われていないようで、法目町内を探していてこの名がついた公民館を見つけました。


祭神は日本武尊です。
日本武尊の東征の途中に休息したところで、村人が食事を献上しました。地名の小食土町(やさしどちょう)はこのいわれによるものです。

祭神は大日孁命、弟橘比売命、誉田別尊です。
日本武尊が東征の折に祀ったと言われています。別説では仲哀天皇の時代の創建ともいわれています。

日本武尊が東征の折、この海は小島が多く荒波が打ち寄せるところと言われ、その様子から「鳴濤」となり、「鳴戸」という地名になりました。その後「成東」に変わりました。

日本武尊が東征の折、館の戸を開けて見たということから「嶋戸」という地名が生まれたとされています。

祭神は日本武尊、彦押人命です。
日本武尊が東征の折、早い海流を逃れこの地に上陸したと言われています。祭神の彦押人命は武社国造で、尾張氏の一族です。日本武尊に従っていたがここに住み着いたとされています。
地名の早船は海流が早いことを意味しています。

石塚の森の中腹にあり、奈良時代に行基が難破船の海難除けとして不動尊を刻み、寺を建立したことに始まるようです。その後弘法大師がここに遷したと伝わっています。日本武尊の時代にはこの近くまで荒波が押し寄せていたと伝えられています。

祭神は日本武尊です。

昔この一帯は葦が生い茂るところで毒蛇が住み着いていました。日本武尊がこの毒蛇を一矢で射殺しました。この矢の片羽が壊れたので、この辺りでは片葉の葦が生えています。この後蛇は祟りを起こし、空海が六万回の経を唱えることによって供養したところ祟りはおさまったとのことです。

近くの木戸川は「城門」の意味があるとして、これは蝦夷らが日本武尊の進行を防ごうとした竹水門の地とする説があります。

千葉県で最大規模の古墳です。武社国造が葬られています。古墳の上に箱根神社が祀られています。

祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)です。
日本武尊はここに物見やぐらを建てて航海の目印としたと言われています。